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何故秀吉に「本能寺の変」は起きなかったのか
信長と同様独裁者の道を踏襲した秀吉は、何故暗殺されなかったのでしょうか。 二人の大きな違いは、朝廷を肯定したか否定したかに尽きると思うのですが。 どうも本能寺の変の原因もその辺にあるように思われるのですが。
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補足読ませていただきました。 信長や秀吉の性格に立脚した解説が諸本にありますが、ちょっと待てよ!という気がしています。性格など同時代人でない限り不明であり、太閤記に書かれた明るい秀吉像では、政権末期の陰険ぶりを考えると、性格以外の政権の段階による特徴があるだろうと思っています。 で、近習層を督戦に使うという信長→各軍団の動きとともに、逆方向、各軍団でも信長の動向を探っていたようです。 1:佐久間・林・安藤なので追放があった、次は自分という危機感は当然あるべき 2:柴田勝家が越前を任された書状では、「俺の言うことをちゃんと聞け」とあります。言い方を変えれば、信長を観察することが必要なことを、信長自身が言っている。 3:秀吉も観察 秀吉の書状かなにかに「近習の誰々には、○○のおみやげをせよ」とかあいます。信長に対して影響力がある近習が、今誰か?というのを必死に探して対応しているのです。 こんな状況証拠があるので、私は、各軍団長や有力家臣は、常に信長の動向を探っていたものと推測します。 光秀だけが知り得たのではなく、光秀だけが活用したのではないかと。
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- tanuki4u
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証拠物件がないときは、類似ケースから蓋然性を推測するしかないよな。 1 光秀の行動と他の反逆者の行動の違い。 反ヒトラーの行動。直接暗殺を謀った人間もいれば、ヘスのように単独渡英してしまう人間もいる。古来歴史上、自分がトップに立つために外敵を引き連れるケースと直接トップを殺害するケースがある。その選択は実行者の置かれた立場と個性かな。光秀の場合、千載一遇のチャンスが来たので直接実行したということではないか。 2 信長の動向 信長の評価を知ればいいのであって、信長の動向は知らなくてもいい。 とのご指摘ですが、近習層が、馬鹿正直に「上様は、惟任殿を、高く評価していますよ」なんて言うわけ無い。一番知りたいのは「信長の顔色」であり、信長が誰と会っているかです。つまり信長本人の動向。光秀を評価している人間に多く会っていれば、いい情報ですし、光秀を評価していない人間に多く会っていれば、悪い情報となります。 さらに言えば、光秀は「近畿管領」とも言われた人間です。その人間が自分の担当地域の動向、特に信長を倒そうとする勢力がどうなっているかを知ろうとしないのは職務怠慢です。で、その勢力の動向は信長がどこにいるかで変わります。信長のガードを最重点で考えれば、信長がどこにいるかが一番知らなければならない点になります。 ※ インドのガンジー首相が警備兵に暗殺されたのを思い出しちゃった。 3 信長は特殊か? 信長人気というのは実は、戦後のことで、それまでは天下人といえば、秀吉か家康。信長は途中で部下に殺されたへたくそという評価もあったそうだ。逆に、戦国期の「天下」というのが、山城あたりからせいぜい近畿圏くらいだったという認識もあることから、三好長慶も天下人にしろよ!ってのが、「天下人史観を疑う―英雄神話と日本人」の主題だったかに思う。 武田信虎の追放や、長尾晴景の引退劇、浅井久政の引退劇、大内義隆の殺害、逆に毛利元就による井上一族の討伐や、島津家における伊集院忠棟斬殺など、結構大名と重臣団とは緊張関係にあったと思います。 朝廷云々が無くても、「刺すか刺されるか、そんな雰囲気が」あったんだと思います。
補足
信長を殺害する千載一遇のチャンスが眼前に現れた僥倖が、光秀謀反の理由とのご意見ですが、 何故光秀が信長の小勢での本能寺宿泊を知りえたのか、何故信長はあの時期小勢で入京していたのか、 に関する私の帰納は、先に申し上げた通りです。 各方面軍を指揮する重臣達が、信長個人の過去の行動や今後の予定を側近を通して知ろうとすれば、 それは必ず信長に報告されます。 猜疑心の強い信長が疑心を抱く失言をすれば失脚しかねません。 信長を恐れ戦き畏怖の念を抱いていた家臣達が軽率な軽口を発する筈もないのです。 秀吉治世下、諸大名が石田三成に秀吉個人の動向を探ろうと立ち入った質問をする事など有り得なかったように、 織田家にて各方面軍が側近に信長の個人的動向や予定を質問するなど有り得ないのです。 信長が居城を安土に移し側近団を組織するようになってから、信長は家臣団からは遠い存在となり、、 信長に拝謁する事さえ以前のように簡単ではなかったのです。 そんな家臣達が信長個人の予定を知りうるなど、信長が自ら教えない限り不可能なのです。 「信長を倒そうとする勢力」とは各方面軍が織田領境で対峙している敵であり、織田領内には存在しません。 光秀は織田家内の不満分子を摘発する秘密警察の任務を担っていた訳ではないのです。 その役割は信長が各方面軍内に派遣した与力が果たしています。 光秀が本能寺襲撃を明智一族だけで決行し、細川や筒井などには事後報告した理由はそこにあります。 事前に暗殺計画を彼らに洩らしたりしたら、信長に通報されかねないからです。 信長が版図を拡大していく過程で、信長個人が織田領内で襲撃された事など一度もありません。 唯一の例外が「本能寺の変」なのです。 信長の最大版図は一地方を遥かに越えた広大な領域であり、誰も為し得なかった改革を断行し、 天下統一は確実な情勢であり、秀吉や家康の天下も信長の業績を基盤にしている以上、 信長を三好長慶と同列に論じる事は適当ではないと思われます。
白熱していますね 結構なことです 質問者もtanuki4uさんも 亀岡の地侍 本城惣右衛門覚書ご存知だとおもいますが 本能寺襲撃の部隊の一員ですが 現場で明智秀満と斉藤利三の指図をうけています 光秀探してもみつからなかったそうです 前日確かに公家衆が団体交渉に本能寺で信長と合っています まぁ ご機嫌でかえっていったそうです その内容は公家衆に団体交渉せざる終えない事態だっのでしょうが 後日の災難を恐れたか抹消されています このへんのことも 朝廷首謀説 加担説につながるんでしょう 信長が皇統否定を匂わせ 切羽つまった朝廷が主導したと 帝の退位を口実に京におびきよせる口実につかったと いったい何年 そんな物騒な世情から隠遁していたのでしょうか 待遇改善の団体交渉が精一杯だとおもえてならないんですがね 寺が不要なら 叡山のように すべて抹殺するでしょう この当時 朝廷の存在の有無が無害であれば 支障なしと判断していたとおもえてなりません 朝廷の否定肯定につきるとのことですが ちょっと重要視過ぎるかと たしかに 退位を迫られていたと でも そのことは 皇統の歴史にとって それほど めずらしいことではありませんでしょう 帝が退位したとしても 公家衆の動揺さえ押さえ込めば 影響は それほどでもないでしょう 団体交渉でその辺の回答を信長から引き出したのでしょう ご機嫌なんですから 信長の近習の力はバカにできないほどあって 各軍団長も本社の情報収集にやっきになっていたとのことですが 秀吉は生粋の処世中毒で仕方ありません 各軍団には信長の与力がちゃんと目付けとしていますから 報告はちゃんと届くはずですよ 事務的なことですから 近習は 御伽衆じゃあるまいし 寝ているところであれこれ 悪口でも言ようものなら 首はないでしょう 受け持ちをしっかりやって 手柄をあげれば 粛清された者のようにはならないことは わかっていますよ 林は初代の番頭 安藤 いつまで岐阜なんだと 知多の水野もいつまでも対等気分で 使いにくかったので切った ワンマン社長の会社勤め人はいまも昔も それほど変わらないでしょう秀吉のような豆なやついますよ 実直でコツコツ仕事する者もいますよ 本能寺の変当時 私は上から下まで 結構なんか余裕みたいなものがあったような気がします ですから 前出の 本城惣右衛門が調書に供述したように 家康を撃てといわれて てっきり目の前の本能寺にいるものとおもって襲撃したと 蟻の隙間もないとかじゃなくて くずぐずとりかこんで ながい時間かかってますよね 最高責任者もいないわけですから ですからわたしは 本能寺は いろいろな説ではなくて 大きな間違い 手違いの結果ではないかとボャーっとおもうんです
補足
極官の「三職推任」でさえ足蹴にする信長に、公家衆が何を要求しようが黙殺されるだけでしょうし、 敏い公家衆が信長の琴線に触れる失言をするとは思えません。 権力者の側近に悪意を持たれる事がいかに不利で恐ろしいかは、豊臣政権下での石田三成の権勢が如実に物語っています。 加藤清正も三成と懇意にしておれば、朝鮮の陣での失態であれほど秀吉の怒りを買う事はなかったでしょう。 信長が朝廷に行った圧力を現代風に例えれば、 経営不振の同族老舗名門企業(=朝廷)に新興の急成長会社(=織田家)がベイルアウトをして、 経営を立て直していく過程で保有持株比率を上昇させて過半数を超える株数を手にし、 経営の実権を握り会社を乗っ取ろうとしたのに相当します。 となれば大株主である信長の一存で経営陣は総入れ替え、社員もリストラの対象となり、 会社が保有する価値ある無形資産は全て信長の手に落ちる事になります。 この例えで、朝廷が非合法な手段を用いても、信長を消そうとした動機がお解かりいただけると思います。
- cipher_roy
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二人の根本的な違いは『ホトトギスの唄』からも読み取れるように 減点方式か加点方式かということでしょう。 信長は少しでも気に食わないことをすると徹底的に冷遇しますが、 秀吉は一つでも自分に役立つ(支えてくれる)ことをしてくれれば 好き勝手はさせないまでも基本的には許しています。家督争いは あったものの元々殿様の家に生まれ『他人は自分に従うもの』と いう考え方を捨てられない信長に対し、百姓の出の秀吉は『他人は うまく駆け引きして味方でいてもらうもの』という考え方で、 対人関係への姿勢が違います。その点が一番違うといえるでしょう。 また、決定的と言えるレベルの証拠が現存しないために主流には なっていませんが、本能寺の変がなかったら他の家臣や大名には 『光秀は山陰攻め部隊』と思わせておきながら実際には天皇御所 襲撃を手伝わせる裏計画があったという仮説があります。 朝廷や将軍をないがしろにするという考え方はしない(できない) 保守的考えの光秀は、自分の預かりになっていた元々は義昭の 部下であった武将らを使い、朝廷や義昭に『従う振りをして 逆に信長を討ち、上様(義昭)を洛中に呼び戻す』算段の連絡を 取っていた可能性が高いのでは、というものです。 光秀の三日天下が終わった後、朝廷に取り入るにあたって(信長の) そういう計画があったことが朝廷に知られると自分に不利だと判断 した秀吉が信長のみならず光秀の残した記録もまとめて闇に葬り、 義昭にも口止めをしたため、表向きの記録としては残らないことに なったとすると辻褄が合うという理論ですが、残念ながらこれを 充分に裏付けられるだけの証拠が揃わないため、最有力の地位には 昇らないまま現在に至っています。
- tasukarima
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肯定否定の意味がもうひとつ そんな事実まだはっきりしていません 治政的対応の違いでしょう 信長が完全否定したがために 本能寺に繋がったとのことですが まだ全国の統一がなっていない状況で 必要なら使うという利用不利用の臨機応変の段階でしょう いかに少ない労力で統一制覇するかですからね 朝廷(将軍)による公地公民制は武士の世界では生きていますからね (ただし それ以外の人達は 明治になって教化されるまで 天皇そのものの存在すら知らなかったといわれています) 信長も上洛の時義昭を利用して付近の武士団を召集していますよね 大儀名分は便利なものだと知っていたからですね 本来 権力者側は権力をうまく使うものですよ 暗殺謀反 の成功不成功の分かれ目は 情報の秘匿性と維持 連携行動の可否 そして相手の油断 今のように メールするようには行きません 義理なんてのもありせん 人の行動がやっかいな利によって 支配された割合が大きかった時代です たえまない疑心暗鬼の時代だったと私は考えています 現実の問題として簡単にはできなかったのでしょう 秀吉もうっとしい大名の隣には譜代を置きます 信長の親衛隊は最盛期 2千騎 その供回りを加えて8千 以上の精鋭部隊をいつも身近に置いていたわけですから 与力の寄せ集めの各方面軍団では太刀打ちできません 不思議なのは本能寺当時その部隊がどこにいたのか 本能寺襲撃首謀者がその状況を知ったうえでの襲撃だったのか 光秀も結局連携がとれなかったでしょう 壮大な作戦シナリオがなかったことだけは 確かかなぁと
- tanuki4u
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独裁強化の期間の違いと独裁の進化の度合いが違うから。 信長も秀吉も権力構造として ● 大名 ● 近習 この二つの構造を持っています。この二つのパワーバランスの上に権力が存在します。実効的な戦いを行うためには、軍事力のある大名を使わなければならないが、それを使うことは分権化になり、独裁を強めるためには近習を主導させる必要がある。 信長の場合、天正期から世に軍団方式といわれる、有力家臣による軍団制が始まり、潜在的な反乱可能性を持たせることになった。これと同時に謀反が始まります。 つまり謀反の成功が予想されるほどの軍事力の独立性を持たせることが軍団制のネックになっていたのです。さらに近習層による中央集権(=独裁強化)を進め、各軍団長は強いストレスの元にいました。 これが1577年から1582年までの五年間の基本構造で、軍団長の謀反や軍団長の首切りが毎年のように生まれていました。 一方で秀吉は、この中央集権指向を弱めて、大大名連合を指向しました。理由の一つには子飼いの近習組織が信長よりも弱体であったためであります。もう一つは、他面同時攻勢を取った信長に対して、秀吉は四国征伐が弟の秀長であった以外はすべて自分が現地に行っています。個別の独自軍事行動を許さなかったのです。ここが信長と違う。 まとめ 暗殺(ではなく、ここではそれなりの軍勢を持った大名による謀反としますが)が生じるためには、軍勢を指揮下においた大名の独自行動がなされるかどうかにかかる。信長は軍団方式で、各自の行動を行わせた、そのために近習による中央官僚組織を作ったがその軋轢が生まれた。秀吉はほぼ大規模な軍事行動は自ら行っており、個別の軍事行動を取らせなかった。 この独裁方式の違いが、謀反の発生頻度に影響し、暗殺されるかどうかの結果に結びついた。
お礼
お礼を申し上げるのがかなり遅れてしまい、申し訳ありませんでした。 ご意見を拝読いたしましたが、なかなか見事な御賢察だと思います。 本当に有難うございました。
補足
つまり、論旨を端的に評せば、有力武将による方面軍制の有無が、信長と秀吉の違いということですね。 信長の場合、四方の複数の敵に同時に対峙せねばならなかったため、方面軍制は合理的で必然の選択でした。 戦局が織田に有利に進展して以降も、多方面同時作戦を続行させたほうが、時間的短縮になり効率的だったのです。 しかし織田家を継いだ秀吉は上杉も毛利も傘下に収め、もはやその勢力は圧倒的であり、未平定の地域は四国・九州・関東にすぎません。 わざわざ兵力を分散させなくとも、大兵力を一極集中させて個別に撃破すればよいだけだったのではないでしょうか。 信長とは置かれた環境が違うのです。 光秀以前の織田武将の謀反は、流動的な情勢下で、未だ相対的大きさを誇る敵対勢力の存在が拠り所となっていました。 しかし本能寺の変当時は、織田と敵対勢力とのパワーバランスは完全に崩れ、上杉と毛利を降せば天下統一は成るという状況でした。 光秀には頼るべき有力な敵など存在しなかったのです。 それは秀吉治世下の諸大名にもいえる事だと思います。 秀吉を討っても頼るべき秀吉の敵など国内に存在せず、謀反人として他の諸大名から潰されるだけだからです。 また信長は、大兵力を預ける各方面軍を野放図に放置していたわけではありません。 自分の息のかかった与力を複数送り込み、常にその動向を監視していたのです。 よって万一謀反しても、配下の与力を取り上げてさえしまえば、方面軍は弱体化して制圧は簡単でした。 その好例が荒木村重謀反の際、与力の高山重友と中川清秀を寝返らせた事例です。 加えて光秀謀反の特異な点は、それ以前の謀反のように居城の丹波亀山城で叛意を表明して立て篭もらず、 信長個人の動向を把握した上で急襲した事です。 その行動は当然と云えば当然です。城に篭っても敵対勢力は滅亡寸前で全く頼りになりません。 では何故光秀は信長個人の動向を把握できたのかという疑問に突き当たります。 信長自ら丸腰の自分の状況を、大軍を従えた方面軍にわざわざ知らせる間抜けとも思えませんし、 これから遠征に出立する軍にとって、そんな事は目下の軍事作戦とは無関係です。 各方面軍は信長と直接連絡を取り合っていた訳ではなく、その間には信長の側近集団が介在していたのです。 つまり各方面軍は信長側近を通じて命令され報告していたのであり、彼らにとって信長個人の所在の把握など不必要だったのです。 しかし光秀はあの日、信長が本能寺で小勢で滞在していたのを知っていた。 信長の小勢での入京は、即座に四方に伝播する大事件でも何でもありません。 ましてや信長サイドから各方面軍に通達する事項でもありません。 この点から、光秀謀反は単独犯行ではないという推察するに至った訳であります。
切り抜け方(生き方)が巧い。 につきると思います。 信長の葬儀に 織田信雄、信孝欠席。 柴田勝家、瀧川一益欠席と波乱の出だしですが、 巧みに下して行きます。 柴田勝家を下せば勝ちなのです。 残りは1人では何も出来ない金魚の糞なのです。 面白くない徳川家康は北条と伊達との3国同盟で秀吉と兵力を互角にしますが、下手下手で臣下の礼を遂げさせます。 これも徳川が狙い目であったでしょう。 次に、 北条には兵糧攻め。 伊達には手伝い戦に参加させて屈服させます。 惣無事令に反した島津には 大軍を率いて薩摩に遠征。 剃髪して許しを請う島津を許します。 伊達の咎めもありませんでした。 四国制覇の長曽我部は毛利軍との挟撃で下し、土佐を安堵します。 結局、 大いに逆らえば駄目ですが、 一戦交える前に降伏すれば咎めも無かったのです。
お礼
再度返答を頂き有難うございます。 こちらから回答の補足を送らせていただきました。 ご検討ください。
補足
信長側近の存在感は、豊臣政権での石田三成を例に挙げれば分かり易いと思います。 三成の存在感と権力は秀吉治世下では絶大であったように、信長側近衆の権勢も信長存命時は絶大だったのです。 各方面軍は側近を通さなければ、信長に拝謁さえできず、下手に側近の機嫌を損じれば、どんな悪口を信長に吹き込むか分かりません。 よって秀吉などは過度に側近衆のご機嫌を取ることに汲々とし、進物なども送り届けて彼らから悪意をもたれないよう気を配っていたのです。 つまり側近衆へのご機嫌取りは、信長に自身の心証を悪くさせないための保身の術であり、 探っていたのは信長個人の動向ではなく、信長の自身への評価だったのです。 それに側近衆の懐柔は光秀より遥かに秀吉のほうが熱心であり、側近衆には親秀吉派が多かったと思われます。 信長個人の動向を知りうる立場にいたのは、光秀ではなく秀吉だったのです。 この点から、光秀の本能寺襲撃がいかに不可解かお解かり戴けるかと思います。 先日光秀以前の武将の謀反は、頼れる敵対勢力の存在が前提であり、 本能寺の変当時、光秀には頼るべき信長の有力な敵は存在しなかったと述べました。 だから反逆した先人達とは異なり、居城に篭っての叛意表明をしなかったのだと。 本能寺の変当時、攻め立てられている非織田大名勢力の他に、信長に強烈な敵対意識を抱く一団は存在していました。 それは帝を筆頭とする朝廷です。 信長は明らかに朝廷権威から離れた権力を構築しようとしていました。 同時に自己の権力を朝廷の上に置こうとさえしていました。 本能寺の変の直前、朝廷はぎりぎりの所まで追い詰められていたのです。 朝廷としては武田滅亡後、最大限に譲歩した信長への「三職推任」が断られた事で、信長を消さなければこちらが潰されると腹を決めたと思われます。 信長を殺害し易い場所に誘い出し、誰かに襲撃させるシナリオを必死になって練っていたでしょう。 その実行犯に選ばれたのが明智光秀だったのです。 光秀にとって、光秀以前に信長に反逆した武将達が当てにした敵対勢力に相当するのが、朝廷(=帝)だったのです。 公家衆は当時本能寺で信長に会う予定になっていたのですから、当然信長個人の動向は熟知していました。 この筋から光秀に信長の所在が知らされたと仮定すれば、何故光秀が信長の小勢での本能寺滞在を知っていたのかという疑問は解け、すんなり辻褄が合うのです。 変の前日六月一日、本能寺に参集した顔ぶれは以下の通りです。 関白 藤原内基 太政大臣 近衛前久 左大臣 藤原内基 右大臣 近衛信基 内大臣 近衛信基 前関白 九条兼孝 前内大臣 二条昭実 その他の公家衆 鷹司信房 聖護院道澄 今出川晴季 徳大寺公維 飛鳥井雅教 庭田重保 四辻公遠 甘露寺経元 西園寺実益 三条西公国 久我季通 高倉永相 水無瀬兼成 持明院基孝 山科言経 庭田黄門 勧修寺晴豊 正親町季秀 中山親綱 烏丸光宣 広橋兼勝 東坊城盛長 五辻為仲 花山院家雅 万里小路充房 冷泉為満 西洞院時通 四条隆昌 中山慶親 土御門久脩 六条有親 飛鳥井雅継 中御門宣光 唐橋在通 竹内長治 朝廷の要職を占める輩が全て揃っており、信長を本能寺に誘い込んだ朝廷の固い意志が垣間見えるというものです。 信長を入京させる口実は、天皇が誠仁親王への譲位を決意し急きょ相談に応じてくれるよう要請すれば十分です。