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常識の数だけ正義がある?

誰もが自己の行動を「正義」と主張する。故に「正義」とは相対的なものであって、絶対的な「正義」などあり得ない。更には「正義とは、けがれた布切れ」(イザヤ)という考え。「君の主張する正義は、君にとっての正義に過ぎない」という言い方。 次に、色々客観的と思われる例証を挙げて「だから、こうだ」と言うと「それは君の主観でしょ?」と一蹴される。主観には違いないのだけれど、主観だから取るに足らないと言ってるのと同じで、こういう言い方、何かおかしいと思いませんか? 次に、ジャーナリストのウォルフレン氏が書いていたのですが、彼は全人間共通の尺度をもって論じているのに「彼の考えは西洋中心主義だ」で片付けられる。これは日本人同士でもよくやりますね。奴はアカだ、右翼だ、左翼だ。 上記3つの論法で共通するのは、そう断ずることによって議論がそこで止まってしまうことです。そして、そう一言、言った相手が高みに立って議論に勝ってしまうことです。ウォルフレン氏は議論をそこで止めてしまわないで、議論を続けるべきだと書いてます。 上記3つの論法に対し貴方の意見を聞かせて下さい。

質問者が選んだベストアンサー

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  • sheep67
  • ベストアンサー率28% (36/128)
回答No.5

こういうのあるあるーと思ってしまいました。 レッテルを貼ることで、議論から逃げてますね。よくあります。 辛い話し合いはしたくないので、決めつけに逃げます。僕もよくやっちゃいます。 断じるというか、本当のところ話の内容について直接話し合ってないですし、 子供のけんかで、「馬鹿だ! 馬鹿と言った方が馬鹿だ! 馬鹿と言った方が馬鹿だ、と言った方が馬鹿だ!」という言い合いがありますが、同じです。決めつけたほうが勝ち、というものですねー。 相手の内面の心理を見るなら「逃げないでよ、レッテルをはって逃げるのはずるいよ」と言うかなー。 論理で追いかけるなら、「その根拠は? 役に立つかも知れないじゃない? 」と聞き返したいです。 現実的に言い返すなら、「煙に巻くような言い方は止めて、僕ときちんと向かい合ってよ!」と言うかしら。 君の主張する正義は、君にとっての正義に過ぎない そういう理屈を言い返してくるということは、その人もそれだけ悩んだり、しんどい思いをしたり、辛い中から生み出してきた言葉だし、屁理屈でも重みはあります。 相手も怖くて虚勢張ってる面もあります。 相手が大事な人で、議論を通して伝えたいことがあるなら、相手と同じレッテル張りを僕もやるのじゃなく、 どこまで相手を理解できるか、に集中します。 自分と同じで不安や怒りや、矛盾に悩んでるはず、と思って理解を進められたら、かなり展望が良くなる気もします。イラッとなるってことは、僕にも感じるところがあるし、それは、似たもの同士の一面があるので。 断じる手堅さや威勢、威厳に対して、同じ物で向かうと、上に書いた子供のけんかと同じことになります。話の内容より、ある種の権威や勢いが優先しますし。 それでもダメじゃないけど、本気で主張する熱意があるなら、権威より本気がいいと思います。そうやる価値があるかどうかだけど。その本気は間違いなく相手に届きます。 その相手は自分にとって大事な人かどうか、相手を理解できるかどうか? が、議論を持って行けるかどうかじゃないかしら。 本気で主張する物があれば、こちらはぶれないし。 こちらが、屁理屈でごまかす以上の大事なことを話してることを伝えたいですね。戦いより本気がいいと思いますー。 と言っても、やっぱぼくはその場にいないので、これは当てずっぽうですが・・。 切り返しの具体的方法は、気持ちに注目するか、論理に注目するか、現実的に行くかで、違うような気がします。

0123gokudo
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 哲学カテゴリーは皆さん、流石に、それぞれユニークでなかなか難しい回答をされますね。 私は常に本気なんですが、それでも相手になかなか伝わらないですね。

その他の回答 (4)

  • nahaha55
  • ベストアンサー率21% (274/1301)
回答No.4

力の無い正義は、ただの無力です。 正義を主張するなら、それに似合う力が必要です。 何処の国でも歴史が証明しています。

0123gokudo
質問者

お礼

力は正義なり、ですか? どこかで聞いたような・・・ いや、ちょっと違いますか。

noname#131234
noname#131234
回答No.3

客観的という言葉を受け入れている時点で、罠にはまっています。 問題は人間として、どういう行動をとるかという事です。 コピペを繰り返す人は、まず、客観的ではありません。 最小限の努力で最大限の効果を得るぼくチン! うっしっし!またポイント稼げる!にゃはは!というのは、唯物論者であり、唯物論者は主観だけが存在するという意見を持っていますから、何を相談してもダメです。 唯物論者の理論は、 1常識の数だけ正義がある 2常識は存在しない 3正義は存在しない という意見です。 認めている法律は、その法律を通じて、自分が脱税できるさらに節税できる場合のみ、 法律として認証されます。 具体的には、 自己の自由を保証する法律と、 海外居住者非課税の法律です。 交通ルール コミュニケーション=ネチケットも無視します。 レッテル張りはお手の物。この人にとって普通の人・より納得のいく議論のできる人は、嵐です。 自分の意見を理解しない人間はみんな馬鹿であると騒ぎ立てます。 そういう人がいて、その人が馬鹿であるというのはいとも簡単に証明できます。 簡単な証明は、 そういう唯物論しゃは、精神はただの言葉だと思っています。 認識の対象が精神であるとのべるか、 自己満足に二つありそのひとつが精神的満足であると述べるかのどちらかです。 問題はその方たちが精神的に満足することがないということ。 唯物論者である限り、精神について説明は出来ないし、精神的満足も得られないのです。 常識がない人たちなのですから。 無知の自覚もありません。 (乱暴狼藉の前口上として、 自分は、乱暴物・ばかものであると陳べるでしょう。でもそう思っていません。言い逃れです。)

0123gokudo
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 そういう論法を使うのが唯物論者だとのことですが、 そういう論法を解剖、解説、批判をして頂きたいのですが・・・。

回答No.2

「正義」とは何でしょう? 意識体にとって最もシンプルな行動原理である「意志の発露 =その達成による充足感」は、その延長に「精神的充足量の 人生を通算した最大化」という根本的目的を生じます。 そこに於て、正義や善悪(あるいはお金)といった社会的な “価値”は、そうした自己の自律的な生における因果関係が 不明なブラックボックスであり、他律的に社会行動を強制する ものです。 それは、自己存在の本質に根差した生(社会生命的自覚(愛) による自律的社会行動=生存自体による充足)とは無縁な、 アメ(衝動的充足)やムチ(苦痛からの逃避)であって、 表面的な物質的繁栄や肉体的生存に比して、相対的に充足量 の低下を招く、必要悪に過ぎません。 (そうした修正主義はご都合主義であり、色々あって当然)

0123gokudo
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 充足量? 何だかよく理解できませんでした。

noname#125540
noname#125540
回答No.1

おっしゃることには同感です。 しかし仮にこちらが決めつけないよう努力をしても、 相手の側が相手の立ち位置から頑として決して動こうとしない場合、 議論を続けても堂々巡りになります。 私は技術も経験もありませんので、それをどう打破できるのかわかりません。 ウォルフレン氏のことは分かりませんが、 一般論として、 本人は「全人類共通で公平」なつもりなんだけど、 こちらに言わせれば発言者本人が「自分の基準」を正しい基準にしていて、違う基準や違う世界があることに気づいていない場合はあるように思います。 もちろん、西洋人に限らず日本人もそういうことはあると思いますが。 「おまえも一緒だろ、な?」 と言われても内心は「いや、違うと思うんだけど」というような。 「バカの壁」と言ったら乱暴すぎるでしょうか。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%AB%E3%81%AE%E5%A3%81 (この本は解りにくかったけど、主旨は了解できます)

0123gokudo
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 「バカの壁」Wikipediaに「人間同士が理解しあうというのは根本的には不可能である。理解できない相手を、人は互いにバカだと思う」というのが本書の要点である。と書いてありました。う~ん、そんなものかなあ?

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    論点をさぐり良い方向に向けて解決していくことができます。ゼミの研究で「新たな公共交通の構築」というテーマを5人で取り組んでいました。研究中には公共交通の実施場所について意見が分かれた時がありました。研究に行き詰まっている中、私はどこまでが同じ考えでどこからが違う考えなのかを振り返えることを試みました。すると「安全で且つ企業が密集している場所」という共通の考えに辿り着きました。この出来事のお陰もあり、グループ内で はお互いの意見を聞いた上で、どこまでが共通の考えなのかを確かめるようになりました。このように問題点を明確にしていくことにより、次の段階へと進むことが出来ました。この繰り返しの結果、ゼミでの研究成果を議論する場である日本学生ゼミナール関東部会に出場した際、112 チーム中10位という順位という成績を残すことができました。この体験を通して、チームワークでは相手の言いたいことを理解し、共通する部分を発見して、お互いのベクトルを同じ方向に向けていくことが大切だと学びました。今後社会人になっても、その姿勢を大切にしていこうと思っています。

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    論点をさぐり良い方向に向けて解決していくことができます。経済系の学生が研究成果を議論する場である日本学生ゼミナール関東部会に5人で出場した際、「新たな公共交通の構築」という主題で取り組んでいました。研究中には公共交通の実施場所について意見が分かれた時がありました。私は相手を理解するために、どこまでが同じ考えでどこからが違う考えなのかを探ろうと努力しました。その結果「安全で且つ企業が密集している場所」という共通の考えに辿り着きました。この出来事のお陰もあり、グループ内で はお互いの意見を聞いた上で、どこまでが共通の考えなのかを確かめるようになりました。このように問題点を明確にしていくことにより、次の段階へと進むことが出来ました。この繰り返しの結果、先述の大会では112 チーム中10位という順位を取ることができ、審査委員の方々からも良い評価を得られました。この体験を通して、チームワークでは相手の言いたいことを理解し、共通する部分を発見して、お互いのベクトルを同じ方向に向けていくことが大切だと学びました。社会人になってもその姿勢をずっと大切にして 生きていきます。