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長崎県にカトリック教会が多い理由を教えて頂けませんか

表題の件に関して,Internet 上で調べてみようとしましたが,はっきりしません.Wikipedia の「キリスト教」によると,徳川時代「…多くの信徒や聖職者が逮捕・殺害された.長崎の一部等でわずかに残った信徒は隠れキリシタンとして…」という記述があるのですが,一部に残った信徒が他の県ではなく長崎県であったというのは,単なる偶然なのでしょうか.それとも,それが長崎県であったのは何か地理的,歴史的要因によるものなのでしょうか.例えば,長崎は鎖国が始まって以後,海外との唯一の窓口であったとか….この辺りの事情を教えて頂けないでしょうか….宜しくお願い致します.

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  • Jack_Rose
  • ベストアンサー率35% (18/51)
回答No.4

残念ながら長崎が鎖国中に海外との唯一の窓口であったことは全く関係しません。出島に来るのはプロテスタントのオランダ人で出島外に出ることは許されず、キリスト教関連の物も厳密に入荷チェックされていました。 それでは何故長崎に幕末、明治初期まで隠れキリシタンが残っていたのかというと、他の地方と布教のされかたで大きな違いがあったからです。他のキリシタン大名が大名だけがキリシタンになったのに対し、大村氏、有馬氏は領民全員をキリシタンに強制改宗させてしまったためです。 キリシタン摘発のための手段が五人組ですが、五人組全員がキリシタンだと摘発どころか逆に励ましあい、集落全体で信仰維持のための組織を作って、幕末の宣教師再来まで信仰を伝えることになりました。他の地方では五人組全員がキリシタンということはないので、摘発されるか、自分の心の内でひっそり信仰を守っていても次の代への信仰の伝承がうまくいかず自然消滅してしまいました。 ただし、有馬氏領内のキリシタンは島原の乱で全滅、大村氏領内のキリシタンも役人の目に付き易い場所は摘発されてしまったので、幕末、明治初期まで残ったのは、陸の孤島、絶海の孤島のような場所ばかりです。

noname#69266
質問者

お礼

早速のご回答ありがとうございます.非常によく分かりました.九州地方のキリシタン大名の話は,中学・高校時代の歴史を通してなんとなく知ってはいましたが,大村氏や有馬氏は自らキリシタンであるのみならず,領民に改宗を強制したのですか….いやはやびっくりです.実は,質問のなかでは触れなかったのですが,五島列島のような離島になぜカトリック教会が多くあるのか不思議だったのです.このことも含めて,私の疑問はすべて氷解しました.本当にありがとうございました.

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その他の回答 (3)

  • komes
  • ベストアンサー率29% (147/494)
回答No.3

長崎に限らず北九州は宣教師が渡来することがおおかったのです。 またこの地方の農村は度重なる戦争(朝鮮入りを含めて)で税の取り立てが厳しい地方でした。 さらに領主は鉄砲の火薬製造に必要な硝石を輸入するためキリシタンに帰依するふりをしましたからキリスト教が半ば公認された時代がありました。 キリスト教の説く信仰はこのような環境下、既存の仏教と異なり貧しい民衆に受け入れられやすかったという事情がありました。 長崎地方は土地の領主が特に農民に過酷であっただけでこの為農民が反乱を起こしたのですが、これを利用しようとした一部の武士がキリシタンを道具に使ったので旗印などキリスト教の色が濃くなったのです。 反乱は結局鎮圧されこれを契機にキリシタンは禁止された為、残された信者は隠れキリシタンとなりましたが信者は長崎地方に特に多かっただけです。

noname#69266
質問者

お礼

早速のご回答ありがとうございます.九州にはキリシタン大名が多かったというのは,何となく知っていましたが,火薬製造のための硝石を手に入れるためにキリシタンになりすますというような話は初めてで,びっくりしました.統治のためには宗教をも利用するとは ……,人の性というのは,今も昔も超えられないものなのですね.ありがとうございました.

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  • koon1600
  • ベストアンサー率51% (200/390)
回答No.2

まず、長崎には出島という、キリスト教国であるオランダが貿易を唯一認められている場所がありました。 つまり、江戸時代における日本の「渡来品」というのはすべてここから入ってきたものです(表向きは、ですが)。 これは・・まあ、日本人ならば常識かと思います・・・ また、九州という土地はかの地にザビエルが来日して以降、布教が多く行われた土地でもあり、また当時の日本でもっともキリシタンが多かったところのひとつです。 また、大名にも元キリシタンが多かった土地でもあります。さらに、江戸幕府から最も離れた土地のひとつであり、監視の目も行き届きにくかった地方でもあります。 こういった下地があったため、隠れキリシタンが生き残っていたのかと思われます。 まあ、本州では、弾圧があったとはいえその後キリシタンの人口自体が収束していったのと反対に、天草一揆のようなことを起こすほど、キリスト教が浸透していた九州だからこそ、消滅せずに生き残った、というのがあるのかと。

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/出島,http://ja.wikipedia.org/wiki/隠れキリシタン
noname#69266
質問者

お礼

早速のご回答ありがとうございます.非常によく分かりました.確かに大名自身がキリシタンという事実は影響が大きいですね.江戸からの距離的条件というのも大変納得できます.ありがとうございました.

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  • ici41041
  • ベストアンサー率44% (425/960)
回答No.1

昔からオランダやポルトガルなどヨーロッパとの交易があったからではないでしょうか。出島というのもありました。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E5%B3%B6

noname#69266
質問者

お礼

早速のご回答ありがとうございます.やはりヨーロッパとのつながりが強かったということが関係しているのですね.

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