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感謝の気持ちってどうしたら湧いてくるものですか?
職が安定していない、情緒不安定な20代後半の男です。 親や身内、兄弟が自分に注いでくれる愛情や身内の幸せに対し、 「ありがたい、うれしい、おめでとう」といった感情が湧いてきません。喜怒哀楽の感情も鈍いです。 だから、彼らに対し感謝の気持ちを表したことは数えるほどしかありません。 謝意を述べることは相手が喜び、マナーでもあるということは知識として持っています。今までその知識をもとに 「ありがとう」なり、物を贈ってみるなりしてみましたが続きませんでした。 感じてもいないのに感謝の気持ちを述べるのが空々しい、形式だ、演技だ、と気づき、めんどくさいなと思うようになりました。 愛情は、あればいいけど、なくてもいい、このまま自分に愛想を尽かし、縁を切ってくれてもいいと思ったりもします。 育ててくれたこと、毎月自分の身体を心配してくれること、身内が結婚すること これらのことが、とても贅沢で、幸せなことだとは 知っているのですが、感情の部分でなんら突き動かされることがないのです。 徐々に、自分の思いやりのなさに家族があきれ始めています。 感謝の気持ちってどうしたら湧いてくるものですか?
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質問者が選んだベストアンサー
kyabetsuohji さん、こんにちは。 相手の気持ちになれ、と言われても、その立場にならないと 本当の意味で判らないと思います。その意味で質問者さんの 思いには賛同します。 あなたが一人暮らしされ、または結婚して独立され、子供を 育てれば、本当の意味がわかる時がきます。 誤解を恐れず言えば、未経験の人は、みんな頭で分かっているだけで、口先だけで感謝の言葉を口にするのです。それは社交性と言うものです。 繰り返しますが、感謝の真の理解は経験までありえません。
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- 石崎 大望(@hir_o_mi)
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喜怒哀楽の感情が「鈍い」だけで、ないわけではないのなら、 敏感になっていくことはできると思いますよ。 一番易しい方法は、日記を書くことだと思います。 ただし、出来事に対して、必ず自分の感想を書く。 そして、その感想は、一言、感情を表す形容詞か形容動詞にする。 嬉しい、寂しかった、鬱陶しかった、残念、 むなしい、気持ちいい、すげえ嬉しい、物足りない、 超恥かしい、情けない、みっともない、苦しい、怖い、不安だ わくわくする、ハラハラする、待ち遠しい、あったかい、etc. 実は、日本語にはネガティブな感情を表す形容詞のほうが、断然多いです。 それでもかまわないから、使う。 それが感情表現。 別にドラマチックにやる必要はまったくないのです。 感じたことを、感じたとおりに、感じた分だけ表現する。 別に悪意を持ってのことではないのだから、 正直に感じたことを感じ、「表現する」ことが大事です。 人は、人と本当の気持ちを伝え合うことによって つながりを深めていくものだと思います。 鈍くなってしまっているときは、 リアルタイムで感じてぱっと表現するのは難しいから、 日記とか瞑想とか時間を取って、 じっとそのとき感じた気持ちを振り返って、胸の中で感じなおして、表現する。 文字にして、口にする。 だんだん慣れてきます。 慣れてくると、気持ちを自然に表情で表現したり、 声や動きで表現したりもできるようになっていきます。 感情表現豊かになっていく。 上手でなくてもいいのです。 不器用でも、気持ちは伝わるから。 感謝や愛情も、感情のひとつ。 寂しい気持ちを痛烈に感じられる人は、そばにいてくれる人に感謝できやすい。 また、相手が寂しいとき、共感できやすい。 そしてなにかしてあげたいなと、微かでも一瞬でも感じたら、それが愛情。 そして、そのときに、「なにかしてあげられること、ある?」と聞ければ、 それだけで十分な愛情表現です。 そういうことができる人は、相手の何気ない気遣いでも、 それが愛情から発していることになんとなく気づくから、 自然にお礼がいえます。 あとは、一生懸命生きて、苦労を経験することかなー。 辛い時は、人の温かさに触れることができるから。 感じる心を取り戻すことによって、変わってきます。 自分の経験から書いたことです。 少しは参考になったでしょうか?
お礼
具体的に書いていただきありがとうございます。 大変参考になりました。 感じる心を取り戻した経験者の言葉は心強いです。 最初から上手くやろうというハードル設定も自分の癖なのですが、 不器用でもいいとのことなのでホッとします。 自分なりに少しずつやっていきたいと思います。
- gunto
- ベストアンサー率19% (347/1784)
感謝の気持ちはどうしたら湧いてくる?って理屈とかじゃなくて、「ああ~嬉しいなあ~私の事を考えてくれてるんだ~感謝、感謝」って事なんだから、あなたがそういう気持ちにならないって事は、感謝してないんだから、肉親が沢山あなたの事を思ったからって、感じないものは感じないんだから、無理に感じようとするのも、変な話。 どうしたら?って問う事自体がおかしい。 感じた時に感じる。それでいいんじゃないの? 自分の事ばかり優先してる人は、なかなか満足感がないから、それを感じる感情は欠如してるんじゃない? だって、もしもお母さんがとっても時間をかけて、家族の健康を考慮してるのを、実感出来たら「ああ^うちのお母さんの料理は、ホント、愛情たっぷりだよ。お母さん、ありがとう!」って声に出して言うことが出来るじゃないの?自然にね。 毎日の料理なんて、愛情なかったら絶対に出来ないからね。それを当たり前に食べられたら、私だったら怒る。 情緒が足りないか、感覚が鈍いか、愛されてないのか が感謝を感じない理由じゃない? あなたがもしも、病気になって、家族が優しく看病してくれたら、普通に「ありがたいよ、ありがとう!」ってなると思うけど、そんな経験ない? よく考えたら、沢山あるんだけど、あなたが見逃してるだけじゃないの? どうしたら? うーん、まあ小さな事でも、何かしてもらったら「ありがとう」ぐらい言ってみることから始めてみたらいいんじゃない? それとあなたの要望が大きすぎて、今の状態ぐらいでは感謝はないって事かもしれないしね^^ たぶん、自分の事だけを、朝から晩まで考えてるからじゃない?
お礼
回答ありがとうございます。 小気味いいほど明瞭で、的を射た回答、 興味深く読ませていただきました。 自分のことだけを考えているというのはその通りです。 もっと言えば、人に対して興味がありません。 >もしもお母さんがとっても時間をかけて、家族の健康を考慮してるのを実感出来たら 「ああ^うちのお母さんの料理は、ホント、愛情たっぷりだよ。お母さん、ありがとう!」って 声に出して言うことが出来るじゃないの?自然にね。 ありがたい、とは思えど、謝意を自然に声に出して言うことが出来る人がいるというのは、自分には不思議な感覚です。 特に、「自然に」の部分が。 それもこれも多分、guntoさんがおっしゃるように自分のことしか 考えてないからでしょう。 >感じた時に感じる。 それでいい気がしてきました。
あなた自身が他人と接触することの楽しみを忘れているように思われます。子供の頃からそういう傾向をお持ちなら、難しいと思います。20代になってからでも、改善は難しいですが、不可能ではありません。 基本的に「形式的だ」などの言葉は、自分が関係をもつことを面倒くさく感じていることからくるもので、たぶん自分を納得させる「いいわけ」になっていると思いますね。 職が安定しないというのは、理由は分かりませんが、ほとんどが人間関係に起因しているのでは? そうだとすれば、将来のこともふまえ、少し努力しなければなりませんね。不思議なことに、人間関係というのは親・兄弟・親族だけとだけ結んでいてもダメで、やはり多くの友人が必要です。 人間関係が深く広くあればあるほど、感情も豊かになっていきます。感情とは、自分から発するものというよりは、他人に対する意識です。他人に対する興味・関心から自然に生じてくるもので、その結果、お礼などをいったり、誕生日に贈り物をするなどの行為がうまれます。 とりあえず、良き友人を作ること、これに尽きると思います。これができなければ、自分で改善はできません。
お礼
回答ありがとうございます。 幼少時より、人との密接な関わり合いが、めんどくさい、 というより苦手でした。 他人の予想できない言動にいちいちビクビクし、 思い通りの反応がないとふてくされるような、自己中心的な人間です。 >多くの友人が必要です この点に関しては、逆のことをやってきました。 関係がめんどくさいと、どんどん友人を切ってきました。 せっかくアドバイスいただいて恐縮ですが、 人に対する興味というのは、現時点では難しい気がします。
- kaorin_yas
- ベストアンサー率30% (208/691)
こんにちは。 35歳既婚者です。 いつも当たり前のように側にあれば感謝って難しいと思われます。 「今日も呼吸ができる!空気、酸素、ありがとー!!」なんて 誰も思わないですよ。 質問者さまだけじゃないです。 ただ、過剰に恵まれてると、当然その傾向は強くなりますよね。 親兄弟と数年は一切縁を切って、独り立ちして、誰も守ってくれない、 心配もしてくれない、病気になっても水の一杯も飲ませてくれない。 今まで庇護されすぎた部分、全部捨てれば感謝の気持ちなんて あふれ返るほど出てきますよ。
- kaorin_yas
- ベストアンサー率30% (208/691)
こんにちは。 35歳既婚者です。 いつも当たり前のように側にあれば感謝って難しいと思われます。 「今日も呼吸ができる!空気、酸素、ありがとー!!」なんて 誰も思わないですよ。 質問者さまだけじゃないです。 ただ、過剰に恵まれてると、当然その傾向は強くなりますよね。 親兄弟と数年は一切縁を切って、独り立ちして、誰も守ってくれない、 心配もしてくれない、病気になっても水の一杯も飲ませてくれない。 今まで庇護されすぎた部分、全部捨てれば感謝の気持ちなんて あふれ返るほど出てきますよ。
お礼
回答ありがとうございます。 あふれ返るほどの感謝の気持ちって、すばらしい状態なんでしょうね。 kaorin_yasさんのアドバイスどおりにすると、餓死するか、厭世観を強めて自殺する気がします。 それもこれも、 自分の強さが至らないのですが、やる前から結果を決め付けてしまう自分もどうかと思いました。 自分の言動に反省する点は多々あります。 「今日も呼吸ができる!空気、酸素、ありがとー!!」 に近い境地になりたいですね。
- tomyam1000
- ベストアンサー率31% (36/113)
kyabetsuohjiさんは、子供のころから「いい子」で育ってきたんじゃないですか? 親族への感謝以外に、今すごくこれがやりたい!とか、こんなことしてると幸せだ!という感情は、うまく表現できますか? もしこれらのことにピンとこないようでしたら、私の勘違いですが、ピンと来るようでしたら、また補足します。
お礼
回答ありがとうございます。 「いい子」は中学生くらいまででしょうか? 以後は親も手を焼く劣等生でした。 ピンと、来ないですね。来ない事に、寂しいなということはあります。
- yume_no_ato
- ベストアンサー率15% (24/154)
こればかりは、言葉で言っても(書いても)わからない気がしますが。 とにかく、自主的に何かをしましょう。 なんでもいいです。趣味を見つけましょう。 そしたら、その趣味を兄弟なりと一緒にしましょう。 その事について、語り合ったり、楽しみあったりし 感情を共感する事で、愛情が湧き そこから、相手に対して感謝や喜びや怒りなどの感情が出てくると思います。 質問者さんは、どこか無気力感が出ています。 人生つまらないと思って行動しないと 本当につまらないものになりますよ~!
お礼
回答ありがとうございます。 無力感いっぱいです。 人生つまらない……、というわり切りは必要かもですね。 兄弟との付き合い方は参考にさせていただきます。 >感情を共感する事で、愛情が湧き そこから、相手に対して感謝や喜びや怒りなどの感情が出てくると思います。 とても分かりやすいです。 何かと接することによって感情・感覚が生まれる。 その感情・感覚を心の栄養にして生きていく。 行動をしないと人生つまらないものになる。 う~ん、どのみち、感覚・感情は後回しにして、 とにかく行動したほうがいいってことですかね。 自分以外の人は、感情・感覚が先で衝動的にわきあがり、 それがモチベーションとなって行動しているもんだと思ってましたが、案外、違うのかな?
- galluda
- ベストアンサー率35% (440/1242)
がると申します。 そうですねぇ。「ありがたい」という言葉の語源にさかのぼってみると。元々は「有り難い」、つまり「有ることが難し -> 滅多にない」からきています。 他人からの親切というものが「めったにない」からそこに「こんなことをしてくれた」という気持ちがわき、それが感謝と呼ばれるものなのだろうと思います。 翻って考えるに、恐らくは「過度に恵まれすぎている」のではないでしょうか? 愛情を注がれ、手助けを受けることが「当たり前」になってはいないでしょうか? 厳しい言い方ですが。是非、見知らぬ土地で一人で誰の助けも得ずに苦労して生活してみてください。 そうして、苦労が身に染みた時に他人から何かをしてもらったとき、もし心に暖かいものが広がれば、それが感謝なのだろうと思います。
お礼
お答え頂きありがとうございます。 言語学からの説明、とても自分向きで、ふむふむと興味深く読ませていただきました。 愛情を注がれて当たり前とは思っていませんが、潜在的にあるのかもしれません。 他人から見たら「当たり前に思っている」と見られても仕方ない態度だと思われます。 >厳しい言い方ですが。見知らぬ土地で一人で誰の助けも得ずに苦労して生活してみてください。 けっして厳しい言い方ではないです。 心に広がるあたたかいもの……それが感謝の気持ち、か。 感覚なんですね。
お礼
esezouさん、回答ありがとうございます。 達観といいますか、現実的な観察眼に興奮しました。 胸のうちのモヤモヤが晴れたような気分です。 >相手の気持ちになれ、と言われても、その立場にならないと 本当の意味で判らないと思います。 そう、思うのです。 厳密に言えば、「知っている」という言い方は出来ると思うのですが、 「判る」という他人の言葉には違和感を感じてきました。 葬式の場での参列者の沈痛な表情、 人への感謝の気持ち、 災害時に人々が寄付すること、 生きていればいいことがあるという言葉、 他にも色々あるのですが、 本当に? 本当にそう思ってる? 心の奥底から、本当に、そう思ってるの? という疑問が高校生くらいから付きまとっていました。 中にはもちろん、心の奥底からそう思っている人もいるでしょう。 ただ、大半のことは、社交性、という言葉に当てはまる気がします。 自分は、”真の理解”に固執するあまり、 ほんの少しの社交性さえ失いかけ、 真の理解に程遠い自分に呆れ、 身動きが取れなくなってたフシがあります。 私はどちらかというと、経験者になりたいのかな? という気がしてきました。