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客観的芸術ってなんでしょうか?

arayata333の回答

回答No.8

(補足)  arayata333です。 Ano・7の補足です。 あなたは、数学が好きなのですね。 私の知ってる人に 天才的な数学の能力の持ち主がいました。 (今は亡き人ですが) その人から私は直接にこんなことを聞いています。「数字の 世界は、私にとって雪や雪の結晶の世界のように美しい。 追いかけてゆくと、同じようにこころが洗われる。」  私自身は ちょうど分数を習う頃に体を壊し、何度も死に かけてますので、数学は基礎から解らないのですが、 それなりに想像してみての事でしょうが、彼の大自然に対す る感性までもしのばせる言葉のように感じます。  感性に関しても、数学自体の中に“客観的なその真実”と 言えるものが見つかるのかどうか、私には解るはずもないと ころですが、  数学志向の人が、芸術家より芸術的感性が 低いとかいう事は言えないし、 むしろそうした感性の鋭い 人はたくさんいると思っています。(今の商業的な芸術の世 界にては、少なくとも芸術家気取りの人よりは、隠れた才能 をもってる人が多いのかもしれません。)  すみません、グルジェフに関して「危険」と書いてしまっ たので、その後あなたのことをよく考えてみて、あなたの場 合いは別なのではないかと思え、訂正の補足文を書かせてい ただいてます。  実はつい最近も、宗教組織の中のひどい間違いに対して、 またその中の人達のメクラ性にたいして、そして何よりも それを解っていて得々と人を騙してる人達に対して、 憤り を憶えることがあったばかりだったので、、 それで、 とばっちりが神秘主義にも向けられてしまったと お考え下さい。  あなたの文は ほんとに あなたという人物を読み取りに くい文ですが、要はやっぱり役者なんだと思います。 文でもピエロを演じてるようなものなのかもしれません。  別に演劇を勧めてるわけではないですが、演技の世界につ いても思わず書いてしまったので、ちょっとついでの触れて おきますね。  演劇って 「表象」という「役の表面的な印象」のような のを捕まえるとブキッチョな人でも楽に演じられるコツのよ うなものとなるのですが、 ふつうは それよりも「仮定」 という概念がそのコツとしても有名です。  “もし”自分自身が その役と同じような状況に生きてい たなら…、 というその“もし”が「仮定」に当たるわけで す。  この「仮定」の力で、役者はその役を舞台上に生き示す事 ができ、紋きり型のものまねを脱した演技が可能となると 言われているのです。  でも やはり、器用な人や、もともと自然に「表象」を捕 まえてる人でないと 実際の演技は難しいです。 その上で もっと生き生きした演技を求める時に「仮定」という概念を 使うというのが、より客観的に正しい考えだと私は思ってい ます。 だから 数学志向の人に直接の演劇の世界を勧める気持にも ならないわけなのです。   でも、この「仮定」の概念自 体は そちらのような物事を深く考える人にはおもしろいか もしれないと思いついでに書いてみたわけです。  人の心の中のことは どうせそう簡単に深いところまで想像 することは不可能という前提がそこにはあります。 『正直にそ の謙虚さを持ち、舞台には自分自身を生き示すのだ、「仮定」 という想像力の力で』というのが、演劇舞台芸術でのひとつの 結論のような形で言われています。 ただ そこなのですが、 ここに謙虚さの一文字を忘れてとら えてる人がいて、それが どこまで本物の演技かの分かれ目と なっていってる気がするのは私だけではないでしょう。  あなたという 本質的には地が役者のような自他を観察する 人も同じです。  あなたの場合、謙虚さがあります。 宗教 組織の中の疑わない自分で考えない信仰を謙虚さと勘違いして るのと違って 本気でいつも先の向かって歩こうとしてる精神 がそれです。  それさへある人は、 神秘主義だろうと宗教だろうとそれに たいしてそのまま謙虚であればいいんです。 よく解らないうちに えらそうな取り越し苦労をして えらい すみませんでした。 神秘主義はたしかに私の理解力の範囲を越えています。 でも だからといってそれが間違ってるとは言えないことはもちろん ですし、 ほんとうは たぶんですが、こう思ってもいるのです。  あまりにも深く確かな感性の世界にたどりついてしまった超 人的な賢者は、その世界を凡人のわれわれにどう伝えたらいい のかかえって解らなくなるのではということがまず思うところ そこで、数学にもくわしいグルジェフのような人は、不正確な 言葉世界よりもそれで現せるものを通じてより確かな世界への 安内としようとしたのだとも考えられます。 そしてそれを 客観芸術と読んだのではないかとも推測ですが思う者でもある のです。  ちなみに、私の知っているその今は亡き数学の天才は、神に ついてこう言ってました。 「神が存在するかどうか解らない? そりゃあたりまえだ。 物理や自然現象は解るけど、どうして存在してるのかとかの 問題は、人間にとってはけして裏を見ることの出来ない壁の 向こう側の問題なんだから」 と言って謙虚に神は信じてまし た。  ともかく、同じ種の謙虚さを持ってる方のグルジェフへの信 頼を 凡人の私が言えた義理ではないわけです。  すみませんでした。   また、  何かの参考になればと思い 一応 いろいろ付け加えてみ ました。  

sann9
質問者

補足

いえ、気にするほどでもないです。同時性リアリティの難しい仮定の空間です。回答なるほど、追記をありがたくおもいます。 私は算数は得意でしたが、数学は苦手でした。 仮定の話がわからない人間であったのかもしれません。ゼロなどはいい例だとおもいます。機械的なシステマティっクさが計算には有りますが、当時は種種の概念に魅力がなくなったもしくはついていけなかったのかもしれないと感じます。最終的にはとりあえずは適応せざるをえませんでしたが、先生にも質問攻めをしたりして大変な思いもありました。 謙虚さですが生きていくうえで自然に身に付く術のような気がします。時にはそれが習慣になっていてそれでいいのだろうか?とも思うのかもしれません。仮定の話です。 より自分を役立てていくには眠っていては駄目です。では何をすればいいのでしょうか? 人の行いには不可思議な何かがありますが、それを知ることでより思い通りに出来るでしょうか? 人の行動はいつも比喩的に監視されているといえなくもありませんが、その中でもしこれがこうならばとあとで考えることは難しいです。そして仮定の話をでっち上げ、自分や他人を気づかないように騙す。ここからの脱却、つまり目覚めです。自らの行動をチェックすることからはじまるだろうとは思いますが、まず自信が無いでしょう。 こんな補足ですが、出た物です。(無責任)批判があればよろしくどうぞ。(とりあえず締めることが出来ません。誰かの目に留まりついかがあるかもしれません。楽しもうというかもったいないというか) 関連をいただいた上で投稿している次第です。それではまた。

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