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客観的芸術ってなんでしょうか?

arayata333の回答

回答No.11

2007年、あけましておめでとうございます。 このテーマ(客観的芸術)、年を渡ってしまいましたね。 締めるかどうかは、okweveから2ヶ月と4ヶ月目に忘れて いないか連絡が来るそうですが、基本的に質問者側の意思 にゆだねられる問題として、回答が全く無い場合を除いて は一律に強制的な締め切りは無いようです。 でも、私としては、ほんとは毎回「これっきり、これっき り♪」と思って書いてるのですが、なんというかかなりグ ルジェフの神秘の力に引っ張られてるというのか…。 ◎まず、グルジェフについて、  私の場合、踊りごごろの追及の方から神秘主義の人が体の動きを 通して何か伝えようとしてるようなのだという事で、シュタイナー のオイミュトリーという踊りだか体操だかの動きとか、グルジェフ のやはり同じような動きのものを(名前とかは忘れてしまいました。 )実際そのとおりに動いてみたり、それを何回も繰り返してみたり した事があるだけなのですが、   それでグルジェフという名前 を覚えていたわけです。 たぶん、その動きも客観的芸術と関わる精巧な深みから捻出された 何かなのでしょうが、ただ、その頃の私には その動きは、まった く私自身の感情に働きかけるものを感じる事が出来ず、その客観的 な動き(作品なのか芸術なのかそれ以上のものなのかわかりません が)は私の主観の中にいっさい入りこんでこなかったのです。  それで、“これでは すくなくとも私にとっては意味がない”と いうふうに、そこで神秘主義の追及を諦めてしまっている形となっ ているのです。つまり、神秘主義が真実だというのなら、すくなく ともその頃の私には、まったく「理解できなかった」わけです。 今は、東洋医学の気脈と動きの関係をすこしでしょうが「理解」出来 ます。心や感情との関わりも含めてです。 もう一度動いてみたら 何かがわかるのかもしれません。{奇跡をもとめて}という本が どのような本か知りませんが、ともかくこれを機にもう一度グルジ ェフの本を探してみようと思っています。 オイミュトリー(シュタイナーのそれ)の方は、今でも解らないの ですが、グルジェフのその動きは、なぜか動き自体は忘れてるので すが、なにか引っかかるものはあったという記憶はあります。 わたしは楽器はやったことがないし、音符は読めないので、音程に ついての理論はたぶん、それこそ解らないと思いますが、音符で 現される音楽自体に感情との関わりがあることはもちろん理解で きます。たぶん、確かな崇高な感性を現す客観的芸術は、グルジ ェフによって理論的にも 幻想や方便としてではなく実際に発見 されているのでしょう。 わたしの方からは 「たぶん」という ふうにしか言えませんが…。  あなたは楽器を何か弾いていらっしゃるのですか? ◎ 歌と楽器の違いについて 人の体の中の声を出す仕組みは、楽器の音をだす仕組みと似てる ところが確かにあります。  いつものようにわかりやすい例で書くと、じつは、 実は私自身が、お腹(腸)のポリープの手術をしたことがあるの ですが、 その後一ヶ月は声がまともに出ませんでした。 フイゴの空気を押し出す部分が壊れれば(実際には、腹筋には それほどのダメージは無かったのですから、この場合、フイゴ のあたりの神経が何かの関係で壊れたということです。)喉が どうあろうと歌は歌えなくなります。  歌ごごろがどんなに パワフルでも同じでしょう。 一方、私は、首の骨も最近、喉を圧迫するほどまでに、ずれて しまう出来事と遭遇すています。最初は水も飲めなかったのに それが声にまで影響してるとは思っていませんでした。  でも、声帯をそれで痛めたわけではないのに、喉がせまくな ったというだけで、いざ歌ってみると、いろいろな点がメチャ クチャと言ってもいいほど壊れてました。 さすが、フイゴの 空気の最終通り道であるわけです。(詳しく書けば説明は出来 ますが、私には長い間には克服できる事でもあるので心配はし ないでください。) ともかく このように体と声との関係は 機械的な楽器状態の 部分もある(というよりも、楽器でもある)とは言えてしまう ところがあります。 「音程」については歌の場合、 想いにパワーがあり、それを 声を出すという全体的な体の機能に働かせることができさへす れば 耳が聞き取れる力さへあるならその耳の神経に自動的に 声も連動して「音程」は整ってゆきます。 練習が必要な部分 でもありますし、時により曲によりそのへんはいろいろである と言っても、 それは歌においては、神経(心)で捕まえる部 分が大きい世界とも言えます。 だからピアノとかで絶対音感 とかの訓練をした事のない、音符も読めないすぐれた歌手がけ っこう大勢いたりするわけなのです(美空ひばりとか アン ドレア・ボチェッリとか)( そうそう、喉の問題を克服した 場合の私も そうかも^^)。 楽器は、多分、神様の贈り物(人間が作ったものですが、その 可能性がこの存在の中に存在したから作ることが出来たわけで す)の機械的物質としては 最高のものです。  コンピュウ ーターは将来にはもっと豊かな可能性を持っていると思ってい る人間なのですが、すくなくとも今現在は、まだまだアナログ のこの楽器という宝物ほどすぐれた人間の魂にとっての宝物は 他に無いと思ってます。 でも、このことは歌の世界で言われていることなのか ひとり で追求してきてしまったためよく解らないのですが、歌声の世 界にはまだまだ豊かの表現の世界が広がっています。 強弱、 節回し、の変化の可能性は音符で書き留められうる世界ではな ってゆくのではないでしょうか。 歌が音楽を引っ張ってゆくという時代がやがてくるかもしれま せん。 声はまた 人間の弱さも崇高さも同時に重ねあわせる ことで想いの深みを声とその心との相互作用で高めていくこと が可能です。人類が存続するかぎり声の持っている可能性は、 まだまだこれからだ とも言えます。 でも 今 考えたのですが、その豊かで人間的な声において、 崇高さの部分が無いと、節回しも、強弱も、今のプロのそれ よりも豊かになってゆくとは思えません。  崇高さというは私の場合 例えば生命へのいとしさとか そ の存在への驚きとか 感じる新鮮さの深みのこととして使って います。 つまり 歌のその部分も、数学的にではないですが、音楽が より精巧で、表現力ゆたかなものに発展してゆく役割をになっ ているのでは という新たな気付きのようなものを今 考えた のですが、…  これって、いつか歌のほうからもグルジェフに真意を紐解く 可能性があることを示しているのかもしれませんね。 ◎最後の「絵」について、  絵については わたしはその感性は、踊りや歌と同じ出所の はずではと思っているにもかかわらず、 自信が持てないでい ます。 というのは端的な例があるのですが、 ゴッホの例です。  私は、以前はゴッホの絵を見ても、いくら見ても、どこがす ごいのか解りませんでした。 まあ 大勢の人が認めてるのだ から歌で言えばパワーはその分の強烈さを持ってるのだろう、 私の感性が絵に関して貧しいだけだ とぐらいに思っていまし た。  ところが、全部ではないのですが、そのほとんどの絵 について、いつからだったかはともかく あ と気が付いてみ たらわかるように成ってた時がきたのです。   するとです。 なんと言ったらいいのか、そこに見えるようになった美の世界 は、すくなくとも現在の歌のパワーも さらには細やかさも、 表現のたくみさも、 はるかに超えていました。 このことにはまいりました。  ということは、 他の絵も 私は ほんとうには解ってない「かもしれない」という事を そのことは、私の主観の世界に示していることになるからで す。  わかってみれば すばらしい世界ってまだまだ、たぶん、 まだまだ、まだまだあるのでしょうね。 客観的芸術って、もしかしたら、あるいは私のような人間に は、 解釈するよりも、 さらにさらに、謙虚に求めつづけ るべきことなのかもしれません。 質問の中には そのものの中に、  大きな答えがあると言いますが、 そちらのこの質問は、それそのものなのかもしれませんね。 あなたの 本物の俳優ふうの誠実さそのものが、その姿勢 こそが、この相対的ななるようにしかならない世界での 客観的芸術への姿勢であり、そうやって追いかけつづけて ゆくものなのでしょう。 さらに上の「わたし」(?)を求めて、あるいはもっと確か な「自己」を求めて、  書き方、言葉は違っても、 このことは、 今年も 来年も、わたしもそちらも 追いつ づけてゆくのでしょう。 大きな目標を掲げることだけが、元旦の目標の掲げかたでは ないでしょう。  偶然か、それともグルジェフの巧妙な神秘の技^^?でか ともかく そちらの質問のおかげで、元旦に なんかこころ につきささる神妙な気持になれました。 ずいぶん長い回答となってしまいましたね。 回答者のほう からのお礼なんておかしいかもしれませんが、  気持としては こうなってしまいます。         ありがとうごさいます。  おからだを大切に、元気に、  (見も知らない人なのに文通 みたいになってしまいましたね。)    

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