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井戸端会議の中から 土俵もリングもスタヂアムも!

 かつて   ◆ 【Q:真面目な哲学の場はないものか】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5407931.html  という質問に次のように回答しました。まづはこれをたたき台とします。たたいてください。  そしてそれを議論の前提にし得れば さらにもう一点 問います。  ○ 日本という社会を基礎として誰もが自由に日本語で語り合う場を《井戸端会議》と言うとすれば――これを目指しているのですが―― でもそこから 日本の歴史と文化に根差した《土俵》という場を持つだけではなく よその人びとの場である《リングやスタヂアム》をも われわれ自分たちの場とせねばならないのではないか?   日本人の哲学の徒は 生活日本語をもちいてそれを基礎としてほかの国のリングにも上らねばなるまい。アヱーであってはならない。  これが 問いです。  さらにここで説明をおぎないますが 問うべきことは 《土俵としての井戸端会議だけに終わるようなウンドウは 麦のあいだに生えてくる毒麦ではないか?》 これです。哲学カテは 《仲良しクラブ》であればよいといった風潮をつくりあげるウゴキ これについて是非を問います。  言いかえると 真面目に哲学をまなび問い求めるのは ワールドカップのピッチに立つためである。また すでに立っているということでなくてはならない。もし 仲間内のあいだにちぢこまるようなウゴキがあるとすれば これは もってのほかではないか?  われわれは 世界の味を自由に受け容れしかもこれらを日本味にして来ている。けれども 哲学・思想そして宗教については 勉強はするものの・いえいえ きわめて勢力的に余すところなくというほど研究を伸ばして来てはいるものの 世界の料理を料ったほどには 消化して来ていない。訳語ひとつを取っても おぼつかない状態にさえある。  ですから このまま内向きのまま仲間内の《知識の見せびらかしをつうじての懇親会》のようなコミュニティーにしてよいわけがない。西欧につうじる者を西洋タコと言っているひまはない。――これを 緊急に問います。  ☆☆ (◆なる質問への回答No.6) ~~~~~~~~~~~~~  こんにちは。  哲学力と妨害対策 このふたつの側面があるでしょうね。しかもけっきょくは同じひとつの問題です。  ◆ 哲学などの迂遠な抽象論  ☆ のっけから何ですが これは必ずしも適切な見方ではありません。  ○ 哲学は生きることですよ。  ○ 生活です。生活態度が 思想です。事件もあれば悲しい嬉しい出来事もあったりで その過程をつらぬく境地を言います。  ○ 感性とこころと論理的な思考力などなどを含むでしょうが 境涯の問題が 哲学です。  ○ いかに抽象的な表現を用いたとしても 生活現実が哲学です。一般に西洋のそれは 日常のことばを用いて表現しているに過ぎないのですから。  ☆ という基礎としての対応力を互いに持っていないと 真面目だけではうまく進まないでしょうね。  つまりは むしろふつうに対話するというだけのことなのですけれど。それを 観念の世界をこそゆたかにするという行き方を採っている人びとがいますね。  外国の哲学思想を解説するけれども 現実の主題や課題について自分の見解をよう述べない場合。  論理学を覚えたけれども 実際にそれを使うことができない場合。  いかにも倫理的で道徳規範をたしなみこれこそが徳に満ちた高尚な教養であるという見てくれで固まった宗教家の場合。  いわゆるクリスチアニズムでは もはやその聖書の世界が 生活からはかけ離れてあたかもそこだけは治外法権を持った領域だと言わんばかりに 夢を見つづける場合。  ◆ 真面目に抽象論の質疑をしたい場合、どうすればいいんでしょうね?  ☆ 哲学とは似ても似つかないこれらのファッション哲学を見極める力を互いにつちかうようにすれば いいでしょう。  ● 自己顕示欲を満足させる  ☆ という言い方を自分とは違う人びとにだけ当てはめて言う人がいますが よほど何も見えていないのだと考えられます。自己表現が自己を顕示しないということがあるでしょうか。ファッション哲学は きわめて幼稚なお遊戯であるようです。  もうひとつに 境地も論理も情感もうそもほんともへったくれもない投稿をしてくる場合の妨害対策についてです。  いちばんよいのは それでも相手は相手もひとりの人間であり誰もが互いに対等だという姿勢で臨むことです。  対等であることをつらぬくと 表現を相手に合わせなければならなくなる場合が よくあります。  ◆ 不真面目な書き込みが多く  ☆ あれば それ相応に表現を合わせて応対することになります。  ところが これは マナー違反になりがちです。どうするか。    臨機応変 これに尽きます。相手に応じた――つまりは相手が撞いて来た鐘の鳴り具合いに応じた――返答を マナー違反すれすれになりつつ 送ってやることです。ここでは ほんとうはマナーなど気にせず できるだけ相手の撞き方に応じる道を外さず逸らさず 鳴り返してやりたいところです。――と言っても 規約違反の問題もあり むつかしいところです。  次善の策は 応答できませんとそのまま返すことです。非力ゆえ わたしには出来ませんと言って了解を求めます。  相手はすでにマナー違反をしていますから そのことを蔑んでやってもいいですし 怒ってやっても憎んでやってもいいですが 相手に対してその存在にかんしては われわれと同じ存在であり対等であることを守るのがよいでしょう。  つまり初めに書きましたように このような破廉恥な投稿を受けるということも 哲学人生のひとつの側面ですし そのような妨害対策も哲学の問題であるとは考えられます。  あとは強いてあげれば みんなの協力ですかね。  これは どうなんですかね。良し悪しだとも思われます。でも 応対できませんと返すときには ほかの人たちの協力があると よいでしょうね。わたしが相手をしましょうと申し出てくる人がいると いいでしょう。  おっしゃるように  ◆ 真面目な哲学の場はないものか  ☆ という問い求めは みなの願いであるようですが ひるがえってやはり 錯乱した文章を書いてくる投稿を受けるのも哲学の課題であると引き受けること これがいちばんの王道であり近道だと考えます。くさいものにふたをするだけではどうにもなりません。  どうでしょう。    投稿日時 - 2009-10-30  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

みんなの回答

回答No.16

こんばんはです。 草哲学をどのように定義するかなのでしょうが、 私の印象では  草哲学 ≒ 人世訓 or 処世術 です。 であるとしたら、草哲学を哲学と呼べるのか?という疑義が浮かんできます。 わたしは、狭義で哲学をとらえているのかもしれませんが・・・。 この点について、 いかがお考えですか?

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ○ 草哲学  ☆ も哲学の一種なのではないのですか?  ◇ 草哲学 ≒ 人世訓 or 処世術  ☆ なら 思想ですね。生活態度です。  哲学は その一つひとつの命題や考え方についてさらにその理論的な根拠をしっかりと構築しておくことをふくむのだと思います。  言いかえると 哲学の裏付けを得た思想であることもあり得ます。つまり 哲学の一種である。  どちらかと言えば 迂回生産としての裏庭での哲学作業だけにとどまっているよりは 表に出て生活態度として人生観なるかたちにおいてすでに生きているその哲学のほうが とうといとすら考えられます。  要するに 問題は 草哲学と講壇哲学とどちらがとうとばれるか? というその二者択一の姿勢が けっきょく問われるのだと考えます。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.10

哲学的対話を進めるのに、仲良し、お友達である必要はないが、諍いがあるようでは話にならないでしょう。 さて、ある道場でこんな話がありました。 その武道を修めるのに、その目的を健康維持のためにしている人もいれば、精神修養のためにしている人もいると。 哲学の場合にも同じく、それを遊び、趣味でやる人もいれば、生きがいにしている人もあるのではないか。 ただ人それぞれに哲学のポジションがあって、皆がそれを生きがいにせねばならないということはないでしょう。 同じように、哲学を生活と考える事も、一つであり、それが人々にとっての哲学の全てではないということです。 スポーツと同じです。同じサッカーでも、幼い頃から修練し、ワールドカップのピッチに立つ人々もいれば、草サッカーを大人になってもやっている人もいます。皆が皆ワールドカップのピッチに立つわけではないし、立ちたいわけでもない。 哲学も、国際的な哲学の議壇に立つ人々、哲学者や思想家もいれば、ネットで草哲学を展開する人々もいる。 無論、ネット上の哲学談義から、世界的に有名なりたいとか、世界レベルの哲学がしたいと望むことは不当ではないが、皆が皆そのようなことをしたいと思っているわけではない。この度の質問者が、そう思っているということです。 そして、そう思うことをバカにしたり逆に応援する人があったとしても、否定はされないでしょう。 つまりこの質問は、みんなで草野球を楽しんでいる中で、俺はワールドクラシックベースボールの日本代表になりたい、皆もそう思わないか、という呼びかけのようなものとして受け止められるのです。夢を抱くのは自由だし、楽しいことですが、皆がそれに賛同するかは別の話です。 また、ともすればこのようにも聞こえます。俺は相撲のチャンピオンになって、ボクシングでベルトを取る!と。これは不可能なことです。いくら古今東西の哲学に精通したいと言っても、自分ルールでは話を交わすことさえ難しいでしょう。 同じ言語ルールに基づいて、(平易な言葉であるか難解な言葉かはさておき、)その哲学を展開しなければ他者に理解されるところのものとはならないでしょう。ですから、外国語という意味ではなく、言葉、言語そのものをよく知るものが、よく哲学を展開できると言っても良いと思います。 質問者は、よく言葉、言語を理解されていますか?ともすれば自分語に執心してはいないでしょうか。 そこら辺が、注意ポイントかと思いました。 自分のスタイルを持つことや、アーティスティックに自己表現することと、自分ルールを押し通すことは違うでしょう。 この度の質問者に限ってそういうことがあると言っているのではありません。 ご参考まで。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 哲学的対話を進めるのに、仲良し、お友達である必要はないが、諍いがあるようでは話にならないでしょう。  ☆ そうでしょうか。わたしは 哲学は けんかであると思っています。  自己表現は とかく衝突しがちです。利害関係からというよりも やはり意志のおもむくところが違っている。そして そのような違いは もし同じ仕事をおこなっている場合であっても むしろ基本として歓迎すべきことだと考えます。  つまりそのぶつかり合いからこそ 仕事についての取り組み方がよく作られて行き互いに より良いものをかたちづくって行ける。  主観の中で形成した段階では 哲学はまだ幼児でしかありません。世の中の風にあたってほかの人たちの哲学と対立しぶつかり けんかをしてこそ一人前になる。のではないでしょうか?  ★ 諍い  ☆ の定義にもよりましょうが あたらしい内容の思想が出て来れば 当然のごとく足を引っ張られあたまを打たれ追い落としに遭います。けんかがないということほど 反哲学的なことはないと考えます。  ★ 哲学の場合にも同じく、それを遊び、趣味でやる人もいれば、生きがいにしている人もあるのではないか。  ☆ 違います。《哲学を――おそらくまなぶ〔だけであって そのあと自分から発信することは稀れであるような〕かたちにおいて――生きがいにしている》というのは 《あそびであり 趣味でやる》のと違わないのです。  ★ ただ人それぞれに哲学のポジションがあって、皆がそれを生きがいにせねばならないということはないでしょう。  ☆ 《趣味嗜好》の分野ないし問題は ここで扱っていません。まったくその人の自由です。  ★ 同じように、哲学を生活と考える事も、一つであり、それが人々にとっての哲学の全てではないということです。  ☆ いいえ。《生きること》が 哲学することだと言っています。《哲学》と言えば それしかありません。  その昔 武士がおのれの仕える殿さんに その施政のあり方についてマチガイであると言って諌めるとき 死を覚悟でおこないました。これが 生きること=哲学 の事例です。  このことに《のんき》であることは やがてそのことに自覚を持つにいたるでしょう。  けれども 趣味嗜好が哲学であるというのは 単なるファッションです。ファッションについても哲学は扱いますが  哲学するといういとなみにとってファッションは どうでもよいと捉えるものと思います。  ファッションの仕事をしている人は ファッションすることが哲学すること・すなわち生きること ではないのか?  一時的また局所部分的に有益であることにおいて生きることは その有益さをやがて捨てることを前提としてもいるからには 哲学することの主流にはならないでしょう。個々の部分的な思想が 哲学にとってきっかけになることはあるでしょう。  哲学は 生きることがその内容のすべてなのです。  ★ 皆が皆ワールドカップのピッチに立つわけではないし、立ちたいわけでもない。  ☆ その自由と 現に《ワールドカップのピッチに立つ人がいること》とは 両立します。  《生きること》なる内容は チャンピオンを目指すところにあります。目指す人びとの哲学する過程にまなぶことにあります。それ以外にはありません。あったら それは鎖国主義で外との交わりを閉ざした人間の生き方です。それも 自由ですが そこにはおそらく哲学はないでしょう。恣意性に立つ跌学がありましょう。  ★ 哲学も、国際的な哲学の議壇に立つ人々、哲学者や思想家もいれば、ネットで草哲学を展開する人々もいる。  ☆ いいですか。鎖国をひらいてあたらしい社会と時代を切り開いたのは 何を隠そう・笑おうが泣こうが  草莽の志士たちですよ。平社員たちです。  ★ 草哲学  ☆ のどこがまづいんですか? 井戸端会議のどこがいけないんですか?  ★ 国際的な哲学の講壇に立つ  ☆ ことのどこが 有効で有益な哲学だと決まっているのでしょう?  生きることであるなら 生きることに 社会の立ち位置の違いがあるわけないぢゃないですか?  ★ 自分のスタイルを持つことや、アーティスティックに自己表現することと、自分ルールを押し通すことは違うでしょう。  ☆ 自分のスタイルを持つことと ふるいお仕着せをもらって自分のスタイルにしていることとは 同じだと言っていませんか?

noname#214841
noname#214841
回答No.7

こんばんは。「お礼」「補足」、ありがたうございました。 >>名前は どういう意味ですか? 本名です。ギリシャ語に訳して縮めたら、とぼけた感じの音の響きになつたので、気に入つてゐます。bragelonneさんこそ、どんな意味なのですか。フランス語の「blaguer」ですか。 >>相手によれば――それに加えて情況が情況であるならば―― 結局は状況次第ですよね。その状況を冷静に考へられるかどうかが、ポイントでせうけれど。 >>相手があまりにもその心を乱しているときには >>まづはその心を全面的に受け容れるかたちで  >>いいよ いいんだよと言ってやらねばならないことがあります。 はい。 >>すでに初めから悪意を持ってこちらに近づいて来たという場合にさえ >>その相手に対して まづは かけて来た声にこちらは応じる。 はい。このQ&Aサイトの場合には、身体がおびやかされるわけでもなく、「悪意」を重く受け止める必要はないやうな気がします。一般社会でさうもいかないでせうけれど。 >>ところが・ですから その専門家がいない。のではないか? ネットの掲示板ですから、やむを得ません。最近、外国語カテゴリでは、大事な書類の翻訳依頼を拒否する動きがあります。(私が主導してゐるわけではありません。)人生を左右するかもしれない文書なのに、このサイトに質問を投稿する気がしれません。私よりはるかに「不真面目」です。本人がみづからを「真面目」だと思つてゐるだけに始末が悪い。 法律の場合は特にむづかしくなります。ほんの些細な状況の相違で、法の適用が変つてきますから。質問文に説明が的確に書いてあるとはかぎりません。それに、官報を読んでをらず、最新の情報についていけません。 >>質疑応答の場やそのあり方については...... >>このひとつの案件については もはや過去の問題であるとしたいものです。 さうですね。少なくとも運営側の非削除の姿勢を見れば一目瞭然です。 >>《井戸端会議》という位置づけは...... 回答番号5以前の内容は、このまへ、ねこさんが「内緒」で教へてくれたことを書いただけです。今回くらゐの議論でしたら、問題ないやうにおもひます。私のときは遠慮はいりません。 世界をめざす、といふのも、結構なことです。志は高いほうがよい。私は、文系の暢気者代表ですので、これまでの姿勢をつづけます。plapotaの名前の雰囲気が出てゐるでせう。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ 本名です。  ☆ ええっ? plapota ねえ。分っかんねえや。  ★ ギリシャ語に訳して縮めたら、とぼけた感じの音の響きになつたので、気に入つてゐます。bragelonneさんこそ、どんな意味なのですか。フランス語の「blaguer」ですか。  ☆ デュマ・ペールのダルタニャン三部作の第三部でしたか。《 Vicomte de Bragelonne 》からです。  わたしは歳を取ったので ダルタニャンの次の世代だという意味で用いたのですが わたし自身が この若き子爵ぶらじゅろんぬであるといったふうにも受け取られ得るかたちになってしまいました。またぶらじゅろんぬ子爵は 戦争に出て若死にします。何らいいことないのですが すでに ID として使い慣れていたときに気づいたので 変えられなくなっていました。  語源は どうなんですか? しらべたことがないのですが。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~    >>ところが・ですから その専門家がいない。のではないか?  ネットの掲示板ですから、やむを得ません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いえ。前もって 専門家にまなんでいるその結果として 質疑応答の場に書き込めばいいわけです。  ★ plapotaの名前の雰囲気が出てゐるでせう。  ☆ 出していいのかなぁ。ひらかわ とか ひろかわ さん?  ★ 私は、文系の暢気者代表ですので、これまでの姿勢をつづけます。  ☆ 《のんき》ということは 専門家であり得ないという意味は含みません。つまり 専門家であり得ます。  つまり   ★ 世界をめざす、といふのも、結構なことです。志は高いほうがよい。  ☆ の潜在可能性をやどします。  まとめ:  井戸端会議とも言うべきコミュニティーサイトとしての土壌ないし基盤の上に 世界舞台をも用意しつつあゆむ。

noname#214841
noname#214841
回答No.6

bragelonneさん、おはやうございます。 ねこさんの回答文のことをずつと考へてゐるのですが、やはり文系といふのは、のんきなところがあるのだらう、とおもひます。 私は、このサイトで法律関係の質問には、ほんとんど回答してゐません。こたへるのが怖いからです。責任を感じてしまひます。商売でもないのに、余計な責任を負ひたくありません。もちろん、発言は自由であつて、質問者がそれをどう利用するかは、回答者の責任ではない、といふのがこのサイトの方針ではありますけれど。

bragelonne
質問者

お礼

 お早うございます。ぷらぽたさん。(ちなみに 今頃ですが このお名前は どういう意味ですか? とんとピンと来ません)。ご回答をありがとうございます。  ★ ねこさんの回答文のことをずつと考へてゐるのですが、  ☆ と触れておられますので あらためて《さげすみ》問題についてのわたしの見解を省みます。  ☆☆(No.1お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~   あらためてまとめますと:  《さげすみ》なる行為は 劣っている。避けるに越したことはない。  ただし人は この劣等なおこないを避けるために生きているわけではない。  相手によれば――それに加えて情況が情況であるならば―― たとえハレンチな振る舞いをきっかけとしてはおこなってでも 相手とのあいだに人間としての信頼関係を築きつつ 当初の心にいだく目的を果たしたいと考える。というひとつの道も捨てきれない。  早い話として 蓮は水から陸に上がって花を咲かせるわけには行かない。無住処涅槃の 実践論として微妙なところであると考えます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 省みると言っておいてですが 考えるに まづこの内容でいまは動かないと思います。  あるいは No.5のやり取りで引き合いに出しましたパウロの方針が 人びと一般のものではないとしても やはりあり得るという見解です。  ▲ (パウロ:コリント前書 9:19) わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。  ☆ この道があり得る・捨てきれない。という見方です。  これは 人間がかかわるかぎりで 《待ったなし》の情況における相手の状態にかんがみれば あり得るし むしろ人は不可抗力を承けてのように そうすると思います。  相手の状態は いくら悲惨であると言っても 自分が蒔いた種によるのであってしかもそれが分かっている場合にも 相手があまりにもその心を乱しているときには まづはその心を全面的に受け容れるかたちで いいよ いいんだよと言ってやらねばならないことがあります。  それとあたかも同じように すでに初めから悪意を持ってこちらに近づいて来たという場合にさえその相手に対して まづは かけて来た声にこちらは応じる。  そして問題は 相手が自分の悪意に気づいていない場合・もしくは自分の悪意のことをこちらが分かっていないはずだと《自信に満ちている》場合 こういう場合には やむを得ずその悪意について――もし知らぬふりをしないとすれば――あたかも真似をしたように同じような態度を示し返す。   なぜなら アマテラス人格語〔のみ〕で応じるなら――つまり 知らぬ振りをする場合に似ているのですが―― そこで人間どうしの関係は すでによそよそしいものに成る。ことが往々にしてあるからです。  言いかえると 普遍人格語で応対する場合には あとは言わば《空中戦》になるだけだと思われます。つまりあるいは 水から上がって陸の上で蓮の花を咲かせる場合ではないかと考えられます。  つまりは その相手の悪意なる状態は そのまま依然として先送りすることになる。だけだと考えられるからです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・やはり文系といふのは、のんきなところがあるのだらう、とおもひます。  私は、このサイトで法律関係の質問には、ほんとんど回答してゐません。こたへるのが怖いからです。責任を感じてしまひます。商売でもないのに、余計な責任を負ひたくありません。・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たとえば   ☆☆ われわれは 世界の味を自由に受け容れしかもこれらを日本味にして来ている。  ☆ という場合には 《商売》ゆえに商道徳がはたらき責任を自覚する。しかるに このサイトでそこまでの専門家でない場合には 《お茶を濁す》ような一面をまぬかれない回答しか 一般に しないものだ。ということでしょうか?  だったら かんたんです。しかるべき専門家にまなび その見解をもって回答とすればよろしい。  ところが・ですから その専門家がいない。のではないか? という問題が 長いあいだ受け継がれて来ている。――どうするか? ではないでしょうか?  そしてこのことは まさしく哲学の問題です。

bragelonne
質問者

補足

 質疑応答の場やそのあり方についてはいろいろ問うて来ました。  一件落着したように思いますが その確認の意味でも ひとつの事例を掲げます。  【Q:哲学として 質疑応答のあり方について考える。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7249826.html  いくつかゴテゴテと取り上げていますが ひとつに    《議論目的のやり取りの禁止》や   《補足要求は ひとつの回答につき一つの案件のみだ〔という解釈〕》  をめぐっての解明です。はっきり言えば p さん〔の主張をめぐる〕問題です。  このひとつの案件については もはや過去の問題であるとしたいものです。  なお 《井戸端会議》という位置づけは 記憶にマチガイがなくわたしの参加以前の歴史を別とし得れば わたしの命名です。  その意味では あなたの《コミュニティサイト》と言うのと たぶん同じ趣旨でしょう。  井戸端会議を質問の表題とした事例はないようで やり取りの中で言ったもののようです。もう証拠を探しませんでしたが でも その位置づけに対して目の敵とする攻撃も見られるように わたしが言い出しっぺだと思います。

noname#214841
noname#214841
回答No.5

こんばんは。 >>初めから読み進むほどにそのつど反応してまいりますが それでこそbragelonneさんです。さうでなければ病気ではないかと心配します。 >>それは〔いや 降りたと言って去って行く自由を前提としつつ〕 >>《好き嫌いにかかわらず》相手の問いに答える。 社会では、無視といふ態度がしばしば見られます。しかし、質問をすれば回答がつく、回答したくなる質問がある、これがQ&Aサイトの当然の魅力です。 >>日本人のばあいにも 戦前戦中にいわゆる《皇国史観》は  >>歴史的事実に反するということを明らかにした学者がいます。 勇気があるものです。 >>ボエティウスは みづからの思想を生きて >>牢獄に閉じ込められ生を終えることになってしまった。 『哲学の慰め』の人ですね。音楽関係の本でもときどき見ます。 >>「お・も・て・な・し」。真面目に議論しませう。 >>と言われなければならないのは どちらでしょう? 私です。 >>(あ) 《やり取りの限界》は 必要なやり取りなら >>情報交換として重ねてよいという見解でないのですか? はい、さういふ意味で書きました。それが(形式的ではない実質的な)運営者の意図だと思ひます。 >>私としては、サイト参加者を減らしたくありません。 >>どうぞご自由に。そのことも 《人それぞれ》です。 ただし減らされることは困ります。たとへば佛教関連の質問に回答するのが、現在、実質的にねこさんひとりといふのは、異常です。 >>真実を語り、偽りは言わない。 真実を語ることと、他者を攻撃することは、違ひます。 >>わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、 私は、自分の楽しみ、そして勉強のために、このサイトを利用してゐます。でもそのためには、たくさんの参加者が必要です。自分のために、「兄弟たち、つまり肉による同胞のため」に行動することが必要だとおもひます。 >>ニーチェなどは 屁の河童だと見ています。 そんなはずはありません。ニーチェが書いてゐます。 「わたしは、ひとにわたしのことを悪く思わせる技術を、どうしても身につけることができなかった、悪く思われた方が大いにありがたい場合でも、そうはならなかった。」 『この人を見よ』手塚富雄訳 岩波文庫 26ページ

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~    >>初めから読み進むほどにそのつど反応してまいりますが  それでこそbragelonneさんです。さうでなければ病気ではないかと心配します。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 意味が読み取れません。あしからす。  ★ ・・・たとへば佛教関連の質問に回答するのが、現在、実質的にねこさんひとりといふのは、異常です。  ☆ ほかの質問には回答しているのではないですか? つまり 去ったわけではない。  ブディズム関連に回答しないというのは 回答とよべる見解を持たないと思ったからでしょう。勉強しないのが 《異常》です。  ★ 真実を語ることと、他者を攻撃することは、違ひます。  ☆ 《他者を攻撃しないこと》と《真実を語らずウソをつきお茶を濁しておくこと》とは 違います。    すなわち真実を語るのは 相手の見解に賛成するときも反論するときも まったく同じであるはずです。  ★ >>わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、  ☆ これは 《迫害する相手に対して のろうのではなく 祝福を祈る》行為の中に 《悪に悪を返す》という場合も入る。そしてそれは 《わがはらからのためである》という文脈で理解してください。  言いかえると もし《相手をのろうため》であったならば 相手の悪に対して悪で返すこともしないでしょう。  あたかもミラーニューロン現象を こちらも相手とあたかも同じように起こすという場合があると考えます。  ▲ (パウロ:コリント前書 9:19-23) ~~~~~~~~~~~~  19: わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。  20: ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。  21: また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。  22: 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。  23: 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ただし これは 応用部門のことですから 一概に決まっているわけではありません。それに誰もがこのように振る舞うかどうかも わたしには決まった考えがありません。《肉を食べる人もいれば 野菜しか食べない人もいる》からです。  ニーチェについてのご議論は よく分かりません。主観だけが書きなぐられています。  一般的に言っても 《わるく思う》というよりは 意味のない文章がつらなっているという評価です。

noname#214841
noname#214841
回答No.4

おはやうございます。回答番号3のplapotaです。bragelonneさんなら、もつと強烈な反論があると思つてゐたのですが、意外でした。この程度でしたら、適度な議論のやうに感じます。少し拍子抜けです。 http://questionbox.jp.msn.com/qa8614155.html 上記、回答番号3。職場では、コンピュータシステムが最低だ、近所の人に挨拶くらゐしろ、本社はバカの集まりだ、会長サマへのごますりしか能がないのか、とか好き勝手にやつてゐます。(「釈尊の成道」の質問のときに書いた会社です。)それも給料のうちだからさういふ態度をとつてゐるわけで、このサイトではまた別問題です。他の人に対しては状況を見て適切な態度をとつてくださることを望みますが、私はかういふことは嫌ひではありませんので、どうぞお相手をお願ひします。 >>つねに世界水準を横目に見ているという姿勢です。 このあたりの考へがよくわかりません。Q&Aサイトで出てくる知識は、ほとんどすべて「うけうり」です。哲学カテゴリの特殊性といふ点は、私も認識してゐるつもりです。でも、そんなに大げさなことを主張しなくても、とはおもひます。 >>お・も・て・な・しだけをしていてよいというものではありません。 「お・も・て・な・し」。真面目に議論しませう。 >>もしその《正論》の中身として >>《質問者は 回答に対してひとつの補足要求をすることが出来る》 >>というところまでが やり取りの限界だというのであれば >>これに対しては 反対します。 私も断固反対です。これこそQ&Aの本質に逆らふものだからです。最終解答を導き出すためなら何度でも投稿する、これは大切な姿勢です。管理者がこの規定によつて削除したことは一度もないのではないでせうか。私はしよつちゆう削除を受けますので、そのあたりのことは判ります。あとから、「便利なQ&A」として紹介するときに、1問1答になつてゐたほうが読みやすい、ただその程度の意味だと理解してゐます。または、無意味な議論を防止するためのひとつの手段でせう。 私が賛同するのは、サイト運営者の意図を考慮して利用すべきだ、といふ点です。(さきほどの「やり取りの限界」については、それこそが運営者の意図を無視することだと私はおもひます。) >>そのほうが 規約違反でしょう。 私の文章は規約違反だらけです。 >>この質疑応答の場から去って行った人がいる。 >>とするなら・そうだとしても それは人それぞれです。 私としては、サイト参加者を減らしたくありません。管理者の意図するところも、利用者の増加であるはずです。下記、回答番号7。 http://questionbox.jp.msn.com/qa8603870.html さう、「人それぞれです」。傷つきやすい人、心の余裕を失つた状態にある人、いろいろです。さういふ人を対象に攻撃しようとする人もゐます。ひとさまざまで、きりがありません。ですから、対応の仕方を身につけてほしいと望みます。私は自分のやり方を示すことしかできませんけれど。 「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」(ローマ人への手紙12章17,18節 新共同訳) >>哲学は 昔からいのちがけですよ。 このあたりが、理解できません。 >>ショッカーのあそびが見られることと >>そういうアソビの行き方がこのカテの中心であるはずだ >>もっとこの色に染めて行こうと主張する 主張はしてゐません。外国語カテゴリで最近大御所のかたがたがときどきボケをかますので、私の出番がなくなつてしまふことがあります。むしろ困つてゐます。(これはほんとうです。) ニーチェやプルタルコスのやりかたが間違つてゐるとは、私は思ひません。現代の哲学者でいへば、土屋賢二さんでせうか。

bragelonne
質問者

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。  初めから読み進むほどにそのつど反応してまいりますが:    ★ ・・・私はかういふことは嫌ひではありませんので、どうぞお相手をお願ひします。  ☆ 《正論》を言えば――つまりむろんほかのカテとは違って哲学カテとしてという意味をも含みますが―― もし情報交換としての質疑応答をつづけるのだとすれば それは〔いや 降りたと言って去って行く自由を前提としつつ〕《好き嫌いにかかわらず》相手の問いに答える。これです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~    >>つねに世界水準を横目に見ているという姿勢です。  このあたりの考へがよくわかりません。・・・(中略しました)・・・でも、そんなに大げさなことを主張しなくても、とはおもひます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この考えのみですよ。この質問の《核心的なつとめ》は。  日本人のばあいにも 戦前戦中にいわゆる《皇国史観》は 歴史的事実に反するということを明らかにした学者がいます。  その理由はじつは定かではないのですが ゴート王国のもとで宰相を務めたローマ人のボエティウスは みづからの思想を生きて 牢獄に閉じ込められ生を終えることになってしまった。  世界水準には遠く及ばない ゆえにそのような思想にとどまるおまえは首だという事例もあるかも知れませんが 世界水準のところで自己表現をするときには やはり足を引っ張り追い落としを図る向きも出て来ます。  つまり哲学は そういうことの繰り返しとしての歴史です。  その水準を横目に見るまでには到らないことは 仕方のないことです。けれども そういう哲学の伝統をないがしろにせよとか 考えがよく分からないとか言うことは これも 反駁されて当然でしょう。  ですから  ★ 「お・も・て・な・し」。真面目に議論しませう。  ☆ と言われなければならないのは どちらでしょう?  ★ ・・・〔* 前段があるところを省略しますが〕・・・私が賛同するのは、サイト運営者の意図を考慮して利用すべきだ、といふ点です。(さきほどの「やり取りの限界」については、それこそが運営者の意図を無視することだと私はおもひます。)  ☆ 特に括弧内の文意が分かりません。  (あ) 《やり取りの限界》は 必要なやり取りなら 情報交換として重ねてよいという見解でないのですか?  (い) はじめからおかしい参加者のアラシの場合を除けば たとえ何らかの理由で(特にはけんか両成敗のような理由で)削除になったとしても 《サイトの精神および方針を考慮して利用している》人ばかりですよ。  (う) 《削除》になっても あとで復活する場合もあります。すでにお知らせしています。  ★ 私としては、サイト参加者を減らしたくありません。  ☆ どうぞご自由に。そのことも 《人それぞれ》です。  ★ ですから、対応の仕方を身につけてほしいと望みます。私は自分のやり方を示すことしかできませんけれど。  ☆ そこまではまったく自由です。そういう発言をおこなうことまでは 問題ありません。《対応の仕方を これこれこういうふうに 身につけよ》と言うことも 自由です。そしてこれを無視するのも 自由です。  ▲ (ローマ書 12章 14節) あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。  ☆ このひとつの――ひとつのです――対処の仕方が  ▲ (同 12:17-18) だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。  ☆ に言うところの《悪に悪を返す》おこないです。  パウロを引き合いに出されたので こちらも出すのですが:  ▲ (同上 9章 1-3) ~~~~~~~~~~~~~~    1: わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。    わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、  2: わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。  3: わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、   キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  あとは すでにお応えしたところに含まれるか または よく分からないところです。ニーチェなどは 屁の河童だと見ています。

noname#214841
noname#214841
回答No.3

こんばんは。さきほど私の質問ページにsuさんから回答をいただき、まづ「理想」をいだくことについて書かれてゐました。先日も、おたまさんが哲学カテゴリがどうあるべきか質問してゐました。理想のQ&Aサイトは何か、くりかへし考へるべき主題です。宗教カテゴリ設置については私はさほど真剣に考へてゐたわけではありません。一般人の感覚なら、当然あつてしかるべきだらう、といふその程度のつもりで提起しただけです。みなさんあんなに真面目に回答してくださつて恐縮してゐます。 さて、哲学カテゴリの理想について、本題です。 >>よその人びとの場である《リングやスタヂアム》をも >>われわれ自分たちの場とせねばならないのではないか? ときどきpさんが書いてゐるのが、基本的に正論です。私の場合は、みすからの理想がありますので、現状の枠にとぢこめられることなく、理想の実現に向けて、サイト運営者との話しあひを今後もつづけてゆくつもりです。ただし、コミュニティーサイトのQ&Aであるといふ厳然たる構成は守ります。《リングやスタヂアム》といふのは、私の感覚では、その構成からはみだしてゐるやうに思へます。 >>日本人の哲学の徒は 生活日本語をもちいてそれを基礎として >>ほかの国のリングにも上らねばなるまい。 西洋を意識しすぎなのが問題ではないでせうか。 >>アヱーであってはならない。 《土俵》につれてくるのは、いかがでせうか。 >>哲学カテは 《仲良しクラブ》であればよいといった風潮を >>つくりあげるウゴキ これについて是非を問います。 私は、哲学カテゴリでは議論が必要だと考へます。しかし、あくまでもここは、コミュニティーサイトのQ&Aであることを忘れてはなりません。度を越した議論をすべきではありません。最終目的は、質問に答へることです。そのためには、多種多様な数多くの人材が必要です。私はYahooソフトバンクが嫌ひなので、知恵袋には負けたくありません。不毛な議論、または、過度に攻撃的な言葉によつて、貴重な人たちが失はれてゆくのを残念に思ひます。私には小学生の文通友だちが何人かゐるのですが、子供の手紙からでも、ときどきはつとさせられることがあります。私は、いまのところ、このサイトのすべての人を大切にしたいと思つてゐます。 なほ、宗教の質問に関して、ほとんど回答者がつかないのを私は心配してゐます。ここは学会ではないのですから、排除するやうな、または、排除されてしまふやうな行為をすべきではありません。 >>真面目に哲学をまなび問い求めるのは >>ワールドカップのピッチに立つためである。 このあたりもサイトの趣旨からはづれてゐるやうな気がします。ごめんなさい。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~    >>アヱーであってはならない。  《土俵》につれてくるのは、いかがでせうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そういうことです。この質問が目指していることは。それが出来たら 何の問題もないでしょう。  つねに世界水準を横目に見ているという姿勢です。  土俵に上がるだけではなくリングやスタヂアムにもすでに上がっているという姿勢 これです。このことだけを問うています。  ですから  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~   >>日本人の哲学の徒は 生活日本語をもちいてそれを基礎として   >>ほかの国のリングにも上らねばなるまい。  西洋を意識しすぎなのが問題ではないでせうか。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ という反論は 解せません。し過ぎる・し過ぎないとか どちらか一方に片寄るとか そういう問題は初めから脇に措いておいてあります。  ですから  ★ コミュニティーサイトのQ&Aであるといふ厳然たる構成  ☆ という主題は 問うていません。直接の関係もないと考えます。  直接に関係するとしたら いま言っているような世界水準としての姿勢に代えて コミュニティーサイトであれという見解をもって反論とする場合です。ですが これも この質問では 筋が違うという考えです。  というその意味は 《〈土俵〉につれてくる》としても ただただお・も・て・な・しだけをしていてよいというものではありません。その意味では コミュニティサイトであるだけではダメだという見解を ここでは帯びています。こういうカラミはあるのかどうなのか。ついでに触れてみました。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~   >>よその人びとの場である《リングやスタヂアム》をも   >>われわれ自分たちの場とせねばならないのではないか?  ときどきpさんが書いてゐるのが、基本的に正論です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ もしその《正論》の中身として《質問者は 回答に対してひとつの補足要求をすることが出来る》というところまでが やり取りの限界だというのであれば これに対しては 反対します。  規約の精神は 《情報交換》です。互いに理解しあえるところまでやり取りをしても 差し支えない。と考えます。  ちなみに pさんの趣旨は もし二つ以上の補足要求があれば 別の質問として問えというものですよ? それを説く意味はないと考えます。  ★ 度を越した議論をすべきではありません。  ☆ これは この質問の趣旨をめぐる議論をすり替えています。そんな一般論を持って来るのは ためにする議論です。そのほうが 規約違反でしょう。情報交換をするという趣旨とは違って ただただもう一方の主張としての《コミュニティサイトであること》を推し出そうとするために持ち出して来ている。こう見ます。  ★ 不毛な議論、または、過度に攻撃的な言葉によつて、貴重な人たちが失はれてゆくのを残念に思ひます。  ☆ これも 筋が違うように考えられます。なぜなら そのように第三者についてそれぞれの考えや意志を勝手に忖度して 議論を展開しているとしか受け取れないからです。  この質疑応答の場から去って行った人がいる。とするなら・そうだとしても それは人それぞれです。なんでその意志をほかの人間がこうだと決めつけて 自分の議論に利用するのでしょう?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~   >>真面目に哲学をまなび問い求めるのは   >>ワールドカップのピッチに立つためである。  このあたりもサイトの趣旨からはづれてゐるやうな気がします。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ それは おしゃべり広場とかいうカテに立った発言でしょう。哲学カテでは 通用しない。というのが この質問の問いです。  言いかえると この哲学カテを 茶飲み話の場としたいというコンタンからの発言であると考えます。もしそうなら 意味がないと断言します。  哲学は 昔からいのちがけですよ。  すなわち ショッカーのあそびが見られることと そういうアソビの行き方がこのカテの中心であるはずだ もっとこの色に染めて行こうと主張することとは あきらかに別です。前者には わたしは違うとか 放っておくとか 同じように遊ぶとか いろいろ対応がありうる。というのであって 後者には それは主張ですから 反対なら反対であるという声が上がっても ふつうのことです。

回答No.2

>《リングやスタヂアム》をもわれわれ自分たち >の場とせねばならないのではないか そう思われるならば、ご自分で開設されれば良い でしょう。 ここの開設者がQAサイトとして作られた場なので 継続的議論を禁止しているだけで、あなたが開設 するのを、禁ずる者はいません。 もし、ここの参加者でそのお考えに賛同する人が 多ければ、そちらに移って繁盛するでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  誤解です。  真意は:  哲学・思想また宗教については 日本人の生活の言葉に根差した内容のものが 世界水準のものとしては まだ成っていない。つまり 《土俵》にはすでに上がっていますが 世界の舞台としての《リングやスタヂアム》にはまだ上がっていないし 上がろうともしていない。  この質疑応答としての哲学カテにおいても 世界の舞台に上がる内容をすでにいま目指さねばならない。  このように言っています。場所の問題ではなく 中身の問題についてです。《リングやスタヂアム》と言ったので 誤解されたのだと思います。

回答No.1

こんにちは。 ☆ 相手はすでにマナー違反をしていますから そのことを蔑んでやってもいいですし 怒ってやっても憎んでやってもいいですが 相手に対してその存在にかんしては われわれと同じ存在であり対等であることを守るのがよいでしょう。 ◇蔑んではいけないのではないでしょうか。 あくまで礼儀正しく振る舞うべきだと考えます。 その行動によって、相手の至らなさを気づかせる、悟らせる。 相手が無礼だから、こっちも無礼になる必要はない、と思いますよ。 あくまで礼儀正しく、相手に敬意を払う(ように装う)。 ☆外国の哲学思想を解説するけれども 現実の主題や課題について自分の見解をよう述べない場合。 ◇これは文系の人たちが深く反省するべき事柄なのでしょうね。 なぜ、文系科学や思想・哲学などの分野において、世界に通用するものを作れないのか、世界に発信できるものを作れないのか、深く反省しなければならないのでしょう。 哲学を単なる知識・教養と考えているのか、 日本の哲学者や哲学研究者には、世界に通用するようなものを作ろうという意欲が、そもそも、欠落しているのか。 あるいは、 過去の哲学者や哲学書の研究を哲学と思っているのか。 文系人よ、常に世界を意識する理系研究者を、ちっとは見習いなさい!! 反省しなさい!! こうしたことを反省しないから、 「 言いかえると 真面目に哲学をまなび問い求めるのは ワールドカップのピッチに立つためである。また すでに立っているということでなくてはならない。もし 仲間内のあいだにちぢこまるようなウゴキがあるとすれば これは もってのほかではないか?」 などと言われるのであった。 ☆ われわれは 世界の味を自由に受け容れしかもこれらを日本味にして来ている。けれども 哲学・思想そして宗教については 勉強はするものの・いえいえ きわめて勢力的に余すところなくというほど研究を伸ばして来てはいるものの 世界の料理を料ったほどには 消化して来ていない。訳語ひとつを取っても おぼつかない状態にさえある。 ◇宗教の分野は世界に発信していると思うのですよ。 日本的味付けをされた仏教の中には、世界に通用するものがある。 現にしていますしね。 神道なんかも世界に通用する思想であり、宗教だと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ◇ 蔑んではいけないのではないでしょうか。  ☆ 《相手のマナー違反に対して 怒ったりその違反行為をしたということについて憎み さらにその低劣な行為をさげすむ》 これは  ◇ 無礼になる  ☆ という見方ですね。《礼儀正しい振る舞い》ではないと。  かつては 相手に合わせてけんか腰でわたしは応対していました。  相手の〔広く見て〕心にある疑いや敵対心に合わせて・つまりは その気持ちをミラーニューロンとして受け留めその敵愾心をもこちらが同じように表わし返していました。  こちらは鏡となって そこに相手の姿が映ったそのままを言葉で表わし返していました。  いまも おこなうことがあると思います。  この表わし返しは さげすむ行為であると考えます。  ただいまの結論としては このさげすむ行為の是非については 相手による。ということになるかと思っています。  なぜなら 大切なことは 必ずしも《礼儀正しい振る舞い》にあるのではなく   ◇ その行動によって、相手の至らなさを気づかせる、悟らせる。  ☆ ことでしょうから。  倫理的にしかるべき振る舞いというのは 一般にアマテラス普遍人格語によって練られた規範的な内容の示される行為であると考えられます。  そこで問題は この学問としてもお墨付きの与えられたと見られるアマテラス語倫理規範が あやまち得るスサノヲ人間語という生活基礎に立って振る舞われているかどうか。ではないでしょうか? 《ただしい》というより 人びとにとって納得できる中身であるといったことが 目指される。とは思います。  あらためてまとめますと:  《さげすみ》なる行為は 劣っている。避けるに越したことはない。  ただし人は この劣等なおこないを避けるために生きているわけではない。  相手によれば――それに加えて情況が情況であるならば―― たとえハレンチな振る舞いをきっかけとしてはおこなってでも 相手とのあいだに人間としての信頼関係を築きつつ 当初の心にいだく目的を果たしたいと考える。というひとつの道も捨てきれない。  早い話として 蓮は水から陸に上がって花を咲かせるわけには行かない。無住処涅槃の 実践論として微妙なところであると考えます。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~  哲学を単なる知識・教養と考えているのか、  日本の哲学者や哲学研究者には、世界に通用するようなものを作ろうという意欲が、そもそも、欠落しているのか。  あるいは、  過去の哲学者や哲学書の研究を哲学と思っているのか。  文系人よ、常に世界を意識する理系研究者を、ちっとは見習いなさい!!  反省しなさい!!  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ かつて 日本の経済学を経済学学だと言った人がいました。それに倣えば あるのは 哲学学のみである。と。(その広範囲ないとなみは 見上げたものではあるようです)。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  宗教の分野は世界に発信していると思うのですよ。  日本的味付けをされた仏教の中には、世界に通用するものがある。  現にしていますしね。  神道なんかも世界に通用する思想であり、宗教だと思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうなんですか? シントウについては 一向に聞きませんでした。情報不足なのかなぁ。  けれども 創価学会だとか幸福の科学だとか あとは 禅宗関係でしょうか。  《日本的味付けをされた仏教》なのでしょうが  ◇ 世界に通用するものがある。 / 現にしていますしね。  ☆ ですか? これも知りませんでした。つまり 禅は 結論――さとりの体得――を永遠に先延ばしすることにおいて成功しているのではないでしょうか?  あとは 大きくはカルトに分類されるのではないでしょうか?  あるいは  ○ 世界之光, 親鸞聖人   https://www.youtube.com/watch?v=JTmv_ch0qYs  などがありました。これは 中文版なようです。

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