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事実と真実と信仰と

frauの回答

  • frau
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回答No.8

>真実」に関しては、人の数だけあるんだと漫画の様な解釈をしてました。 そのとおりだと思います。 それにしてもすごく有意義な授業を受けてらっしゃるのですね、羨ましいですね。 私のイメージですが、 事実もそのまま受け入れれば「真実」となり、 また捻じ曲げればそれも「真実」となると思います。 真実は神のみぞ知ると思います。それは悟りであるべきと思います。 これは私の宗教観というかなんというか、生きている限り「それ」は見れないと思うんですよね。自分なりの真実を見つけるのが人生と思っています。 また私は特定の宗教を信じていませんが、教えという事実を信憑性をもたせ「真実」に昇華し(無理やりに)、信者に絶対的な価値観を持たせる意義が宗教のひとつの形でしょう。 その授業のように、「ひとつの事実」については様々な「真実」がディスカッションされます。 たとえば恋愛が間違えやすいですよね、事実か真実か。 恋におちれば誰でも思う(であろう)「この気持ちは本当に真実の愛なのかどうか?」でも恋愛している者にとって恋をしてワクワクしたりモチベーションがあがったりするのは「恋の真実」に関連ない「事実」でしょう。 でもたとえば恋している原動力で仕事や趣味へのパワーも相乗効果で功をなしたらそれはそれで別の事実、真実を 失恋してもそれが自分の栄養となれば自分(真実)を向上させた、恋という要素は単なる「事実」になりうる(成り下がる?)かもしれません。 また他の誰が見ても哀しい恋であるのに本人にとっては一世一代の最後の恋と思っているのなら真実の愛でしょう。 今絶賛公開中の「嫌われ松子の一生」という映画、あのコピーも「不幸って何?」ですが、松子にとっては事実はどーでもいいんです。あれほど悲惨な恋愛遍歴は真実の恋愛じゃないなどと訳知り顔で評価するお茶の間評論家もいるでしょう。 でも松子は自分がどう感じたかという自分にとっての絶対値=真実なのです。 一般論というのがありますよね。私は関係ない第三者がそれを振りかざしていかにも「真実を説いてやっている」と主張し、弱い者いじめする奴が大嫌いなのですが、ラクに寄りかかれる力学のようなもので真実の顔を纏っているようなのだけれども案外お茶の間評論家でしかないのかも。 日常的に事実も真実ごちゃまぜになって私たちに提示してくる。あなたはそう思っているかもしれないが、私はこう思っているというささいな議論も壮大なテーマが付随している。考え方の違い、それが社会という構成要素でしょう。 私にとってこの「事実」と「真実」の相違とは、「有」と「無」の違いだと思います。 「事実」は神様がこの世に転がせたパズルの一片のようなもの。 絵の完成に向けてどの「一片」を拾って絵を描くか、それは「人」の自由であり完成された絵は「個性」「人生」などと称される象徴的なものであると思います。 その絵が絵描き当人にとって真実ならば、それはそれでいいのだと思います。1000ある事実の中から100ある真実が生じたとしてもそれを絶対的な「1」と決めるのは神様でしか存在しないと思います。もしかしらその1000コすべてが真実と言われるかもしれませんが・・・。 宗教は「自家の真実」こそを唯一無二のものとして考える傾向があるように思えますが(有史以来今だに絶えない宗教戦争が証明しているように)、だとしたら他家の真実が絶対とされている限り、真実は限りなく (それも限りなく胡散臭いものも含む)あるということになりますよね。 「私が信じるもの(宗教)こそ唯一絶対の真実」と信じている限り、他の思想は拒否している。ひとつの真実を否定しているわけですから他の可能性をそこで拒否しているわけです。もしかしたらそこにこそ自分が求めていた真実を手にすることができるのに!? だからというわけではありませんが、 「真実」は「信念」と言い換えることができると思います。 これが「真実」という答えがすでにそこにあればそもそも人は自分の生をまっとうしていないかもしれません。宗教もいらない、仕事も勉強する意義も自分を生きるという意味すら失われる可能性があるかもしれない。そんなひとつの答えで人がそれぞれ自己完結していれば、(ビジネスとしての)救済手段としての宗教も存在していないでしょうし・・・。 真実ってある意味怖いと思います。 哲学やら形而上学やら、抽象論にソクラテスの時代から答えを模索されることを求められてきた証に、真実は何であるかという答えが見つかった時点で、人はただの肉塊に至るから・・・。 「事実」は星の数ほどあり、 「真実」は自分にとっての北極星のような指標のようなもの 星を指さす自分もひとつの事実でありまた真実の体現者でもあり、 そのいずれを指標とするかは星が導く座標に立たされた自己により、 それは宇宙の無限のように限りなく自由である意思 というイメージです。

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