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道元禅師と私

明日までにレポート提出しなきゃいけなくとても ピンチです。。。 道元禅師の生涯について一度レポート提出 したのですが、趣旨が違うということで 不可でした。 なので、道元禅師は生涯にどのようなこと をしたのか あとどうゆうことを書けば適切か教えてください。 おねがいします

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noname#20467
noname#20467
回答No.3

研究書、原典はあるのですか? 道元の思想は、一言で言うと、「坐禅への信仰」です。 普通、坐禅という修行をすることで、その結果仏となりますね。 道元は、修行の結果として仏となるのではないと考えました。坐禅をするというその行為そのものが、すでに仏の行いだからです。この立場を、「修証一如」と言います。もともと煩悩だらけのはずの人間が、坐禅しようと思うその気持ちと行動がすでに悟りの姿を現しているわけです。だから、ただひたすら坐禅するべきだと教えています。これを「只管打坐」と言います。 手持ちの研究書や解説書から、上の言葉を引いて、そこの記述を参照にしてください。 もし、正法眼蔵の訳本などを持っているのでしたら、「弁道話」「現成公案」の巻を読んでみてください。 余力が有れば、「海印三昧」「光明」「仏性」の巻も読んでみてください。おおよそは分かると思います。 また道元は、日常の生活の重要性を説きました。禅寺では、 日常生活そのものも修行です。そのために寺では細かく食事や入浴の作法が決められてます。とくに食事の作法を重んじた道元は『赴粥飯法』(ふしゅくはんほう) という本を書いています。 あとはご自分の日常と組み合わせてください。 挨拶なしの人の補足に答えるのは、今回だけですよ。次回からは、補足だけではなく、一言いいましょうね。いろいろなところで、損をしますよ。

その他の回答 (3)

noname#20467
noname#20467
回答No.4

>「修証一如」と言います 修(修行)と証(さとり)とは、同一であるという意味です。 修行することが悟りそのものである、という意味です。 「只管打坐」は、ひたすらに坐禅するという意味です。

noname#160321
noname#160321
回答No.2

これは「禅」問答でしょう。 あなたにとって道元禅師は「いかなるモノか」 人か宇宙か導き手か、それとも何物でもないのか。

noname#20467
noname#20467
回答No.1

この質問では、また同じことの繰り返しになります。道元禅師の生涯については、ネットを調べれば、たくさん出てきます。 先生の課題を詳しく書いてください。出来るだけ詳しく、先生の言ったままを書いてください。そして、何の授業ですか?  先生は、あなたのレポートのどこが趣旨にあわないと言いましたか? これがないと答えにくいです。

jef1985
質問者

お礼

今日提出してきました。 道元とは只管打坐ということをひたすら 行ったということがわかりました。 ありがとうございました。 とても参考になりました☆

jef1985
質問者

補足

私にとって道元禅師とは何か 研究所、原典資料等から道元禅師の坐禅とは何かを 考究しその坐禅が私にとって如何なる意味を持ち得る のかを論述してください。 です。 授業は坐禅です。

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