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エンドレス連想のデザイン

 曽って、ある乳業者の粉ミルク缶のデザインに、女の子が、その粉ミルク缶を胸に抱いている画像が画かれていました。その絵の女の子が抱えている粉ミルク缶にも同じ絵が描かれていました。だからその女の子の絵は、エンドレスに、同じデザインで続いているような連想が為されるものでした。このようなデザイン手法というものについて、未だ現存しているその会社にお伺いしたのですが、使用していた期間しか何も分りませんということでした。長く抱えていた問題なのですが、そのご回答を戴いたのは一昨昨日でした。いろいろ調べたのですが、勝手に命名しようかとも考えております。つまり、知りたいのは、(1)こういうエンドレスに続く、デザインの手法はなんと言う名称なのでしょうか。(2)他に同じような手法の事例がないでしょうか。ということでした。法学などばかりしてきて、今自分の勉強を始めて、こういうことが分らなくて、どう調べたらいいのか困っています。どうかよろしくお願いします。デザインなのか、画法なのかのことばも分りませんが。

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  • SortaNerd
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回答No.2

「フラクタル」の一種です。

krya1998
質問者

お礼

フラクタルというキーで検索すると、ここでも無数のページに会えました。 この世、一なる意識の創造界の無限なる、ヴァリエーション的現われと受け取りを満喫できるようです。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%82%BF%E3%83%ABの前半の説明は、すうーと飲み込めてきたのですが、数学に関連した説明は、更に読書百ぺんが必要とされます。允にありがとう御座いました。莽翁 寒岩

その他の回答 (3)

  • dec02
  • ベストアンサー率36% (578/1602)
回答No.4

補足をいただいていましたのに、 じゃあ、これですか? と言った応えも思いつかず、申し訳ないです。 幾何学(の模様)とかエッシャーの絵(ねじれのトリック)の中にヒントがあるとしたら、やはり数学と切り離せないもののように思います。 そして、 >・・・強いて意味を言えば、取り留めなさ。だから存在しているか、というと、いつでもちょん切れるのだから、存在という次元や世界に入ってきていない、架空と夢の世界。意味もなく、目的性もない、営々たる生活などが内包しているかも知れない、内包するドラマもない。そういう画きの手法・・・ からは、 手法(テクニック)と言うよりテーマではないかと思いました。 線分は描くことが出来ますが、直線は想定するだけで、 どこまでもどこまでも続くことを知っているけれど、 終わり無く続くと言うことを知っていると言えるのかと言ったような。

krya1998
質問者

お礼

 エッシャーは検索で到達しました。ねじれのトリックはこの言葉では到達できませんでしたので、もっと試行してみます。この前の貴方様のご教示のあとに、戴いたフラクタルということがぴたりだと存じます。パラドックスも非常に近いのです。皆様さすがにすごい、という気持ちで、圧倒されている状況です。一なるthe Infiniteなる意識の創造にかかる、界は我我としては、自分もその一部なっていて、後ろも前もどこまでも、the Infiniteなる意識の細分別化のヴァラエティが続いていることを実感しているところです。自然や物質の範囲では、多分それでも、最終と起源があるのでしょう。起源と自然的終了の間が我我なのでしょう。グスタフ・フォン・ラートブルッフ(ワイマールのときの司法大臣、方哲学者・ネオ カント 西南学派)の価値関係への志向が可能かどうかが、この中間存在のものの基本課題かなと、手探りの愚考を重ねています。  みなさま、本当にありがとう御座いました。お礼とともに締め切らせていただきます。

  • ririri333
  • ベストアンサー率67% (21/31)
回答No.3

こんばんは。 『パラドックス』ではないでしょうか? 哲学的絵画の一種ですよね。 パラドックスは絵画でいうとエッシャーが有名ですが、 そのミルク缶はカントールやラッセルの無限論、集合論の感覚です。 たとえば、そのミルク缶は論理的にはどこまで小さくなっても 絵の中で(無限に)存在している筈ですが実際はどこかで終わっている。 でもその<どこか>は最初の絵とは違ってしまい、もはや同じ絵の連続、という最初の約束と違っている。。。 また、「自分が持っている箱の中に自分が入っている」とした場合、 その箱の中の自分も箱を持っているはずで、ミルク缶と同じくどこまでの自分が箱を持っているのか、、、というパズルみたいな考え方です。 デザインより哲学的、、、と思われるかもしれませんが、 以前見たある絵に『パラドックス』というタイトルがついていて、 それが<鏡を見ている猫がどこまでも続いている>絵でした。 それを思い出したもので、ご参考になればと思いました。 ちなみに哲学や数学の専門家ではありません。。。

krya1998
質問者

お礼

パラドックスを漢字熟語の矛盾というだけで理解していて、検索したらずいぶん認識を改めることになりました。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9には飛ぶ矢の静止という言葉が出てこなかったのですが、これもそういうことなのでしょうね。エンドレスと、立脚の当為命題と目指す価値と理念であるThe Infiniteの区別との区別を、しっかりさせようとして、おたずねしてきたのですが、副産的にたくさんの勉強ができました。これはエンドレスなのか無限(者)なのかわかりませんが。別のことになりますが、価値に向かって飛ぶ矢でしかないこの世の自分意識は価値の中に入っても、更に同じ場所を飛ぶ当為の意志で居ることなのだろうとも思っています、古希です。ありがとう御座いました。

krya1998
質問者

補足

補正:“でしかないこの世の自分意識は価値の中に入っても、”は誤解の生ずる言い回しですので、:“でしかないこの世の自分意識は価値の中に入ることができてきても、”と表現を改めたいと存じます。申しわけありません

  • dec02
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回答No.1

ネスティング (nesting)または入れ子構造のようなことでしょうか? マトリョーシカ人形とか。 >他に同じような手法の事例がないでしょうか。 鏡と鏡を向かい合わせた時のエンドレスに続く世界、 子どもの頃、床屋さんで経験しました。

krya1998
質問者

お礼

 ネスティングとマトリョーシカ人形についても、自分は始めての単語でしたので、Wikipediaでべんきょうしましたが、どうもそうではないと判断しました。一つはデザインではないということ。もう一つは最初の絵の中にもう最後までの絵と構造が含まれていて、原理的にそれがいつまでも、続いていると言うのではないようです。この、ネスティング (nesting)または入れ子やマトリョーシカ人形というのは。それぞれ新たに、その中に入るお人形を小さく作っていくということですから。これとはどうも原理的に異なります。早速にありがとう御座いました。

krya1998
質問者

補足

 床屋さんの鏡に、同じ鏡をを持って向き合っているときに、鏡に写る映像の中の鏡を次々追っていくような状況をお考え下さい。そんな構造や原理を一枚の絵にした、絵の書き方、手法のことを命名するとなんというのでしょうね。そういうのは今までも幾つか例があるかと存じます。永遠と言うのと違い、最初にはともかく、書くということ、書いた絵があるということ、そして同じことが繰り返され、いつでもちょん切って別に意味の違いもない。  そういうような、強いて意味を言えば、取り留めなさ。だから存在しているか、というと、いつでもちょん切れるのだから、存在という次元や世界に入ってきていない、架空と夢の世界。意味もなく、目的性もない、営々たる生活などが内包しているかも知れない、内包するドラマもない。そういう画きの手法のことなのですが。どう命名したらいいでしょう。他に事例はあるでしょうか。マトリョーシカは最初の人形にエンドレスに中に入る人形が表示されていません。それは次々小さいのをつくるということをしなければなりませんね。ですから事柄が違うと存じます。何とかよろしくお願いします。

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