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ラザロ復活について

kigurumiの回答

  • kigurumi
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回答No.4

No.3です。 >また、ラザロの名前の由来を調べた結果、ラザロはヘブライ語 >“エルアーザール”をギリシャ語化したもので、その意味は >“神は助け給う”らしいです。 すごい! そこまで調べたんですね。 あのエルアザルですか! これも肩書きか??? イエスはイエシュア(ヨシュア)であのヨシュア記のヨシュアと同じですよね。ヤハウェは救い という意味。 ヨハネだと<ヤハウェは恵み深し> モーセが自分の後継者としたのがヨシュア。 アロンの息子はエルアザル。 ミリアムはアロン・モーゼの姉でマリア。 これらは肩書きだと私は思うんですよ。 日本の歌舞伎に襲名制度がありますよね。 あれと一緒だと思える。 従って新約聖書に登場する名前は、別名でも同一人物の人がかなり多いと思います。 イエスの本名がわからない。 まさか義人ヤコブでは?? と思ったりもしましたが、ヤコブも襲名の可能性があり、イエスと同一人物だったとしても、本名はわかりません。 >キリストのこの逸話を残したいが、 逸話話といえば、有名なのが姦淫した女を助けたというエピソード。 今調べていてわかったのですが後世の加筆の一つとして有名だそうです。 改悛した娼婦として宣教する際の広告に利用されましたが、<娼婦すらイエスにかかれば救われる>という奇蹟話のドグマが・・・。 >シモン・マグスの名前を表に出したくなかった者が >(キリスト教会?)、シモン・マグスをラザロという名前で >書き換えたということはありえる話かもしれません。 あくまで下記の内容は一説なので参考程度にしておいてください。 シモン・マグスは前にリンクに貼った動画(カクカクしてみれないと思いますが)に出てくる人物で、信者は彼の死後もずっと多数いたようで、かなり強力な派閥だったようです。(4世紀頃まで強かったみたい。) 彼の地位は西マセナのマギ派、あるいはサマリア人たちに領袖であり、ゼロテ党の実際上の扇動者であったメナヘム(ディアスポラのエッセネ派で、マギ派を創設)の後継者だった。 ペトロは彼と激しく対立し、シモンはペトロから聖霊を与える力を金で買い取ろうとしたと断罪した。 シモンはグノーシス派の宗団の指導者で、自分は神が受肉したものと言っていた。 彼の思想は自由化されたユダヤ教とギリシャ哲学と科学の混交という教えだった。 洗礼者ヨハネの死後、ヘレニストの権力が台頭すると、教父になり、常にゼロテ党の見解を持っていた。 AD50年頃はキリスト教の激しい敵となった。 シモンは「熱心党のシモン」「カナナイオスのシモン」として12使徒のリストにも現れている。 が、一番有名な偽名はラザロ。 死人から復活させられたラザロ、富める男の物語に登場するライ病のラザロ、そしてライ病人のシモン。 クレメンスの諸文献は、彼のことを魔術師(マグス)として紹介している。 マグスはイエスを真のダビデとして受け入れ、平信徒もレビ人として活動できるという見解を持っていた。 (イエスはレビ人の可能性があるけど・・・) イエスはシモンを愛した。つまりアガペーと呼ばれた交わりの食事をシモンとした。 このようにイエスとマグスは個人的にとても親密で、ゼロテ党の活動において民衆を扇動したマグスが、その威力をすぐために破門されたとき、マグスをイエスが助けたため(ラザロの復活、恐らく地位の復活)、イエスがゼロテ党の見解を支持する側だという認識になり、政情不安になったとき、それがもとで、イエスも民衆を扇動している人とされ、ピラトに引き渡されることとなった。  のではないかと。 激動の時代だったので、権力がころころ移り、派閥の頭が力を失うと、今まで優勢だった人も一夜にして、天地がひっくり返るような状況に陥っていたようなんです。 という風に、その当時の情勢を知ると、いまいちわからなかったことが、ちょっとは見えてくるように思えます。 マグスもイエスがいなければ、新約に悪人として描かれることもなく、聖書みたいなものに聖人として奇蹟を行った人として名を残していたかもしれません。 バル・コフバ。彼は歴史に名を残しました。

pirozhki23
質問者

お礼

お礼が遅れて申し訳ありませんでした。 >これらは肩書きだと私は思うんですよ。 >新約聖書に登場する名前は、別名でも同一人物の人がかなり多いと思います。 肩書きですか、ありそうですね。実際に使徒のなかでもタダイはユダとも呼ばれたりしていますからね。そういった肩書きは、例えばラザロなら、イエスに救われたという出来事があって、その後誰かにつけられたか、自分で名乗ったかしたのでしょうか。イエスの「ラザロよ出ておいで」という言葉が印象深く残っていたのですが、もしラザロという名前が後から付けられたものだとすると、イエスは少なくともそう言わなかったという事になってしまいます。ちょっと複雑な気分です。 >イエスがゼロテ党の見解を支持する側だという認識になり~ ラザロ復活の話は、ヨハネの福音書のみに書かれる話です。一般にヨハネの福音書の成立は他の福音書よりも後だと言われていますが、仮にそれが本当だとするとこの福音書の著者は何か特別に意図するところがあってこの話を入れたのだと考えられます(ラザロ復活がヨハネの福音書に書いてある通りに起こったのだとすると、このような重大な奇跡を他の福音書の著者達があえて書かなかったということは考えにくい)。実際、イエスがラザロを復活させたことをパリサイ人達が耳にしたことで、彼らがイエスを殺すことを決心したと聖書に書かれているので、物語上でも重要なところであることに間違いはないのですが、kigurumiさんがここで示された見解と合わせて見てみるとあまりに符合するので驚いています。 さて、ヨハネの福音書の著者がこの話を入れた理由ですが、 >イエスはシモンを愛した。つまりアガペーと呼ばれた交わりの食事をシモンとした。 色々調べていたら、ヨハネの福音書の著者がラザロではないか、という説があるのを見つけました。確かにこの福音書の著者はイエスの愛した弟子と言われており、イエスの愛した者としてラザロのことを書いてありますが…。 ヨハネの福音書の最初に(1章、9節)「世に来て人皆を照らす真の光があった」とありますが、暗い洞窟に閉じ込められていたラザロにとって、助けに来たイエスは光には相違ないはず…です。 回答ありがとうございました。

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