本能寺の変と太閤検地の関係|日本史の詳細を教えてください

このQ&Aのポイント
  • 本能寺の変は1582年に起こった事件で、信長が暗殺されました。太閤検地も同じ年に始まりました。
  • 信長の死後、秀吉が権力を握りました。太閤検地は秀吉の政策の一環であり、土地の調査と税制の改革を行いました。
  • 太閤検地は身分制度の確立と下剋上の世の終わりをもたらしました。秀吉が力を持っていたため、信長の死後すぐに始まったのです。
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日本史の詳しい方m(__)m本能寺の変+太閤検地

小学六年生の息子の質問です。 母も日本史を選択していなく、中学生レベルの日本史も適当でしたので教えてあげられません。よろしくお願い致します。 本能寺の変は1582年 太閤検地も1582年で (なぜか学研の【中学歴年代スーパー暗記術105】という語呂合わせ本には 本能寺の変の記載はなく 【1582年=太閤検地】だけが取り上げられています。) 息子の疑問は 本能寺の変が6月2日で 清須会議が6月27日で・・ 12月には信孝が挙兵して… 翌年の1583年の4月には賤ヶ岳の戦があって… 信長が亡くなった後 色々あったはずなのに 本能寺の変の後、その半年以内に 大がかりな【太閤検地】を始めていた… という事なの? ???それは 三法師様が跡を継がれるから… 一応表向きは  家臣の秀吉が 信長もちょっとしていた検地を引き継いで 【お仕事続けてました】 という感じで行っていた?!?!? って言う事なのかなぁ…。 という疑問なのです。 学校の授業で 豊臣秀吉の行った大切な事として二つ、 〇太閤検地 〇刀狩 が挙げられ、その二つのおかげ(せい)で、身分制度が確立して、下剋上の世が終わりを告げた…。みたいに理解しています。 秀吉は、家臣でありながら結局織田家から権力を奪っているのだけど、 柴田勝家だって納得していなかったし、家康もずっと認めてなかったし… (息子の理解のまま書いています。) そんななかで 偉そうに太閤検地とか…しかも 信長が亡くなってその年内にはじめられちゃうわけ? それだけ 秀吉に力があったの? と…  しっくりこない様なのです。 こんなご質問させて頂いておりますが 元々社会は苦手で興味もなく…今まで歴史漫画なども読んでいない子なもので、 ちょっと歴史好きなお子さんが知ってらっしゃる様な知識もございません。 (母もです…お許しをm(__)m。) と申しましても 最近になり「歴史ってまぁまぁおもしろいかなぁ…って思う。」 と ちょこちょこ本を読んだりDVDを見たりもしておりますが、 まだ 戦国武将編の漫画や本で止まっていまして (戦からみの 教科書には書かれていない…小学生にはトリビア的な事が書かれている本ばかり…) 今一つ 本能寺の変のあと その年に 秀吉が【太閤検地】を始めている…というのがしっくりこない様なのです。 小学6年生のあまり歴史が得意でない子でも理解できる様に ご説明頂けますと有難いです。 宜しくお願い致しますm(__)m。

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質問者が選んだベストアンサー

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回答No.3

秀吉が行った検地の年代的な推移や名称などについては他の回答者さんにお任せします。 別な観点から説明させて下さい。 お子さんの「偉そうに太閤検地とか…しかも 信長が亡くなってその年内にはじめられちゃうわけ?それだけ 秀吉に力があったの?」という疑問は御尤もです。 これは検地という事柄を説明する際に租税を徴収する側の視点からのみ説明されているために出てきた疑問でしょう。 そもそも検地を受ける土地は誰の物?という問題があります。 下記のURLでも多少触れていますが、秀吉の時代にはこの土地の所有者が複雑に入り乱れていました。 検地 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/検地 抜粋 室町・戦国の混乱時代、農業生産高は爆発的に増加したが、各地にモザイクのように存在する割拠勢力はそれぞれ消長を繰り返し、また支配下にも多くの自立領主がいるため、自領の実質総農業生産高を把握するのも困難であった 中略 また、太閤検地が画期的なのは、土地の所有者ではなく、耕作者を調査し、耕作者に課税したことである。これにより、土地に対して重層的にあった中世的な中間権利である様々な職が否定され、耕作者は直接領主に納税することとなり、農村にいた中間搾取者としての武士はほぼ一掃されることとなった。そして、奈良時代より続いた荘園制も全廃されることとなった。 戦国時代というのは非常に荒っぽい時代でしたので、腕力が強い連中(武士)がヤクザのショバ代のように誰の土地だろうとお構いなしに年貢を取り立てていました。 この連中の親分のような輩(戦国大名)がこれをピンハネするということが行われていました。 信長はこれを全部ご破算にして、田畑を耕して実際に農産物を作っている人が信長が認めた人(大名)に年貢を納めるようにしました。 これを秀吉も引き継ぎました。 このことは、田畑を耕している農民の目からみますと、検地を受けることで耕している土地が自分のものだと正式に認められることになります。 農民にとってはウエルカムなことでした。 当然信長や秀吉を支持するようになります。 秀吉が侵攻した土地で直ちに検地をするのはこれが最も重要な目的だったためです。 領民の圧倒的な支持を得ますのでどんどん力が強くなります。 つまり、力が強いからやったのではなく、力を強くするためにやったということです。 蛇足 江戸時代になると土地は個人のものであると同時に村の共有財産だという性格を持っていました。 大名というのは、この村に対する徴税権を認められた人という位置づけでした。 江戸時代には大名が頻繁に入れ替わっていますが、領国に問題が起きないのはこのためです 江戸時代を通じて12回も引っ越した大名(家)もいました。 大名よりも規模の小さい旗本の中には複数の村から年貢を受け取ったり逆に大きな村では複数の旗本に年貢を収めたりしていました。

tigerdragon
質問者

お礼

ああぁぁ! なるほど! 理解できました!!m(__)m。 息子も『山城の土地? だれの領地だったんだろう? あれ? よくわかんないー』的にもなっていました。 詳しくわかりやすいご説明を頂き理解できました。 小学校教科書の日本史は とても端折ってあるので 息子は『なんでそうなっちゃうの? 意味不明ー!』的な疑問が次々わいてしまい、その疑問を調べていくうちに 『なんかぁ…歴史もちょっとおもしろいかなぁ…。』と興味を持った様なのですが、 なにせ 学校の学習進度が早く、すべての疑問(気になる部分)を解決しながら進度についていくことができず、夏休みにはいってから復習を兼ねて【疑問】を調べておりました。 (本人自身が調べて…も多少はありますが 母=私がネットをググったり…本を買ってみたり…と苦戦) でも【太閤検地】のあたり だけが どうにもスッキリしない。 という事で ご質問させて頂いていました。 本当にわかりやすいご説明をありがとうございましたm(__)m。 がってん!がってん! みたいに スッキリいたしました。 明日 息子に説明してやります。 ご回答 本当にありがとうございましたm(__)m。 感謝ですm(__)m。

その他の回答 (2)

  • oska2
  • ベストアンサー率45% (2180/4828)
回答No.2

>本能寺の変の後、その半年以内に 大がかりな【太閤検地】を始めていた… という事なの? 小6で、ここまで疑問を持つとは・・・。将来が楽しみですね。 歴史は、点と点を線で結ぶ事ですから子息の疑問は御もっともな事です。 先ず、未だ「太閤になっていないのに、太閤検地」と名乗るのが間違いなのです。 信長が「本能寺で、明智光秀軍に殺される」事は誰も知りませんよね。 1580年。信長の奉行職として「播磨国(兵庫県)の検地」を行っています。 この時点で、「土地と家臣への知行(俸給)関係」の必要性を学んだ様です。 1582年。信長の仇をとった秀吉は「次の天下人は俺だ」と考えています。 山崎の合戦で光秀を討った後、自らの意思で山城の国(京都府)で検地を行います。 播磨の国での検地経験が、生かされたのです。^^; 1583年。柴田勝家を破り、越前など勝家の領地を検地。 この時点でも、未だ秀吉は太閤ではありません。 正式には、「秀吉検地」に過ぎません。 信長の有力武将が、戦で勝った土地を独自に調査したに過ぎません。 この後で、子息が考えている通り「清州会議」などを経て天下人(関白)になりますよね。 ここで、関白の命として全国各地の検地を正式に行うのです。 1585年。四国平定後、四国を検地。根来衆を破って、紀州(和歌山)河内(大坂)を検地。 後、支配地を順次検地を行います。 まぁ、「1582年(イチゴパンツ)」の本能寺とは関係ないと考えた方が無難です。 1591年。関白職を秀次に譲ったので「太閤」となりますよね。 秀吉が「太閤」を気に入っていたので、「秀吉=太閤」「太閤=秀吉」となります。 結果、信長の有力武将として個人的に行っていた「検地」も後々に「太閤検地」と呼ぶ事になったのです。

tigerdragon
質問者

お礼

ご回答ありがとうございましたm(__)m。 息子は [秀吉は織田家を盛り立てていこうという気はサラサラなく…ポスト信長を手に入れて やる気満々。だから【検地】を行った。しかもすぐに。]  でもなぜできたの? と このあたりが疑問だったのですが… 表向きは【家臣として】織田家の為に検地を行っている という名目だったから という事なのでしょうか?  山崎の戦いで光秀を討ったからといって、すぐに 『俺がポスト信長確定! だから俺様の為の検地を始めるぜ!』と あからさまな感じで検地を行ったわけではなかった。  でも 信長が亡くなってから関白になるまでに行った検地も 関白になってからの検地も 同じ方法(=基準)(&目的=自分の天下の為) で行っていたので 1582年を【太閤検地を始めた年】としている。 …という理解に至ったのですが このような理解で正しいでしょうか…。

noname#230940
noname#230940
回答No.1

ウィキペディアの太閤検地の項目には、「天正9年(1582年)、信長を襲った明智光秀を山崎で討った後には、山崎周辺の寺社地から台帳を集め権利関係の確認を行うなど検地を本格化させていく。」とあります。 最初から日本全国の検地を実施したわけではありません。 この頃から検地を始めたものと考えれば良いでしょう。 また、秀吉が太閤になったのも天正19年(1591年)です。 正確に言うなら、1582年は太閤検地ではないようなものです。 後世から見れば、豊臣秀吉といえば太閤ということで、秀吉が行った検地の総称として太閤検地というようなものだと思います。

tigerdragon
質問者

お礼

信長が亡くなった後に行った秀吉の検地を、 まとめて太閤検地と呼んでいるだけ…と理解できました。 ご回答ありがとうございましたm(__)m。

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