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哲学の視点---(大リーグボール一号)

●最近わたしの長年の哲学研究の成果ともいえる「意識のファッションショー」  というスレッドが削除されてしまいました。ふと 思いました・・・。  なるほど哲学するということは いとも簡単に既製の概念やモラルや  倫理や規範を超えてしまうのだなぁ・・・と。  越えまい越えまいとするから まともに哲学できない。越えていいじゃないか。  いや 一歩すすんで越えてしまおう!  みなさんの哲学する視点は「どこ」の高さにありますか?  また もっとも高い視点とは あらゆるものを俯瞰できる視線 それは  いったい「どこ」だとお考えですか?ご意見教えてください。

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回答No.11

>受けての心がしっかりしていれば 何の影響もうけないと言うあなたが  神の存在を感じているわけです。神の存在を感じることは間違いだとは  申しませんが 存在を感じることも理解できるし 感じない感覚も理解できる  さて どちらがニュートラルでしょうか? というのがこの設問の  ポイントなのです。かたくなに神を信じる人よりは 居るようなきもするし  居ないようなきもするという方のほうが 哲学の視点は高いと思いませんか。 哲学の視点そのものがなんなのかよくわかりませんが、ちょい!書かせてくださいね。(神を歌にみたてて替え歌です。) ここのとホロホロ友達に付き合って車を走らせ迷走してるときに口ずさむ歌。 ~♪ABCはしってても~♪それだけでは困ります~♪ABC~♪EFG~♪アルファベットは~~~♪ ↑最後まで完璧に歌詞を覚えていないんで終わりの方はララララ~♪で歌ってます。完璧に歌いこなすより、替え歌もどきで、そのとき、そのとき、気持ちにあわせて歌詞を忠実に歌いたくなることもあるだろうけど、ララララ~♪のところをハヒフヘホ~♪に替えて歌ったりするととっても気持ちよく歌えたりするんです。 山口百恵ちゃんの“美・サイレント”しってますか? (*^^*)>゛゛゛いい歌だと思いませんか?そそ、歌の中ほどで声にならない声(口パクだけで音が無言)。その部分にどんな言葉を当てはめるか・当てはめられているのか?うふぅ。。。ないしょの話はあのねのねってかんじがス・テ・キ―☆ いろいろであっていいとおもうんです。そのとき、そのとき、かんじるわたしがいるんですもん。でね、このわたしがだれなのかなんてわたしでさえわからないんですからわたし探しの旅はまだ続きます。 困ったときは、こころのなかの青い鳥に呼びかけながら気持ち軽やかに歌を口ずさみます。ルルルルル~♪哲学の視点がどんなものでどこにあるのかどこにおくなんて構えるのはしんどい。こころ楽しく気持ち軽やかにただ歌いたい。それでいいんじゃないかなぁ~♪

chihoko
質問者

お礼

●歌える立場なら それで十分だと思います。  でも 隣のひとが銃で撃たれ 隣の町に爆弾が落ちはじめると  なかなか 歌ってられなくなるものです。  世界を見ればわかるように また日本の政治を見ればわかるように  一日中歌ってばかりもいられないのが 現実でしょう。  一日のうち9歌ってたら1くらいは哲学してみるのもいいかも・・・です。  なににつけ 考えるということは あらゆることに応用が利く  脳の利用の基本なのです。その哲学の視点をより高いところに持てる  ということは きっといいことに繋がるんですよ。  すくなくとも わたし的には 快感UPなんです・・・。  ご回答ありがとうございました。

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  • cse_ri2
  • ベストアンサー率25% (830/3287)
回答No.10

>恐竜たちは なぜ絶滅しなければ ならなかったので >しょうか? >共食いをしなくなったのはつい最近で たとえば2000 >年。(事実はいまもある) >それ以前の39億9999万8千年の間は 何のために >そんな殺戮が 用意されたのでしょう? >神が創造者なら なぜそんな残酷なことを 続けたのか >是非聞きたい。 ウン、ここが大事だ。 私の考え(仮説ですが)を述べますと、 「宇宙は人間(発生)のために創られた」 ということです。 人間原理の考えに、かなりの程度一致します。 一例として、恐竜の絶滅について考えてみます。 隕石の衝突とかいろいろ学説がありますが、はっきりして いるのは、恐竜が絶滅しなければ、その後の哺乳類の発展 はありえなかったであろうということ。 さらに、哺乳類進化の最終段階として人間の発生もどうな っていたかわかりません。 つまり、恐竜が絶滅したからこそ、人間がこの地球上に出 てこれたのです。 >創造者がいなかったからこそ それだけの時間が必要だ >ったと考えるのが  まともな発想だと思いませんか? ビッグバンから現在まで約160億年と言われています。 なぜそんなに時間がかかったのかについてですが、まだ 私が不勉強なのでここでは説明できませんが、ディッケと いう学者が既に考察しています。 (彼の説は「弱い人間原理」と呼ばれているようです) >もういちど申しましょう。人間のやることが美しくない >のはミームによってコントロールされているからです。 「ミーム」については前にも聞いたことがありますが、 要は「情報」でしょう? そんなものは受け手である人の心がしっかりしていれば 何の影響も受けません。 私が真理の探求を重要視しているのは、悪なる情報を分別 する判断力を身につけるためです。 しかしながら、賢い人やしっかりした心を持つ人は少ない のが現実ですので、外界から無分別に入る情報に振り回さ れて生きているのが、大半の人の人生なのでしょう。

chihoko
質問者

お礼

●どうも あなたの考察は平面的に思えてなりません。  人間にこだわりすぎです。  地球上でも 人間のまったく存在しない島もあるわけで  すべてが人間に繋がるべく創造されたと考えるのは無理があります。  たとえ 恐竜が絶滅していなくても 哺乳類は存在できているし  事実恐竜と同じ地層から 哺乳類の化石も出土しています。  進化とは 氷河期などの負荷的要素によって 方向付けられる一面も  あるとは 思いますが。カンブリア紀が なぜ存在するのかを  考察してみて 分かることは その時点で 生命は自然淘汰とは別に  適応する進化DNAと多様化するDNAを 進化の手法として獲得したと  推測するのが妥当だと推測します。つまり 恐竜の絶滅があろうとなかろうと  哺乳類のDNA的多様化と適応能力により人までは たどりついたと  推測します。人間にこだわって 神にむすびつけて それで気持ちいいですか?  わたしは きもちわるいですよ。なぜなら 人間がいなくとも地球は十分  美しいからです。むしろ居ない方がいいくらいです。  受けての心がしっかりしていれば 何の影響もうけないと言うあなたが  神の存在を感じているわけです。神の存在を感じることは間違いだとは  申しませんが 存在を感じることも理解できるし 感じない感覚も理解できる  さて どちらがニュートラルでしょうか? というのがこの設問の  ポイントなのです。かたくなに神を信じる人よりは 居るようなきもするし  居ないようなきもするという方のほうが 哲学の視点は高いと思いませんか。  ●ミームとひとことでいってもさまざまです。  ノイマン型CPは 二進法で情報が処理蓄積されます。  DNAは四種類 さて人間の脳はどのような処理でしょうか?  わたしの推測では記憶の踏襲型処理だと感じています。  DNA以外の伝達されるものをミームとしているわけですが。  実際なにが原因で問題につながっているのか 仔細に分析できないから  ミームといっているだけなのです。  これは わたしの予言ですが たぶん当ります。  PCは近い将来 ネットワークにより共通の意識を持つようになります。  現在のPCには われわれ人間の文化としてのミームがのっているのですが  その将来には 人類のだれもがしらないミームがのるということなのです。  つまりPCの創造者たるジョン・フォン・ノイマンは そのPCの意識に  ついては知らないのです。時間とはそういうものではないでしょうか。  ●とにかく 疑問をもたなくなったら 哲学はそこでおわりです。  あかちゃんは いつでも なぜ? なぜ? なのですから・・・。

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noname#155689
noname#155689
回答No.9

>フッサールがどのように哲学という視点を高きに導こうとして  どこで行き詰まったのか?  その感覚はだれの感覚なのか?  具体的に提示していただければ  わたしが 簡単にその壁を乗り越えてご覧にいれましょう。 哲学は最も古い学のひとつであり それは先達が悩み、考え、議論してきた歴史である。 フッサールは通過点に過ぎない。 その過去の営みに敬意も抱けず あまつさえ蓄積であることがイメージできない 貧困な想像力が こういう補足質問を書かすのであろう。 >過去の哲学者は クサルホドいて 学ぶ気がしません。  学んでる三流教授と話してても 刺激がありません。 クサルホドいる、という理由で学ぼうともしない。 学んでいないから学んでいる人と話が合わない。 話が合わないというだけで、刺激を受け取れない。 その感受性の乏しさを相手が三流という議論にすり替える。 いや、困ったものだ。 こういった愚鈍な感受性に >フッサールが行き詰まったという地平を  具体的に提示してください。 提示したところで見ない恐れが大。 ハイ、ポイントはココですよ。 >もっとも高い視点とは 目線を相手に合わせようが俯瞰を気取ろうが 主観は主観なのである。 対象を、前から見たら後ろが見えない。 右から見たら左が見えない。 上から見たら下が見えない。 ぐるっと回って見たところで中身は見えない。 対象が存在していても見ようとしなければ見えない。 >クサルホドいて そう、クサルホドいたところで 見ようとしなければ「ない」と同じ。 >あらゆるものを俯瞰できる視線 など、ありゃしない。 >創造者がいなかったからこそ あれ、なんだ。分かってるんじゃん。 >フッサールが行き詰まったという地平 あっ、地平、とは、しまった。ひっかけだ。 あれ?よく見れば質問にカッコ書きで「大リーグボール1号」とある。 ああ、そうか。これはビンボールまがいの質問だよ、と ちゃんと宣言されていました。 今、気付きました。失礼しました。 それにしても「ミーム」では あまりに恥ずかしいのでは? 

chihoko
質問者

お礼

●あなたにひとつだけ助言をさしあげましょう。  哲学を学ぼうとする人間は哲学には向いていません。  哲学とは自分で自分なりに考えることなのです。  社会は哲学では 動きません。  哲学とはそれほどに私的な世界なのです。  社会とは科学・経済という共通の概念によって動きます。  そのなかで個人(私的)の幸せをつかむために  哲学があるといってもいいでしょう。  フッサールが行き詰まったとだれが言ったのかしりませんが  フッサール自身はそれで妥協(折り合いをつける)しているはずです。  哲学とはそういうものなのです。  ご回答ありがとうございました。

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  • cse_ri2
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回答No.8

>ましてやその小説から派生するさまざまな世界を すべて >掌握できるものでもありません。 その小説から派生する世界というと、それは小説を読んだ 人の頭を指しているのでしょうか。 小説を読んた読者の感想までは、確かに作者には掌握でき ないでしょう。 しかし、小説から派生した世界については、その小説とは 別ではないですか。 >自然のありのままの姿には その光明を絶え間なく感じ >ているわけで 人間の創造物にその微かな光明を感じる >ときは創造主うんぬんより受け手の自分のなかの何かと >対象のなかの何かが 共鳴のような現象を起こしそこに >自然のなかに既にある摂理のような普遍性を垣間見るか >らでは ないでしょうか? フム、ここは大事な箇所です。 人が自然の美や荘厳さを見て感動する、時には自然の厳しさ と接して背筋を正されたりもします。 このような現象を考えた時、人間と自然界にはどこかに 共通する要素があり、自然に接することで共鳴している と考えることができるでしょう。 人間の心には知情意の機能があり、真実を求め、美を求め ています。 自然に接して感動を覚えるのは、自然の中に真実が内在し ており、美が内在しているからだと考えています。 >自然界の妙を もし だれかが創造し得たとするならば >はたして これほどの多様性と匠の世界を その時点で >想像できたかどうかはまゆつばものです。 それゆえ創造主がいるとしたら、「超越者」としか言いようが ないのです。 私に言わせれば、多様な生物からなる自然界、遠大な宇宙、 これらが偶然に発生してできたと考えるほうが、私には 不可思議です。 >無数の共食いと 無数のレイプの果てに わたしたちが >居るわけです。 >ちょっとカッコツケしたのは ほんの数千年前からなの >です。 >釈迦・キリスト以前のドラマを もっともっと知るべき >です。 まぁ確かにそうですけど。(笑) しかし、考えてみてください。 無数の共食い、あるいは殺戮、レイプを繰り返した時に 人間はどれだけ豊かな暮らしができていたでしょうか。 力のある者がのさばり、弱い者は怯え搾取される、そんな 生活にどれだけ幸せがありますか。 倫理・道徳が普及する、また国家が成立して外敵からの 安全と国内の治安が確保されるようになってはじめて文明 の進歩が可能になり、人間一人一人の幸福追及が可能に なったのです。 そして長い歴史を通じて、紆余曲折しつつも少しずつ文明 がより善なる方向に発展してきたのが、人間の歴史である と私は考えています。 私は、お釈迦様やイエス・キリストに感謝しています。 お釈迦様やイエス・キリストが人間の正しい生について 多くの業績を残してくれたお陰で、後の世の人間がその 教えを参考にして倫理・道徳を発展させ、その発展した 倫理・道徳観に基づいて法体系を整え、それによって多く の国民がより平和で安全な社会生活を営めるようになっ たのですから。 しかしながら、chihokoさんが指摘しているように、一般 の人間を通して普遍的な真実や美を感じることはあまり ありません。 人と自然にある程度の共通性があるとしても、人間から そういう要素をあまり感じられないのはなぜか。 私の考えとして人間は発生まもない時点で、本来の姿を 見失ったのではないかと考えています。 そして、殺戮と搾取が横行する無秩序で放縦な世界を 築いてしまったのではないでしょうか。 そして長い歴史を通じて、少しずつ本来の人間の姿に戻ろ うと模索しつつ前進してきたのが、人類の歴史ではないか と思います。

chihoko
質問者

お礼

●あなたがおっしゃりたいことは とてもよく わたしには分かります。  ただ わたしが言いたいことが あなたにはご理解いただけていないようです。  すこし切り口を変えて もういちどお話しましょう。  例えば言葉 言葉とは人類数百万年の歴史において築かれたミームであり  小説家が その言葉自体を創造しているわけではありません。  小説から派生する世界とは 正にその森羅万象を指すのです。  ダヴィンチのモナリザの表情は その表情から何かを感じれる 見る側の  センシビリティが必要なわけで それは 正に40億年を経て  命が獲得した財産なのです。表情から相手の考えや感情を察知する  センシビリティが発達したからこそ 弱肉強食の生存競争に  勝ち抜いて現在があるわけなのです。  クリエーターという観点で評価するとしても クリエイトできている部分は  ごくごく微細なぶぶんであり そこに提示されているもののほとんどは  既にあるものなのです。だから 漱石も山下清も差がありませんよと  言っているわけです。  この宇宙を創造した者が 居ると仮定しましょう。  仮にその者を神としましょう。  あなたは なにを指して この世の妙を 感じているのでしょうか?  宇宙は無機的な 命のない星星のほうが はるかに多いのです。  人間に妙を感じるのでしょうか?  恐竜たちは なぜ絶滅しなければ ならなかったのでしょうか?  共食いをしなくなったのはつい最近で たとえば2000年。(事実はいまもある)  それ以前の39億9999万8千年の間は 何のためにそんな殺戮が  用意されたのでしょう?  神が創造者なら なぜそんな残酷なことを 続けたのか是非聞きたい。  創造者がいなかったからこそ それだけの時間が必要だったと考えるのが  まともな発想だと思いませんか? >人と自然にある程度の共通性があるとしても、人間から  そういう要素をあまり感じられないのはなぜか。  ●それは 人間がミームによって コントロールされているからです。  自然は40億年という時間によって淘汰された摂理によって  コントロールされている。ミームの歴史はたかだか二百万年です。  しかも 実際に環境を破壊しはじめたのは 弥生時代からだと  言われています。つまり2300年くらい前からが 問題おおありなのです。  だからそれ以降に釈迦とかキリストが現れるのです。  搾取と富の集束が 顕著になり 自然を破壊する姿をみれば  だれでも 人間の生き方について考えたくなるものです。  それがファッション性を持ち 伝播していくさまは まさにミームの特質  なのです。ミームは これから淘汰されるのです。  そして長い長い何月を経て 美しさを手に入れることとなるでしょう。  もういちど申しましょう。人間のやることが 美しくないのは  ミームによってコントロールされているからです。  サグラダファミリアが美しいのは 自然を模倣しているからです。  日本の住宅がおおむね醜いのは   適当にミームでやっつけ仕事をしてるからです。  ご回答ありがとうございました。

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noname#155689
noname#155689
回答No.7

まじレスします。 >みなさんの哲学する視点は「どこ」の高さにありますか? このロジックで哲学をすすめていくと フッサールと同じ道を辿ると考えます。 もしそうなら、この質問は100年前に行き詰まっています。 >いまこそ リメンバー カンブリア紀なのです。 フッサールが行き詰まって困った哲学の一部は カルチャル・スタディーズに逃げ込み 単なるフィールドワーク化していきます。 さらにその一部はニュー・エイジに走るものの 思考の浅さゆえに哲学的に行き詰まり 中にはガイヤ説などを主張するなどトンデモ化します。 chihokoさんの哲学はこのスレッドだけで判断すれば ニューエイジ系の文脈にありますから これまた20年前に行き詰まったモンであり このまま討議をシリアスにすればするほど 八方が塞がっていくものと思います。 私の回答は「この質問は成立しません」なのですが 私は質問意図を誤解していますでしょうか? >いや 一歩すすんで越えてしまおう! その場合、もう少しシャープな とっかかりが欲しいと思います。

chihoko
質問者

お礼

●フッサールがどのように哲学という視点を高きに導こうとして  どこで行き詰まったのか?  その感覚はだれの感覚なのか?  具体的に提示していただければ  わたしが 簡単にその壁を乗り越えてご覧にいれましょう。  過去の哲学者は クサルホドいて 学ぶ気がしません。  学んでる三流教授と話してても 刺激がありません。  是非 フッサールが行き詰まったという地平を  具体的に提示してください。  ご回答ありがとうございました。

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  • cse_ri2
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回答No.6

>創造したものは すべてクリエーターから出ているもの >などひとつもない。と断言できます。 作家の作品には、作家の個性が反映されていませんか。 夏目漱石の小説と森鴎外の小説には、明らかに作風の 違いがあります。 クリエータの内面から出たものが、作品として結実して いると言えなくはありせんか。 この反証一つで、chihokoさんの意見は成立しないと 私は思いますが。 しかしながらその一方で、作者の個性や意図を越え、 普遍的な美や真実を作品から感じ取ることもあります。 chihokoさんは山下清氏を例に挙げていますが、彼の 作品からは彼以上の何かが感じられることは、私も 理解できます。 では、作者の個性や意図を越え、普遍的に感じる美や 真実はどこからくるのでしょうか。これについての chihokoさんの意見はどうですか。

chihoko
質問者

お礼

●夏目漱石は わたしのだいすきな作家のひとりです。  漱石の作品を だれが一番理解できているかは 理解できているひとが  理解できているとするのが 正しいです。  小説とは 物語を通してなにかを表現するものですが  作家は小説を記述できたとしても そのすべてを顕在意識で把握できている  わけではありません。ましてやその小説から派生するさまざまな世界を  すべて掌握できるものでもありません。  作家にそれぞれの個性があるのは 作品が作家の人格の反射であるところに  由来しています。でも 人格そのものではありません。 >では、作者の個性や意図を越え、普遍的に感じる美や  真実はどこからくるのでしょうか。  ●人間が創造したもので 普遍性を感じるものは ほとんどありませんが  それでも ときどき微かな光明を感じる時があります。  自然のありのままの姿には その光明を絶え間なく感じているわけで  人間の創造物にその微かな光明を感じるときは 創造主うんぬんより  受け手の自分のなかの何かと対象のなかの何かが 共鳴のような現象を起こし  そこに自然のなかに既にある摂理のような普遍性を垣間見るからでは  ないでしょうか?つまり分かりやすく言うと創造物のなかに自然との  繋がりをみる という感じだと思います。  漱石であれ鴎外であれ ダヴィンチであれ  クリエーターとしてみるならば 山下清となんら変わらないわけで  自然界の妙を もし だれかが創造し得たとするならば  はたして これほどの多様性と匠の世界を その時点で想像できたかどうかは  まゆつばものです。なぜなら150億年という時間が全ての事象に  かかわって複雑化しているからです。  アロサウルスの完全な化石には 60箇所の骨折が見つかったそうです。  60箇所も骨を折りながらも 生きたのです。  生きるとはかくも凄絶なものなのです。  この無数のドラマをも創造主が書き続けているとは とても思えないのです。  無数の共食いと 無数のレイプの果てに わたしたちが居るわけです。  ちょっとカッコツケしたのは ほんの数千年前からなのです。  釈迦・キリスト以前のドラマを もっともっと 知るべきです。  命の全体像は そうしてはじめて見えてくるものです。  例えば稲作で どれだけの種が絶滅したことか  人間の浅知恵です。ましてやバイオテクノロジーなんて  どれほどの種を絶やしてしまうのか 空恐ろしくなります。  いまこそ リメンバー カンブリア紀なのです。  多様性を指向する文化のベクトルを立ち上げる時なのです。  そのためにこそ 創造主がすべてを知っているなどという料簡が狭い  発想は 正すべきです。  地球の新カンブリア紀のために・・・。

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  • cse_ri2
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回答No.5

>越えまい越えまいとするから まともに哲学できない。 >越えていいじゃないか。 >いや 一歩すすんで越えてしまおう! いや、越えるのはいいんですけどね。 ご自分の意見を発表したいならば、別に場所があるんじゃ ないんですか。 本を書くとか、ホームページを立ち上げるとか。 それか、専用の掲示板サイトで発言するとか。 (2chなんて、かなり自由度高いですよ) ここはQ&Aサイトであって、自分の意見を発表する場で はないでしょう。(回答する時は別ですが) 教えてgoo!にしろOKWebにしろ、他人が作ったシステムを 利用しているのですから、利用者はそこのルールを守るの は当然かと思いますが。 >みなさんの哲学する視点は「どこ」の高さにあります >か? あえて言うなら「真理」でしょうか。 未だ絶対的な真理がこうだと言葉では表現できませんが、 宇宙と人生を貫く法則について、自分で理解している範囲 で照らし合わせて、「真偽」「善悪」を判別し、意見を 述べています。 >また もっとも高い視点とは あらゆるものを俯瞰 >できる視線 それは  いったい「どこ」だとお考えです >か?ご意見教えてください。 クリエータの視点でしょう。 小説にしても絵画にしても、作った人が作品のことを一番 理解しています。 この宇宙の創造主の存在がいるとしたら、この世界すべて のことは、作った存在が一番わかっているのではないですか。 人間はこの地球上でもっとも高度な存在であることには 違いないでしょうが、人間自身はこの世界の創造者では ない。この世界の一存在、被造物にすぎない。 人間の視点で物事をどんなに考えても、この世界の叡智に たどり着くことは不可能でしょう。 私もエラソーにあれこれ述べていますが、絶対的真理が 何かをまだわかっていませんし、完全な知に至っていない ことを知っています。 哲学とは「無知の知」を自覚することから始まるのでは ないでしょうか。

chihoko
質問者

お礼

●わたしは クリエーターのはしくれですから。  ひとこと言わせてもらいますと。  創造したものは すべてクリエーターから出ているものなど  ひとつもない。と断言できます。  創造主が一番わかっているとするのは 安易です。  わかっている人間が 何に寄らずわかっているものです。  山下清が 自分の作品の凄さをどれほど理解しているでしょう。  すぐれた クリエーターほど コンセププトを越えたところから  発想できるものです。コンセプトに頼るようでは まだまだです。  あなたの助言はあまりにも わたしには ゆるい!  ジョークにもなりません。  ご回答ありがとうございました。

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  • _hiroya_
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回答No.4

「赤ちゃんは何でも知っている」って番組があるらしいぞ(笑。 無までは簡単に行き着く。そうだよ。 んで戻ってこないと(笑。なんか、ほんまに行き着いたのかよって感じだからな。 無いと否いとか、間違ってるような気がしてならん。 行き着くというか、すでに行ってるという意味をわかってないやん。って思う。 >無では考える事もできない。 なんで考えなきゃならんの?ってかんじだからな(笑。できないとしないは同じ。 無だったら前に進めないって思ってない?それでどうすんだ!?とか。 今ある世界、川蝉とか、なんでもいいけど、全て無だってことわかってんのか? あるもの、あらゆるものすべて無だぜ?マジわかってんのかよ。心配なってきたわ。いまさら(笑。なんか非常に引っかかるんだよな。 >釈迦やキリストを越える 救世主が。  なんかワクワクするなあ。未来の救世主「赤ちゃん」に乾杯!  (お酒は二十歳を過ぎてから・・・。)←削除されないように気をつかいました。    返事になんかチェック入るようなことゆったん?(笑。お酒は二十歳をすぎてから、、うそつけ(笑。 削除って事は、描かれた詩は俺はもう読めないわけか。何かいてたんだろ。ま、詩なんて読み返す事を考えてかかんが。  釈迦だろうが、イエスだろうが、血だらけのバブバブだろうが、なんとかの神だろうが、サイバーバブバブだろうが何でもいいんだけどな(笑。 こえるっていうと、なんかハードルがあるみたいだろ?山とか。 俺は違うと思う。ハードルを無視。イエス無視。釈迦無視。バブバブ無視。 それぐらいで行ってほしいな。空を飛ぶくらいの勢いでな。超えたというなら。 無に近いからなんだってんだ。それも無だよ。だから、無なんて語る意味ないって思うかもしれないが、無に近いっていうけど、無っていう所、場所があるんじゃないよ。   なんか、宗教とかの有名人とか嫌いなの?ずいぶんこう、あっちいきな!しっし!ってかんじやん。いっつも。 差別を生むものを差別視してたらなんも進歩しないよ。 結局差別してんだから。誰が差別生んでるのかってことだ。じぶんだろ。 別に、釈迦やイエスの思想がもたらしたって言うのは詐欺だぜ。環境とか、人のせいにするなら超えてないってことだ。 >勝負はどれだけ ニュートラルな 環境でそだてられるかってことに  なりそうですね。いよいよ アラワレルゾー!   別に勝負してねぇ。ニュートラルな環境ってなに?俺らへのあてつけか?(笑。うそうそ。育った環境なんて、もういまさら気にしてないから。ようは、育つかってことだ。 環境に、未熟な大人がいっぱいいる。赤ちゃんは何でも知っている。 みんな救世主とか言われる赤たん時代があったのにな。びしっと反省してほしいぜ。 赤たんは、スイッチONって感じなんだけど?俺的には。 >だからこそ 赤ちゃんへの接し方は 大切なんですよ。  へたな ワクをはめちゃいけません。   へたに考えるなって事だろ?大丈夫だよ。わくねぇ。わくについてがたがた言う時代は一週間前くらいに完全に終わった(笑。もう枠なんてねぇってことにみんな気付いたっていうか、行き届いた。粋だねぇ! >全てのものを俯瞰できる視点は 赤ちゃんだったんですよ。  至高の哲学者は 赤ちゃんだったんですよ。   そうか?(笑。視点とか、視線とか、そういう見方が嫌いだから、俺。 至高の哲学者なんてなんでもいいよ。それは所詮哲学者だ。超えてない。 それを至高と呼ぶにはな。ま、いいけど。赤ちゃんねぇ。こいつ動物やんって思っちまいそう。人間的というよりも、動物的。原始的。原初の輝きというのも素晴らしいが、生まれたてのものが原始的とは俺は思えんな。むしろ新しい。ただ、至高かどうかはなんとも言えんわ(笑。動物は人間を超えているか?そんな文章成り立たんわ(笑。 俯瞰←これよめないんだけどなんて意味?   >だから 親は赤ちゃんから多くを学ぶんですね。 これを聞いて虚しいと思うのは俺だからだろうな。 心残りはNO.3で三人目がオチもなく回答を出しちまった事だ(笑。 ___________ ↑赤たんってきもいからやめろ。 救世主な。救世術があるし、世界救われまくりやん(笑。 術をわくというのはやめてや(笑。

chihoko
質問者

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●わたしが 常に大切にしていることは  どれだけ 次にいけてるかってことなんです。  それがなければ 書き込みもしません。  いくらひまつぶしでも 次にいけない時間なら  そとの景色をながめているほうが ましです。  赤ちゃんを至高の哲学者と見る 発想はたぶんあたらしいです。  ご回答ありがとうございました。

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  • _hiroya_
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回答No.3

ひさぶりだな。ウルトラマンは星に帰らないといけない(笑。なかなか面白かったよ。 あのスレッド消されたの?なんで?なにをかいたんだ(笑。俺なんてかいたっけ?なんかかいたと思うけど。管理人さんはがんばってるし、気、使ってくれるし、スレッドごと消されるなんて、どんな回答がでていたのか知りたいもんだ。 あ、詩ばっか描いたんだってよ(笑。移築されたんじゃないの?文学カテとかに。 >いや 一歩すすんで越えてしまおう! ねぇさん、ウルトラもそろそろだ(笑。言いたいことを言おう。他のgooをのぞいているひとにいってるつもりはない。他のhiroyaはどういうつもりでいってるのかしらんがな。 一歩進んでも超えれないよ。一歩引いても超えれない。一歩進んでもな、何処に進んでもな、高かろうが、低かろうが、そこにはじぶんという場所がある。それを超えるという意味がわかるか? 超えていいじゃないか。哲学を。超えていいじゃないか。カテゴリを。哲学の上をいくとか、そんなんじゃ超えれないよ。 >みなさんの哲学する視点は「どこ」の高さにありますか?  また もっとも高い視点とは あらゆるものを俯瞰できる視線 それは  いったい「どこ」だとお考えですか?ご意見教えてください。   視点の深さ。視点の高さ、視野の広さ、なんでもいいよ。 ご意見教えてくれなんてらしくねぇまねを(笑。 本質に立つということかな。無理やりこういう形の言葉にすればな。ことばっつっても色々あるから。 それよりあらゆるもってなんだよ?あらゆるもの。不思議な言葉を使う人だ。 ちょっとでいいよ。おれはな(笑。  >いとも簡単に既製の概念やモラルや  倫理や規範を超えてしまうのだなぁ・・・と。 ま、超えたというより、そういう「ある場所」でめぐる思考じゃないから。 場所を生む思考というかな。哲学は歩くのではなく、歩く場所を生むってことかな。創造的思考というかな。chihokoさんってさぁ、ま、いいわ。 ____________________ うおっ。上の奴最悪じゃねぇか(笑。ま、いいやの続き言えよ!(笑 わるいな。ピコンピコン早くしたのは俺だ。 >それはいったい「どこ」だとお考えですか?ご意見教えてください。  自分の本質。世界の本質。おなじ場所だよ。ばしょってゆうか、何処にも行かないってゆうか、そんなとこだよ。これみて、俺らの言うことわかるんだったら、越えてるよ。  ちほこさんってさ、ま、いいや(笑。 _______________________ サイアクやぁ~(爆。↑こいつらサイアクやぁ~(ぞぞ。 しかもなんかやたらえらそうやし(笑。 >もっとも高い視点とは あらゆるものを俯瞰できる視線  人のことがわかるって人が、そういう視線を持ってんだろ。最も低い視線よりも低く、最も高い視線より高く、無理やり言うと、これが越えるって事やとおもうわ。 大げさそうやけど、な、かんたんなこった。 見て見ぬフリをするってこと。うそ(笑。 見て見る。ってのは、充血して血走って、えぐいイメージ。    透明をみるこころ。←これだよ。    

chihoko
質問者

お礼

●いろいろ 考えてくれたみたいで ありがとうございます。  おっしゃりたいことは よくわかりました。  わたしも考えたんですよ。  簡単に「無」までは たどり着くんですが。  無では 考えることもできませんよね。  地球外の視点だと 地球のことや 人間の肉体のことなんかが  見えてこない。それでですよ もっとも無に近い人間とは何ぞや?なわけです。  あったんですよ それが・・・。それは何かといいますと。  「赤ちゃん」です。  全てのものを俯瞰できる視点は 赤ちゃんだったんですよ。  至高の哲学者は 赤ちゃんだったんですよ。  だから 親は赤ちゃんから多くを学ぶんですね。  だからこそ 赤ちゃんへの接し方は 大切なんですよ。  へたな ワクをはめちゃいけません。  勝負はどれだけ ニュートラルな 環境でそだてられるかってことに  なりそうですね。いよいよ アラワレルゾー!  釈迦やキリストを越える 救世主が。  なんかワクワクするなあ。未来の救世主「赤ちゃん」に乾杯!  (お酒は二十歳を過ぎてから・・・。)←削除されないように気をつかいました。

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回答No.2

青い鳥です。鳥を捜し求めて森の中を彷徨いつづる。あれ?あの見た青い鳥って、鳥だったのかなぁ....。青い鳥ってホントにいるんだろうか?みまちがい?勘違い?思い過ごし?あれ?なにを探していたんだろう?なにを追い求めてここまできたんだろう?うん。帰ろう、帰ろう、帰らなくっちゃ。もといた場所に....。 遠くばかりをいつも見ていた。遠くに思いをはせれば、遠くにいけば、求めているもの、探しているもの、なくしたものみつけられるって.....。 でも、どうもそうじゃないようだ。探しものは、すぐ近く、すぐそば、そっ、一番近いところに見てるようで、探したようで、みつけれないとあきらめてた場所。なんてことはない、ここにあったんだ。青い鳥、青い鳥はいるよ。 耳を澄まして、ほらねぇ、鳥の声、いま聴こえなかった? キョロキョロ、あたり見渡してもみつかんないよ。 そそ、もう一度、耳を澄まして聴いてみよ、聴こえてくれば素敵だね! 青い鳥はあなたのこころの中で、きっと、いつも優しい歌声をさえずってる。 青い鳥を飛ばそっ、こころの中を大空に見立てて 気持ちいいよ、 大空高く飛び立たせよう あなたのこころの中の青い鳥を 大空高くさえずろう あなたの耳に届くように 青い鳥はいるよ、あなたのこころのなかに 青い鳥はいるよ、わたしのこころのなかにも 謳いあげよう、奏でよう、きっと、素敵だよ 夢をメロディ-にのせて、いまを楽しく ラララララ~♪

chihoko
質問者

お礼

●青い鳥とは カワセミです。  島田忠が その虜になってしまった あのカワセミです。  美しい その色 姿 スピード 生き方 すべてが美しい。  カワセミは たぶん鳥類の頂点に君臨する鳥のひとつです。  いやいや 生命の頂点に君臨しているようにすら 感じます。  我家の庭で そのカワセミが営巣してくれます。  そろそろ来る頃です。そういう意味で五月は わくわくします。  わたしと主人がサマーベッドをどんぐりの木の木陰に出して  お昼ねしていると 45分おきに チッピーと鳴いて いかにも  「見て見て!」と言わんばかりに 足元すれすれに わざと飛んでいくんです。  青い鳥(カワセミ)は ほんとうに幸せを運んで来ます。  地球の美しさをこころのそこから 感じさせてくれるのです。  ご回答ありがとうございました。

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     たたき台としては論点をひとつに絞ります。  近代人と中世人との対比ではなく 単純に《ふつうの人》をあつかっていた古代人の持った人間観を省みることが必要ではないか。  《単純に》というのは ひとの行動にかんする普遍性を問い求めた倫理規範であるだけのオシエを打ち出しまた推し出してくる宗教を前提としないことが ひとつです。  もうひとつは ひとの扱うものごとの普遍性を問い求めた科学語を打ち出した普遍教とも言うべき諸科学をやはり〔不可変的なものとしては〕前提としないことです。  科学的知識はこれを前提とするのですが それだけを《普遍教》としてのように前提することからは自由でなくてはいけない。  言いかえると この人間観をめぐって哲学は 科学をどのように取り扱うかを問い求め続けるのですし もうひとつに 倫理規範をとうとぶのはよいとして しかしながらこのやはり人倫にかかわる科学的普遍教とも言うべき厄介な心的社会的現象――シュウキョウ――を そのまま無批判に振りかざすことから自由でなくてはいけない。  かんたんにこの一点です。同じ主題に広いかたちにおいても属することがらについては ご回答を得て互いにさらに問い求めて行きたい。こう考えます。  もう少し別様の説明としてのべます。:  ひとがしゃべる言葉には ふつうに社会の中に生活するときの《人間語》があります。そのひとつの特徴としては《あやまちうる》という性格があります。  そしてほかには そこから一般性や普遍的な要素を抽象して そこに得られた概念 これをしばしば概念だけの操作として推し進めて得た《普遍語》があります。これは 一般的な議論に耐えうるようにと 《あやまち得ざる》ことを目指して知性が持ち得た言葉です。  すなわち――すでに触れたところによれば―― 普遍語は 倫理規範となる人格語とそしてものごとの本質を問い求める科学語とのふたつです。  これを名づけるとすれば:   あやまちうるスサノヲ( S )人間語   あやまち得ないアマテラス( A )普遍語(人格語および科学語)  となると思います。  ですから おそらく歴史をつうじてふつうにわれわれの問い求める人間観は:   《 S 人間語 - A 人格語&科学語》のしかるべき構造的な複合  が ふさわしい。こうなると考えられます。  このような人間観をめぐって これからの哲学は いとなまれて行くと考えるのですが それについて問うものです。  西欧の哲学は しばしば《 S - A 連関》の全体を扱わないクセがある。  普遍 A 語の世界のみを――倫理にしても自然や社会についてにしても――理論的に体系的に描こうとするクセ。    あるいは 《 S 人間語の世界――スサノヲ市民社会――》について探究するにしても すべからく《 A 普遍人格語かつ科学語》をそのドロドロともした生きた人間社会に あたかもメスを入れるかのごとく 当てはめてしまうだけに終わろうとするクセ。  忌憚なきご見解をどうぞ。

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    悲しみに染まる涙よりも、熱き男の心の愛に喜びの涙を流せ。 実在する仮面ライダー。 ドリル番長だ。 今回は無差別ドリルだ。 オカマの皆さん。 失ってしまった処女に涙する必要はない。 処女性の倫理の源流は、旧約聖書の部族社会の地方色丸出しの規範であり、そのシンボルとして新約聖書のマリアさんに象徴される。 聖書は外国で神学の教科書として活用されているが、神についてはなにも語っていないも同然なのが定説だ。 処女は信仰の対象となる神学ではなく、古い部族社会で同一の宗教を形成するための条件として定義されているだけだ。 道徳であり風俗だ。 神学ではない。 ところで知っているかね。 仏教関連の古文書研究によると、お釈迦様の生きた時代は処女より美女が尊敬されていた。 その美女は娼婦になることで社会に認められ尊敬を集めた。 日本でもゲイシャガールなる高級娼婦は歌って踊るだけでもてはやされたりしたよね。 そのおおらかな社会が本来であり、明治期以降西洋から持ち込まれた、禁止事項にまみれた戒律という考え方から、君達は今、自らを悲しむのだ。 私が君達を慈しもう。 美しいよ。 この美女である事が愛を交す条件だ。 西洋から持ち込まれた医学的見解で君たちの身体的処女は回復しなくても、精神の処女性は私が与えよう。 愛しているよ。 美しき者よ。 さて、質問を投稿するとHPトップページに掲載されます。 そこから間違ってこの魔窟に迷い込む人のための忠告をしておきましょう。 哲学カテゴリーは男同士が男を磨く闘技場で、男らしさで負けた挑戦者は「ひどいわ、私女の子なのよ、やさしくして」このように見え透いたV字開脚をするオカマバーでもあります。 別名クラブヴァルハラです。 このような場でオカマの皆さんに興味深々だからこの様な質問を立ち上げました。 哲学に取り組むことは命題に取り組む事ですが、自ら命題を策案することも哲学です。 趣旨は結構まじめでして、聖書の神学としての意義、処女性と関連して、明治期以降の道徳はそれ以前のおおらかな信仰心による処女性を信奉しない考えとどの位変わるかとか、まあ思うところを哲学してください。 オカマバーの名物である、オカマの皆さんとの痴話げんかもショープレイとして有効です。

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  • 宗教的視点と哲学的思考

    薬を飲んでも治らないなら、うつ病の原因は心理的なものだと考えるのは妥当な考えだと思われないでしょうか。 ある日突然うつ病になったわけではなく、心理的なストレスと不安の蓄積が今のうつ病と診断されるにいたる経緯ではないでしょうか。 学者の言う脳内のセロトニンがどうのと言うのは結果論であって、始めは心理的な要因だったはずです。 ですから、薬でストレスや不安をどうにかしようというのは極限状態にある人に対しては良しとしても、通常の治療方法として正しいとは思えません。 うつ病の原因は自分自身に対する無理解と思います。 同じストレスを感じても人によってその受け止め方が違います。 受け止め方が下手な人がうつ病患者には多いだろうと思います。 極端に自分をのは正しい思考とは言えません。 そういう自分自身の思考を自覚し修正する作業が必要なのではないでしょうか。 これはうつ病に限らず、どんな人にも言えることです。 自分自身を理解するために必要な道具が宗教と哲学だと思います。 宗教的視点と哲学的思考が生きる上でどんな人にも必要なのではないでしょうか。 古い手法ではありますが、今のところ宗教的と哲学的がうつ病を治す唯一の方法だと思います。 宗教的視点と哲学的思考なんてうつ病患者には無理だという意見もあるでしょうが、 他人が治せる病気ではないのは明らかです。 自分を理解することに遅いは無いはずです。 皆さんはどう考えるでしょうか。

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    大リーグボールと消える魔球はどう違うのでしょうか。

このQ&Aのポイント
  • 純正インクブラックを使用しているにもかかわらず、印刷ができず困っています。何度も取り出しと差し込みを試しましたが、インクが検知されません。
  • お使いの環境はWindows11で、無線LANで接続されています。関連するソフト・アプリは特にありません。電話回線はIP電話です。
  • 純正インクブラックが検知されず、印刷ができないトラブルに直面しています。問題の原因を突き止めるために、取り出しと差し込みを繰り返し試しましたが解決しません。お使いの環境はWindows11で、無線LANで接続されています。関連するソフト・アプリはありません。電話回線はIP電話です。
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