色心不二観とは?

このQ&Aのポイント
  • 主観の心相と客観の色相とは本質的に一体であり、色心不二であるという考え方です。
  • 「色心不二」とは、「色即是空」と同じ意味を表す言葉です。
  • 「色心不二」とは、心と色が一体であることを表す言葉です。
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色心不二観、について。

 前回(投稿日2012/4/28)の質問のタイトル「この解釈は間違ってますか?」で取り上げた質問文中の“(一)會色(物)帰心観”に続く“(二)色心不二観”です。  「主観の心相と客観の色相とは實は本質一體である。但し衆生が相待の見地よりして内観を主観と云ひ外観を客観と見る。見よ自己が頭より脚下に至る迄外部より見れば全体物質のみである。然るに同一の自己を内観すれば全體精神である。故に物色と心象とは本来一體の両面より色と心とに相待的に観てをる故に、實は色心不二である。」  色即是空という有名な言葉が在りますが、ここで取り上げた文章にある色心不二とは、この色即是空と同じことなのでしょうか。  空=心  即是=不二  と受け止めて間違いないでしょうか。  よろしくお願いいたします。

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noname#156094
noname#156094
回答No.7

「色心不二」は 現象とは、物質的なものと精神的なものとによって構成されている、という概念です。 この場合、物質的要素と精神的要素による構成、という単純な概念の確定には危険性があります。 客観的な見方においては二極的な要素を認めつつも、この言葉のもつ真意は 「一元的な実在」の顕れにおいて、二極的な要素が存在する、というものです。 物質的要素と精神的要素とは、「一元的な実在」の顕れであり不可分なものである、というものです。 「一元的な実在」の顕れ・・・という前提において「色心不二」である というように解釈された方がよいと思います。 「色即是空」は 現象全体と一元的な実在の同一性を説いた体験的表現です。 色心不二においては、前提であった「一元的な実在」が、ここでは前提ではなく直接説かれています。 ゆえに、色心不二とは内容が違っています。 色心不二においては、物質的要素と精神的要素を分かつことはできない、というものですが 色即是空においては、現象全体と一元的な実在を分かつことはできない、というものです。 「空」とは「一元的な実在」 心経の「不二」とは「異ならず」で、「即」とは「完全に同時に等しい」 「不二」の深まりの至ったものが、「即」です。 深般若において「即」である体験的証明がなされた、ということが心経の要諦だと思われます。

yy8yy8az
質問者

お礼

 「色心不二」と「色即是空」の違いについての説明に、なるほどと思いました。  新たな興味は「即」に時間的概念・変転なるものが含まれているのだろうか、と云う事です。  時間的概念・変転=同一性、なんだろうか?  回答ありがとうございました。(2012/5/25 11:00)

yy8yy8az
質問者

補足

 我が腑に落とすためにはも少し時間が必要なようです。  後半のお二方の意見交換の“第一ラウンド”は終了したらしく、切の良いところなので締め切ることとしました。    皆様、ありがとうございました。

その他の回答 (17)

回答No.18

 ねむりねこにゃあさん いつも詳しくていねいにしかも今回は特にご自分のお考えをきちんと述べてお答えくださりまことにありがとうございます。  わたくしは ブディズムを勉強していましたがちょうど三身常住にぶつかってこれを考え続けていたころ それまでほとんど考えては来なかった聖書だったのが 本屋で『三位一体論』という本を見て衝動買いをしたところから きちんと読んで考えようとし始めました。  しばらくして ブディズムから離れました。  ですから 仏典についてきわめて中途半端な知識しかありません。それまでは親鸞でしたが そしていまもわるくないと思っていますが そのときまでに一つだけ困ったことがありました。それは 肩が凝ることでした。どうしても肩が凝って仕方がありませんでした。ハカラヒなき修行をハカラヒによっておこなっていたからでしょう。    さて  ★ 『御批判はあたらない』、です。  ★ ~~~  《ブッダの教え》は、  《神》は存在しても構わないけれど(キリスト教のような超越的な《神》の存在だけは否定します)、  それは《解脱》に関係しない、  という意味で《無神論》です。  ★ ~~~~  《実在のブッダ》は《苦の克服》《輪廻からの解放》に役立たない《形而上学》的な質問には答えていません。  (《捨置記》《置答》といいます)  わたしは、この立場はきわめて合理的だと思います。  ~~~~~~  ☆ おそらく おっしゃるとおりなのだろうと思います。そしてただしそれには ひとつだけ条件があります。  ○ 《法身》を言わないことです。あるいは 法身仏を立てていても それが《常住》だとは見ないし言わない。ただの修辞学の問題だとことわっておくことです。    ただし――ふたたび・みたびのただしですが―― それでも 《非経験の場》を想定してそれに当てる《神 ないし 無い神》の理論は 成り立つと思っています。  類型的には――アートマンないしブラフマンのようなみづからのチカラで存在する者を否定して 法身を立てるにせよ 法身をまったく立てないにせよ―― 神の信仰〔およびそこからの観想をとおしての理論形成つまり哲学思想〕に当てはまるとは思っています。  この信仰類型論をまぬかれる人間の存在形態はないと思っています。  《非思考の庭が成る》こととしての信仰は 《形而上学》でも何でもないからです。  《さとり・ブッダ・彼岸・涅槃・・・》は 形而上学をも許容する形而下の世界における経験だと確かに見ます。  それでも その基礎には信仰があると見ます。  《信仰》は 対象が《非経験の場》であり(つまり 非対象であり) それを心に受け容れるという行為は 経験世界のことです。《無根拠》を受け容れるコトです。きわめて愚かな行為です。  ハカラヒ無きとか 絶対他力とか言いますが もしその概念に沿って思惟し行動するならば ハカラヒがあるといったマチガイに落ち入ります。  このように想定された世界(非世界)についての愚か極まりない受け容れとしての人間の姿勢・態度・あり方が もっとも合理的な人間論であり存在論だと思っております。  無根拠として 経験的な自由の根拠となっていると思われます。ほかに自由を基礎づけるものは ただの合理思考までです。  ▲ 真理がきみたちを自由にする。  まづは わたしたちの第一ラウンドの終了となりましょうか。

回答No.17

『わがいかだ(ブッダの教え)はすでに組まれて、  よくつくられていたが、  激流を克服して、  すでにわたりおわり、  彼岸に到達している。  もはやいかだの必要はない。』    《スッタニパータ》 これはさきの ○つまり ブッダ あやまてり。ブラフマニズムとのマの取り方をちがえたのではないか? の質問に対して、  ブッダのこの《いかだのたとえ》と《自灯明》《法灯明》を用いれば、  《実在したブッダ》の教えを宇宙の真実在である《ブラフマニズム》に格上げすることなく、  《人間ブッダ》のといた《教え》の範囲で解決が可能と言ったまでです。 その意味で『ブッダの教えは矛盾しない』ということです。 これでは質問の回答になっていませんね。 《彼岸》に至るまえでさえ、自分の頭でよく考えておかしいと思ったら、 わたしは、平気でその《考え》を捨てます。 《実在したブッダの教え》は誤りの無い教えだとは考えていません。 つまり姿勢のその根拠をブッダの説いた《いかだのたとえ》と《自灯明》《法灯明》に見出すことができ、 《自灯明》《自分の頭》で考えることができます。 《非経験・非思考の法身》に頼らなくてもよい。 それで《地獄》に落ちるのならば、 誰が悪いのでもなく、《マ》のとり方を間違ったわたしの責任です。 《仏教》は《自力》の宗教です。 そして、自分の作り出した《業》を超えるものは存在しない。 《ブッダの教説》ですらその例外ではないと考えます。 よって、 『御批判はあたらない』、です。 誤解を与えたようです。言葉が足りませんでした。 ☆☆☆ ですが、 bragolonneさんの議論の本質は変わらないようなので、 ○8.この三身常住のブッダは 《無我つまり アートマンでない》という形容において アートマンないしブラフマンにひとしい存在になっている。のではないか? ひとり満ち足りている存在だと思われる。  それでは、《無我を無我たらしめる》本質・《我》が存在してしまうことになる。《諸法無我》に反する。  つまり、この議論は成り立たない!!  と、たぶん、《中観派》の人は反論すると思います。  つまり、9.以降の議論は成立しない。  そして、  11.の   《もともと宇宙の初めから終わりまでブッダは《わたしは ブッダである》と言っている存在だと考えられる。》   が成り立たないのだから、   どうして、《ブッダの教え》が常住しうるだろうか。  なんとでも、言えるんです、  そもそも《無我》や《空》は、論理的に矛盾をはらんだ概念ですから。 ☆☆☆ さきの《スッタニパータ》の文中にあるとおり、仏教のめざすところは《彼岸》《苦の克服》です。 しかも、 《実在のブッダ》が本当に生きているあいだに《彼岸》に到達できたのならば、 その《彼岸》は《実在したブッダ》がそうであったように、この世で到達可能だと思います。 したがって、《彼岸》は《非経験・非思考の場》ではありません。 その《彼岸》を《非経験・非思考の場》に設定したならば、 《実在したブッダ》の存在を否定することになります。 《仏教》を否定したことになります。 《実在のブッダ》は《超越者》を立てませんでした 《ブッダ(の教え)》を信じれば、《輪廻》から解脱できるなど、 最初期の経典とされる 《スッタニパータ》や《ダンマパダ》に書いてありません。 《超越者》の存在は不要です。 《苦》を克服する手段は、みずからの《(修)行》であり《実践》だからです。 《ブッダの教え》は、 《神》は存在しても構わないけれど(キリスト教のような超越的な《神》の存在だけは否定します)、 それは《解脱》に関係しない、 という意味で《無神論》です。 それは《実在したブッダ(の教え)》にもあてはまることです。 《実在したブッダ》はあくまで《人間》です。 それで十分だと思います。 それが僕の立場です。 さらに、 《実在のブッダ》は《輪廻》からの解放後の世界がどのようなものであるか、 を説いていません。(少なくとも最初期の《スッタニパータ》や《ダンマパダ》には書いてありません) 《輪廻》からの解放を《涅槃》と言葉で表現しただけで、 その後、どうなるのかは説いていません。 《灰身滅智》ですべてきれいさっぱりなくなろうが、それはどうでもいいことです。 そして、そうした《形而上学》的な議論は、もっとも、《実在のブッダ》の嫌うところです。 (でも、わたしは好きです) 《実在のブッダ》は《苦の克服》《輪廻からの解放》に役立たない《形而上学》的な質問には答えていません。  (《捨置記》《置答》といいます) わたしは、この立場はきわめて合理的だと思います。

回答No.16

 質問者さんに成り代わりまして みなさんの研鑽のためにも わたしの疑問をぶつけさせていただきます。  今回は ひとつに絞ることができます。  ○ ブッダとはいかなる存在なりや?  ご説明の要約を交えつつ すでにこちらの推理による理解とそして疑問を述べてまいります。  1. ブッダのおしえは さとりに到る道としては 常住である。と言わねばならない。  2. ところが さとりに到ったあとでは――向こう岸に渡ったのだから 乗って来た筏は もう要らなくなるという場合と同じように―― 捨ててしまってもよい。つまり 常住ではない。  3. ところがさらに そのさとりに到ったブッダは 自灯明としての《わたし》であり しかも無我というごとくまた涅槃というごとく この《わたし》すら 空である。  4. さらになおこの涅槃となり空であるブッダは それが法身であるかのごとくすでにあたかも常住であり なおかつ応身として仮りのすがたを現わすこともある。    5. このとき 法身は 法身であることおよび応身に成り得ることを 自己同一性としてのごとく享受する。これは 報身である。  6. ブッダは 三身常住というわけである。  7. しかもこの場合 法・報・応の三身というのは さとりに入ったブッダのことを言うからには――無常ではないとしても―― 無我である。アートマンではない。つまり 涅槃として消滅したのだ。  8. のだけれども この三身常住のブッダは 《無我つまり アートマンでない》という形容において アートマンないしブラフマンにひとしい存在になっている。のではないか? ひとり満ち足りている存在だと思われる。  9. つまり《ニルワーナに到った状態において 無い神》であり この《無い神》として じつは 人間にとって実質的に《神》である。のではないか? 《非経験の場》としては まったく同じである。  10. もしこういう論理的にして類型的な理解が ブッダなる道にとってはなじまないと言うとすれば そのときにはおそらくブッダというものは――ブッダが言いたかったことを推測するに―― すでに初めからブッダであるのだということだと考えられる。  11. すなわち 即身成仏といったさとりの瞬間をすら超えていて(必要とせず) 時間過程の一般からすら自由でありを もともと宇宙の初めから終わりまでブッダは《わたしは ブッダである》と言っている存在だと考えられる。  12. これは とどのつまり 無神論だと考えられる。  13. 無神論も 無い神を非経験の場として想定し これを人間がその心に受け容れるというかたち つまりそこに《非思考の庭》が成るというかたちにおいて 持たれる。ゆえにつまり 信仰である。  14. しかもブッダの無神論は この信仰の部分を出来るだけ問わないというかたちにして 哲学の行き方を基本としている。  15. 《われはブッダなり。永遠にブッダなり》と言えない人は 幾世にわたってかを知らず 輪廻の海をただよっている存在である。

回答No.15

 ◆ 輪廻についてです。  ★(回答No.13) 輪廻の主体(阿頼耶識みたいなもん。でもアートマンじゃない)  ★(同上) 〔DNAは物質性の話なので、〕  阿頼耶識による輪廻  〔と矛盾しません。〕  ★(同上) 〔双子は、たまたま、もう一人、〕  霊みたいな存在  〔が、その時、いっしょにお母さんの胎内に飛び込んだ。〕  ☆ 考えられることは こうなりましょうか。 唯識では、まぁ、そうなるんでしょうね。 唯識思想の阿頼耶識は、「輪廻の主体とは何か?」という追求から生まれた一つの《仮説》ですから。 しかし、これは唯識・瑜伽行派の独自の考え方で、全仏教共通の考え方ではないです。 いわゆる小乗仏教においては、 輪廻の主体は、  《非即非離蘊の我(アートマン)》  《窮(ぐう)生死蘊》  《有分識》  《一味蘊》 などなど、諸説あるらしいんで。 ☆☆☆ まず、答えやすい方から。  (い) 輪廻を永遠に繰り返すならば 無常なるものが 常住の状態にひとしいことになるのではないか?  いちおう、仏教では、《輪廻のくびきから離脱できる》が建前になっているんで、   《常住の状態》にはならない  となります。  なのですが、この質問は唯識の《五姓(しょう)格別》説を踏まえての質問ですよね。   絶対に、成仏できない人間がいる《無性(しょう)有情》!!  これが真実ならば、   《常住に等しい存在になる》  唯識は、   《一切衆生 悉有仏性(しつうぶっしょう)》  [涅槃経]   《三乗一乗・会三帰一》            [法華経]  の立場をとりませんから…  でも、《無性有情》は、永遠に、死にかわり、生まれ変わるので、有為転変するので、  《諸行無常》《諸法無我》の原則には反しないということです。  たえず有為転変する輪廻の主体は、それが何であれ、   《常住不変の我・アートマン》じゃない!! (う) 《輪廻主体》は 《わたし》か? 《霊のごときアーラヤ識のごとき》わたしか? 同じひとりの人間存在か? つまり 《わたし》にその自覚があるのか?    唯識では、《私の自覚》を二つ立てるんですよ。   一つは、あれこれと概念的な考えをめぐらす《意識》   もう一つ、   《阿頼耶識》を《常住不変の我・アートマン》と勘違いする   根源的・潜在自我意識《末那(まな)識》   意識は表層的なものなので、    滅尽定(物質の生滅もなく、五感・意識すら働かないヨーガみたいなもの)では、    ここでは、もはや、《意識の生滅》はない。な~んもない。   じゃぁ、《滅尽定》から離れた時、《意識》があるのはなぜなのか?   いちおう、仏教(とくに経量部)では、《意識は刹那刹那に生滅する》が建前なので、    《滅尽定》後に、意識があったらまずいってことになる。     (相続する前の《意識》が存在しない。その前の意識は、とうの昔に消え去っている!!)   で、ヨーガ体験を踏まえて(唯識学派の思想はヨーガを抜きに語れません!!)、   この矛盾点を解決するために誕生したのが《阿頼耶識》。そして、《末那識》。   最初は《阿頼耶識》だけだったらしいんですけれど、のちに《末那識》が付け足されたらしいです。   《滅尽定》の時も、心の潜在部分で《末那識》、《阿頼耶識》が絶えず働いている。   これで解決できそうだ。   《輪廻》の説明もつきそうだ。   まぁ、そういうわけです。   概念的思考を司る《意識》、心の潜在部分で絶えずうごめく《末那識》が、《わたし》らしきもの。   輪廻の主体らしいものは、死にかわり生まれかわる原因(種子)を蓄えている《阿頼耶識》   ってことです。 (え) 特定のひとりの人間である《わたし》は 輪廻をして前世から今世に生まれて来ているとは分からない。分からないけれども 輪廻というコトは――まだこの限りでは 無我説に立っており無常を絶対的にくつがえすものではない そういうかたちで―― 起こっていると見なされるのか?  ですね。  仏教では、《輪廻》をアプリオリの原則として認めていますから。  でも、《さとり》をえると、前世や過去のすべてが分かるらしいですよ。  つまり、《仏になれば》、輪廻の様子がわかる。  で、ブッダが「《輪廻》がある」と言う以上、《輪廻》はある。  ブディストは無条件に《輪廻》を信じなといけない!!  仏教は非常に哲学的ですけれど、哲学ではない。宗教ですから。  僕は懐疑派ですけれど… (あ) 人間という存在にかんして 無我として無常なる何ものかが つまり霊みたいなアーラヤ識みたいなものなのであるが これが 自己運動のごとく輪廻するとは どういうことか?  無我だから、無常だから、無住だから、空だから、汚れているから!!  敬虔なブディスト(すくなくとも唯識思想の信者)なら、これで理解できる。  少なくともその気分になれる!!  でも、   すでに、論理や言葉を超えた世界の話なので、わたしには分からない。   そして、そう感じられない!!  ちなみに、《阿頼耶識》の運動は純粋な《自己運動》じゃないですよ。  自分の《阿頼耶識》に蓄えられた《種子》《自己原因》だけが《運動》の原因じゃないんで。  《阿頼耶識》は一人一人、別なもの。ここに個々人の努力の根拠がある。  そして、他人の《阿頼耶識》も自分の《阿頼耶識》の原因・条件になる。  自分の《阿頼耶識》と、あらゆる生き物の《阿頼耶識》は、相互に干渉しあいますから。 ☆☆☆  ○ブッダの教えは無常なのか常住か?   痛いところをついてくるなぁ~。   信仰の観点からは、《常住》と考えないと駄目でしょうね。   じゃないと、自己否定になってしまう。   仏教は、《哲学》じゃなくて、《宗教》、《悟りにいたる道》ですから。   大乗経典も、《般若経》でやめとけば、この矛盾を解消できたかもしれないのに、   そのあと、ぞろぞろと、いろんな経典を作るんだもんな~。   そうじゃなきゃ、   般若心経の言葉を借りて   「仏教即空・空即仏教」!!   ブッダの教えも空。そして、空なるによって仏教!!!   みたいにできたのに…   《法身・ダルマ=カーヤ》。   《ダルマ》には《真理》の他に《(ブッダの)教え》の意味もある。   で、華厳経みたいな経典が出てしまった。   さらに、《神さま》のような阿弥陀さまの登場するお経まで出てしまった。   で、私見では、    何とか論理的整合性を持たせようとしたのが、大乗の《仏身論》。   しょせん、大乗の《仏の三身観》は後追いの議論ですから、   無矛盾な論理体系を作るってのは、土台、無理な話なんですよ。   《神さま》チックな《報身仏》をある一定以上のレベルの菩薩と仏さまじゃないと見えないたっ   て《報身の他受用身・自受用身》、それは無茶な話なんですよ。   それじゃぁ~もう、どっちが《法身》か《報身》か分からなくなってしまう…   阿弥陀仏こそ《法身》仏だ!!   南無久遠の釈迦牟尼仏こそ《法身》仏だ!!   そんな話が出ますよ。   《法身仏》であるビルシャナ仏(大日如来)まで、(人間の?)言葉でしゃべり出すし。   どうとでも解釈できるんですもん、《報身(の自受用身)》。   《法身》《報身》は常住するって言われても仕方ないんですよ~。   「こっちの世界じゃない、あっちの世界の話だ」といくら頑張っても、   「じゃぁ、あっちの世界は実在するのか」って話になりますもん。   正直、ぼくも、そう思いますもん。   「《法界》は《虚空》のようなもの」と言っても、   その喩えの《虚空》の存在を、すでに否定しちゃってるんだもん。   が、僕の回答です。 (け) つまり ブッダ あやまてり。ブラフマニズムとのマの取り方をちがえたのではないか?   ブッダ自身の説いた《いかだの喩え》と《自灯明・法灯明》を使えば、   これはクリアーできます。   川(苦、苦の世界)を渡るときに使った《いかだ》《ブッダの教え》を、   川をわたったあとにも、後生大事に持っている必要はないですよ。   その《いかだ》捨てちゃっていいんです。   実在したブッダ、そう言ってますもん。    (そして、《方便だった》と《にこやかな笑顔》!! これは大切だと思うな)   川を渡れればいいんですもん。   頼りにできるのは、《(実在の)ブッダの教え》だけじゃなく、《自分》でもある。   これが、《法灯明》《自灯明》。   ブッダの教えに矛盾しない!!

回答No.14

 こちらのスレで 尻切れトンボのままにしておくべきではないとも考えなおしました。  もしよろしかったら ねむりねこにゃあさんにご解説をお願いしたいと思います。  二点にしぼりました。  ◆ 輪廻についてです。  ★(回答No.13) 輪廻の主体(阿頼耶識みたいなもん。でもアートマンじゃない)  ★(同上) 〔DNAは物質性の話なので、〕  阿頼耶識による輪廻  〔と矛盾しません。〕  ★(同上) 〔双子は、たまたま、もう一人、〕  霊みたいな存在  〔が、その時、いっしょにお母さんの胎内に飛び込んだ。〕  ☆ 考えられることは こうなりましょうか。  (あ) 人間という存在にかんして 無我として無常なる何ものかが つまり霊みたいなアーラヤ識みたいなものなのであるが これが 自己運動のごとく輪廻するとは どういうことか?  (い) 輪廻を永遠に繰り返すならば 無常なるものが 常住の状態にひとしいことになるのではないか?  (う) 《輪廻主体》は 《わたし》か? 《霊のごときアーラヤ識のごとき》わたしか? 同じひとりの人間存在か? つまり 《わたし》にその自覚があるのか?   (え) 特定のひとりの人間である《わたし》は 輪廻をして前世から今世に生まれて来ているとは分からない。分からないけれども 輪廻というコトは――まだこの限りでは 無我説に立っており無常を絶対的にくつがえすものではない そういうかたちで―― 起こっていると見なされるのか?    ◆ ブッダのおしえは 無常なのか常住なのか?  ★(回答No.11) ~~~  bragelonneさんのように「既成の教学なんて…」と達観していない、僕は、  あ~、駄目だ、  恐くて、もうこれ以上は書けない。  ~~~~~~~~~~~  (お) ブッダのおしえは 無常なのか常住なのか?  (か) 常住なのではない。だから あくまでテクストにのっとる読みとそれからあとの解釈とのふたつの作業を明確にしておくためだけの段階区分を言ったまでだ。でしょうか?  (き) いや そうではない。そうではなく 法身仏という《真理(つまり おそらく非経験の場)》を大前提とし そこからみちびかれる理論であるかぎりでは 常住である。だから 歴史に沿って歴史を追って 人間は少しづつ一歩一歩テクストを読んで行くしかないのだ。でしょうか?  (く) そしてもし(き)のごとく《真理(要するに 無い神としてでも 神)》を想定するのならば それは ブラフマニズムにおける自性・常住のアートマンの想定と類型的にはまったく同じである。のではないか?     (け) つまり ブッダ あやまてり。ブラフマニズムとのマの取り方をちがえたのではないか?

回答No.13

実在の釈尊が説いたとされる『雑支部経典』に 「比丘よ、この心は光り輝くものである。 しかし、それは偶発的な煩悩によって汚されている。 …… 比丘よ、この心は光り輝くものである。 そしてそれは偶発的な煩悩から離脱している。 貴い仏子はこのことを聞き、真実を理解する。 それゆえに教えを聞く仏弟子には心の修習があるとわたしは言うのである。」 とあるのですが、 これが《自性清浄心》です。 「こころは、本来、偶発的な煩悩から離脱している」 「本来、こころには偶発的な煩悩がない」 ということを、《自性清浄心》と言っているわけで、 なにか、《心をきれいにする》があって、《それが心をきれいにする》ってわけじゃないんですよ。 《こころはそのままきれい》 そのことが《自性清浄心》の意味です。 かりに《自性》という言葉を使って、そう表現しているだけです。 ここの《自性》は《何か、そうたらしめている本質》という意味ではありません。 なので、インドの、仏教以外の他学派(バラモン教系統の諸学派)のいう《自性》にあたりません。 アートマン・我じゃありません。 それでは(大乗)仏教でなくなってしまう。 原文が長いんで、 漢訳される際に《自性清浄心》とされたか、中国の学僧の誰かが簡潔にそう表現したんでしょう。 漢訳仏典では簡潔な表現が好まれたらしいですから。 (なんとも投げやりな意見!! わたし、仏教の研究者でもお坊さんでもないんで… ブッディストであるかどうかも微妙ですから…) 話をもとに戻して、《光り輝く心》《自性清浄心》。 この考え方は、上座部仏教の正統派・説一切有部から徹底的な批判を受けます。 そして、その批判が、のちの大乗仏教誕生の一つの理由になります。 ☆☆☆  ★ ~~~~  阿頼耶識は、  誤解されるのを承知で、あえて空間的な表現を使うと、  輪廻を司るエネルギーのような種子(しゅうじ)や習気が  つまっている容器のようなもの。  ~~~~~  ☆ (あ) 《容器のようなもの》としては 常住なのでしょうか?  唯識本来の観点(《解深密経》の考え)からすると、  対象(阿頼耶識・種子が作り出したもの)がすべて消滅すると、  その本体である阿頼耶識も消滅します《境識倶泯(きょうしきくみん)》  なので、その《容器のようなもの》も消滅します。  したがって、《容器のような》阿頼耶識は常住しません。消滅することもあるからです。  これまた、比喩的な表現になるのですけれど、  阿頼耶識を集合、種子をその要素・元と考えると分かりやすいかもしれません。  阿頼耶識集合 A = {a, b, c, d}(a, b, c, dは種子)  修行をすると、a, b, c, dはなくなってしまうで、  A=φ    (φは数学の《空集合》、要素・元を持たない集合。    仏教の《空》の集合の意味じゃありません!!)  要素《種子》がないから、こちら側(迷いの世界の論理)では    その集合A《阿頼耶識》はないとも言えるし、    (数学的)な《空集合》としてあるとも言える。  でも、  そこでは、認識の見るもの、見られるもの(物質・精神的現象)は存在しない!!  なぜならば、どちらの発生原因である種子がもはや存在しないからです。  なので、般若・中観とも矛盾しない。  そして、それが”悟りの世界”(厳密には違うかもしれませんが)というわけです。  (初期の)唯識・瑜伽行派は、まぁ~、このようなロジックを使うんですよ。  余談ですが、日本の法相宗は、これとは違う唯識哲学学派の思想なんで、  これとは違った考え方をしますけれど…  実は、このあと、  八識が智慧になる《転識得智(てんじきとくち)》という  ”ならば仏智(四智)は常住するのか?”という、  これまた厄介な問題が出てくるんですけれど…  (い) 《輪廻》は ひとの一生を超えて前世・来世をも予定しているという意味でしょうか? でもそれだと 同じ DNA を持つひとは 《わたし》よりほかに(双子を除いてでしょうか) 一人もいないはずですが どうなのでしょう? ○《輪廻》は ひとの一生を超えて前世・来世をも予定しているという意味でしょうか? 質問中の《超えて》が「なにを意味しているのか」がよく分からないのですけれども、 《輪廻》と言ったら、前世・現世・来世をアプリオリに想定しています。 実在のブッダも、その教説を見るかぎりでは、その立場です。 しかし、修行によって《輪廻》から抜け出せる、つまり、その後は《来世》はない。 存在・時間を超越する。   (《超越》という言葉、使いたくないんですけれど、他に適当な言葉を思いつかないので) それが《成仏》の意味で、《永遠なる仏陀・法身》への思想につながるわけです。 なので、 その意味でなら、「《輪廻》は《ひとの一生》を超えてはいません」 ○でもそれだと 同じ DNA を持つひとは 《わたし》よりほかに(双子を除いてでしょうか) 一人もいないはずですが どうなのでしょう? 瑜伽(師地)論に、何か、そんなことを書いてあったような記憶が…。 死後、輪廻の主体(阿頼耶識みたいなもん。でもアートマンじゃない)が、 中陰(死んでから、つぎの肉体を得るまでの宙ぶらりん)の状態で お父さんとお母さん(再生の肉体的両親の意味)が(性的に)仲良くしているのを見て、 「楽しそうだな。僕もいっしょに楽しみたい」みたいなことを考えて、 お母さんの胎内に宿って、肉体性・物質性を得る。 双子は、たまたま、もう一人、霊みたいな存在が、  その時、いっしょにお母さんの胎内に飛び込んだ。 というわけです。 DNAは物質性の話なので、阿頼耶識による輪廻と矛盾しません。 ([その人の]阿頼耶識が自身の物質的存在も作るのではないか。矛盾しているんじゃ?  他人の阿頼耶識も原因(たぶん増上縁)になるんで、矛盾はしません。) DNAが同じでも、双子の阿頼耶識は別々な存在ですから。 まあ、おとぎ話みたいな話ですけど、 矛盾しない説明がつく。 でも、まぁ~、あんまり、この話を信じないでください。 言い忘れましたけれど、 唯識では、(体の外の世界)外界の事物の存在を認めません。 外界の事物もすべて心の中にあるとします。 唯識とは、《あるのはただ表象(びじゅにゃ~ぷてぃ)のみ》という意味です。 《びじゅにゃ~ぷてぃ》がなくなると、識・心(びじゅにゃ~な)もなくなるから、 《心が常住する》とかという議論は成立しない!! 《唯識》を《唯心》としなかったところがミソなんです。  (う) 《報身》は イエス・キリストとどう違いますか? 《イエスはキリストである》は 《真理の生きた姿》であると言えるように思いますが。  つまりイエスは 《応身》でありましょうし 《キリストとよばれるところの・神の子であり神である存在》は 《法身》であるように受け取れますが どうでしょう? 仏教の仏身(三身論)に当てはめれば、そう言っても間違いがないのかもしれません。 bragelonneさんの考える 《キリストとよばれるところの・神の子であり神である存在》 は、 仏教でいう《法身仏》、 少なくとも僕の考える《法身仏》のイメージにきわめて近い考えだ、 とかねがね思っていましたから。

回答No.12

 ねむりねこにゃあさん ご解説をありがとうございます。  あまりくどく成らないように かんたんに応答させていただきます。    要するに 諸行無常・諸法無我に対する例外があるのではないか? という疑問ですが やはり敢えていちばんの問題点と思われるところについて お尋ねせざるを得ないと思います。  突っ込むなと言われると 好奇心のつよい生徒としましては 反抗したい気持ちがつのります。たとえば《三身常住》というわけですから 疑問は残るように思うのですが?  ▲ (三身常住) ~~~  《法身》は 絶対的真理そのものをさし 永遠不滅ではあるが人格性を持たない。  《応身》は 歴史的世界に現われたブッダの身体であって 人格性を持つものではあるが無常な存在である。  《報身》は その両者を統合した仏身である。それは 衆生済度の願いと実践を重ねることによって報われた功徳を持つ身体であり 真理の生きた姿であるとされる。        (『岩波 仏教辞典』1989年版)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  あと かんたんにお尋ねします。  ★ 《仏性》は”客塵煩悩、自性清浄心”の延長線上に生まれた考えだ  ☆ この《自性》は 常住なるアートマン(我)としての自性ではないということでしょうか?  ★ ~~~~  阿頼耶識は、  誤解されるのを承知で、あえて空間的な表現を使うと、  輪廻を司るエネルギーのような種子(しゅうじ)や習気が  つまっている容器のようなもの。  ~~~~~  ☆ (あ) 《容器のようなもの》としては 常住なのでしょうか?  (い) 《輪廻》は ひとの一生を超えて前世・来世をも予定しているという意味でしょうか? でもそれだと 同じ DNA を持つひとは 《わたし》よりほかに(双子を除いてでしょうか) 一人もいないはずですが どうなのでしょう?  (う) 《報身》は イエス・キリストとどう違いますか? 《イエスはキリストである》は 《真理の生きた姿》であると言えるように思いますが。  つまりイエスは 《応身》でありましょうし 《キリストとよばれるところの・神の子であり神である存在》は 《法身》であるように受け取れますが どうでしょう?  以上よろしくお願いします。  yy8yy8az さん あとからですが お邪魔しています。

回答No.11

仏性ですかぁ? bragelonneさん、痛いところをついてきますねぇ~!! この問題、厄介なんですよねぇ~。 この問題、突き詰めると、 僕には、さっぱり分からない仏身論・法界論とかにまで波及しちゃうんで… でも、僕の知る範囲でお答えします。 ☆☆☆ ○ ではその霊魂ないし生命と 仏性とは どういう関係にあるのか? 僕は、 《仏性》は”客塵煩悩、自性清浄心” の延長線上に生まれた考えだ、と理解しています。 その考えに立って、説明します。 ”客塵煩悩、自性清浄心”は、 「煩悩は、お客さんのように、よそからきた塵のようなもの。  心は、本来、無色透明で綺麗なもの。  でも、煩悩という塵で、心が汚れているから、輪廻を繰り返す。  その塵をすべて取り払っちゃえば、心は無色透明の綺麗な状態に戻る。  それが”悟る”ということ」 というような意味です。 (釈迦に説法、bragelonneさんは、すでにご存知だと思いますけれど、他の人のためにあえて書きました) 本当は綺麗なんだけれども、いまは煩悩で汚れまくっている。 その心が修行によって、無垢・清浄な元の心の状態に戻れるんだよ、 仏(心)になれるんだよ。 そのことを「仏性がある」と表現するわけであって、 何か、心や霊魂、生命に《仏性》という特別な存在・機能があって、 それで「成仏できる」というわけではないんですよ。 その意味では、《仏性》は《空》や《空性》に近い種類の概念なんですよ。 すなわち、 物に《空性》があって、それで「物が空」になるわけではない。 それと同じように、 人間の心、霊魂に《仏性》があって、それで「成仏する」わけではないんですよ。 なので、般若心経の表現を借りれば、 《心即仏・仏即心》と言えなくもないんですけれど、 これは《悟り》の世界、無差別・一味平等の真理の世界の話なので、 《心即仏・仏即心》をそのまま、額面どおりの意味では受けとらないでください。 そんな単純な話ではないので。 要するに、《仏性》は、心や、霊魂・生命とは違うレベル、次元、種類の違う概念です。 関係はあるけれど、同じとか違うとか、同一次元では語れない。 ということです。 なので~ ○つまり 空観とも当然のごとくかかわっているでしょうし 理路としては色心を不二一体と見なす根拠であろうかと思いますが 果たしてどうなのでしょう? 《色心不二(観)》と、《仏性》は直接的な関係はありません。 なのですが~、 (大乗の)《自性清浄心》の考え方は、般若経の思想と密接な関係があるので、まったく無関係かと言えば、ないとも言えませんけれど、 でも、やっぱり別なものだと思います。 ☆☆☆ ○ブッダ自身は 仏性を説いていないという問題は かんたんに言って すでにブッダの世界観ないし境地には 仏性が潜在しているといった見方に落ち着くのではないかと思っています。 もちろん、 「《仏性》があるから”さとる”ことができる」 みたいに考える考え方もあることはあるのですけれども、 これは《仏性》と《如来蔵》を同一視した、 ある意味で《混同》した結果、生まれた考え方です。 『仏性が潜在している』 ではなくて、正確には 『《如来蔵》が潜在している』 と表現すべきかな。 《如来蔵》は法身の遍満性から出てくる考え方で、わたしたちの体にも如来(法身)が潜んでいるから、悟ることができる、と考えるわけなんですよ。その意味では「悟りの本体」と表現してもいいんですよ。 でも、厳密に言うと、《仏性》と《如来蔵》は別系統の教えなので、あえて、このことに触れてみました。 bragelonneさんのように「既成の教学なんて…」と達観していない、僕は、 あ~、駄目だ、 恐くて、もうこれ以上は書けない。 ○ブッダ自身は 仏性を説いていないという問題は… bragelonneさん、ご指摘の通り、《仏性》を直接には説いていませんね。 しかし、阿含経のどっかで《自性清浄心》は説いていますし、 ブッダの立場は 《修行すれば誰でも仏陀になることができる》 ですから、 《仏性》を説いているとも言えます。 ☆☆☆ ○ それと まだあいまいなことは 仏性は もしうつろいゆかざる何ものかであるとすれば それは 無我や無自性に反するのではないか? という疑問が提起されることです。 無我や無自性だから、悟り、成仏できるわけなので、《仏になる可能性がある》、つまり《仏性》とは矛盾しません。 《諸法無我》《諸行無常》だから悟れるので、《仏性》はそれとも矛盾しません。 また、《如来蔵》も矛盾しません。 仏に成るということは、空間的な表現を使うと、この輪廻の世界から抜け出し、法界に入ることなので、法界には輪廻の世界の法則は成立しませんから。 法界は輪廻の世界の背後にあるというか、メタ《輪廻の世界》みたいなもので、しかも、輪廻の世界を包み込んでいます。遍満しているんですよ。でも、それは《非思考・非経験の場》!! ちょっと、bragelonneさんの言葉を使わせていただきました。 bragelonneさん、法界・法身論は突っ込まないでください。 これはもう、論理・言葉を越えているので、僕には理解不能の世界ですから。 もっとも苦手な世界ですから。 ☆☆☆ ○アーラヤ識についても この疑問は出されていたと思います。 阿頼耶識も諸行無常・諸法無我の例外的存在だ!! という意味ですよね。 阿頼耶識も刹那刹那で変化するので、諸行無常、諸法無我に反しません。 似ているけれど、阿頼耶識は《我》・《アートマン》じゃないんですよ。 《アートマン》は常住、不変なもの。 阿頼耶識は、人間の身業・口業・意業によって、刹那刹那に変化しているんで。 阿頼耶識も、所詮は因と縁で作られたものですから。 阿頼耶識は、 誤解されるのを承知で、あえて空間的な表現を使うと、 輪廻を司るエネルギーのような種子(しゅうじ)や習気が つまっている容器のようなもの。 その種子が物質的・精神的現象を作り出すのですけれども、 作り出した物質的・精神的な現象の影響を受けて、種子も変質してしまうわけです。 なので、阿頼耶識も刹那刹那に変化するというわけです。 だから、常住不変のアートマンでない、《無我》 ということになります。

回答No.10

 No.4です。  ●(回答No.9) 《色即是空》から《色心不二》は出てこない。  ☆ もっともなことでした。  色も心も空観の対象になるという点は 当然ですし たぶんその前提があって 不二観に到るのであろうかとは思います。  わたしは 霊ないし魂あるいはつまり生命を その色心不二説をまとめる観点として持ち出しましたが ここで触れ忘れたことがあります。  ○ ではその霊魂ないし生命と 仏性とは どういう関係にあるのか?  つまり 空観とも当然のごとくかかわっているでしょうし 理路としては色心を不二一体と見なす根拠であろうかと思いますが 果たしてどうなのでしょう?  ブッダ自身は 仏性を説いていないという問題は かんたんに言って すでにブッダの世界観ないし境地には 仏性が潜在しているといった見方に落ち着くのではないかと思っています。  それと まだあいまいなことは 仏性は もしうつろいゆかざる何ものかであるとすれば それは 無我や無自性に反するのではないか? という疑問が提起されることです。  仏性は 諸法無我や諸行無常なる説に対して 例外であるのか? です。  アーラヤ識についても この疑問は出されていたと思います。  わたしの窮余の一策は 《想定するのだ》という捉え方をすることですが 果たしてブディストらのあいだでは どうなのでしょう?  このスレで問うてみておくのもよいと思いました。

回答No.9

>>色即是空という有名な言葉が在りますが、ここで取り上げた文章にある色心不二とは、この色即是空と同じことなのでしょうか。  空=心  即是=不二  と受け止めて間違いないでしょうか。 ☆☆☆ はい、 間違っています。 勘違いをしています。 般若心経には「空即是色」のあと、 《色即是空 受想行識もこのようなものだ》 と続きます。 なので、 『色(物質・肉体)は実体がない。 実体がないものこそ色(物質・肉体)である。』 これはセットで考えないといけません。 色は実体がないけれど、煩悩や無知などの条件があると、(物質的・精神的)現象界に現れるんです。仮の姿で現れるんです。 それが《色即是空。空即是色》の主張なんです。 だから、《空》や《空性》は、存在の一方的な否定ではないんです。 迷いの世界では、存在性をもちうるんです。 なので、 《色即是空・空即是色》はセットで考えないと、般若・大乗の空観にはなりません。 《色即是空》だけでは現象の一面性しか見ていないことになりますから。 般若心経は、さらに、こう説きます。 『受想行識(こころ)もこのようなものだ。 つまり、 心も空であり、空であるものこそ心だ』 つまり、”私”を構成する《色》と《心》が空である以上、 《私・我、アートマン》も空で実体のない存在だ、となるわけです。 なので、 空はすなわち《色》と《心》だから、迷いのある世界で”私”は存在しうる!! となるわけです。 《色》と《心》を別だてにしているから、 この段階では、とりあえず、まだ《色心不二》じゃないんですね。 まして、 《色即是空》から《色心不二》は出てこない。そうはならない。 なのですが、 般若の智慧とは無分別の智慧。 つまり、主観と客観の対立が消滅したところ、 仏教的に言えば、あらゆる差別・差別相が消滅したところで成立する認識。 この境地では、もはや、色も心の区別、差別も存在しないので、その時、はじめて 《色心不二》 が成立します。 しかし、迷いの世界の認識では、これは成立しません。 般若心経の冒頭に 「観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、ホニャララ、ホニャララ」 と、書いてあるでしょう。この部分を見落としてはいけません。 般若心経で書いている内容は、すべて、 観音様が 般若の空観、観法・毘鉢舎那(びなしゃな)を行なって、感得した世界、悟りの内容です。 つまり、この悟りの境地を感得するには、般若の空観、観法が必要なのです。 頭で、概念を駆使してあれこれ詮索しても、絶対に到達できない世界なんです。 そこに仏教の観法の重要性があるんです。 もっとも、 龍樹はその著書『中論』で、否定的な思弁を使って、 いろんなこと(煩悩即菩提、死即生みたいなこと)を言っていますが、 龍樹が言わんとするところは、 「どんな言葉、概念を使おうが、結局は、 それらを用いた思弁は論理的な矛盾に突き当たる」 という、言葉に対する不信と、分別(主観と客観をたてるような差別的な見方)の否定につきます。 自身が立てた”煩悩即菩提”みたいなことですら否定する、それが龍樹の立場です。 《有》のアビダルマ哲学の否定であり、 般若経典でとく《空》を単なる《無》と考えることの否定、 それが龍樹の立場です。 一方的な《有》でも《空・無》でもない、その中を観る、これが《中観》です。 このことについては、No.4のbragelonneさんの分かりやすい説明を読んで、考えてください。 ☆☆☆  色即是空:《色》⇒《空》  (”⇒”は”ならば”の意味です)  空即是色:《空》⇒《色》  ゆえに、《色》=《空》  同様に、《心》=《空》 (∵《心》⇒《空》、《空》⇒《心》)  よって、《色》=《心》=《空》  よって、《色心不二》が証明された。Q.E.D なんて、論理を使って証明できる、と考えないでくださいね。 《色即是空。空即是色》は言葉・論理を超えたところで成立する真理で、 本来、言葉では表現できないことを、かりに、人に分かるように言葉で使って表現しているだけですから。 金剛般若経では、空という言葉を一切使わず、 「心は心でないから、心なのだ」 と、通常の論理学ではありえない”論理”を使って、空に迫ろうとしていますしね。 余談ですが、鈴木大拙は「A is not A」の論理とか、「非即の論理」とか言っていましたね。 話を戻して、 般若波羅蜜行が完成した時、 最終的には、 《色即是空・空即是色》、《色心不二》、この真理すら否定されてしまいます。   (まだ、言葉に頼っている、分別、主格の対立構造が完全に解消されていませんから。) そして、それが、般若の智慧、無分別智の完成であり、真の悟りです。 (華厳教学では、十波羅蜜、無分別智のあとに後得智がある、とされているようですけれどもね) ☆☆☆ 「故に物色と心象とは本来一體の両面より色と心とに相待的に観てをる故に、實は色心不二である。」 これは、あなたへの質問なのですが、   この記述を読み、   あなたは《色心不二》と頭で納得できたのですか? だとしたら、あなたは、本当に素直な人ですね。でも、批判的精神がすこし欠けているかもしれませんね。 ここで帰結できる結論(あくまで論理の上で)は、   《色心不二》 ではなく、   《色心象不二》!! このことに、疑問を抱きませんでしたか? わたしは、日本・中国の仏教と仏教の観法に疎いので(じゃぁ、インド仏教をどれくらい知っているのかといわれると、困ってしまうのですけれども、ほんの少しだけよけいに知っているということにしておいてください)、 華厳四観でしたっけ、この前の観法であるらしい  《會色(物)帰心観》 がどのようなものか、よく分からないのですけれども、たぶん、これの思想的・教義的なバックボーンは 華厳経の十地品とかにある 「またこの念を作す。三界は虚妄にしてただこれ心の作なり。十二縁分はこれ皆、心に依る。云々、云々」 《物質的・精神的な現象は幻のようなものだ》 みたいなやつですよね。 海印三昧でしたっけ。 「その禅定中の心に現れる対象・表象、心象は心が作り出したもので、虚妄である。そこに空性があって、その場で縁起の理法が成立という」というようなことをいっているわけで、 心象とそれを見る心との明確な識別は必要だ、と思うんですけれど…。 僕は、華厳教学に疎いもので、ちょっと唯識的な観点から、僕の疑問を表明してみました。 會色(物)帰心観で、すべての物質的な現象が本当に心に還元されてしまうのなら、余計なお世話ですね。 でも、だったら、《色心不二観》は《會色(物)帰心観》に吸収されてしまうのではないだろうか、 と疑問に思ったりもしています。 わたしは、事事無碍、一即一切・一切即一、主伴無尽などの華厳の深遠な教義がさっぱり分からないもので、 こういう意見もあるのだということを、頭の片隅にすこし置いていただけたら、嬉しいです。

yy8yy8az
質問者

お礼

 「色心象不二」の“心象”は心に表れる象、というように思いますが、「色心不二」の“心”は精神、と捉えています。  だから“心象”ではなく“精神”が“色”とは“不二”であると。  また、「観」については修行法としての“観”ではなく、物の見方、考え方、と云う意味で使われているのだと思います。  と、疑問を持ちましたが、よく学ばれている皆さんの回答に接するたびに、無知であることを知ることとなり、学ぶ意欲が湧いてきます。  回答ありがとうございました。(2012/5/25 12:00)  

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     あの有名な般若心経の中に在る言葉『色即是空、空即是色』の意味を『空』の文字を使わずして論じた文章を見つけました。そこで此処に挙げてみます。  「物心不二観  主観の心象と客観の物象とは、本(もと)同一絶対観念界の故に、主観は能(よ)く客観を寫象し再現し得(う)。全く本質にして相ひ乖違(かいい←そむきたがうこと)するならば認識を可能ならしめざるべし。自ら之を実験(←実体験のこと)するに甚(はなは)だ、然らざるべからざるを信ず。(然らざるべからざる←分かりずらいですが強調した表現、かと思います)  然(しか)るに何故(なにゆえ)に主観客観は同一の本質が相ひ反対せる二現象となるや。答へて、能観の心と所観の物質とは、本(も)と一体を両方面より見たるものなりと云ふ事を得べし。如何(いか)にとなれば物体は外面より之を認識する事を得るも、主観は自ら観ずる外に之を識る由(よし)なし。然れば自己の内面は心にして外面は物質なり。  他の(←他者の)内面は之を意識するに由なきも、理に於いて一致すべき必然の規律あれば、他も自己と同じく内面は精神なり。此の理はすべての有機物を以て現存にまで推理する事を得。故に一切の外観は物質にして内面は心霊なりとすれば、能観と所観と、現存と意識とは同一の本質にして、内面の動機、外面の因果と現るる同一の活動を、二面より見たるに外ならず。  主観と客観とは同一の絶対観念態の内外二面の現象なりとせざるべからず。  故に主観客観は相対的規定の人間の方面より見たるものにして、本来一大観念たる物心不二なり。  之を色即是空空即是色と云ふ。物質が内観すれば観念にして、観念を外観すれば客観なり。故に同一観念態の内外二面なり。此の統一を絶対観念態と云ふ。故に全宇宙は全体客観物体なると共に、全体観念界なり。」  ☆ どうでしょうか。  『空』が意味する処の概念はこれまで多くの方々が“研究”されて、各界で発表されていると思いますが私が接したものは何れも、もう一つ判然としないものばかりでした。『空』の概念がどうもつかめないのです。  でもこうして、「“色即是空空即是色”とはこのことである」とはっきり示されると、これまでのもやもや感がいくぶんか、すっきりとしてきたように思うのです。  また今回心に残ったのは「内面の動機・外面の因果と現るる同一の活動」という言葉です。  皆様はどう思われますでしょうか。  ご意見など頂ければ、と思っています。  

  • この解釈は間違っていますか?

     先日、“人の道”さんに贈った文章の後に始まる「論」の私の解釈の可否、あるいは誤解の可能性の確認をしたいのです。  タイトルは「大圓鏡智」です。  観念態  一、法身の絶対的観念態  法身(ほっしん)一大観念態   吾人が現に寫象(しゃしょう)する處の世界の天体の星宿より、乃至山河大地動植物等に至る迄の森羅万象の相と顕われてをる物と、また一方に外界の万象を寫象する処の主観なる心との二面を為してをるが、客観界の一切万象は主観の心がなければ写像することが出来ぬ。客観と認むる物と、また吾人の主観の心とは、それが一大根元がなくてはならぬ。此の根元を法身の一大観念と云う。  法身自体は主観客観の相対的でなく、之を統一する処の絶対的観念態である。夫(それ)が世界の相対的の方面には物象心象の二現象と為るも、本質は同一観念態の相対的現象と云わざるべからず。故に此の一大観念も物心二象の本源なりと云うことを得。  吾人の主観なる心も客観なる物象も、本は同一法身の絶対観念態の分類現とす。故に此の物心二象の本質同一なりとの理を明かす為に四種の観を以てす。  今、華厳法界観の會色帰空観等の四観を物心即一観に転用せば、  (一)會色(物)帰心観  客観の万物の本質は心なのである。万象は主観の心に帰す。主観の心と客観の物象とは同一本質である。氷炭相容れざる如きもので無い。向こうに見ゆる山河大地等の物象は自己の観念が客観化して現じた相である。実は自己心の相を向うに見てをるのである。向こうの物夫れ自体は何であるかは、物の象と現れたのは自己の観念の相である。若し自己の心が無ければ、外界の相は如何なる象相なるかは認識することが出来ぬ。故にすべて客観の相なるものは必ず主観の心に帰すべきものである。【このあとに、色心不二観、物心無礙観、物心無寄観、と三つの項目で論じられています。】  私の受け止め方は、以下のようなものです。  (一)會色(物)帰心観に論ぜられていることは、いかにもこの世の世界は夢、幻なのだと行っているように思えます。また釈尊の「空」観をそのように捉えているような考えをしばしば見受けます。  でも、此処は客観の相は実在しないと言っているのではなく、あくまでもその実際の現象をとらえている心に現れている相は“主観”なのだ、その主観そのものを我々は実在と思っているのだと言っているのではないでしょうか。(上手く表現できないもどかしさがあります)  なぜって、実際にモノが在るからこそ、見たり触ったりする事が出来るわけですから。  ☆ この世の事は総て夢、幻、なんかではないのだ!   よろしくお願いいたします。

  •  物と心

     物と心  宇宙万象は本、絶対観念態より主観客観の二象は現じたるものとす。客観的観念を物象と名づけ主観的観念を心象と名づく。もと一大観念態が意志の力によりて実現せられたる客観々念態を現象宇宙と云う。    万物の固形即ち質碍なるものは、この力が地水火風の堅湿暖動の質は即ち力なり。力とは意志なり。観念の力によりて実現せるものが物質の現象となるを云う。若し、本質と意志の力のみならば、物質には盲動にして象相なく、色もなく声もなき、天に太陽なきが如く、物的盲動のみにして、花も色なく、宇宙万象なく、唯、物体動と分子動のみの盲動ならん。  絶対観念態ありて天に太陽の照らす如く、万物が心象を現わし、物と心との二現象が種々の象相をなすは、観念態の実現する所なり。同一の観念態が物象と心象の二方面に現れたりとす。是の絶対観念態を大円鏡智と名づく。  大円とは宇宙全体が同一観念態なり。観念態を鏡に例う。鏡とは相対的の甲の鏡に乙の物象を映現するが如くに非ず。宇宙全体が即ち観念態なり。一切森然たる物と心との二象は即ち観念態の力によりて実現せられたる影像なり。  故に今、宇宙の万象が即ち宇宙という観念鏡の影像に外ならず。力によりて現るゝ万象は新陳代謝して無始より已来種々に転変するも、其の内容は同一の観念態なり。森羅万象、若しは客観物象、若しは主観の衆生の心象、内観も外観も同一観念の両方面に顕現したるものなり。  この全体を統一して惣体なるは即ち大円鏡智、即ち絶対観念態なり。  ☆ これは明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章ですが、文全体の内容も漠然としか受け止められませんが特にわからないところがあります。  表題の次から五行目の  「若し本質と意志の力のみならば、・・・・・唯、物体動と分子動のみの盲動ならん。」までが特に分かりません。    ☆ 本質と意志の力のみ・・・・・ということはそれ以外に何かの力が有る、ということなのでしょうか。  よろしくお願いいたします。    

  • さて、何を語ろうか。

    主観的哲学と客観的哲学というものがあると気付きました。 ≪主観的哲学≫ ・我思う故に我あり ≪客観的哲学≫ ・人は必ず死ぬ 同様に ≪主観的哲学≫ ・私は最善の選択しかできない。故に私にとって私の選択は常に正しい。 ≪客観的哲学≫ ・善悪は相対的なもので絶対善、絶対悪はない。 恐らく我々は人生哲学(客観的哲学)について他人の助言を必要としない思われます。 客観という道具はもっぱら迷える子羊たちへの助言に使い、 我々は自身は、客観によって分離し取り残された『私』の本質を主観によって探るべきではないでしょうか。

  • 物心無礙観、物心無寄観、加えて“付録”

     今回は多くの方々から真剣な回答を頂けたのが、私には意外でした。  こうした回答を頂くと中途で済ませてはいけないと思いはじめ、だから再度これが最後の“関連の質問”をしておくことにしました。  彼のお坊さんの続いての文章です。  (三)物心無礙観  客観の物と相と主観の心の象とは本同一本質の物なる故に、相互に、相互に礙(さ)【さまたげる】へるものでない。吾人の観念は山河大地の内にも徹して碍(さまた)げず。試みに冥想観念して見給へ。吾人の観念は大地の中にも徹照して毫も妨げず。  されば吾人の観念中の萬物とも云い萬物内存の観念とも云い得らる。吾人の主観も法界に周遍して遺すことなく客観の萬物も宇宙に偏在して餘(あま)す所無し。然も相互に障碍せず。同質異現なり。之を佛心無碍観と云ふ。【物心無礙観が物心無碍観となっているのが不思議】  (四)物心無寄観  宇宙は本来絶対観念にて、宇宙自体は絶体にて主観とか客観とかの相待的のものに非ず。但し相待に規定せられたる衆生は客観の物象と主観の心象と見てをる。人間は自分から主観とか客観とか両面に分けて見てをるけれども絶対者自身より見れば、主観とも客観とも別々に分別して居らぬ。絶対である。之を物心無寄観と云ふ。  次に挙げるのは“付録”です。【前文の次の章です】  物質の触覚は絶体心の意志  客観の物象と主観の観念とは同一本質の相待現象なので、すべての物象も一大観念の客観的現象なることは巳に会得せり。然るに物質には吾人の触覚と感ずる重量とか個形態とかの如き阻碍性を有して居る所より見れば、心は観念なれば客観も心なりとは会得し難し。山河大地及木石の如き触覚に感ずべき個形態を何故に心なりと云ふべきぞ。答えて曰く宇宙一大心霊に寫象と意志との二属性を有す。  意志とは心の力能である。例へば人に意力ありて力と為り堅個と為る如く、宇宙心霊の力能が客観現と為りて、吾人の触覚に感ずべき物質となる。物質と心質とは同一本質の相待現象である。若し此の理に於いて能(よ)く了解し得ば、宇宙萬有は悉く一大観念の相象にして、能観の心と所観の山河大地等の萬象とは同質の反對現相にして、一切の触覚に感ずべき重力と個形態などは意志の力なりとす。  ☆如来の本体は絶体の大心霊体であって、知力と意志という属性があって、その心相は日光の遍く六合に照り渡る如き心の光明であるらしい。  その光明は、法身の四大智慧と報身の智慧との両方面があって、法身の四智は自然の一切の萬法に遍く亙れる理性で、それは一大観念と一大理性と一切認識の本源と一切感覚の本源である、らしい。  そして一大観念=大圓鏡智を五章に設けそれぞれ5~8ページに論じています。その初めの章で「法身一大観念態」の物心二象の本質は同一であると云う理を明かす為に四種の観を以てす、とあって、今回質問で取り上げた四つの観が著わされています。  今回の質問は、私からすれば遥かに高次元での真剣な回答に驚嘆し、それゆえに皆様方の受け止め方、を再度伺えないものか、との思いからなのです。  もしかするとここ哲学カテから居なくなってしまうかもしれない「人の道」さんに送った(←無偏光)回答を合わせて、ご感想をいただければ、とも思っています。  どうぞよろしく、お願いいたします。        

  • 色即是空について考えを述べてください

    私は芸術家なのでね。 見たままの感動を表す事を研究して、視覚に関する研究書からこんな感じの説明からこんな感じの発見をした。 視覚の末端組織である眼球を医学的に説明すると、色を識別できる組織はわずかで、脳で眼球から色彩の情報を受け取って、色を再計算して認識しているのだそうな。 さらに眼球から脳につながる神経は200万本で、すなわち200万画素のデジカメレベルのあらい情報でありスマートフォン搭載のカメラより情報量が少ない。 それも脳で再構築して認識している。 これは脳すなわち識の役割が視覚的認識に重要な役割を果たしている。 君がまぎれも無い真実だと確信している視覚的に認識し得るもの、仏教で言う色とは、一方で脳の構築した心に反映する識であり、脳はともかく心は形が無いから空である。 すなわち識と空は一緒であり脳の再構築だから我一人の心に世界が映ると言う識が世界観であり世界の認識である。 この論理で色と空は一つになる。 世界から受け取るなら色即是空であり、世界に働きかけるなら空即是色である。 この説明でもう判らないとは言わせんぞ。 解剖医学で実証されてんだ。 お釈迦様は感覚的にこの点に関して考え方を述べていた。 そして喜びたまえ。 長年の君達の信仰は証明されたのだ。 信仰がかなったことで、解脱でも悟りでも好きにしやがれ。 これを哲学と言うのだ。 君達の仏教哲学はウンコだよ。 証明された色即是空から古来の文献を改めて読み直すのはちゃんとした哲学研究になるのだよ。 君達は今までそうした事を一切しなかった。 今持ってそれが出来る知性が無い。 私だけがそれをしている。 私は伝承に語られる弥勒菩薩たる実力を備えているよ。 仏教業界でおらー弥勒だなどと言えば馬鹿扱いされるだろうと考えてそう言っている。 その馬鹿をさらに下回る虫けらが君たちだ。 そらそら、色即是空の見解について意見したまえ。

  • 常識の数だけ正義がある?

    誰もが自己の行動を「正義」と主張する。故に「正義」とは相対的なものであって、絶対的な「正義」などあり得ない。更には「正義とは、けがれた布切れ」(イザヤ)という考え。「君の主張する正義は、君にとっての正義に過ぎない」という言い方。 次に、色々客観的と思われる例証を挙げて「だから、こうだ」と言うと「それは君の主観でしょ?」と一蹴される。主観には違いないのだけれど、主観だから取るに足らないと言ってるのと同じで、こういう言い方、何かおかしいと思いませんか? 次に、ジャーナリストのウォルフレン氏が書いていたのですが、彼は全人間共通の尺度をもって論じているのに「彼の考えは西洋中心主義だ」で片付けられる。これは日本人同士でもよくやりますね。奴はアカだ、右翼だ、左翼だ。 上記3つの論法で共通するのは、そう断ずることによって議論がそこで止まってしまうことです。そして、そう一言、言った相手が高みに立って議論に勝ってしまうことです。ウォルフレン氏は議論をそこで止めてしまわないで、議論を続けるべきだと書いてます。 上記3つの論法に対し貴方の意見を聞かせて下さい。

  • 弦理論やM理論を究極的には点粒子理論に還元できないか

    弦理論やM理論で紐や膜は,素となるものとして,扱われていますが,振動モードや結合や切断といったパラメータを取ることから, 究極的には,紐や膜はそれらを構成する点の集まりから成っていると捉えると 素は点粒子から成っていると考えることが出来ないだろうかと思います。 そして,この場合,理論の(唯一の)パラメータは点が他の点に及ぼす作用と考えます。 その作用の有り様から紐や膜を作るような結合力ができるようになっているのだと解釈することは出来ないでしょうか (* これらの理論に関して,全くの素人なので,素朴な疑問として浮かびました) それから,これも素人の勝手な想像ですが,理論物理の発展過程において, 古典論 → 相対論,量子論 → ヒモ理論 を説明する一つの考え方として, 主観時空と客観時空という概念を用いて,説明することが出来ないかと思います。 古典論 では、… 主観時空を客観視していたことにより精度の限界があった 相対論 では、… 主観時空を客観視したままになっている。 古典論と比較できるところは,主観時空の全体的構造を捉えるようになったこと 量子論 では、… 主観時空を主観視することができるようになった ヒモ理論 では、… 客観時空を捉えるようになった というようなことを考えることはできないでしょうか?

  • いろんな考えがあることを認める立場に立ちたいが、一定の勝ちは認められない・・ これは自己矛盾??

    いろんな人のいろんな意見があります。 それは認めます。 しかし、僕が、どうしても認められないときがあります。 いろんな考えがあること自体を否定する考えです。 よく似たものとして、差別する人を差別することも差別なんだろうかとかも思っちゃいます。 僕はいかなる意見も認めたいです。 絶対的な意見など無いと思っています。(A) しかし、上のように絶対的に認めたくない意見もあります。(B) これは自己矛盾でしょうか? Aは客観、Bは主観とも思えますが、 差別することや価値相対主義を否定することは客観的に正しくないとまでおもっています。 人と議論していて、いつもこのことに悩まされます。 いつかつつかれたらなんてつつじまをあわせればいいのでしょうか?すじを通したいのです。 たとえば、価値相対主義を否定してくる人に対して、どう言えばいいのでしょうか?そういう人の意見もわかるのですが、それはよくないと言いたい。 けど相手から、「あれアンタは価値相対主義なんでしょ?だったら僕の意見もあったっていいんでしょ?」と言われたときに、「うん、あってもいいよ、けどね・・・」 とその後どういえばいいのでしょうか?? 何か自分で言ってて分けわかんなくなってきちゃいます。誰か僕の立場で、スジを通してください・・(+_+)

  • バカ=自己中心性(心理学用語の)。この命題は、真?

    心理学の自己中心性というのは、自分の 主観から抜け出せず、客観的な思考や 相対的思考が出来ない状態をいいます。 その自己中心性の人は、具体的にどういう人間かというと、 例えば、ある高卒の人a君が、自分の嫌いな相手b君が 普通の大卒だと知った時に、a君の知り合いに 一流大卒のC君がいるからといって、高卒のa君が、 まるでC君の事を自分の事の様にいうa君みたいな人です。 自分と他人を客観的に区別出来てないですね。 ここで出てくる、a君はバカですか?