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本能寺が起こらなかった場合の各方面の攻略について

popesyuの回答

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  • popesyu
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回答No.4

中国攻め 鳥取、高松と力攻めではなく、ゆっくりと攻め落としていきました。 高松が落城寸前になって、信長に援軍を要請したのは有名な話ですが、これはすでに勝利が決定的だったので信長に花を持たせようとしたゴマすりという説と 落城後の毛利本軍との一大決戦に備えてとの説があります。 この援軍は光秀が率いることになっていた(が裏切って本能寺の変になります)ので、順調に攻略は進んでいったかと思います。 北陸攻め 手取り川の戦い直後(1577)では、加賀北部までが上杉勢力圏で南部までが織田勢力となっていました。 が謙信の死後の上杉家のお家騒動により軍事力が急速に低下。新発田重家の裏切りにより越前は大混乱、 本能寺の時点ですでに越中まで織田勢力下になっています。 上杉が新発田重家を攻め落とせたのは本能寺(1582)のはるか後の1588年のことですから、 こちらも本能寺がなければ順調に攻め落としていたであろうと思います。 四国攻め こちらもあくまでも準備段階の話ですのでまったくわかりません。これからはじめるという段階で すでに戦端が開かれ天王山も過ぎていたような中国や北陸とはまったく状況が違います。 もしある程度苦戦するようなことになったとしても、とりあえず現状維持をしておけば、そのうち中国側からの援軍もあったでしょうとは思います。 関東攻め? この時点では北条と織田は同盟関係にあったので攻めていたわけではありません。 基本的には武田氏滅亡の後の空白地域の維持・拡大が目的です。 もちろん武田攻めの折、どっちつかずの対応をとった北条家は次に攻められることは覚悟していたと思いますし、 滝川軍も隙があれば攻め込んでいたでしょうが、実際は本能寺の変で隙を見せたために北条により一方的に打ち破られています。 ということでこちらは四国攻めよりもさらに前の段階ですね。 旧武田家臣団を吸収した徳川軍との共同戦線になると思いますが、北陸からの援軍もあるでしょうし、こちらもそう苦戦はしないのではないでしょうか。 まぁどの戦線においてもこの時点で相当の戦力差がついていますから、武将の能力差以前に戦略レベルですでに決着がついている段階だと思います。

rabienus
質問者

お礼

上杉氏が越中を再奪取したのは1588年ですか、本能寺の変から6年もかかってたんですね。それは知らなかったです。 四国は確かに中国からの援軍が期待できそうですね。 関東は…北条もそうですが、何と言っても家康の動向次第のところはありますね、さらに北陸からの援軍もあれば攻略は早めにできたかもしれませんね。 ご回答ありがとうございました。

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