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ユダ族のイエスがなぜナフタリの領地のナザレ人?

今日、ふと気がついたのですが、ユダ族のヨセフ、マリア、イエスが、なぜユダ族の領地から遠く離れたナフタリの領地のナザレに居住していたのでしょうか?戸籍の登録にベツレヘムに赴いていることから、彼らの本籍?がユダにあったのは分かるのですが、彼らの世襲の所有地はユダの中にはなかったのでしょうか?どういう経緯でイエスの家族が遠く離れたナザレに居住するようになったのかご存知の方がおられましたら教えてください。 ちなみに、恥ずかしながら今の今まで北の10部族の領地に住んでいた人たちがサマリア人、南の2部族の領地にすんでいた人がユダヤ人と理解していました。当時、すでにそれぞれの世襲所有地(ヨベルの関係で先祖の誰かが完全に売り飛ばすことは不可能だったはず。)は有名無実になっていて、どの部族に所属していようと、居住地はバラバラだったのでしょうか?

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  • kigurumi
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回答No.8

No.1.3.6です。 >「ナザレなどから偉人がでるか?」などと馬鹿にする記述があること >からすると田舎の小村だったのかもしれませんね(ヨハネ福音書1章 >にその記述があります http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%B6%E3%83%AC%E3%81%AE%E3%83%A8%E3%82%BB%E3%83%95 <ナザレのヨセフについて> 『ただし、旧約にナザレという地名はない。ヤコブが息子ヨセフに「ナザレ人(ナジル人:聖別された人)となるよう」死の床で伝えた(ヘブライ語創世記49:26)ことが成就するために、新約に至ってナザレに向かったのである(マタイ2:23)。』 つまり旧約通りにするための創作の疑いがあると思えません? 『労働者の守護聖人であり、大工であったヨセフの像はしばしば大工道具を手に持っていることがある。』   ↑ ピムという語彙は長い間、大工道具だと思われていたんですね。 ところがイエスが生きたとされた時代は大工道具ではなく、測量の単位がピムだったそうです。 誰なんでしょうね。ピムという語彙からヨセフの職業は大工だとしてしまった人って・・・ <ナジル人> http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%B8%E3%83%AB%E4%BA%BA 『福音書の記述から、洗礼者ヨハネがナジル人として生活を送っていたことを窺い知ることができる。 他に、「ナザレの」イエスは、ナジル人のことではないかという説もある。』 クムランでも、髪を切らないというルールがあったような・・・ ソースですか? 今死海文書で探しているんですが、、、時間かかりそうです。 >マルコ11章、ヨハネ2章ではエルサレムの神殿と明記されています。 マルコで確認しました。 そうです、大暴れした事件があったのはここですね。 出店として売っていたのではなく、生け贄の動物を売っていたわけですよね。 本来は羊だったと思うのですが、懐具合により羊が買えない巡礼者は鳩で生け贄の儀式を行っていたそうです。 ここで鳩代を払って神殿貨幣に変換していた。 鳩代すら払えない人は小麦粉を払っていたと思います。 これが神殿の収入になる。 従ってこの売り子は祭司だと思えるのですが、、、 >マタイとルカの系図を見る限りでは、ヨセフの実父がヘリなのか、 >義父(マリアの実父)がヘリなのかわかりませんね。 一応 聖書にはマリアの父はヨアキムで、やはり無原罪つまり性交無しにマリアは生まれたことになっているが、実父はエリ? なるほど。  http://www.asahi-net.or.jp/~zm4m-ootk/47.keizu.html 赤字が女性です。 >でもそれぞれの福音書のニュアンス的にはヨセフの実父がヘリで、 >マリアの実父がヤコブという感じがしますね。・・・ ヤコブは祝福された(つまり子孫を増やすと神に約束をとりつけさせた)ことでイスラ+エルとなりましたよね。 従って地上の王はヤコブだと思えるんですね。 >まぁ日本語で呼んでいるのでもともとのニュアンスなど分かりませんが(苦笑) そうなんです。 古代ヘブライ語を知らないので、ここが調査する上で大きなネックになっています。 エル(エリ)はエールで http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AB ですよね。  恐らくエルもエールもエリも一緒だと思います。 エリヤの<ヤ>がやはり神を表す言葉ですよね。 ここまではわかったんですが、後は謎だ。 ましてや ヤサエ エンヤンサー ノドッコイショ もう意味わかりません。(説明は読んだことがありますが) (アッラー エッサッサー ならなんとかわかりますが。) これまた珍説でしょ? 笑 何故日本は山を神が住む場所として崇めているのか。 サマリアのユダヤ教はゲリジム山を神聖な場所として拝んでいたようです。 だから南のユダヤ教と北では宗教的見解が違うんです。 南は北を「そんなのユダヤ教じゃない」と軽蔑していたようですが、モーセ五書という共通点があるんです。 いわば、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が共有している部分があるように。 さらにユダヤ教、キリスト教、イスラム教からすれば、神道は異端中の異端なのか? 以外とサマリアと仲良しかもしれません。 そして原始キリスト教と仲良しかもしれません。(原始キリスト教はパウロ派とは対立していたと思える。) で、えっと、結局 言いたいのは 共通する聖書 つまり 旧約聖書に基づいて<作られた>部分がかなりあると思えるんですよ。 ロバに乗るとか、エリ エリ レマ サバクタニ とかそれずべて旧約聖書に書かれている言葉なんです。(多分ご存知だと思いますが) 旧約で予言(預言ではない)されたことが実際に起った と考えるより、そうなるように計画して行動した または 物語を作ってしまった と思えるんですよ。 だから、工作 あるいは 創作された物語なので、今回の質問のように不可解な矛盾が生まれてしまう。 と、私は考えているんです。 「14代って書いてあるのに実際数えたら13代しかない これをどう説明するのか」と考えるより、著者が作っていく上で予言が成就したとするため工作していて、多くの人に検閲して矛盾を指摘してもらう前になんらかの騒動が起こり校正する暇もなく残ってしまった それを後世の人が聖書を作る際にどの文書を聖書に入れるか検討した結果、自分の好きな文書として「この文書を聖書に入れましょう」としてしまった。 と考えるのが妥当ではないでしょうか。

shinew
質問者

お礼

>旧約で予言(預言ではない)されたことが実際に起った と考えるより、そうなるように計画して行動した または 物語を作ってしまった と思えるんですよ。 福音書が創作なら、旧約の予言にあわせてでたらめを書けばいいわけですから、そんな迂遠でコストのかかる努力をする必要もないんじゃないでしょうか。イエスの言動を見る限り、仮にイエスがエッセネ派出身だったとしてもイエスとエッセネ派はある時点で袂を分かったと考えるしかありませんから、もし誕生にまつわるいろいろなことにエッセネ派の作為が働いていたなら、勝手な行動をはじめたイエスに対して報復的なネガティブキャンペーンが繰り広げられたであろうことは想像に難くありません。しかしながら、そういう記録はないですね。 逆に、福音書がかなりの部分で正確なら、旧約の予言にあわせて作為的に動いていた結果というには、その意図が及ばない範囲での成就が多すぎますね。たとえば、イエスの刑死前後のローマ兵の行動などです。 神秘的な出来事や記録の裏にはインチキのあることが、過半だと思いますが、なんでもかんでもそれで片付けてしまうのは味気ないような気もしますし、現代人の傲慢であるような気もします。 話が質問からだいぶ拡がってしまいました。下のお礼で書いたように、そもそもの私の疑問に関しては、ユダヤ人が主権を失ってから数百年、民族がばらばらになったのは必然だということがわかりました。皆さんの回答に改めて感謝し、回答を締め切らせていただきます。ありがとうございました。

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  • mmky
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回答No.7

「祖父の地」というのが初耳でしたので、その出典をお訊きしたのですが・・・。 追伸 「祖父の地」の言葉は出展不詳ですから参考外でおねがいします。 参考等: キリストの父、ヨセフがダビデの系図であるということは、「ヤコブにマリアの夫ヨセフが誕生」(マタイ1)、だからマリアの夫ヨセフがダビデの血筋といってますね。血筋を守るには種がいりますね。処女生誕説だと血筋で予言に不一致になるな。余計

shinew
質問者

お礼

>「祖父の地」の言葉は出展不詳ですから参考外でおねがいします。 了解しました。失礼ですが、ひょっとすると「父祖の地」と取り違えていませんか? >血筋を守るには種がいりますね。処女生誕説だと血筋で予言に不一致になるな。 マタイとルカに二種類系図が載っており、それぞれヨセフとマリアの家系をたどっているのでしょうから(どちらがどちらなのか分かりませんが)、養父も実母もどちらもダビデの家系につながっているということで、念には念が入っているという理解がされてるんではないでしょうか。

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  • kigurumi
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回答No.6

No.1,3です。 >ナザレという町がイエスの当時に存在しなかったというのは、 >十分なコンセンサスを得ているのでしょうか? いえ。 無いものを無いと証明することほど難しいことはない。 ですが、トライした人がいました。  その人の意見をなるほどと思って書いたんです。 『ナザレという名の都市は旧約聖書にも、タルムードにも、フラウィウス・ヨセフスの認めた書物にも登場していない。 ガリラヤでのローマ人達との戦争の折にはユダヤ軍の司令官として参加しているヨセフスが、見たもの聞いたものを書き忘れることなどない。 ナザレがガリラヤでもっとも重要な都市だとすれば、この地方での戦争に参加したフラウィウス・ヨセフスが、この地方のことならつぶさに書いているヨセフスが、言及しないわけが無いでしょう。 ではなぜ福音書にはナザレという言葉が登場する? ナザレという都市の名前ではなく、実はセクトの名称なのだ。 それを預言は文字通り成就されるものであることに固執していたマタイが、”イエスはナザレへ行った”と書いたのである。 メシアは"ナザレの人”と呼ばれるという預言者の言葉をイエスに成就させるためにだ。マタイはイザヤ書(II・I)を参照して、その通りだとすれば、主も霊がとまる、"エッサイの『株』から出る『若枝、ヘブライ語で「netzer」がなければならないと解釈したのだ。 エッセネ派はまさしくナザレアンと称していた。つまり”メシアを信じる者達”という意味である。そしてそれはギリシャ語の”クリスティアヌス”と全く同義なのだ。』 ふう・・・NO.1の一つの説に、、、はこの文面から抜き取って書いたものです。 そして上の文も抜き取って引用しました。 引用元は クムラン。 http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0174.html ちなみにみこの物語は創作ですが、かなり歴史的事実が入って練り上げられています。 現実と虚構ギリギリのラインで書いてあります。 筆者は哲学者で、彼女の父親は高尚なラビです。 ユダヤ人(とりわけクムラン宗団)のメシア感がどのようなものか(だったか)を知ることができます。 >これを根拠とされてイエスをレビ人とされるのはいささか弱い気がします。 はい、だから「だったかもしれない」という風な書き方をしました。 「異邦人の中庭」ですか? それってエルサレムの神殿にありました? イエスが言っていた神殿とは、エルサレム神殿ではなく、クムランの神殿とされたところのことではないのですか? そして、、、この異邦人というのが、ややこしいんです。 私は10支族のことだと思えるのです。 その中にはサマリア人と呼ばれる人も含むと考えています。 >>イエスの母の父は祭司でしたよね。 >これは知りませんでした。ヘリのことでしょうか。良ければ出典を教えてください。 すいません。洗礼者ヨハネの方と混同してしまいました。 エリ(ヘリ)は、ヨセフの父親の名前です。 イエスが磔刑になったとき叫んだ言葉が確か「エリ」だったと思います。 何故祖父の名前を呼んだのか? ヨセフの実の父親の名? エリはわが主(神)って意味でしたっけ? 洗礼者ヨハネの方と間違えてしまったと思ったのですが、祖父がエリとなると、、、やっぱりレビの血を引いている? しかももしかして大祭司!? と、ミスから思わぬものが・・・。 (飛躍しすぎでしょうか・・・・苦笑) ちなみにマリアの父の名はヨアキム、母はアンナ。 http://www.ne.jp/asahi/art/dorian/Bible/AMariaStory/01Expulsion/01Expulsion.htm >キリスト教会の教えとしての答えをご存知の方がおられましたら、ご回答いただければうれしいです。 確かに、、、私も聞きたいです。 ちなみに聖書に沢山の矛盾があり、例えばイエスの系図も2種類あり、聖書の執筆者や編集者は簡単な足し算すらできない人たちだったのか、となってしまいます。 「聖書に間違いは無い。聖書を正しいとし、ここを基準にして全てを考えろ」となると、盲信しかない。 目を潰されるしかない。 光の届かない闇の世界に埋没するしかない。 決して光の届かない闇に。。。それが地獄というものでしょうか。 地獄は死んでから行く世界ではなく、現在に地獄は存在しており、パラレルワールドで交差していることになります。 私は聖書とおりのイエスは実在していなかったと思います。 後世の人が作ったのが新約聖書に書かれている偽イエス。 が、完全に塗り替えられたわけではないと思えるのです。 ところどころに現れるイエスの言葉を拾うと、イエスはこのパラレルワールドを言っていたように思えるのです。

shinew
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >いえ。無いものを無いと証明することほど難しいことはない。 了解しました。 >ナザレがガリラヤでもっとも重要な都市だとすれば カナ(この村についてはヨセフスの言及があるようです)出身のナタナエルが最初にイエスのうわさを聞いたときに「ナザレなどから偉人がでるか?」などと馬鹿にする記述があることからすると田舎の小村だったのかもしれませんね(ヨハネ福音書1章にその記述があります)。 >引用元は クムラン。 ご紹介ありがとうございます。機会があれば読んでみます。 >「異邦人の中庭」ですか? それってエルサレムの神殿にありました? イエスが言っていた神殿とは、エルサレム神殿ではなく、クムランの神殿とされたところのことではないのですか? マルコ11章、ヨハネ2章ではエルサレムの神殿と明記されています。ヘロデの建てた第三神殿(つまり当時のエルサレム神殿)にも異邦人の中庭はあったようです。ユダヤ古代誌15巻に記述があります。 >エリ(ヘリ)は、ヨセフの父親の名前です。 マタイとルカの系図を見る限りでは、ヨセフの実父がヘリなのか、義父(マリアの実父)がヘリなのかわかりませんね。でもそれぞれの福音書のニュアンス的にはヨセフの実父がヘリで、マリアの実父がヤコブという感じがしますね。・・・まぁ日本語で呼んでいるのでもともとのニュアンスなど分かりませんが(苦笑) >何故祖父の名前を呼んだのか? ヨセフの実の父親の名? エリはわが主(神)って意味でしたっけ? エリはわが神と言う意味だと書かれていますね。周りにいた人はエリヤを呼んでいると聞き違えたようです。これをヘリと理解するのはかなり大胆ですね。新説だと思います(笑)

shinew
質問者

補足

>ちなみにマリアの父の名はヨアキム、母はアンナ。 ​http://www.ne.jp/asahi/art/dorian/Bible/AMariaStory/01Expulsion/01E...​ 出典を尋ねておいてスルーしていました。失礼いたしました。新約外典が出典なのですね。外典は読んだことがありません。機会があれば読もうと思います。

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回答No.5

   ナザレという語は[新芽]という意味のヘブライ語ネーツェルに由来しているようです。(ナザレ人とナジル人(Nazirite)という名称を混同してはなりません。英語では似たつづりですが,両者は異なる意味を持つ全く別のヘブライ語に由来しています。)    当時の一般的な習慣では、人をその出身地と結び付けて呼びました。それでイエスは3歳になる前から,エルサレムの北約100キロの所にあるナザレという都市で,大工の息子として育てられましたので当時の習慣に従って「ナザレ人イエス」と呼ばれました。        さらにマタイは,「ナザレ人」という呼び名が,イエスを約束のメシアとして見分けるしるしの一つとして預言の中で予告されていた,という点を指摘しています。           それでマタイはヘロデの死後、ヨセフがマリアとイエスをエジプトから連れ戻ってナザレに住んだいきさつをこう述べています。    「さらに,夢の中で神からの警告を与えられたので,[ヨセフは]ガリラヤ地方に退き,ナザレという都市に来て住んだ。預言者たちを通して,『彼はナザレ人と呼ばれるであろう』と語られたことが成就するためであった」―マタ2:19‐23。    つまり,イエスがナザレに住むようになったのは聖書預言の成就であったという事になります。    補足ですが,ナザレのことはヘブライ語聖書に出て来ませんが,『ナザレ人』を,前掲の,「新芽」という意味の「ネーツェル」と同一視するなら,マタイが,イザヤ書(11:1)でメシアに関して述べた,「エッサイの切り株から必ず小枝が出る。その根から出る新芽[ウェネーツェル]はよく実を結ぶ」という言葉に言及していたことが理解できます。     さらにマタイは「預言者たち」がこの来たるべき「新芽」について語ったと述べています。 例えばゼカリヤは,「新芽という名の」王なる祭司を描写しています。―ゼカ3:8; 6:12,13

shinew
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >「さらに,夢の中で神からの警告を与えられたので,[ヨセフは]ガリラヤ地方に退き,ナザレという都市に来て住んだ。預言者たちを通して,『彼はナザレ人と呼ばれるであろう』と語られたことが成就するためであった」―マタ2:19‐23。 確認しました。聖書ではナザレに住んでいたのは神慮によると説明されているんですね。教えていただいたことは新たな発見でした。感謝します。 しかし、神慮によって、ヨセフ一家がナザレに導かれたと説明されているのは、一家がエジプトに逃れた後の出来事についてですよね。わたしが知りたかったのは、イエスが生まれる前のヨセフやマリア、もしくはそのユダ族の祖先がどういう経緯でナフタリの領地に移住するようになったのかといういきさつです。他の回答者の方の考えでは、エッセネ派が、預言成就を達成させようとして、介入した結果であるとのことですが、信仰者の方にはまたべつの考えがあると思いますし、信仰者のかたではなくても、また別の説をお持ちの方がおられるかと思います。聖書あるいはその他の史料で、ヨセフ一家がナザレに住むようになった事情を記述しているものがもしあれば、知りたく思います。よろしくお願いします。 ・・・とここまで書いておいて、いま気がついたのですが、バビロン捕囚と帰還、ローマによる併合など、南のユダ王国が実権を失ってから数百年のうちにいろいろあったわけですから、部族がばらばらになり、世襲所有地など異民族に取り上げられていたことは容易に想像できますね。ヨセフ一家(とその祖先)がユダを離れてナザレに住んでいたことに特別な事情があるように考えるのは少しこっけいな気がしてきました。

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  • mmky
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回答No.4

#2 追伸、参考程度 皇帝アウグストゥスの勅命で本籍地に住民登録にいったわけですね。 それゆえヨセフの本籍地はベツレヘムですね。 イエスのご両親はベツレヘム出身のお方でないといけなかったということでしょうね。ベツレヘム出身者の子供でベツレヘムで生まれナフタリで生活しないと、旧約聖書の予言に合致しないですね(参考1)。 これ明らかに周到に計画された意図的な構図がみえますね。 こんなことするのは救世主待望論のエッセネ派しかないということでしょう。イエスの名前も最初から決まっていてインマヌエルですね。それからエッセネ派は満願成就で救世主イエスを世に出したのですが、それまでですね。救世主イエスはイエスとしての教えを説いたということでローカルのエッセネ派の教えや習慣をついだわけではないですね。 参考1、旧約の預言者のとおりです。 おとめが身ごもって、男の子を産みその名をインマヌエルと呼ぶ(イザヤ7:14) ダビデは、ユダのベツレヘム出身のエフラタ人で、名をエッサイという人の息子であった(1サムエル17:12) しかしベツレヘム、エフラタよ、あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者があなたのうちからわたしのために出る(ミカ5:2) イエス様はイエス様だから出生までのことはどうでもいいことですね。 でも努力して予言を成就しようとした一派がいたことは確かですよ。それでベツレヘム、ナザレのイエスなんですね。

shinew
質問者

お礼

ベツレヘムが本籍地というのは分かります。前回の回答でいただいた「祖父の地」というのが初耳でしたので、その出典をお訊きしたのですが・・・。 >エッセネ派は満願成就で救世主イエスを世に出したのですが、それまでですね。救世主イエスはイエスとしての教えを説いたということでローカルのエッセネ派の教えや習慣をついだわけではないですね。 ここは了解いたしました。イエスはエッセネ派の秘蔵っ子だったにもかかわらず、ひかれたレールの上を走らなかったという理解ですね。

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  • kigurumi
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回答No.3

>福音書では、ナザレは地名として出てきます(ルカ書2章など)。 確認しました。 確かに「joseph went from the town of nazareth」となっていました。 >史実がどうだったかは別として、今回は、ナザレにイエスの家族が >住んでいたという聖書の記録を前提に答えていただけると助かりま す。 つまり、、、 事実としてナザレという町はイエスが生きたとされた時代には無かったが、事実は関係なく、あったという前提で答えてくれということですか? それは、、、、できません。  何故なら私はキリスト教徒ではないから。 >マタイ・レビは徴税人ですから、レビ人ではなかったんじゃないで >しょうか?いくらなんでもレビ人が徴税人まで落ちますかねぇ?? マタイですか。 マタイはマタイ・アンナスと同一人物かもしれません。 アンナスとは大祭司アンナス、その兄弟のマタイかもしれません。 祭司・大祭司になれるものはレビ人だけ。 何故、徴税人と呼ばれていたか。 イエスが神殿で大暴れした事件がありましたよね。 ローマはユダヤ教を容認していたし、ユダヤ教が各地から10分の一税を集めていることを容認した。 その代償として重税を課していた。 (アンナスが大祭司の時、イエスが神殿で大暴れした事件が起こった。 彼の後に大祭司となったのが、カイアファ。) 神殿で仕事ができるのはレビ人だけ。 一般人は、そのようなことが許されない。 ローマに重税を課せられていたユダヤ教は、認められた代わりに神殿税などを取ってローマに納めていたわけです。 そうやって税を集めていたのは、ローマと仲がよい神殿の祭司たち。 と考えるのが妥当ではないでしょうか。 確かに聖書にその通りにことは書かれていません。 でも、聖書の著者はイエスに会ったこともなく、その現場にいた人たちでも無い。 つまり後世の人が想像して書いた文書が聖書になった可能性がある。 (明治維新でも、活躍した人物が歪んで伝わっていますよね。) >イエスがユダ族である以上 イエスがユダ族なのかどうかはわかりません。 ナザレ人=ナジル人(聖別された者)かもしれません。 又、エッサイ系が地の指導者として選ばれ、大祭司系列の嫁をもらって祝福に入るという意味なのかもしれません。 イエスの母の父は祭司でしたよね。 祭司はレビ人しかなれません。 そしてマリアは7歳の時、(だったと思います) 神殿で結婚するまで過ごしています。 一般人は神殿で仕事ができません。 レビ人だけの特権です。 イエスの父はヨセフではありません。 レビ人は他の種族と結婚できました。 が、大祭司だけは大祭司の家系同士でしか結婚ができません。 何故 ヨセフがマリアを嫁にもらうとき、既に身ごもっていたのか。 マリアの相手が大祭司だったからではないでしょうか。 その大祭司の血を地上に派遣した。 これがイエスが処女受胎の結果生まれたとなったのではないのでしょうか。 イエスが何故子ども時代以降空白なのか。 祭司系列なので、今でいう神学校にずっと篭って学んでいたからではないのでしょうか。 だから、ラビ文学も知っていて、それが言葉となって現れている。 ラビ文学の研究は一般人はできません。 大工のせがれが知ることはありません。 イエスが語る内容は宗教者しか知ることのない文句が出てきます。 (今のように誰でも気軽に聖書が手に入るという時代ではありませんでした。) 洗礼者ヨハネは大祭司系ですよね。 その家系のヨハネに洗礼をしてもらったということはどういうことでしょう。 神学校で一緒だったのではないでしょうか。 宗教職につけるのは、レビ人だけ。 だからといって、12使徒全員がレビ人だったとはなりません。 が、レビ人ではなかったとも言えません。 エッセネ派で共餐が許されたのは、かなりの高位の祭司たちだけ。 (何度も言いますが、祭司になれるのはレビ人だけ) 私の考えは、キリスト教会の教えとは違います。 キリスト教会の教えとしての答えが欲しければ、教会の神父なり牧師に聞くのが一番だと思いますので、お近くの教会に行かれてはどうでしょうか。

shinew
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >つまり、、、 事実としてナザレという町はイエスが生きたとされた時代には無かったが、事実は関係なく、あったという前提で答えてくれということですか? ナザレという町がイエスの当時に存在しなかったというのは、十分なコンセンサスを得ているのでしょうか?初耳なので、仮説のひとつかと思っていました。事実は関係なくということではなく、ナザレという町があったという立場からの説明が、あるのであれば、知りたいと思いました。 >神殿で仕事ができるのはレビ人だけ。一般人は、そのようなことが許されない。 これを根拠とされてイエスをレビ人とされるのはいささか弱い気がします。イエスの宮清めは、おそらく異邦人の中庭と呼ばれていた境内で行われたことでしょうから、レビ人どころか、ユダヤ人でなくても出入りは自由に出来たはずかと。 >イエスの母の父は祭司でしたよね。 これは知りませんでした。ヘリのことでしょうか。良ければ出典を教えてください。 >そしてマリアは7歳の時、(だったと思います) 神殿で結婚するまで過ごしています。 これも出典をお願いします。 >キリスト教会の教えとしての答えが欲しければ、教会の神父なり牧師に聞くのが一番だと思いますので、お近くの教会に行かれてはどうでしょうか。 これは、そうですね。なんでもネットで安易に知ろうとするのは、すこし虫が良すぎるかもしれません(苦笑)。 でも、虫が良すぎるのを承知の上で、キリスト教会の教えとしての答えをご存知の方がおられましたら、ご回答いただければうれしいです。

shinew
質問者

補足

>これを根拠とされてイエスをレビ人とされるのはいささか弱い気がします。イエスの宮清めは、おそらく異邦人の中庭と呼ばれていた境内で行われたことでしょうから、レビ人どころか、ユダヤ人でなくても出入りは自由に出来たはずかと いまキグルミさんの回答を読み返したんですが、イエスでなくマタイのことをおっしゃってますね。頓珍漢なレスでした。失礼いたしました。

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  • mmky
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回答No.2

ベツレヘムは祖父の地ということですからヨセフのの父かヨセフぐらいからナザレにですよね。 でも#1のkigurumiさんのご指摘どおり、ヨセフやヨセフの父はおそらくエッセネ派に間違いないですから、死海のクムランで共同生活していたんじゃないかな。 母のマリアも当然エッセネ派でしょうからクムランで共同生活だったんでしょうね。 それがナザレで大工というのは、マリアが妊娠したのでエッセネ派の人々が用意した仕事じゃないかな。エッセネ派は救世主待望派ですから、ヨセフとマリアの結婚自体も宗教的なものであったかもしれませんね。だからエッセネ派はイエスの誕生前から救世主であることを知っていたので保護のためにエルサレムから遠く離れた場所に仕事を用意したということかもしれませんね。 ナザレのインマニエルも少年期はクムランで勉強していたんじゃないかな。

shinew
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >ベツレヘムは祖父の地 これの出典を教えていただけませんか? >ナザレのインマニエルも少年期はクムランで勉強していたんじゃないかな クムラン洞窟で発見されたエッセネ派の文書からは、同派の安息日や儀式上の清めに関する厳しい戒律が読み取れると聞きます。福音書のイエスの言動とは相容れないような気がするのですが、どうなんでしょうか。

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  • kigurumi
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回答No.1

当時、ナザレという町はありませんでした。 従ってナザレのイエスは、「ナザレという町出身のイエス」という意味では無いようです。 では、ナザレとは何か。 ナザレ派 くらいの意味だと思います。 ではナザレ派 とはなにか。 一つの説に、、 イザヤ書に「エッサイの『株』から出る『若枝』、ヘブライ語でnetzer(ネーツェル)。 ナザレ派はナザレアンと称していた。 つまりメシアを信じる者たちという意味。 ギリシャ語のクリスティアノスと同義。 ナザレ派=エッセネ派 かもしれません。 ナザレアン=エッセネ派の中から出た若枝ナザレ派。くらいの意味じゃないかと。 12支族にはそれぞれに土地が与えられた。 で、ユダヤ民族にはもう一つ部族がいますよね。 (最後の晩餐では12(部族)+1(部族)になっている。) 彼らには土地は与えられていない。 そのかわり12支族ができない宗教職を与えられ、彼ら独占で宗教職をやるように神が指名したと聖書には書かれている。 彼らは土地に縛られていない。 その部族とはレビ人。 最後の晩餐の象徴が、12支族=1支族が共餐をするという場面のように思えるのですが、マタイがレビだとすると、、、、 ひょっとしてあの席にいる参加者全員がレビ人という設定だったのかもしれない。 12人のレビ人、そしてプラス大祭司。 これで12+1になる。 確かエッセネ派がそういう儀式をやっていたような。

shinew
質問者

お礼

早速、回答を頂きまして、ありがとうございます。ナザレという町はなかったとのことですが、福音書では、ナザレは地名として出てきます(ルカ書2章など)。史実がどうだったかは別として、今回は、ナザレにイエスの家族が住んでいたという聖書の記録を前提に答えていただけると助かります。 マタイ・レビは徴税人ですから、レビ人ではなかったんじゃないでしょうか?いくらなんでもレビ人が徴税人まで落ちますかねぇ?? 12使徒それぞれの出身部族については寡聞にして知りませんが、出身地はイスカリオテをのぞいて全員ガリラヤだったようですね(なので北の10部族の領地に住んでいた人がサマリア人、などという理解は、初歩の初歩の間違いですね)。いずれにせよ、イエスがユダ族である以上、そのいとこのヤコブやヨハネもユダ族ということになりますから、少なくとも13人のうち3人はレビ人ではないですね。

shinew
質問者

補足

・・・でも、ヤコブとヨハネはイエスの母方のいとこですから、イエスと同族であるとは限りませんね。失礼しました。

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     (あ) イエスは ナザレの人たるヨセフとマリアとのコイトスによって生まれた子であり ふつうの人間であると同時に 神の子でありみづからも神である。  言いかえると  (い) マリアは 許婚のヨセフとの性交によってイエスを身ごもり生んだと同時に 神なる聖霊によっても身ごもったと言われる。  (う) イエスは 神の子でありみづからも神であるゆえに イエス・キリストと呼ばれるわけであるが その《人間であるイエスが キリストなる神である》というのは 大嘘でありひとつの物語である。  (え) ただし この虚構によって 神は――世界のどんな名の神も 神という神は  《無い神》をもふくめて―― すでに要らないと見なされるかたちで 揚棄された。  (お) だから もう神を知れ・うやまえとか神を信じなさいとか神などはいないとか いや いるんだとか いちいちあらそうこともなくなった。理論上 そうである。  どうでしょう?

  • クリスマス会@教会 聖誕劇のシナリオについて

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  • イエスの大嘘

     イエス・キリストの大嘘について どう思いますか?  ナザレのひと・イエスは ヨセフという父親とマリアという母親とから――むろんその交渉をつうじて――生まれたふつうの一人の人間であったわけですが 自身はそうであると同時に(つまり 人間であると同時に) 神の子でありみづからも神であると言ったのです。――これが ひとつのウソです。  もっともこのウソのからくりについて 人びとが納得の行くように説明することも出来ます。  つまりは 何のことはない 例のブッダター(仏性)というあれです。アートマン(霊我)でもよいわけです。この神の霊が 人間にはやどっているといった・人びとの常識にまで成った想定の話を少し拡大して イエスは 《わたしが その神の霊である。つまり ブッダターである。つまり アートマンである》と言ったわけです。  すなわち ふつうは人は 神の霊であるアートマンやブッダターなる霊を わが身と心とにやどす・つまりそれは 分有するということなのですが イエスの場合は 分有ではなく 自分がその神の霊そのものであると言ったのです。  すなわち イエスはふつうの人間であると同時に その身と心〔と非思考の庭〕とで百パーセントが神の霊であると言いました。――これが 第一のウソです。  第二のウソは 神は どんな名であろうと全体として ただひとつであると言いました。それには ひとつの手法として 十字架にハリツケになって そのまま去って行くというかたちを採った。これによって 神という神は すべてひとつであることが 確認された。  なぜなら 神である(=キリストである)イエスが その十字架上から もしおまえが神の子なら降りて来いとなじられても 降りて行かなかった。降りて行ったなら それは おまえが神であるから出来たことだ 神の奇蹟などは おれたちにはお呼びではないと人びとは思い言い合って おしまいになる。ゆえに 奇蹟を起こさなかった。  またもしただ人間としてハリツケに遭って死んだというだけなら それは せいぜいよくやったな がんばったぢゃないか おまえのことは覚えておいてやるから 往生しーやと言われておしまいである。そうではなく 神がハリツケにされたのである。と語ったわけである。これが 第二のウソだ。  このウソによれば 人びとは 笑おうが泣こうが とにもかくにも 元気が出る。ハリツケのイエス・キリストを見れば ひとは元気を取り戻す。ということになっちゃった。――これがウソの効用。  しかも やがては 名の違う神どうしのケンカは もう用無しとなるはずである。そのために 大嘘をついた。イエスという男。  宗教のオシエは どうでもよい。のです。

  • イエスのついた大嘘

     イエス・キリストの大嘘について どう思いますか?  (あ) ナザレのひと・イエスは ヨセフという父親とマリアという母親とから――むろんその交渉をつうじて――生まれたふつうの一人の人間であったわけですが 自身はそうであると同時に(つまり 人間であると同時に) 神の子でありみづからも神であると言ったのです。――これが ひとつのウソです。  (い) もっともこのウソのからくりについて 人びとが納得の行くように説明することも出来ます。  つまりは 何のことはない 例のブッダター(仏性)というあれです。アートマン(霊我)でもよいわけです。この神の霊が 人間にはやどっているといった・人びとの常識にまで成った想定の話を少し拡大して イエスは 《わたしが その神の霊である。つまり ブッダターである。つまり アートマンである》と言ったわけです。  (う) すなわち ふつうは人は 神の霊であるアートマンやブッダターなる霊を わが身と心とにやどす・つまりそれは 分有するということなのですが イエスの場合は 分有ではなく 自分がその神の霊そのものであると言ったのです。  (え) すなわち イエスはふつうの人間であると同時に その身と心〔と非思考の庭〕とで百パーセントが神の霊であると言いました。――これが 第一のウソです。  (お)第二のウソは 神は どんな名であろうと全体として ただひとつであると言いました。それには ひとつの手法として 十字架にハリツケになって そのまま去って行くというかたちを採った。これによって 神という神は すべてひとつであることが 確認された。  (か) なぜなら 神である(=キリストである)イエスが その十字架上から もしおまえが神の子なら降りて来いとなじられても 降りて行かなかった。降りて行ったなら それは おまえが神であるから出来たことだ 神の奇蹟などは おれたちにはお呼びではないと人びとは思い言い合って おしまいになる。ゆえに 奇蹟を起こさなかった。  (き) またもしただ人間としてハリツケに遭って死んだというだけなら それは せいぜいよくやったな がんばったぢゃないか おまえのことは覚えておいてやるから 往生しーやと言われておしまいである。そうではなく 神がハリツケにされたのである。と語ったわけである。これが 第二のウソだ。  (く) このウソによれば 人びとは 笑おうが泣こうが とにもかくにも 元気が出る。ハリツケのイエス・キリストを見れば ひとは元気を取り戻す。ということになっちゃった。――これがウソの効用。  (け) しかも やがては 名の違う神どうしのケンカは もう用無しとなるはずである。そのために 大嘘をついた。イエスという男。   宗教のオシエは どうでもよい。のです。

  • 「ナザレの大工イエス」とは何のことでしょうか?

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  • なぜナザレのイエスを神として扱うのか

    こんにちは。 西洋史を個人的に勉強していて、必然的にすこしキリスト教の歴史についても触れるのですが、タイトルの件がよく理解できません。 というのも、同じ一神教のユダヤ教やイスラム教の預言者とされる人たちは、神ではなくあくまで人間として扱われていると思います。実際、イスラム教ではイエスを預言者として認めているものの、あくまで人間として扱いますよね。 しかし、キリスト教の正統派においてはなぜ三位一体という直感的に理解できない理屈を採用してまで、ゴルゴダの丘で磔刑にされたナザレのイエスを神として扱うようになったのでしょうか?普通にわかりやすく、神がイエスを人間の代表として罪を背負わせるために遣わした。とかではだめだったのでしょうか? 回答に期待する内容としては、信仰心に基づいた神学的解釈というより、キリスト教の歴史として、なぜそうである必要があったかを知れるものをいただきたいです。 よろしくお願いします。

  • ナザレに戻って来たイエス・キリストについて

    呂蒙(178-219 後漢末期の武将)はいう 「士別れて三日、即ち更に刮目して相待(そうたい)すべし」 そしてイエス・キリストがナザレに戻ってきたとき、成人する前のイエス・キリストを知る昔の人がいう。 「偉そうな説法をする彼。彼は大工の子倅ではないか」といい、 イエス・キリストの事を判断できなかったというか判断しなかったそうですね。 それではイエス・キリストの側は、彼らの変化というか進歩を見て取り判断したでしょうか? 判断で来たでしょうか。 無論、「偉そうな説法をする彼。彼は大工の子倅ではないか」としか見ることのできなかった人たちではあったが。 というのは; 私は小学3年から高卒までを過ごした地域にいて、幸いというか小学校三年から六年までは担任が変わりませんで、今も年に一回はその恩師の家で集まります。 (東京師範新卒だった恩師は職場結婚で土地にずぅっといてくれまして、今は同じ恩師ですが奥さんがお子さんたちとおられます) 傘寿の我々も少年少女に戻り、その当時の観念と見方で歓談するのです。 そしてそれぞれが他人を昔の儘の彼、彼女としか見ない。 地位もそして人間としても偉くなっているのに、そんなこと全然振り向きもしない。 まぁそれはそれでいいし、そうでしかできませんね。 それはもうお互い様なんで。 現在の或は今に至るまでのえらさなんか認められないのは。 イエスは昔の人をみてその人生経過を見ることができたでしょうか?

  • イエスはナザレで、どのように感じて、どのように考えて、どのように行動したのでしょうか?

    こんばんは。 先日、こちらのサイトを拝見していたところ、次の一文を見つけました。 「聖書のイエスの逸話がこの例として有名です。 イエスが弟子を連れた教えを説いていたときに多くの町の人々に尊敬されましたが、 地元のナザレに戻ったときだけは、小さい頃のイエスを知られていたために 何を偉そうに言ってるんだと人々から反感をかい拒絶されたということです」 これは下記URLのNO,1の方の回答です。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1698886.html そのときの状況を、もう少し詳しく知りたいのですが、 そのような酷い扱いを受けたイエスは、どのように感じて、 どのように考えて、どのように行動したのでしょうか? よろしくお願いします。

  • 「ユダの福音書」で、どうしてイエスは捕まったの

    「ユダの福音書」の写本が発見されて、 いろいろと本も出版されているようですが、 この中で、ユダがイエスを裏切ったのでなければ、 どのような経緯でイエスはつかまり、処刑されたと されているのでしょうか? http://www.nikkeibp.co.jp/news/life06q2/501112/ よろしくお願いします。

  • イエスの哲学は 《存在》論である。宗教を卒業しよう

     1. アブラム(のちのアブラハム)という人は 或る日 すでに七十歳をすぎているのに 神から――あたかもお告げがあるかのように――      故郷の地を去って 行きなさい。  と言われ そのようにしました。行き先も告げられずに。  2. その子孫としてモーセという男は その神に名を尋ねたとき      《わたしはある》 それが わたしである。     (エフィエー アシェル エフィエー.)  という答えを得たと言います。    3. 伝えによると ダヰデという人は      きょう わたしは おまえを生んだ。  という言葉を その神から聞いたそうです。すでに父母からは生まれているんですけれどねぇ。    4. イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に発展しました。     これは主がわたしに油を注いで      貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね      わたしを遣わして心の傷める者をいやし      捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。                  (『イザヤ書』61:1-3)  5. その後 さらに時は飛んで イエスという人が出たと言うわけです。  6. イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。         すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書いてあ     る箇所が目に留まった。       主の霊がわたしに臨み 油をわたしに塗った。       主がわたしを遣わしたのは 貧しい人に福音を伝え        捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。》                   (つまり『イザヤ書』61:1-2)     イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人びと     は皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは        ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに        実現した。     と話し始めた。         (ルカ福音4:17-21)  7. 《神と人間――おのおの我れ――とのカカハリ》が――人間の言葉による表現上―― ここまで 及んだのだと捉えます。  8. ひと言で言って 《存在》――《わたしは ある》――をめぐる理論の問題である。そしてこれで 完成だと言ってよいのではないでしょうか。  9. さらにその後 イエスは この存在論の実証をしたと伝えにはあるようです。  10. 十字架上において はりつけになるというコトを みづから欲して そのとおりになったことにおいてだと言います。  11. 生前には かれがユダヤ当局に捕らわれたとき かれを見捨てて逃げた弟子たちも その死後においては かれは 神であったと言い始めたそうです。じっさいイエスは 自分が神だと言っていた。  12. もしかれが 神ではなくただ人間であるだけであったとすれば そのような存在論の実証は もし信念の強い殊勝な人がいれば その限りで誰でも出来ると思われたでしょう。ようやったな 弱い人びとにとって必要があれば また誰かあとに続くだろうとうわさして おしまいである。  13. 存在論は 実証が《完成》していないことになります。アブラハムやモーセらは 自分たちからイザヤらにつらなった存在論の系譜とその言わば悲願は さらに 別の人によって実現するのを待つということになります。  14. もしイエスが 人間ではなく仮りに神であるだけだったとすれば そのままそれは 《うそ》ですから 張り付けの十字架から降りて行って 奇蹟を起こしたということに話は成るのかも分かりません。神のやることはおれたち人間には関係ねえよで おしまいとなります。  15. 父ヨハネと母マリアから生まれた人間であると同時に 聖霊によって身ごもった子つまりキリストと呼ばれる神の子でありみづからも神であると言うというところに その歴史的な一大事件としての《虚構》があり どうもそこで存在論を実証したのではないか。とうわさされているのかも分かりません。  16. アブラハムから始まった神の信仰は 一たんキリストの登場を俟つというかたちのキリスト史観として承け継がれた。そしてそのキリストが出たからにはこの《時を俟つ》キリスト史観は もう要らない。  17. われらが《存在》の成就である。さまざまな《貧困》の解消が 宗教抜きで成されるという課題が残った。  18. 言いかえると このキリスト・イエスをも 宗教の種にして おのれの支配欲を満たそうというヤカラがいつづけているということだ。  ご批判をどうぞ。