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死ぬ自由

生きたいと思っている人を殺したら法律的にも倫理的にも許されないのは解ります。でもなぜ、生きるのが辛くて死ぬことを選択した人(死にたい人)を、死なせない事は許されるんですか? 法律は人口減少による税額減少など国の都合も反映していると思うので問いません。現憲法では生きる権利は保障されているのに、死ぬ権利が保障されていないことも知っています。また宗教的な説明も必要ありません。日本には宗教選択の自由がありますし、各宗教の教理に興味はありません。 倫理哲学的に納得したいので、誰か教えてください。ちなみに自殺願望などありません。

質問者が選んだベストアンサー

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noname#26926
noname#26926
回答No.20

倫理的に見るか、哲学的に見るか、教育学的に見るか、宗教的に見るか。いろんな見方によって、結論や表現が変わってくるだろう。 しかし、質問者様は、今さら言わなくても、それぞれの結論は理解してらっしゃるように見える。 だから、あえて感情論を言う。 ちょっと話しづらいので、あくまで仮の話と思って聞いてもらいたい。 数年前、恋人が交通事故で体の自由がなくなりました。 脳に障害が出たため、意思を伝達することもできない。 でも、生きている。 医者は脳がまったく働いてないというけれども、楽しい話をすれば笑うような表情をするし、悔しい話をすれば涙も流す。 意思を伝えられないだけで、どこか分かってるとしか見えなかった。 まあ、身内だからそう見えるといわれてしまえば何もいえない。 医者は臓器移植の話ばかりするし。(こういう状態の人間をどうこうするよりもその臓器を誰かに入れた方が名前が売れるし、医者としての醍醐味にもなるんだと他の医者から聞いた。) それでも家族と自分は絶対に臓器移植なんかさせないと頑張った。 もちろん、もしかすれば本人は死を望んでるんじゃないかと毎日考えた。 ━━頑張らせるのはむごいことじゃないか? 院内感染でなくなるまでの長い月日、毎日考えた。 ━━生きていてほしいと思うのがエゴなのか? ━━でも、あの時、一度は完全に止まっていた心臓を動かして生き返ったんだ。どうしてだ?本人が生きたかったからじゃないのか? ━━一瞬の判断だっただろうけれど、死ぬだろうギリギリの場面で生きることを選択したんじゃないのか? ━━だから、頑張ろう、生きよう。 ━━でも、もう疲れたろう…長すぎるもんな。 ━━でも、治る人もいるんだ。治るんだよ。頑張ろう… 毎日毎日葛藤。 でもね、 意識がないって言われても実際笑うんだ。楽しい時もあるんだ。 だから、最後まで、治ると信じてみんなで頑張ったんだ。 感情論にしかならないけど、 人間は、生きようとする生き物だと信じてる。 何か、身体的環境的に死にたくなるとしてもそれは思考をはさんでの話。 本能は生きる方向にしか向いてない。 死なせないことを許す許さないではなく、 生きるということがもう前提として人間の細胞の中に入ってる。 生死の境にいる人が家族なら救おうと思うだろう。 恋人なら、やはり救いたい。 赤の他人、病院だからまったく知らない赤の他人の、同じような症状の人もみるが、どうしたって救われてほしかった。 多分、病気でもなんでもない人が死のうとしていても。 根っこは同じ。 たとえば死にたい原因が解決できたら? 例えば、借金で死のうとする人にいきなり宝くじが当たったら? 例えば、尊厳死を選ぼうとする人に、ある日治療法が見つかったら?一発で治る薬が発明されたら?苦しみも死の恐怖もなくなると保障されたら? 例えば、いじめにあって死にたい子供が何かのきっかけでクラスの英雄になったら?転校でいいやつばかりの環境があると知ったら? そんなふうに死にたい原因を解消する方法さえあれば、やはりいきたいと思うだろう? 死以外で救われるなら救われたいんだ。 死に向かおうとする人に関わった人は、たとえ救う方法を持っていなくてもなんとか一緒にその方法を探したいって思うだけなんだよ。 それが他人であっても身内であっても同じだ。 それの善悪は分からない。 世の中には確かに死よりも悪いことがあるから。 でも、やり直してうまくいくこともある。(死んだらあとはもうやり直しはないからね。) それだけでも、生きてみる価値がある場合もある。 権利なんて言われたら、もしかしたら自分もあの時本人の権利を奪ったのかもしれない。 でも、死が本当に望みだったのか、分からない。 言葉を発することができない状態だったからということじゃない。 今まさに自殺しようとしている人でさえ、本当に死が望みかは本人にだって分からないときがあるんじゃないか? 死ぬ権利は生きる権利とはまるで次元が違う。対ではない。 人の考えはいつまでも同じじゃないからだ。 昔はそう考えていたが、今は違うことってたくさんある。 死だってそうだ。 死にたい時があったとしても、それがいつか変わるかもしれない。 時間ってものは環境も変え、人間そのものをも少しずつ変えていく。 死の権利を認めるのはいい。 けれども、それによって、変わったかもしれない未来の自分の考え、体、行動、全部奪うのと同義にならないか? 質問とずれてるように見えると思うけれども、行間を読んでもらえれば質問者様には伝わると思います。

noname#32404
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 大切な話を教えていただきizurrさんにはとても感謝しています。例え論理や倫理的に正しい事でも、人には受け入れられない事があると改めて考えさせられました。この質問はもう少し続けますが、締め切るときに再びお礼をさせて頂きます。ありがとうございました。

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その他の回答 (26)

  • haskap48
  • ベストアンサー率29% (27/92)
回答No.6

●論理的に考えた場合 質問者さんは、どういった形であれ他人の意思や自由を「奪う」行為に対して、社会的に、ある意味での窃盗罪(例えですが)は適用されないのか?ということをお聞きになりたいのですよね。 「生きたいと願う人を殺すこと=「命」を奪うこと」 「死にたいと願う人を生かすこと=「意思」や「自由」を奪うこと」 上記のように、意思や意思といった観念的なものと、絶対的な「命」をごっちゃにして考えているから、混乱するんじゃないでしょうか? これを同レベルで整理すると、 「生きたいと願う人を殺すこと=「命」を奪うこと」 「死にたいと願う人を生かすこと=「命」を与えること」 になります。 「命」の定義は人それぞれですが、基本的に命を「尊いもの」として考えるとします。 「許す」という言葉は「罪」に対して使う言葉です。 「尊いものを与えること」に、罪は適用されないと思います。 なので、基本的に「許される」のだと思います。 ●感情的に考えた場合 >他者がそれを奪うことに対して責任は負わないのか? 許されるのか? 「責任」とはどういうことでしょうか? たとえば自殺しかけたAさんに、「死ぬな」と言ったBさんは、その償いとして、刑期や罰金が科される必要があるのではないか?ということでしょうか。 もしそうだとしたら、キツイようですが、甘ったれるなと思ってしまいます。 本気で死ぬつもりなら、Bさんのいないところでひっそり死ぬこともできます。 Aさんは「Bさんのせいで自殺できなかった」と言うかもしれませんが、生きることを決めたのは、他ならぬAさん自身なのです。 それを人のせいにするのは、恥ずかしいなぁ、情けないなぁと思います。 なので、Bさんは「許される」と思います。

noname#32404
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >●論理的に考えた場合 命がなければ思考も意思もない、つまり「意思」<「命」という不等式が成立して同列ではないということですよね。それは理解できますが「命」≒「尊いもの」という考えを、すべての人が持っているとは限りません。その時に「あなたの考えは間違っているから(強制的に)なおしてあげる」というのは、傲慢な気がするんです。 「許す」という言葉は適切ではなかったかもしれません。しかし、そこには責任があるんじゃないんでしょうか。「良いことをしたんだから、責任も何もなくただ感謝されるだけ」と考えるのはやはり傲慢な気がします。そこに何の躊躇も疑問も持たないことに違和感を感じます。 人はそれぞれ考えを持っていますし、持つも持たないも自由です。しかし国で生活する以上その国の法律は守らなければなりません。それに社会で生きていく以上その社会の共通価値観を共有しなければ生活できません。それは宗教という形で存在しているのかもしれないし、習慣という形で存在しているのかもしれないし、それ以外の形もあります。社会とはそういうものだと思っています。ですが、共通価値観として存在している「命は尊いもの」という価値観を共有できない人がいたとして、その人が死を選んだときにそれを止める事はできるんでしょうか。そこに誰も躊躇や疑問を持たない(ように見える)んですが、それに違和感を感じます。 >●感情的に考えた場合 確かに本気で死ぬつもりならひっそりと一人で死ねば良いし、そういう場合は止めてほしいという気持ちがあるので、むしろそれを汲んで止めてあげる優しさが必要かもしれません。そういうケースは私が疑問に感じている意思とか自由は無い気がします。 責任とは具体的に何か・・・わかりません。それを探したい訳でもありません。なんていうか何も考えずその意思を無視していいんだろうか? と疑問を感じるんです。

noname#32404
質問者

補足

別のタイトルを考えるべきだったと反省しています。あと改めて自分の表現力のなさに気づかされました。 私は自殺を肯定している訳ではありません。それに自殺者を引き止めた人を責めるつもりも全くありません。それが正しいということを、宗教や法律を超えて確認したかったんです。

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  • tent-m8
  • ベストアンサー率19% (724/3663)
回答No.5

生きるのが辛くて、死にたいと思った人がいるとします。 でも、その人は死ぬことを思いとどまりました。 その後幸せが訪れ、生きていて良かったと思いました。 こういうことが、あるからです。

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noname#25891
noname#25891
回答No.4

人間は人間を殺してはならない。自他を問わず。 という話は聞いた事がありますが。 そんなことより。 死ぬ自由も生きる自由も、 安楽死問題や臓器移植問題を自分や家族が経験してみれば見えることもあります。 その辺の学習は終わってますか。 倫理の話など掃いて捨てるほど出てきます。

noname#32404
質問者

補足

すみません。質問がうまく伝わっていないのでここで補足させていただきます。 生きる義務は各個人にあります。しかし、ある人が生きる義務を放棄して死ぬことを選んだとき、他者がそれを奪うことに対して責任は負わないのか? 許されるのか? という事が聞きたいんです。

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  • rulua
  • ベストアンサー率18% (10/53)
回答No.3

命あるものは生きることが当然だからでしょう。 死ぬことを選択した人を止めることも当然の行いです。 (お金をかけたり無理やりに延命することに対しては、また別な話。) 何故か? そこに意味や理由はないと思います。 「生きることが辛くて」という人がいたとすれば、そう思う理由を伺いたい。 色々な選択肢がある中で死を選ぶ必要は絶対にないのだから。

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  • tilt1816
  • ベストアンサー率15% (64/423)
回答No.2

「死ぬ自由」の前に「生きる義務」があります。 誰の助けも無く、突然湧いて出た訳ではありません。

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  • futotani3
  • ベストアンサー率22% (28/126)
回答No.1

倫理的に、人を殺すのは認められない。 その人自身が、自分を自分でどうするかは自由。 個人は自由。他人を侵害してはいけない。 他人に迷惑をかけてもいけない。 迷惑をかけないなら個人は自由。 社会は大きな組織。 個人を追及するなら、社会でない所に生きる。

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