• ベストアンサー

ラザロ復活について

benderの回答

  • bender
  • ベストアンサー率45% (108/236)
回答No.1

> ラザロは既に信仰によって救われているのにどうして > 肉体を復活させなければならなかったのでしょうか。 僕も聖書のその箇所を読んでみたのですが、そこには(特にヨハネの福音書 11章42節)、イエス自身がこの質問の答えとなることを言っているのでは、 と思いました(聖書の日本語訳は、著作権がある場合もあるので ここに引用しないのですが、ご自分で直接確認してみてください。) 要するに僕は、そこにいあわせた人たちが、イエスが神様から遣わされた ことを信じるように、ラザロを復活させたのだと考えたのですが、実際に、 45節には、その場にいた多くの人たちがイエスを信じたと書いてあります。 > ...ラザロの死はキリストにとって悲しいものではないはずです 僕には難しいことはわからないのですが、思うに、ラザロを(この世で) 失った人たちの悲しみや憤りを、心から同情できるところが、イエスの 画期的にすごいところではないか、と。

pirozhki23
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >イエスが神様から遣わされたことを信じるように、ラザロを復活させたのだと考えたのですが 確かに11章でそういったことを窺わせるキリストの言葉は42節以外にもいくつかありますね。4節の「神の栄光のため、神の子が栄化されるためである」や、15節の「ラザロは死んだ。わたしがあそこにいなかったことをよろこぶ。いなかったのはあなた方のため、あなた方が信ずるためである」などです。 徴としての奇跡という視点で見た場合、死人を甦らすということはそれを見るものにとって非常に効果的にはたらきそうです。

関連するQ&A

  • 十字架に磔にされたキリストの言葉の正しさと奇蹟

    十字架に磔にされたイエス・キリストの七つの言葉は、正しいのに。 何故、聖書には余計な「キリストの復活」という奇蹟が記述されたのですか? 1>「父よ、彼らを赦して下さい。なぜなら、彼らは何をしているのかわからないからです。」(ルカの福音書23章34節) 2>「アーメン、あなたに言います。あなたは今日私と共にパラダイスにいます」(ルカの福音書23章43節) 3>「ギュナイ、そこにあなたの子がいます」「そこに、あなたの母が」(ヨハネの福音書19章26節-27節) 4>「エロイ・エロイ・レマ・サバクタニ(わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか。)」(マルコの福音書15章34節)「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」(マタイの福音書27章46節) 5>「私は渇いている(ディフォー)」(ヨハネの福音書19章28節) 6>「終わった(テテレスタイ)」(ヨハネの福音書19章30節) 7>「父よ、私の霊をあなたの手にまかせます」(ルカの福音書23章46節) 私は、十字架に磔にされ死を迎えるイエス・キリストに仏性が働いていたと思うのです。 このことから、イエス・キリストは、人が神の使途であると信じることは、他人から批判されて、罪となると云う事を示しました。 同時に、自らの信仰は人間の幸福の源であると云う事も示しました。 「キリストの復活」の記述は、キリストの言葉の正しさを台無しにしています。 イエス・キリストが示した、自らの信仰による幸福と自由を無にしています。 聖書の奇蹟は、強固な組織を作って、功利主義を導くために記述されたのですか?

  • キリスト

    わたしは聖書をよんでいるのですが聖書のヨハネ福音書14.4にかかれているキリストの言葉「わたしは道であり、真理であり、命である。」の意味がいまいち理解出来ません。これはどういう意味なんでしょうか?

  • ユダの福音書のキリストの復活について

    最近ユダの福音書について興味を持ち、色々調べているのですが、不明な点があったので質問させていただきました。 まず、ユダの福音書ではキリストの死について 体という牢獄の中から死ぬことによって解放されるという考えがなされています。 そのためユダはキリストに命じられ、キリストを裏切り、殺すわけですが、そこでなぜわざわざキリストが復活したのかがわかりません。 使徒であるユダにわざわざ命令して牢獄から解き放たれたはずなのになぜ戻ってきたのでしょうか?ユダの福音書自体、ユダがキリストを裏切るシーンで終わってしまっているため、続きは考察するしかありませんが、どうなったのかが検討つきません。 また、ヨハネ、ルカ、マタイ、マルコの福音書ではユダがキリストを裏切った直後、なんらかの形で命を落としているよう(事故や自殺など)なので死んだことは間違い無いと思うのですが、そうなれば死んだキリストと死んだユダの入れ違い(ユダが天の国に行けた場合)が起こると思いました。 もしそうならばユダはキリストに会うことなく死んでしまうことになると思います。 そもそもユダが死んだ理由(特に自殺)もよくわかりません。キリストに命じられたため裏切ったのに、なぜ自殺してしまったのでしょうか?周りの批判に耐えかねたのでしょうか。 もしも天国から我々の国にキリストが帰ってこられた時1番信頼していた弟子が自分のせいで自殺していたらどんな気持ちだったのでしょうか…(考え難いほど酷い話ですが) まとめると質問の要点は ・キリストは復活する意味があったのか(ユダの福音書において) ・また復活した理由は何か ・ユダが死んだ理由は何か ・(追加ですが)キリストはユダの死についてどう思ったか 僕自身キリスト教では無いので専門用語や詳しいことは知らないので分かりやすく教えていただけると嬉しいです。ご自身の意見でもいいのでみなさん教えて欲しいです。

  • キリストが復活した理由

    質問させてください。新約聖書のルカによる福音書の24章でキリストが復活する内容が書かれています。この復活にはどういった意味があったのでしょうか?

  • 心中自殺なら天国に行けますか?

    キリスト教では,自殺した人は地獄に落ちることになっていると思います. 一方,聖書には 友のために命を捨てる行為を賞賛する記述があります. 「友のために自分の命を捨てること,これ以上に大きな愛は無い.」ヨハネ福音書15:13, 「イエスは私たちのために命を捨ててくださいました.そのことによって私たちは愛を知りました.だから,私たちも兄弟のために命を捨てるべきです.」ヨハネの手紙一3:16など この世での苦しみに耐えかねた二人が お互いのためを思いあって心中自殺した場合, 二人は天国に行くのでしょうか. それとも自殺の罪で地獄に落とされてしまうのでしょうか.

  • 使徒行伝の登場人物について

     新約聖書使徒行伝第12章第2節にキリストの死後ヘロデ王が【ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。】と有りますが、第12章17節には、その後脱獄したペテロが【主が牢から連れ出してくださった次第を説明し、「このことをヤコブと兄弟たちに伝えなさい」と言った。】とも書かれています。前の方のヤコブと後の方のヤコブは別人でしょうか。  また第12章12節に脱獄したペトロは、【マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行った。】と述べられていますが、この“マルコと呼ばれていたヨハネ”と言う人物は福音書マルコ伝とヨハネ伝の著者の何れかと関係が有るのでしょうか。

  • キリスト教の死生観について(できればクリスチャンの方よろしくお願いします。)

    キリストが再臨して千年王国が始まるという「終末論」がありますが、これは何のためにあるのでしょうか?この時、死人は生き返り、生きた者も皆最後の審判を受けると聞きます。 **************************** まず、キリスト教の死生観について確認してよろしいでしょうか?下記が私の理解となります↓ キリスト教では、キリストを信仰することによって神の国に迎えられ、永遠の命をもつ。これは生前でも信仰があれば永遠の命に迎え入れられるということ、死後もまた同じように信仰を持つ者が永遠の命を与えられ、神の国に迎え入れられる。 こんな風に理解しています(ここまでで間違った認識があればご指摘お願いします。) ****************************** こんな風に理解しているのですが、この時疑問を持ちました。 信仰を持つものは神の国に迎え入れられ、永遠の命を与えられる、つまり、ここではっきり判別されましたよね、地獄へ落ちるものと天国へいくもの、信仰を持った天国へ行くものは永遠の命を与えられます。 これで終わりでいいと思ったのですが 千年王国、終末論というのは何のためにあるのでしょうか。もうすでに天国において永遠の命を得たものと地獄へいくものが判別されたのに、わざわざ死人を復活させ、生きた者も皆、審判を受けると言う事の意味が、よくわからないんです。 ☆また、この時復活させられる「死人」というのは、天国においてすでに永遠の命を得た者も叩き起こされるということでしょうか? 永遠の命をすでに得たはずの者(死人)が<<復活させられる>>ってどういう状態ですか?「さらに強化された永遠の命??」でしょうか?? また死んで地獄へ行った者も、叩きおこされ、審判を受けるのでしょうか。 つまり、終末論というのは、選別、つまり審判をやり直す、ということですよね。 信仰を持つものは永遠の命をえる、持たないものそれを得ないって決まってたはずなのに?もう選別は終わってたはずなのに。 なんででしょうか?終末論の意味、教えてくだささい。 地獄へいったものにもチャンスを与えるために、審判をやりなおすのでしょうか?すでに天国へ行った者が、「あ、こいつ一端天国送ったはいいが、案外不信仰者だな。最後の審判により、地獄行きへ決定。」なんていうふうに、選別やり直し(最後の審判)で地獄へ送られる、ということもあるのでしょうか。 疑問が多いですが、よろしくお願いします。素人ですので、出来るだけ簡単なご説明をお願いします。

  • 使徒ヨハネと洗礼者ヨハネ

    大学で美術史を勉強していて、グリューネヴァルトのイーゼンハイム祭壇画のwikipediaを見ていたところ、'第1面の中央パネルは十字架上のキリストの左右に聖母マリア、マグダラのマリア、使徒ヨハネ、洗礼者ヨハネなどを配したもの。'とありました。 キリスト教のことはあまり詳しくないのですが、ヨハネという人は二人いるのでしょうか? すると、ヨハネの福音書を書いたのはどちらのヨハネさんでしょうか? また、施設の名前などに使われるSt.Johns =聖ヨハネとは、どちらのヨハネさんでしょうか? よろしくお願いします。

  • いま・ここにおけるわれの《復活》について

     おしえを乞います。  次の聖書の文章における《終わりの日》を わたしは 現在時に わけもなく 持って来て解釈しています。ご見解をおしえてください。  ▲ (ヨハネ福音6:34-40)~~~~~~~~  そこで かれらが 《主よ そのパンをいつもわたしたちにください》と言うと イエスは答えた。   ――わたしがその生命のパンである。わたしのもとに来る人は     決して飢えることがなく わたしを信じる人は もはや決して渇    くことがない。     しかし 前にも言ったように あなたたちはわたしを見ている    のに 信じない。父がわたしにお与えになる人はみな わたし    のところに来る。わたしのもとに来る人を わたしは決して追い    出さない。     わたしが天から降って来たのは 自分の意志ではなく わた    しをお遣わしになった方の意志を行なうためである。     わたしをお遣わしになった方の意志とは わたしにお与えに    なった人を一人も失わないで 《終わりの日》に復活させること    である。     わたしの父の意志は 子を見て信じる人がみな永遠の生命    を受け わたしがその人を《終わりの日》に復活させることだか    らである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち わたしは この《最後の審判》とも言われる《終わりの日》について 死後ないし未来ないし終末にかんする議論として捉えることをしなくなっています。そうではなく いま現在の問題として 捉えるようになっています。  きわめて横着に 《終わりから歴史を始める》ことをしています。根拠はありません。信仰という無根拠です。  しかるべく 正してください。

  • いま・ここにおけるわれの《復活》について

     おしえを乞います。  次の聖書の文章における《終わりの日》を わたしは 現在時に わけもなく 持って来て解釈しています。ご見解をおしえてください。  ▲ (ヨハネ福音6:34-40)~~~~~~~~  そこで かれらが 《主よ そのパンをいつもわたしたちにください》と言うと イエスは答えた。   ――わたしがその生命のパンである。わたしのもとに来る人は     決して飢えることがなく わたしを信じる人は もはや決して渇    くことがない。     しかし 前にも言ったように あなたたちはわたしを見ている    のに 信じない。父がわたしにお与えになる人はみな わたし    のところに来る。わたしのもとに来る人を わたしは決して追い    出さない。     わたしが天から降って来たのは 自分の意志ではなく わた    しをお遣わしになった方の意志を行なうためである。     わたしをお遣わしになった方の意志とは わたしにお与えに    なった人を一人も失わないで 《終わりの日》に復活させること    である。     わたしの父の意志は 子を見て信じる人がみな永遠の生命    を受け わたしがその人を《終わりの日》に復活させることだか    らである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち わたしは この《最後の審判》とも言われる《終わりの日》について 死後ないし未来ないし終末にかんする議論として捉えることをしなくなっています。そうではなく いま現在の問題として 捉えるようになっています。  きわめて横着に 《終わりから歴史を始める》ことをしています。根拠はありません。信仰という無根拠です。  しかるべく 正してください。