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本能寺の変で…!

 その時、本能寺は炎に包まれましたが、当時は火を放つ事が当然(あたりまえ)の事だったのでしょうか?

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質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • kasutori
  • ベストアンサー率26% (308/1163)
回答No.1

火薬の暴発説がありますね。火縄銃を何丁か持っていたらしいんで。 火を放つ事が当然かどうかは判りませんが、火を放てば自然、外へ逃げ出しますよね。そうすれば目的は焙り出てきます。火計に関しては結構古くから用いられる戦術ですね。

keizu24
質問者

お礼

 確かに地下に火薬庫があったと云う話しを聞いた事があります。  戦術的には理解できますね…なるほど!  ありがとうございました。

その他の回答 (5)

  • akikoll
  • ベストアンサー率16% (3/18)
回答No.6

当時は首が手柄のしるしでした。また、首をとっても傷がついているなど判断のしにくい場合、いくら大将の首と言えども価値は下がります。もし、見つけられてもわからない様に、火を放ったのだと思います。

keizu24
質問者

お礼

 態々ありがとうございました。

noname#113190
noname#113190
回答No.5

この時代は首を晒すのが嫌なのか、落城で火を放って自害する武将はままいました。 柴田勝家も妻の市を刺した後、北ノ庄城に火を放って自害していますし、松永秀久も信貴山城に立てこもり、最後は城を爆発させて自害しています。 信長の性格なら、ありそうと思いますよ。

keizu24
質問者

お礼

 信長の亡骸は見つかっていないようです…補足。  ありがとうございました。

  • voorraad
  • ベストアンサー率8% (1/12)
回答No.4

首実検は恩賞が多くもらえるか否かにかかわりますから、兵士にとってはなるべく生け捕りしたかったと思います。光秀の場合は動機がうらみ(母のうらみ)なので、手段は選ばなかったのでしょう。 京で火を放つことは、為政者にとっては憚られたはずですが、彼はヤケクソなのでよかったのです。 信長が火をつけた可能性はあるのでしょうか?自殺なら刀のほうが安楽死できますので。

keizu24
質問者

お礼

 ありがとうございました。

noname#26663
noname#26663
回答No.3

ロンメル将軍の歩兵の戦闘方法でも、夜襲の時は最初に火を放て。 それまで撃つな。 とあるそうです。(幼稚ですが。) 慌てて火を消します。そこで撃てとあります。 火災による狼狽の上の敵襲になり、相手は冷静さを失いかけての戦闘に突入します。(しまった=失策) 消火命令と同時の攻撃命令での部下の混乱。 敵を撃つべきか、目先の火を消すべきか。 指揮官の混乱。 消火に人員を回せば敵兵は減り、優位に立てます。 こちらの位置が白昼のように分かり、不利だ。 数枚上手の敵が来た。 こう言う考えを急に指揮官が抱いた場合、確実に勝利するそうです。 例え3倍の兵力差でも。 この観点から言えば、火を放つのは「動物に勝つ知恵」

keizu24
質問者

お礼

>この観点から言えば、火を放つのは「動物に勝つ知恵」  上記の意味が解りませんが、ありがとうございました。

noname#113190
noname#113190
回答No.2

当時の習慣で「首実検」というものがあり、負けた敵将は首を落とされて、討った武将が主君に披露するという儀式があります。 信長も今川義元、浅井親子をはじめ、これをやってきましたから、自分の首がそうなるのに、彼の美意識が耐えられず、火を放って一切を無に帰したのではないでしょうか。

keizu24
質問者

お礼

 信長が火を放った可能性は考えつきませんでした。  ありがとうございます。

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