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満州事変について

自分は現在高校で近現代史を習っている者です。 最近満州事変のあたりを勉強していて、疑問に思ったことがあったのですが、学校の先生にはなかなか聞き辛いことですので、こちらで質問いたします。 元々自分は学校が教える歴史をほとんど信用していません。例えば秀吉の朝鮮出兵や、大東亜戦争についてなどです。学校では満州事変~日中戦争関東軍の暴走として教えられているのですが、今回も捏造された歴史なのではないかと疑っているのですが、ちょうどその部分を肯定?する物を読んだことがありません。関東事変は、学校で教えているように、軍部の暴走だったのでしょうか? みなさんのご意見をお聞かせください。

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  • sudacyu
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回答No.14

 No9です。  「捏造」という言葉を勘違いしていませんか?  高校の教科書に石原莞爾の「最終戦総論」の内容を載せないのは、単なる記述の省略です。捏造とはないことをあたかもあることのようにでっち上げることを言います。  極めて個性的で、歴史に興味のある人間にとって面白みがあるとは言いながら、「ある一個の人間の戦争観」のレベルの細かい記述を載せれば、高校の教科書の厚さは今の10倍以上に確実になってしまいます。  高校の歴史は、細かい枝葉の事項を見るより、その全体的な流れの把握をより重要視しています。  これから社会人となる不特定多数の人を対象にした教科書では、日本の歴史全体の流れを知ることを優先するのは、当然のことです。  石原莞爾は、講演会・著作物によって、自説についての資料を多く残しています。  その本人自身の語る資料によっても、満州事変・支那事変(今は使わない?)は、軍に対する政治システムによるコントロールが利いていないのは明白です。 「戦争とは武力を用いた外交であり、外交とは武力を用いない戦争である。」という台詞を残した有名な政治家がヨーロッパにいましたが、軍事・外交は、政治のコントロール下に置かれていないと、国益を守ることが出来ないどころか、大きく国益を損ないます。  戦前の日本の政治システムにおいては、日本軍は皇軍=天皇の軍隊として存在しており、内閣と軍(陸軍=参謀本部、海軍=海軍軍令部)は、天皇のもとで並立する立場でした。  明治時代においては、明治維新の重鎮(政治家だが、明治維新では軍指揮官としても活動。)が生存しており、内閣・軍双方に対して強い影響力を持っており、天皇を補佐する枢密院のメンバーとして内閣と軍をコントロールし、日本の政治力の根源となっていました。  昭和になると、この枢密院に軍・行政双方に強い力を持つ人物がいなくなり(政治体制が確立して年数がたったため、軍・行政いずれかの出身者となり、どちらにも強い発言力を持つ人物がいなくなったのです。)、軍事・行政を統括した視点で政治力を発揮出来なくなったのです。  そのような状況の中で、政府・参謀本部ともに「満州では、極力事を構えない。」方針であった(=満州の軍閥、張学良の兵力は、日本軍の10倍あるといわれていた。)のに、満州派遣日本軍(=関東軍)の参謀であった石原莞爾・板垣征四郎が、この方針を無視して軍事行動を起こし、張学良軍を電撃作戦で圧倒、軍事作戦としては大成功をおさめた。参謀本部・日本政府ともに関東軍の軍事行動を追認し、満州国建国に至ったのです。ここまでは、石原莞爾の戦略通りの展開となったわけです。  その結果、石原は陸軍同期の中で最も早く大佐となり、陸軍内部で「軍参謀は中央の方針に反しても、作戦で戦果を挙げれば、出世する。」という認識が生まれることとなりました。  石原莞爾は、満州を取って「日本・朝鮮・台湾・満州を日本の経済圏として開発することに専念すれば、アメリカに対抗できる。」との見方を持っており、そのための戦略として、満州を勢力下に置いた後は、他国との軍事衝突は外交力を総動員して回避し、軍事費を抑え経済開発に専念するというものでした。 Wikipedia抜粋   1937年の日中戦争開始時には参謀本部作戦部長となり、内蒙古での戦線拡大に作戦本部長として、中央の統制に服するよう説得に出かけたが、かえって現地参謀であった武藤章に「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と嘲笑される。戦線が泥沼化することを予見して不拡大方針を唱えたが、当時関東軍司令長官東條英機ら陸軍中枢と対立し、1937年9月には参謀本部から関東軍に左遷された。  日中戦争を開始した中国派遣軍参謀を評して、石原は「鵜の真似をする烏」と言ったらしいが、過去の自分の行動が影響を与え、石原の戦略は崩壊することとなって行きます。   これらの経緯を教科書では、あなたのいう「軍の暴走」という表現となっているのでしょう。  政治的経済的影響を無視して、軍事作戦として成功であればよいという認識を軍人が持ち行動するのであれば、「暴走」と言う表現はおかしくないと言えます。 <参考>  対外的軍事行動は、大きな政治的経済的影響を必ず与えます。ですから対外的軍事行動は、政治外交経済戦略と一体となっていないと、必ず国益を損ないます。  軍人が如何に卓越した戦略を考えとして持っていようと、政治戦略を実行することの出来ない軍人としての立場で行動する限りは、戦略は意味を持ちません。  政治家に戦略を同じくする実力者がいない場合は、対外的軍事行動を取った後、みずからクーデターを起こして政権を奪取して政治力も手に入れ、その戦略を政治家として実行することが、軍事行動に戦略的意味を持たせる唯一可能な方法です。

bouyatetu
質問者

お礼

詳しいご説明ありがとうございます。 結局、軍部の暴走で納得いたしました。 流れについて改めて理解できました。これでひっかかることなく勉強できます。 ありがとうございました。

その他の回答 (14)

  • tiuhti
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回答No.15

>他の方の回答で、当時日本軍に対してテロ行為を行う者がいて…それに対しては、回答者様はどうお考えでしょうか? 他の方の回答を見る限りで、それらしきものは、『「通州事件」は、非武装の軍人を含む日本人居留民が、一方的に虐殺された事件』、『「通州事件」を始めとしたテロ活動の激化が、軍部の行動を招いた』というあたりだと思うのですが、No.13の方が指摘されたように、満州事件の原因にはなりえないのは言うまでもありません。更に、仮にご質問が「満州事変から日中戦争にかけての軍部の暴走」という意味であったとしても、やはり前後関係を間違えています。そもそも通州事件は、盧溝橋事件から約3週間後の1937年7月29日に起きたもので、前日からの北京・天津総攻撃の為日本軍守備隊が手薄になっていた通州で、冀東防共自治政府(簡単に言えば、日本の傀儡政権)の保安隊が、反乱を起こしたものです。既に大事件が起きた『後』の事は、その事件の原因にはなりません。どういう状況で起きたのかを知っていれば、このような間違いはありえないと思います。 他に、No.6の方が似た意見と考えられているようですが、どの部分をそう思われたのかが、よくわかりません。質問者の方の理解は、『テロのようなものが相次いだため日本軍へのテロに業を煮やして満州事変がおきた』、それは『軍人として当然のこと』、『自分の身を守るためのこと』という事だと思うのですが、どの部分にそれに似たものを読み取られたのでしょう? 『半月に渡る日本軍への発砲事件に業を煮やした参謀本部が最終解決のため本土にいた師団に動員をかけ』た、という部分ですか?もし、そうであれば、それは、事実ではないので、無視された方がいいとおもいます。盧溝橋事件は7月7日深夜から8日早朝にかけて起きたものですが、政府の増派決定の発表は11日です。因みに現地では同日に一応の休戦協定が結ばれています。盧溝橋事件が全面戦争につながる大きなきっかけをつくったのは、現地の状況が収まっていたのに増派を決めてしまった政府&参謀本部であって、事実を捩じ曲げなくても、この点だけに関して言えば「軍部の暴走」ではありません。(但し、盧溝橋事件以前から、軍部の中には華北を占領しようとする案はあり、また、盧溝橋事件で7月8日早朝に戦闘が始まった際には、日本側の挑発があったのも、当時の将校の証言からわかっています。後に、参謀本部の石原莞爾から参謀本部の統制に服するように言われたのに対して、「あなたがやったのと同じ事をしているだけだ」と言い返したので有名な武藤章=盧溝橋事件当時参謀本部作戦課長は、このとき「愉快な事になったね」と言っているのは、軍中枢の中に盧溝橋事件をチャンスと考えた者がいた事を示しています。つまり、やむにやまれず立ち上がったのではありません。) 他に満州事変と絡めて取り上げられる事がある事件としては、「中村大尉殺害」と「万宝山事件」があります。中村大尉殺害事件は、身分を隠して兵要地誌の調査に行った参謀将校が軍閥の軍に捉まり殺害されたもの(要すればスパイ)、万宝山事件は、水利問題からくる中国&朝鮮農民の発砲を伴う衝突、なので、これもテロではありません。 歴史の授業として、中村大尉殺害や万宝山事件まで教える必要は全く無いと思いますが、ネット上で(私を含めてですが)誰かが言っている事のうち、自分にとって好ましいものだけを、よく吟味もせずに丸呑みしていると、ますます真実から遠ざかってしまうと思いますよ。疑う、というのはとてもよい事だと思いますが、せっかく疑ったのだから、きちんとした資料に基づいて議論をしている本を読んだ方がいいです。 例えば、『劉少奇が生前に「自分が部下に命じて日本軍と国民党軍を戦わせるように仕掛けた」と書き残しています』というのは、「(盧溝橋事件)は)劉少奇同志の指揮する抗日救国学生の一隊が決死的行動を以って党中央の指令を実行したもの」と共産党の『戦士政治課本』に書いてあった、というのと、『劉少奇が、「盧溝橋事件の仕掛人は中国共産党で、現地責任者はこの俺だった』と西側記者団に発表した』というのを、ごちゃ混ぜにしたのだろうと思いますが、これは、ネット上以外では生息が『ほぼ』不可能な、トンデモ系の話です。まさに、「どうやったらこの歴史が、『そ』んな変な歴史に変わっちゃうんですかねぇ…」の典型例です。 何故なら、 ・『戦士政治課本』に書いてあったと言っている本人が、3万2千人の中国からの帰還兵のほとんどが中国語を理解し、その内容を知っていた、と言っているのに、同じ様な文章を見た、と名乗りでる人が他に誰もいない。見たといっている人は、その本は、「某所に隠している」、「貸金庫にしまっている」と言っていたが、現物は誰も見ていないし、その人の死後、貸金庫を調べたが、その中にもなかった。 ・その劉少奇の記者会見を述べた記事を、誰も発見できない。(っていうか、そもそも、そのような記者会見があったとされる当時の共産党は国民党からの攻撃で、山中を逃げ惑っていた、というのが正しく、記者会見なんて出来るわけが無い。) からです。(このあたりは、前回回答で紹介した、秦郁彦の「昭和史の謎を追う」に詳しい) 大東亜共栄圏は「最終戦争に向け欧米列強からアジアを守るために、とりあえずアジアでまとまるべきだという日本の考えですよね」というのは、最終戦争という石原莞爾特有の概念を持ち出してはいけませんが、それをのぞけば「戦前、日本はそのように宣伝しました」という意味では、まぁまぁ正解です。ただ、「そのように宣伝されていました、だから、事実もそうでした」と思ったら、それは間違いでしょう。大東亜共栄圏が現実にどういうものだったかについては、アジアジア歴史資料センターで、御前会議で決まった大東亜政略指導大綱(Ref code:B02032973300)が見られます。そこには、『「マライ」「スマトラ」「ジャワ」「ボルネオ」「セレベス」ハ帝国領土ト決定シ重要資源ノ供給源トシテ極力之ガ開発並ニ民心ノ把握ニ努ム』とあり、ご丁寧に、この項は「当分発表セズ」って事になっています。「共に栄える」と言っている手前、自分達の領土にして、資源の供給源として使う、なんて公表したら具合が悪いですからね…。

bouyatetu
質問者

お礼

自分の説明不足なところまで補足回答頂いてありがとうございます。こうしてみると自分の読解力、文章力、表現力のなさが本当に恥ずかしいです。 やっとこの件について納得することができました。 本当なら、わざわざ自分のために時間を割いて頂いた方々皆さんにポイントを差し上げたいのですが、システム上、このお二方に差し上げましたが、皆さんには本当に感謝しております。 ありがとうございました。

  • shshshhe
  • ベストアンサー率30% (13/42)
回答No.13

こんにちは。質問者様の質問や皆様の回答大変興味深く読ませていただいております。 以下は素人がWIKIなどをみながらかいた意見ですので、間違えている恐れはたぶんにあり、その上で呼んでくだされば幸いです。 自衛のためかどうか…という点では、少々疑問に思いますのは、 WIKIで調べてみましたところ、 テロの一例と挙げておられます、通州事件とは1937年の出来事で満州事変は1931年におこったことがらですね。 WIKIが必ずしも正しいと思いませんし、正しいかどうかをどうやって調べればよいか私には分からないのですが、仮に通州事件が1937年に起こったのが正しいとするならば、 No.2さまが 1931年に起こった満州事変の暴走の一因として1937年の「通州事件」がある とおっしゃっているとするのは、少々おかしいように思います。 あるいはNO2さまがおっしゃっているのは、1931年から始まった満州事変のことではなく、日中戦争(質問者様が使った名称を使用させていただきますが)のことではないでしょうか? もちろん、通州事件にも似たテロ行為が1931年以前からあったかもしれません。また、そうしたテロ行為があったのならばそれが関東軍が満州事変を起こす理由になったということも考えられないことはありません。 この辺については、皆さまのご意見をお聞きしたいと思います。 WIKIには、 「南満州鉄道のすぐ横に新しい鉄道路線などを建設し、安価な輸送単価で南満州鉄道と経営競争をしかけた。これに危機感を感じた関東軍は再三に渡り恫喝するが聞き入れられず、石原莞爾(いしわら かんじ)、板垣征四郎の指導のもと、満州の軍事占領を決意する。」 と載っております。 南満州鉄道に経営競争を仕掛けられたことが仮に関東軍の行動の主な動機でしたら、自衛のためとはいえないのではないでしょうか。 満州事変の動機に関しては素人目にはさまざまな理由があるようにおもえ、自衛もその一つかもしれませんが、自衛のため「だけ」というのは、少々違うのではないかと思います。 暴走という言葉の意味をどう捉えているかは分かりませんが、政府や軍中央の言うことを聞かない、天皇の承認を得るなどの手続きを得ないというのは暴走といっても良いのではないかと思います。 暴走の中での行為が良いか悪いか、暴走するのに正当な理由があったかなかったかというのは、また別の問題だとおもいますが。

bouyatetu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 皆様のご意見を伺っていると、やはり軍部の暴走ということで納得いたしました。 テロ行為というご回答も、時代が錯誤してしまったための勘違いのようです。 わざわざお時間を割いていただいてありがとうございました。

  • tiuhti
  • ベストアンサー率66% (447/668)
回答No.12

「満州事変~日中戦争」という書き方をされているので、「関東事変は・・・軍部の暴走だったのでしょうか?」という部分は、「満州事変は・・・」の単なる書き間違いと理解して、話を満州事変に絞ります。もし、違っていたら、その旨仰ってください。 さて、満州事変を、軍部(あるいは関東軍)の『暴走』と考える場合、それは二つの側面から言えます。一つは、きっかけとなった満州鉄道の爆破(柳条湖事件)が、関東軍が仕組んだ「自作自演」だった事、もう一つは、政府&参謀本部の指示を無視して朝鮮軍が中国側に越境した事の二つです。 関東軍の謀略だった事が一番良くわかるのは、当事者である関東軍参謀花谷少佐の証言です。↓ http://members2.jcom.home.ne.jp/mgrmhosw/hanaya.htm 尚、「一番良くわかる」のであって、「唯一の証拠」ではありません。せっかくなので、思いっきりマイナー系をあげておくと、当時の新聞記者が、記者クラブで陸軍新聞班の将校から「実はあれは関東軍がやったんだよ」と耳打ちされています。(「別冊 新聞研究 聴きとりでつづる新聞史」20号61頁 日本新聞協会 1987年)入手しやすいのは、花谷少佐の証言をまとめてもいる、秦郁彦の「昭和史の謎を負う」なんかが良いと思います。↓ http://www.bk1.co.jp/product/1710496 これを読めば、複数の証言によって、花谷元少佐の証言の信頼性が確かめられている事がわかると思います。ご興味があれば、どうぞ。 また、首謀者とされる石原莞爾(満州事変当時、関東軍参謀で中佐)は、「満蒙問題処理私見」というメモを残しています。(↓の31.元ネタは「石原莞爾資料 国防論策篇」原書房) http://jbbs.livedoor.jp/bbs/download.cgi/study/1274/1052070202/ 「若し軍部にして団結し戦争計画の大綱を樹て得るに於ては謀略により機会を作製し軍部主動となり国家を強引すること必すしも困難にあらす」というのは、「軍部が団結してちゃんと計画を建てておけば、謀略をきっかけに軍部が国を無理に引っ張っていく事ができる」という意味です。 次に、政府&参謀本部の指示を無視して朝鮮軍が中国側に越境した事ですが、ネット上で私が見つけたのは↓です。参謀本部の「機密作戦日誌」、閣議の議事録、奉天総領事からの電報など、数々の資料を使って、当時の細かい動きを説明しているのですが、全体としては「シベリア出兵以降、軍部がどうやって政治に対して優越していったか」を述べる学者の論文なので、長すぎるし、高校生の方には難しいかも知れません。 http://www.u-keiai.ac.jp/issn/menu/ronbun/no3/001.pdf 簡便にすますのなら、上に上げた花谷少佐の証言にも触れられていますから、それをご覧下さい。とにかく、事実としては、謀略を主導した関東軍が、朝鮮からの支援について朝鮮軍と話をつけていたのに、参謀本部から止められてしまって、「短期間の内に全満州を占領する」為に手持ちの兵力をできるだけ多く使いたかった関東軍が、吉林でまた自作自演の爆発事件を起こして、居留民保護を名目に部隊を移動、それを受けて朝鮮軍は「満州が手薄になった」という口実で、参謀本部の承認無く兵を送った、そういう事です。参謀総長名の朝鮮軍司令官宛の電報で(越境派兵は)「奉勅命令下達迄見合ハサレ度」というものが出た事が、上にURLを入れた論文にのっています、つまり、天皇の命令があって初めて出来る事を、朝鮮軍は勝手にやったって事です。 尚、満州事変というと、満鉄爆破の自作自演が有名ですが、上に述べた様に自作自演はそれだけではありません。花谷少佐の証言には、他にも、「居留民保護を口実にしてハルビンに出兵する為に、銀行等に爆弾を投げ込んだ」とも書いていますね。また、「満州国」設立にあたっては、政府が国際連盟との関係を気にするだろうから、それだったら、先に関係を悪くしてしまえ(そうしたらもう気にする意味も無いだろう)という事で、錦州を爆撃した」と言った経緯も書いています。こういうのも、すべて「暴走」に入ります。 また、「暴走」という意味では、1931年は、3月事件(上層部を含む軍部と右翼によるクーデター未遂)、満州事変での無断越境の事後承認、10月事件(中佐、少佐クラスの将校によるクーデター未遂。3月事件の首謀者はお咎めなし、10月事件の首謀者は謹慎処分だけと、いずれもうやむやに処理される)、翌年には5.15事件(犬養首相に対する海軍青年将校によるテロ)…と、軍部は何をしても許されるor怖くて軍部には逆らえない、という雰囲気が広まって行きました。こういう全体的な流れから見ると、関東軍の暴走、というよりも、軍部の暴走、と考えた方がいいと思います。 ところで、他の方の回答で、何故か「統帥権干犯問題」が話題になっていますが、満州事変での朝鮮軍の行動は、実質は参謀本部の命令無視(参謀本部も、本当に真剣に抑え込もうとはしていないが…)であり、形式上は天皇の権威の無視、言い方はどうでも、とにかく勝手にやった、ってことが問題です。No.3の方の回答は、満州事変の事を多少でも知っていれば、勝手に越境した行為自体を言っている事ぐらい直ぐわかります。天皇の命令・許可・権威、どういう言い方をしようが、言っている事は明白で、「とにかくそういうものが無い、あったものを無かった事に捏造しているとは考えられないから、暴走は捏造じゃない」、そういう意味でしょう。突然ここに、「明治憲法下で、天皇が内閣に輔弼されていた」なんて話が入ってくる事自体が、全く話に関係なく、あまりにも突拍子も無い。それだけならまだしも、ウィキペディアの記事の「国会議員が政治抗争の手段として、軍内部の争いに油を注ぐ形で持ち出した問題であることには注意するべき。」という記事をあげるなんて、満州事変での「暴走」と一体何の関係があるのでしょう??それこそ資料を「読む以前の話ですね」。ひょっとして統帥権干犯問題が、海軍軍縮条約に絡むものとして、「固有名詞化」している事を知らない『専門家』が、最近までいたって事でしょうかね?(恋愛問題、料理、歴史と、たいへん幅広い分野で『専門家』として活動されているのなら、仕方が無いのかな?) いずれにせよ、このサイトは、議論になると、管理者から質問ごと根こそぎ削除される事があるので、これ以上、ピンボケの話をするのは、皆さんやめましょう。これまでの回答で、何が起きたのかは、とてもよくわかりますから。質問ごと削除されたら、質問者の方にも失礼です。

bouyatetu
質問者

お礼

詳しいご説明本当にありがとうございます。 関東軍については、自分の打ち間違いです。失礼しました。 学校で教わったことをより具体的に知ることができました。すごい説得力があるご回答ですね。テスト範囲なので、次回のテストに役立ちます!! 他の方の回答で、当時日本軍に対してテロ行為を行う者がいて、それに耐えかねた日本軍が、越境していったというのがあったのですが、それに対しては、回答者様はどうお考えでしょうか? もしこれが議論にならなければ、それについて詳しく教えてください。 ありがとうございました。

  • Roman0
  • ベストアンサー率18% (118/628)
回答No.11

 勘違いを続けている人がいるようなので、一応指摘を。  天皇には、「許可」を出すことなどできません。できることは、あくまで奏上された内容を案件を承認するまでです。立憲君主国というものが全く理解できていないようです。  分かりやすい言葉で言えば、大日本帝国においても日本国同様、天皇は象徴に過ぎないということです。君臨すれども統治せず。  また、満州事変が統帥権干犯問題と関係ないとしていますが、とんでもない話ですね。シビリアンコントロールを統帥権干犯とすることが軍部が暴走することの思想的背景となって、満州事変が行われたのですから。  この問題が解決しないままだったから、軍部は政府の意向を無視して戦線を拡大し続けられたのです。  読む以前の話ですね。

  • a-koshino
  • ベストアンサー率23% (102/441)
回答No.10

補足として申し上げれば 天皇から軍への命令である奉勅命令も、内閣からの助言に基づいて行われるのが実態でありますが、満州事変においては関東軍が統帥権の独立を口実に単独行動をしており(それ自体、軍の統帥を無視する所業であります)、そうした暴論をも肯定する方へ事の是非を納得させるには(質問者様を特定してではなく、この質問におけるやりとりを読む全ての方々を想定して)、「天皇の許可を得ていない」という一点を強調するのがよかろうと考えた次第です。そうでなくとも、現地の軍司令官個人の判断で他国と開戦するのは、「暴走」以外、形容しようがないでしょう。 ついでに申さば、「なお、軍人の暴走例としてよく取り上げられる問題ではあるが、そもそも国会議員が政治抗争の手段として、軍内部の争いに油を注ぐ形で持ち出した問題であることには注意するべき。」とは、満州事変とは関係のない、統帥権干犯問題に関する記述です。 よく読んでくださいね。

bouyatetu
質問者

お礼

補足説明ありがとうございます。 皆さんのご回答の中には、テロのようなものが相次いだため日本軍へのテロに業を煮やして満州事変がおきたというのがありますが、その場合 戦争ではなく、軍人として当然のことではないでしょうか?別に天皇陛下の許可がなくとも、自分の身を守るためのことなので、暴走じゃないのではないか?と今思いましたが、これは間違っていますか?

  • sudacyu
  • ベストアンサー率35% (687/1961)
回答No.9

 歴史の流れを見るようにしてください。  個々の事例について、色々な論が飛び交い戦前の日本を美化するかのような論が最近ネットで横行しています。  第一次世界大戦でヨーロッパが戦場となり、ヨーロッパ列強の工業力が大幅に低下し、戦場とならなかった日本は大もうけし、工業生産力も大幅にアップしました。  ところが、ヨーロッパの工業生産力が回復するにつれて、世界中で工業生産力が余り、製品が売れなくなり製品の値段が低下し大不況に突入します。  このような世界の経済情勢の中で、欧米列強は関税などを使って自分の植民地に他国の製品が入ってこないようにした(ブロック経済)ため 、植民地の無い新興列強の日本は他国以上に経済的苦境に立たされ、その突破口として軍事力を使おうという流れが大きくなったのです。  満州事変の首謀者とされる石原莞爾の「最終戦争論」を読まれると彼が何を考えていたか良くわかります。  尚、日本の教科書は、国定教科書ではなく(教科書検定で色々統制されているとか議論がありますが・・・)中国や韓国の国定教科書に比べれば極めて客観的で信頼が置けます。日本のそれぞれの教科書については細かい表現の違いなどはありますが、捏造といわれるものは記載されていません。

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E8%8E%9E%E7%88%BE
bouyatetu
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 石原莞爾の「最終戦争論」は、日本を筆頭とするアジア対アメリカを筆頭とする欧米諸国で戦争になるという話ではなかったでしょうか? 大東亜共栄圏は、戦後教育で間違った教えられ方をしれいますが、アレは、最終戦争に向け欧米列強からアジアを守るために、とりあえずアジアでまとまるべきだという日本の考えですよね? そのことが全く書かれていない日本の歴史教科書は捏造された歴史が載っていますよね? もし私の認識が間違っている場合は、お手数おかけしますが教えていただけますか?お願いします。

  • Roman0
  • ベストアンサー率18% (118/628)
回答No.8

 Wiki の解説が挙げられているので、補足します。  勘違いしている人もいるかもしれませんが、天皇大権という言葉の「大」は、単なる美称で、要するに権限のことですね。で、更に勘違いしている人もいるかもしれませんが、大日本帝国憲法における天皇の権限というのは、上奏されてきた案件を承認する権限だけです。  拒否権は無いのですね。  だから、実質的に天皇はめくら判を押すことしかできず、何の判断もできません。  それが、立憲君主制というものです。  ちなみに天皇が拒否権を持ったとしたら、それは立憲君主国家ではなく専制君主国家です。そして大日本帝国は、一瞬でもそのような状況にあったことはありません。  この辺の話は、権限の概念や政体について基本的な知識があれば勘違いなどしようがないのですが、知識がないと勘違いすることもあります。気をつけましょう。  ちなみに、この Wiki のページをちゃんと読めば、「なお、軍人の暴走例としてよく取り上げられる問題ではあるが、そもそも国会議員が政治抗争の手段として、軍内部の争いに油を注ぐ形で持ち出した問題であることには注意するべき。」という記述もあり、天皇とは関係のない所での政争であったことも指摘されています。  資料は、ちゃんと読みたいものですね。

bouyatetu
質問者

お礼

やはりそうですよね。 自分の知識が間違っていなかったので、安心しました。 日本が専制君主国家だったことがあった記憶がなかったので、不安でした。 ありがとうございました。

  • huka99
  • ベストアンサー率14% (23/154)
回答No.7

お時間があれば、中山理、渡部昇一翻訳の「完訳 紫禁城の黄昏」 という本をお読みになるといいと思います。 ラストエンペラー・溥儀の家庭教師が書いた本です。 戦前のシナ・満州を知る第一級資料です。 渡部昇一氏によると、「『紫禁城の黄昏』が、極東軍事裁判に証拠書類として採用されていたら、あのような裁判は成立しなかったであろう。こういうだけで、本書の価値を知るには十分である。もちろん、何が何でも日本を悪者に仕立て上げたかった東京裁判所は、本書を証拠資料として採用せず、却下した」 とのことです。 岩波文庫版は、意図的に大事な部分を削除しているので、こちらを お勧めします。

bouyatetu
質問者

お礼

ありがとうございます。 多分今年中は受験があるので、難しいかもしれませんが、時間を見つけて読んでみます。 ありがとうございました。

回答No.6

> 満州事変~日中戦争関東軍の暴走 そんな単純な問題ではありません。 満洲軍閥の国際法無視行動 1929年の中ソ紛争 満洲人と朝鮮人間に起きた住民抗争 これらに業を煮やした関東軍が張学良追放のため動いたのが満洲事変 日中戦争という戦争は存在しません。1937年から1941年までの日中間の軍事衝突は支那事変と言います。41年からは大東亜戦争(国際正式名称:East Asia War)に組み込まれました。 これは関東軍はまったく関係がありません。支那駐屯軍(義和団事件の結果、列強によって北京や天津に軍の駐留を行うことが北京条約で決定した)と中国国民党軍が軍事衝突したものです。原因はさまざまですが、文化大革命で殺された劉少奇が生前に「自分が部下に命じて日本軍と国民党軍を戦わせるように仕掛けた」と書き残しています。半月に渡る日本軍への発砲事件に業を煮やした参謀本部が最終解決のため本土にいた師団に動員をかけました。

bouyatetu
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 No.2の方のご回答と似ていますね。 こういった歴史は全く教わっていません。どうやったらこの歴史があんな変な歴史に変わっちゃうんですかねぇ。 ありがとうございました。

  • a-koshino
  • ベストアンサー率23% (102/441)
回答No.5

まずは↓ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B1%E5%B8%A5%E6%A8%A9 軍の統帥は天皇大権の一つとして、大日本帝国憲法第11条に明記されています。 侵攻した関東軍も、援軍となった朝鮮軍も、受け持ち地域の外へ軍を動かすには、天皇からの奉勅命令が必要でしたが、軍司令官の独断で軍を動かしています。

bouyatetu
質問者

お礼

ありがとうございます。 自分の知識は間違っていたんですかねぇ? この件も、自分なりによく考えてみます。

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    昭和天皇の戦争責任について調べています。 満州事変で関東軍は政府の不拡大方針を無視して暴走し、満州を分離独立させてしまいましたが、 昭和天皇は満州事変の際、関東軍に対し軍事行動の即時停止を数度に渡り命令している、という話を聞きました。 この話の真偽を確かめたいのですが、この命令があったのか無かったのか、その内容、関東軍司令部の反応などについてご存知でしたら教えてください。

  • 韓国併合~満州事変の歴史的背景

    無知なため簡単な歴史的流れを教えていただければ助かります。 まず、韓国を日本が植民地化していた時期が韓国併合にあたるのですね。日本と韓国は戦争はしていませんよね。どうやって支配下におけたのですか?そして何のために? 私が思っているのは、ロシアから日本にせめてくるのをストップするために位置的に朝鮮に軍隊をおきたかった。朝鮮には日本がくることにより仕事が増え、国が発展するといいきかせ、実際は侵略であった。 韓国人が日本語を強要されたり、虐待をうけたりして日本をきらっているとききますが、この時代におけることですよね?靖国問題なども批判するのはその時代の軍人がまつられているから。 その後満州国設立する必要があったのはなぜですか? ロシアが朝鮮に攻め入るのを防ぐためですか? 関東軍が満州事変で自身の鉄道を爆破し、一方的に攻め入り占領して満州国をつくったのですね。 この鉄道は南満州鉄道で日露戦争で勝った際に譲渡されたものですね。 韓国併合と満州事変のつながりや歴史的背景がよくわかりません。 その時代の戦争は特に名前はついてないのですか?日露戦争~日中戦争~第二次世界大戦までの時代ですね。 意味不明なことを書いていたらすみません。知識のあるかた、簡単でいいので侵略理由や背景、流れを教えてください。 よろしくお願いします。

  • 満州事変の動きについて

    1931年9月 柳条湖事件(満州事変のはじまり) 1932年3月 満州国建国宣言 1935年   塘沽停戦協定(満州事変終了) (1)満州事変が始まってから終了まで、関東軍はどのよ うな動きで東三省・興安・熱河省を占領していった のか (2)政府は柳条湖事件のときには、不拡大方針をだして いたはずですが、どうして、日満議定書(1932年) などを交わして満州国を承認するような方向にいっ てしまったのか (3)多少の歴史知識はあります。満州事変のあたりの中 国の情勢がわかる本を教えてください。 以上、このあたりの経過を知りたいです。多少マニアックな説明の方が助かるのですが、どなたか詳しい方、教えていただきたいです。よろしくお願いします。

  • 満州事変 どちらの記載が本当なのでしょうか?

    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E5%AD%A6%E8%89%AF 満州事変 張学良 1931年に入ると満州でも左派勢力に煽られた抗日運動が活発化し関東軍や在満 邦人の強い反発をかっていた。関東軍が満州への武力侵攻を決め、軍を続々と 集結させているときはいつもの軍事演習だと思い、何の対策も取らなかったと 言う。満州事変が勃発した時、彼は北京にいたが、日本軍侵攻の報告を受ける と日本軍への不抵抗を指示した。応戦すれば日本の挑発に乗ることになると判 断したことや平和解決を望んだということ、日本にとって国際的な非難を浴び るなど好ましくない結果をもたらすだろうと考えたということを当人はNHKの取 材で述べている。 とあります。また・・・ http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/37350760.html 満州事変は関東軍の暴走ではない。関東軍は、満鉄の守備など日本の権益 を守る警察の任務を担っていた。 1万人の警察(関東軍)が、日本権益を侵 害していた30万人の武装盗賊(張学良軍)を追放するには、柳条湖事件の ような作戦が必要だった。したがって、日本政府は、事後であっても、関 東軍の警察行動を承認した。決して関東軍の暴走ではない。次に、満州の 武装盗賊を追放したのは関東軍(警察)だが、満州国を建国したのは日本 ではなく溥儀をはじめとする満州人たちだった。 とあります。がどちらが本当なのでしょうか? 武装盗賊が左派勢力なのかどうか分かりませんが、彼らは ただの「小競り合い」をしていたのでは・・・?? 軍隊を越境させたわけではないのでは・・・? 私は、満州事変は、侵略とはまでは言えないと思っています。 パリ不戦条約は事実上法的有効性が薄いと思うし、主権国家への 攻撃ではないので・・・ けど、林銑十郎越境将軍の独断による軍の国境越えは やはり、暴走とまではいかなくても、 とがめられてしかるべきで軍の独断による越境であり、 自衛でもないと思うのですが・・・ また、満州国を建国したのは溥儀等であっても そのような傀儡政権を創らせたのは、日本人なのではないか? 当時の戦略からして現地人に国を創らせた方が、上手に侵入できることは 当然であっただろうから・・

  • 満州事変時における昭和天皇のお考えについて

     TVで満州事変のことについて見たのですが、関東軍が朝鮮駐留軍に増援を求め、本来天皇の許可を得ねば出来ない越境を朝鮮軍司令官だった林銑十郎は独断で行い、軍部の圧力に屈した若槻首相(内閣)はこれを追認したということですが、この結果を首相が上奏した時に昭和天皇はどの様な反応をなさったかについてはその番組では語られませんでした。番組を見る限りではあたかもすんなりこれをお認めになられたかのような印象を受けるのですが、実際の所はどうなのでしょうか。よろしくお願いします。

  • 満州事変に関する文章の読み方

    歴史についての文章の読み方が分からなくて困っています。 今、学校でのPBL発表があり、満州事変について調べています。 プレゼンをするのでスライドを読み上げなければなりませんが、読み方が分からないので以下の文の読み方をどなたか教えてください。 「鉄道ノ保護及居留民ノ安全ヲ期スル為メ機先ヲ制シテ沿線各地支那軍隊ノ武装解除乃至付属地付近軍略的要所ノ占拠」 引用先は多分(日本外交文書 満州事変1-3 外務省 1978年)です。 できれば、 漢字の読み方を()で横に書いていってほしいです。 例えば「鉄道(てつどう)の保護(ほご)…… こんなのも読めないのか! と思われるかもしれませんが、漢字が全然できないのでどなたか協力お願いします。 質問のカテゴリがよくわからなかったので、 学問&教育の歴史にも投稿していますが、 内容は全く歴史に関係がないしどちらかというと国語なので分かる方がいれば解答お願いします。 発表が明後日なのでできれば早めに回答をくれるとありがたいです。

  • なぜ満州族は中国を征服できたか。

    昔清朝をたてた満州族は300万人程度しかおらず、当時の明は 3億人くらい人口があったそうですが、歴史の本を読んでもなぜ 1%程度の人口で満州族が征服できたのか、いまだに不思議です。 いくら明の国内が疲弊していたとはいえ。 モンゴルも同じですが、なぜ北方民族はこういうことが可能なのでしょうか。 秀吉が20万近い鉄砲で武装した精兵で朝鮮をせめても、撤兵せざるを えなかったですよね。 ちかくには日中戦争でも日本軍は苦戦しましたし。

  • 満州事変は侵略ではありませんよね?

    満州事変は侵略ではありませんよね? 1911辛亥革命 これ以降、一国多政府の時代に突入、天下大乱の時代が始まる。 1915年 二一箇条要求 日本が清と結んだ条約を、清が消滅したので中華民国と正式に締結し直す必要があった。 中華民国は旧清朝の領域の継承を主張したが、各地に軍閥が跋扈し治安維持能力がなかった。 1919年3月 コミンテルン結成、直後に北京で五・四運動 それまでの中国の伝統や歴史を一切否定する西洋化運動、そして排日運動 四年たってから二一箇条要求がやり玉に挙げられる。 1922年 九カ国条約締結 日本だけが違反したのではない。 蒋介石は1927年米英と紛争を起こしているし、張学良は1929年ソ連と紛争を起こした。 要するにそもそも中国側が違反していた。 1928年 六三カ国で不戦条約締結 米英が重要な点において留保を行うなど実質的に空文となった。日本は自衛戦争については留保していた。 1931年9月18日 柳条湖事件(満洲事変の発端) 中華民国が満州事変を日本の連盟規約違反として国際連盟に訴えたが、国際連盟は日本を侵略国と認定していない。 張作霖が排日運動の高まりや欧米からの支援をとりつけようと日本との距離を置き、 海外資本の提供をうけて、満鉄の平行線を建設し始めると、両者の関係は悪化しました。 当時中国は日本との条約を次々と破り、無知な住民を煽って暴力的なボイコット運動を起こさせ、 商鉱農工業妨害、日本国民の命に関わる圧迫行為、反日教科書などの侮日行為、 居留民襲撃や鉄道運行妨害など数百件のテロ行為を重ねていました。 満州には清や列強から承認された日本の特殊権益が存在しました。 日露戦争で日本がロシアに勝たなければ満蒙はロシア領になっていたはずです。 中華民国や張作霖は日本の勝利に何も貢献しなかったのに 日本が10万の戦没者、20億の戦費を費やして得た権益を 「満州は中国だから出て行け」というのはとうてい受け入れられません。 それに満州は万里の長城の外であって満州族の土地です。 もともと、満州に合法的に駐留していた関東軍はそれを守ろうとしただけです。 中央政府の中華民国も現地軍閥の張学良も犯罪に対する治安維持能力と条約遵守能力がなかったのです。 こういった事情から関東軍は権益を自衛するためには満州全土から匪賊同然の奉天軍を追い出す必要があると判断しました。 これは侵略に当たりません。 外国人への犯罪が放置され責任を持って対処する政府が存在しない。 これは国際法的には「無主の地」です。 責任を果たさないのに権利・主権など主張できない、という慣習国際法である。 こうしたなかで不法行為を黙って許容しているとそれを認めたことになります。 ラストエンペラー溥儀の英国人家庭教師であったジョンストンはリットン報告書の ”満州独立運動が日本による教唆によって発生した架空の民族運動であった” という点を全くの事実誤認であるとして批判しています。 溥儀の忠臣たちは満州族による帝政復古運動を展開していた。 満州事変は日本がこれらにさんざん隠忍自重した末に起きた事件です。 満洲事変は侵略ではなく自営のための軍事行動であったのです。 戦乱と飢饉の拡大、繰り返しによって絶望の淵に追いやられていた中国の流民にとって満州国こそ最後の駆け込み寺でした。 年間百万あまりの流民が長城を乗り越え、満州に流入したことがその何よりの証拠です。 毛沢東はかつて「かりにすべての根拠地を失っても東北さえあれば社会主義革命を成功させることができる」と語った。 実際戦後の満州は中国の重工業生産の九割を占、中華人民共和国を支えたのは満州国の遺産であった。 豊満ダム完成後見学に来たフィリピン外相は 「フィリピンはスペイン植民地として350年、アメリカ支配下で40年が経過、住民の生活向上に役立つものは一つも造っていない。 満州は建国わずか10年にしてこのような建設をしたのか」と語りました。 参考)黄文雄、岡田英弘、宮脇淳子、倉山満 歴史にお詳しい方、私が調べた上記の記述でどこかおかしいところはありますか? よろしくお願いします。