- ベストアンサー
正法眼蔵 「心不可得」
「心不可得」の巻の後半で、老婆と徳山の実際の問答が終わったあと、道元禅師がこの2人の仮想問答を行っています。 その中の老婆の言葉の意味が理解できないのです。 「和尚はただもちひの心を点ずべからずとのみ知りて、心のもちひを点ずることを知らず、心の心を点ずることをも知らず」とありますが、これはいったい何を言わせようとしているのでしょうか。 またそう言ったあと徳山にもちひ3枚をわたし、手を伸ばしたところに 「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」と言うべきだった、とも書かれていますが、この意味も全くわからないのです。結局のところ、この巻のテーマ自体が私にはよく理解できていないことになります。 皆様のご意見を是非伺わせて頂きたいと思います。どうかよろしくお願いいたします。
- みんなの回答 (2)
- 専門家の回答
関連するQ&A
- 禅での「悟り」と「智慧」
私は今、禅について学んでいるのでが、 「悟り」と「智慧」の違いが分かりません。。 「悟り」(般若)というのは、勿論言葉では表せないものだと書いてありましたが、あえて言葉に表せば、自分自身が「空」であるといった自分の本質を知り全ての「苦」から解き放たれるもの というように解釈しています。 ですが、「智慧」も基本的には「空」である認識?で同じような意味なのではないでしょうか? 後道元禅師の事について記述されているページに 「悟りを背にして、仏の光に照らされて修行すること、「修証一等」「本証妙修」といわれる。修行して仏になるのではなく、悟りを背にして、仏の光に照らされて修行するのである。したがって、その修行は、すでに仏であることに気づかされた本証の上の修行ということになる。」 とありました。 しかし、悟りを背にするとはどういうことなんでしょうか? 自らが仏である、という概念は分かるのですが、それに気づいたのなら何故修行する必要があるんでしょうか?。。(道元はそれを探しに中国まで行ったという話は読んだことがあるのですが、未だに理解出来ません。。) 参考「禅の入門 禅 滴」愛知学院大学 禅研究所 http://zenken.aichi-gakuin.ac.jp/word/text/12.html
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- 漢文の構造について
過去のセンター試験の問題ですが。 白文: 能及小大生民者、固惟相為然。 既不可得矣、夫行救人之心者、莫如良医。 書き下し: 能く小大の生民に及ぼす者は、固より惟だ相のみ然りと為す。 既に得べからずんば、夫れ能く人を救ふの心を行ふ者は、良医に如くは莫し。 まず一行目はどういうことでしょうか。 「然りと為す」という部分の必要性がわかりません。 それから二行目について、 私ははじめ読んだときに、「行救人之心者」は「良医」には匹敵しないのだ、と誤読してしまいましたが、 実際には逆に、「行救人之心者」の中では「良医」が最高なのだという意味なのですよね。 なぜでしょうか。ここの文構造の意味が、特に「行救人之心者」について理解できません。
- 締切済み
- 日本語・現代文・国語
- おみくじの内容
おみくじをひいたのですが、書いてあることが思いの外難しくて、色々調べてみたものの、結局なんとなくしか意味がわかりませんでした。 せっかくいただいたお言葉なので、意味をちゃんと理解したいです。 文章は以下の通りです。 是は萬事思慮ふかく、人に用いらるる幸ひ有るのうらかたなり。 されど人の為に常々つかはるることありて身に苦労あるべし、随分こころをせめて、事なす時は必ず成就すべし。 遠くおもひはかりて幸福を求むべし。 以上です。よろしくお願いします。
- ベストアンサー
- その他(占い・超常現象)
- 「忍者萬福之源」の意味?
掛け軸に「忍者萬福之源」の文字が有りますが意味を教えて下さい。検索中に出会った以下も分かれば翻訳して下さい。 {《六度集經》云:「忍不可忍者,萬福之源」;「忍」是能忍之心,「辱」是所 忍之境,全劇關目都環繞「忍辱」的情節而佈置設計,也成為布袋和尚度脫均佐的課題 。} 以上宜しくお願い致します。
- ベストアンサー
- 歴史
- 中野重治の菊の花を教えてください。
皆さん、こんにちは。 私は韓国で日本語と日本の文学を勉強している学生です。 今、習っているのが中野重治の菊の花です。 いくら考えても理解できないことがあって質問します。 授業中に使ってる本にある質問です。 1。主人公である冬吉にとって、花はどういう意味をもっているか。 2。冬吉とそのおっかさんはどんな人だちであろうか。 3。「それが花のこころです」とは、どういう「こころ」のもちかたか。 頭の中では何となくですけど、口にするのが大変です。 助けてください。
- 締切済み
- 文学・古典
- 悔いている後の心にくらぶれば無筆は物を習はざりけり
小倉百人一首の狂歌の解釈で質問があります。 本歌:あひみての のちの心に くらぶれば 昔は物を おもわざりけり 狂歌:悔いている 後の心に くらぶれば 無筆はものを 習はざりけり (大正元年に出版された、足立希岳の「へなぶり百人一首」より) 本歌の方は、「逢って契りを結んだ後に比べれば、昔は恋など知らなかったようなものだ。」と意味を理解できます。 質問:しかし、狂歌の方は「勉強不足で読み書きができないのを悔いた後に比べれば、読み書きができないのは何も習わなかったようなものだ。」という意味だと思うのですが、よく何が言いたいのか分かりません。 この本の他の狂歌は分かりやすく面白いのですが、これだけ???でした。 どうかご解説をお願い致します。宜しくお願い致します。
- ベストアンサー
- 文学・古典
- 「南無阿弥陀仏」を唱えるタイミング
20数年前に祖母が亡くなった時、 自分の家は浄土宗で「南無阿弥陀仏」を唱えるとわかりました。 それ以来、私は自分がつらい状況になった時に(早く打開できますように)という意味で 「南無阿弥陀仏」を心の中で唱えたり、悲しいときや、嫌な人と向かい合わなくてはいけない時に 心の中で「南無阿弥陀仏」とつぶやくとなんだか気持ちが落ち着きますので ときどき、そうしてきました。 また、車の運転中、犬や猫が道路で死んでるのを見かけたときにも、 (南無阿弥陀仏)と心の中で言いながら通りすぎます。 何もできないで申し訳ない、せめて唱えるだけでも、っていう気持ちです。 (自分で言うのもなんですが慈悲の気持ちではなく、憑かないでっていうビビりの気持ちからです。) 数か月前、父親が亡くなり、お寺やお墓に行く機会、和尚さんからお経を聞く機会が増えました。 そうしてあらためて「南無阿弥陀仏」の意味についてネットで少し調べてみました。 で、あまりきちんとは理解できたわけではないのですが、 私が今まで「南無阿弥陀仏」と唱えてきたタイミングが正しいのだろうか?と疑問になりました。 私が上記のような事柄で「南無阿弥陀仏」と唱えるのはやってもいいでしょうか? もし正しくない、そんな事柄で唱えるのはやめたほうがいい、とわかりましたら、 今後は唱えないつもりです。 皆様のご意見を聞かせていただきたいです。
- ベストアンサー
- その他(学問・教育)
- 『こころ』の「上七」2
日本語を勉強中の中国人です。夏目漱石の『こころ』を読んでいます。「上七」の中に理解できないところがありますので、お伺いしたいと思います。 http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/773_14560.html 1.先生と同郷の学生などには時たま座敷で同座する場合もあったが、彼らのいずれもは皆(みん)な私ほど先生に親しみをもっていないように見受けられた。 「座敷で同座する」とはどんなことを指すのでしょうか。 2.「そりゃまたなぜです」 「そりゃ」はどの文を指すのでしょうか。 3.この問答は私にとってすこぶる不得要領(ふとくようりょう)のものであったが、私はその時底(そこ)まで押さずに帰ってしまった。しかもそれから四日と経(た)たないうちにまた先生を訪問した。 (1)「底まで押さず」とはどんな感情でしょうか。 (2)「しかも」を「そして」に替えたら、ニュアンスは微妙に違うでしょうか。 4.先生は座敷へ出るや否(いな)や笑い出した。 「座敷へ出る」はどういう意味でしょうか。 5.「私は淋しくっても年を取っているから、動かずにいられるが、若いあなたはそうは行かないのでしょう。動けるだけ動きたいのでしょう。動いて何かに打(ぶ)つかりたいのでしょう……」 先生のこの話はどういう意味でしょうか。 また、質問文に不自然なところがありましたら、ご指摘いただければありがたく思います。よろしくお願いいたします。
- ベストアンサー
- 日本語・現代文・国語
- 親鸞の《義なきを義とす》は 神の依怙贔屓か?
1. たとえば 次のように言っています。 ▼(親鸞:義なきを義とす) ~~~~~~~~~ 1-1.(親鸞の書簡:末燈抄・十) 他力と申し候ふは とかくのはからひなきを申し候ふなり。 1-2.(同上) 仏智不思議と信ぜさせ給ひ候ひなば 別にわづらはしく とかくの御はからひあるべからず候ふ。ただ ひとびとのとかく申し候はんことをば 御不審あるべからず候ふ。とかくの御はからひあるべからず候ふなり。 1-3.(同上:九) 他力には 義なきを義とするとは申し候ふなり。 1-4.(歎異抄・十) 《念仏には 無義をもつて義とす。不可称・不可説・不可思議のゆゑに》と仰せ候ひき。 ~~~~~~~~~~ 2. 《無義》の中の義は けっきょく《おのがはからひ》のことだと思われ それを《義》とするというときの義は それでよいという意味なのでしょう。 3. だとすれば アミターバ・タターガタの《他力》については いちいちわれわれ人間が考えることはない。と言っているはずです。 4. 《念仏》についても (1-4)で同じく無義を言うのですから 何ら思考する余地を残すものではない。こうでしょう。 5. 言いかえると 称名念仏は《非行非善》なのですから 修行やあるいは思考・思索を経て《信じる》ことがあたえられるというものではなく 善行を積んだから《アミターバの光に摂取され すくわれる》わけのものでもない。 6. アミターバの名をわが心に受け容れたそのとき 《即得往生》である。と。 7. もしこうだとしたら 人びとは何故 《修行をして浄土にたどりつく》と考えるのでしょう? 8. 善行をなさなければ 極楽往生しないと何故おのがハカラヒにて 考えるのでしょう? 9. アミターバとワタシの関係は あとは そのときそのときおのが実存をどう生きるか。これだけではないでしょうか? 9-1. 生きたあと どうなるかは 関係ないのではないでしょうか? 9-2. 生き切ったなら その実存の総体がたたえられる。これでおしまいでいいのではないでしょうか? 10. では アミターユス(アミターバ)とワタシの関係として 不遇の目に遭い逆境を生きなければならないとき それは 何をあらわしているのか? 11. 神――もしくは ブッダの慈悲――は エコヒイキをするということであろうか? 12. たとえば: ▲ (神のえこひいき?) ~~~~~~ 12-1. 神は あわれもうと思う者をあわれみ いつくしもうと思う者をいつくしむ。 (出エジプト記 33:19~ローマ書 9:15) 12-2. わたしは〔双子の兄弟のうち兄の〕エサウを憎み 〔弟の〕ヤコブを愛した。 (マラキ書1:2-3) 12-3. 神はそのあわれもうと思う者をあわれみ かたくなにしようと思う者を かたくなになさる。 (ローマ書 9:18) 12-4. 神は すべての人が救われることを欲したまう。 (テモテ第一書 2:4) 12-5. 風は思いのままに吹く。 (ヨハネ福音 3:8) ~~~~~~~~~~ 13. このあと 《だから 言わんこっちゃない これこれなのだ》か あるいは 《けれども じつは こうこう こうなのだ》か ご見解をお示しください。 自由なお考えを待っています。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- 痛い人とかの痛いの意味は?
最近、よく使われますけどね。 いた・い 2 【痛い/▽甚い】 (形)[文]ク いた・し (1)切られたり打たれたり、病気をしたりして、肉体的に苦しい。苦痛を感じる。《痛》 「けがをした指が―・い」 (2)精神的に辛く苦しい。また、弱点・急所などを指摘されたりして困る。《痛》 「借金で頭が―・い」「説教が耳に―・い」「そう言われると耳が―・い」 (3)とりかえしがつかないほどひどい。《痛》 「この時期の出費は―・い」「最終回のエラーが―・かった」 (4)心に深く感銘を受けるほど優れている。立派だ。《甚》 「―・き所まさりて見所ある住ひなり/源氏(明石)」 →いたく(副) (5)動詞の連用形に付いて、程度がはなはだしい意を表す。《甚》 「心ばへなど、はた、埋れ―・きまでよくおはする御有様に/源氏(蓬生)」「甘え―・し」「屈(くん)じ―・し」 [派生] ――が・る(動ラ五[四])――げ(形動)――さ(名)――み(名) (2)が意味として近そうなんですが、何か違う気がする、「痛い奴だな」って貶してるのを聞くと、イマイチ理解出来てないです・・・。 具体的に教えてください。
- ベストアンサー
- 日本語・現代文・国語
お礼
懇切な解説を頂き恐縮です。長々とお時間を割いて頂いたこと、御礼申し上げます。 実は正法眼蔵は多少読んでいるつもりではいたのですが、ご解説を拝見して、少々独善的な読み方だったかと反省しております。また、ひとつの章をじっくり読むだけではなく、横断的にいくつかの章を読むことで道元禅師の説かれるところのテーマを浮かび上がらせるということも大事なことだという感想を強くもちました。 また解説などでよく「それが仏性だ」という風な言葉で解説が終わってしまって、宙に放り出されるような居心地の悪さと消化不良の感じが残ることがあるのですが、このように説いてもらえることで大変すっきりと致しました。