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イスラエルが建国される前は、どの国の領土だったのですか?
なんか馬鹿な質問ですみません。 ぞくぞくと、現イスラエルに移民がやってきて 建国できたということが理解できません。 たとえば、日本で九州に別の国の人たちが大挙してやってきました。その人たちが、九州に、この土地はもともと我々のものであるから、我々の国である。と言って新しい国を建国しているようなものなのでしょうか?また、どのように統制をとって領土拡張したのでしょうか?そのとき日本は指をくわえて見ているだけだったのでしょうか? 質問が稚拙でわかりにくいかと思われますが、意を汲んで回答していただけるとありがたいです。私の理解に間違いがあれば指摘していただけると幸いです。
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- korczak
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19世紀末、ヨーロッパでシオニズム運動が起こった頃は、パレスチナはオスマン帝国領でした。パレスチナにはトルコ人よりも、同じムスリムのパレスチナ人(アラブ人)とユダヤ人、さらにアラブ人キリスト教徒などが住んでいました。オスマン帝国はすでに衰退の一途を辿っていたので、徐々に始まっていたユダヤ人のパレスチナ回帰の動きには特に干渉しなかったと思います。 第一次大戦後、オスマン帝国の崩壊でパレスチナは国際連盟の委任統治領となり、イギリスが支配権を得ました。イギリスは大戦中にアラブ民族国家樹立への支持を表明してはいましたが、一方で、ユダヤ国家の建設も支持していたので、ヨーロッパなどからユダヤ人が移民してくると、それを許容しました。 しかし、1930年代以降、ナチス=ドイツの成立、第二次世界大戦、さらに戦後のヨーロッパの混乱からユダヤ人の数が急増し、パレスチナ人が危機感を持ったため、両者の対立が激化しました。 イギリスはユダヤ人の移住の人数制限をしようとしましたが、逆にユダヤ人の反発を招き、またパレスチナ人も反イギリスの動きを強め、イギリスは双方からの憎悪の対象となりました。戦後はヨーロッパやアメリカにホロコーストへの同情から、ユダヤ人がシオンの地へ向かうことを支持する考えも強かったのです。 反英運動やテロに音を上げたイギリスはパレスチナ問題を国際連合に丸投げしてしまったのです。国連ではやはりユダヤ人の国家建設には同情的で、パレスチナをユダヤ・アラブ双方に分割する時、本来なら人口比によって分けるべきなのに、半数以下のユダヤ人に多くの面積を与えてしまったのです。 多少の参考になれば良いのですが。
- igarasik0
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調べていたらいいところがありました。 combat.ch website - 中東戦争全史 http://www.combat.ch/modules/org_library_tinyd4/content/index.php?id=32 軍事関連のサイトのようなので、ちとそちら側に偏った感じの内容ですが、ここから順次読み進んでいけば流れはわかると思います。 なぜ、こんなにも現在まで問題がこじれているのか? 真面目な話、それを説明しようとすると本が一冊かけるくらい面倒くさい内容なんです。 ですから、その手の本を読んでみるのをお勧めします。 アラブとイスラエル―パレスチナ問題の構図(講談社現代新書)あたりがお勧めです
- Ryu831
- ベストアンサー率38% (241/621)
イスラエル建国の流れについては、過去の質問が多少は参考になるかもしれません(URL参照)。 パレスチナはオスマントルコ帝国の領土下にあって、第1次世界大戦後はイギリスが統治することになりました。このとき、イギリスが統治したパレスチナ領土が、ほぼ今のイスラエルの領土と同じになります。 このイギリスの統治は1948年までという期限付きのものでした。 他の方の回答に詳しいですが、イギリスの統治以降、ユダヤ人がどんどんパレスチナに入ってきますので、パレスチナのアラブ人たちと対立が激しくなってゆきました。 そんな中、イギリス統治の期限がやってきました。 そこで国連は、このパレスチナの地を両民族に分割する案を提出します。ユダヤ人はこの案を認め、独立を宣言、イスラエルという国家が誕生しました。 ところがこれを周辺のアラブ国家は認めません。 イスラエルに侵入して、第一次中東戦争が勃発します。 結局この戦争は、国連の調停によって終了しますが、対立の根は深く、それが現在にも続いています。 その後イスラエルと周辺諸国は戦争を繰り返し、イスラエル領土は広がったり元に戻ったりと変化して、今の領土に落ち着きました。 しかし、先の国連分割案で、本来アラブ人の領土になるべきところであったガザ地区、ヨルダン川西岸は現在もイスラエルが占拠しています(しかし、両地区はパレスチナ自治政府が管理することが近年決まりました)。 非常に簡潔ではありますが、こんな流れになっています。 細かいところは他の回答にもあるとおりです。 アフリカの紛争と同じく、パレスチナ問題は、ヨーロッパ列強の勢力争いの犠牲になった感が大きいです。
- PENPENMAKKY
- ベストアンサー率17% (344/1984)
1920年代に英国の庇護の下で、移民が始まりました。WW1後、ヨーロッパ全土でユダヤ排斥運動が起こりまして、彼らは安住の地としてパレスチナを目指したのです。当初はパレスチナ人も友好的に接していたようです。 WW2直前、独露でユダヤ人排斥運動が起こり、続々と国外追放が始まりました。英米はそれらの受け入れを拒否します。ナチスはマダガスカルへの追放も考えましたが、それをする国力がなく、ユダヤ人の東方追放(ロシアにコロニーを作りドイツから追放するというもの)を画策します。それの準備としてポーランドにユダヤ人収容所が建設されたのですが、植民が進まず、続々とドイツ・オランダ・フランスからユダヤ人が送り込まれ、不衛生も重なって死に至る事態にまで発展します。一部のナチス高官はユダヤ人を殺す(所謂ホロコースト)行為に走りますが、そのような事をしたナチス党員はゲシュタポに逮捕され粛清されました。 戦後、この収容された人を含め、ヨーロッパに散らばるユダヤ人の処遇解決の手段として、国連主導の下でパレスチナ移住が決定され、同時にイスラエル建国が行われたのです。国連は英米ソの支配下にありますので、現地人の意見は無視されたのです。その結果、第一次中東戦争が起こりました。この戦争でパレスチナ人が敗北し、イスラエル建国は既成事実となります。 ユダヤ人の処遇に困っていた欧米各国はイスラエルへの移住を加速させます。その結果、ユダヤ人はパレスチナ人居住区域にまで進出しだすのです。推進急先鋒だったのがリクードのシャロン(現・首相)でした。シャロンはその政策を推進したものの誤りであった事に気付き、方針転換したのです。それが昨年の出来事です。ちなみに暗殺されたラディン首相も元は推進派だったのですが、方針転換した人物で、方針転換直後に推進派によって暗殺されました。
お礼
ありがとうございます。 時代的背景など、すべてが悪い方に重なって現在に至るというふうに感じました。もう100年くらい早く移民が始まっていれば、このようになってなかったかもしれませんね。まぁ、そもそも、排斥運動などなければ移民も問題になるほどではなかったのでしょうが。。。
- mkt8589
- ベストアンサー率25% (47/181)
シオニズムが活発になった背景には、19世紀末のロシアでのユダヤ人排斥運動(ポグロム)やフランスでのドレフュース迫害事件とアメリカに渡ったユダヤ人の経済的成功が大きな要因です。アメリカのユダヤ人コミュニティは入植者の土地購入の資金援助をしていました。土地はアラブ人や入植していたトルコ人から買っていました。 前述のイギリスの三枚舌外交ですが、第一次大戦時にオスマントルコの国力衰退のために、1915年10月にカイロのマクマホン高等弁務官が「パレスチナを含むアラブ地域の独立」を条件にメッカの軍隊を寝返らせ、第三王子ファイサルがダマスカスを陥落させました。この時の幕僚がロレンス少佐です。つまりここでパレスチナのアラブ人に独立国家樹立を約束しています。(=マクマホン書簡) その一方で、イギリス国内のユダヤ人代表であり大財閥のロスチャイルドにバルフォア外相が「パレスチナにナショナルホームを作るために最善の協力を約束」(=バルフォア宣言)して戦争資金の拠出をさせています。 が、裏ではフランスとの統治の密約(サイクスピコ秘密協定)を結んでいました。 第一次大戦後の1922年、サイクスピコを公式決定したのですが、国内のユダヤ人やアメリカとの友好関係を考えて、バルフォア宣言だけを盛り込み国連と委任統治協定を結びました。これによりユダヤ人の入植者は徐々に増加、1933年にナチス・ドイツ政権が誕生して以降急増して行きます。 第二次大戦直前にイギリスはアラブ諸国の懐柔策として、「10年以内にアラブ人主導のパレスチナ国家を創設」と言うマクドナルド白書を発表しますが、アラブ諸国はマクマホン書簡もあり、不信感を募らせ、この白書を知ったユダヤ人も「イギリスの裏切り」と態度を硬化させます。 つまりイスラエルはイギリスの場当たり外交が作ってしまった国家と言えるのかも知れません。 なお建国時領土そのものは国連の分割案で決定されたモノで武力は存在していません。
お礼
私が考えていたのは、イスラエルに多くの移民がやってきて、徐々に武力や非合法なやり方で勢力を拡大し、そして、イギリス方との約束をとりつけた、というイメージでした。 ですが、まず、枠組み(イギリスとの約束)があったということですか。しかも、土地は買ったとあるので、今度はあらたな疑問がわいてきます。 では、なぜ、こんなにも現在まで問題がこじれているのでしょう?すべての原因はイギリスのせい、ということでいいのでしょうか?筋からいえば、イギリスがパレスチナ、イスラエル双方から攻撃されていてもおかしくないような気がします。その方が、パレスチナ、イスラエル双方が団結しいい関係になれたのでは?思いつき的発言で申し訳ありません。。。 ありがとうございました。
- mkt8589
- ベストアンサー率25% (47/181)
オスマントルコ統治時代まで、この間アラブとユダヤは、ユダヤ人が少数だった事もあり、共存共栄しており、むしろ迫害は欧州のユダヤ人に対するキリスト教諸国でありました。 19世紀末、ロシアやフランスで起こったユダヤ人排斥運動はシオニズムを生み、ユダヤ人のパレスチナ回帰が始まります。一方アラブでは第一次大戦前にオスマントルコからの独立運動が発生しますが、イギリスに利用されます。(同盟国ドイツの国力低下が目的で、アラビアのロレンスはその任務に就いていました)イギリスはその一方でシオニズムを支援していましたが、これはアメリカのユダヤ人を利用させる目的でした。(これが二枚舌と言われる所以です) 第一次大戦後、イラクとヨルダンはイギリス、シリアとレバノンはフランスの委任統治領とされ、パレスチナは国連が管理します。(この案もイギリスから出されたので三枚舌になりますか…)シオニズムとナチス・ドイツのユダヤ人迫害でユダヤ人のパレスチナ入植が増加し、人口比率では完全に逆転しています。 第二次大戦が終了すると、パレスチナのアラブ人とユダヤ人の怒りはイギリスに向かいます。(この時のユダヤ人武装組織の指導者は後にエジプトと和平条約を結んだベギンです)イギリスは万策尽き、1947年7月に国連に問題解決を委任します。 国連では11月にパレスチナ分割決議案を提示、アラブ諸国は「統一国家案」を持っており、これを拒否、インドやイランが提案した「アラブ・ユダヤ連邦案」も拒否しました。ソ連は当初「連邦案」でしたが、中東政策(反英で一致しているアラブ諸国とユダヤ人国家で混乱を予想し、それに乗じた進出)もあり、分割案に回る。 採択の結果、ヨルダン川分割案を採択しました。同時にアラブ人とユダヤ人の衝突が始まります。1948年5月14日、初代首相ベングリオンが「イスラエル共和国」の樹立を宣言、アメリカは即日、ソ連は3日後に承認しましたが、周辺のアラブ国家は宣戦布告をします。 翌15日に第一次中東戦争が勃発します。 元々、パレスチナからユダヤ人を追放したのはキリスト教国家である東ローマ帝国です。ほんの100年前の2000年近く共存共栄していたのです。一日も早くそんな関係に戻って欲しいと思います。
お礼
>ユダヤ人のパレスチナ入植が増加し、人口比率では完全に逆転しています。 人口が逆転したから、イスラエルを建国することができたのでしょうか?なんらかの手段などがあったと思うのですが、その過程を知りたいのですが。 ユダヤ人武装組織(ひょっとしてモサドの前身とかですか?)とかの勢力が絡んでいるのでしょうか?武力により領土を拡大していったのでしょうか? ユダヤ人のパレスチナ回帰から、イスラエル建国までの間の流れです。 しかし、うろ覚えだった話の輪郭が見えてきました。ありがとうございました。
- iicha
- ベストアンサー率27% (12/44)
パレスチナ問題についてはリンクを参考にしてみてください。 現在のイスラエルの領土は1947年に国連で承認された分割決議案よりもかなり広くなっています。これは4回に渡って起きた中東戦争によるものです。 極端に言うと戦争を起こすたびに領土を広げていったわけです。 日本はイスラエルがシリア領土のゴラン高原を占領した1967年の第3時中東戦争以来、イスラエルを非難し続けています。なので、黙ってみていたわけではないと思います。
お礼
ありがとうございます。 領土拡張に関しては、イスラエルという国としてではなく、それ以前、移民たちが国を立ち上げる以前に如何にして、自分の周りの領地を拡大していったのかということです。 以前は、オスマントルコの領土だったみたいですね。この場合は、オスマントルコがイスラエル建国を黙ってみていたのかということです。参考URLを見ると弱体化と書いてあったので、そこまで手が回らなかったのでしょうか。 早速の回答ありがとうございました。
お礼
ありがとうございます。この週末に本を読みました。「まんがパレスチナ問題(講談社現代新書)」です。まんがかよっ、ていわれそうですが。 1.ロスチャイルド家の財力はハンパじゃなく、パレスチナの土地を買ったことや、その他の援助は十分なきっかけにはなったと思う。 2.ユダヤ人とパレスチナ人とのこじれは、古いところでは宗教などの問題もあるでしょうが、近いところでは、ユダヤ人が移民でやってきたときに、最初はホームランド(民族の郷土)をつくるだけで、国はつくらないと言っていたのに、税金やハガナなどのシステムをつくって、パレスチナ人の反感を買ったことによるのかなと。(この話の裏にはイギリスとの約束があってのことでしょう) 3.イスラエル建国時の人口は約30万人。もっといるのかと思っていました。ホロコーストによる被害が約600万人だそうなので、少なくともイスラエルも数百万いると考えていたので、統制などどのように取っていたのか不思議だったのです。30万人くらいなら納得いきます。 まだ十分ではないですが、こんなところではないですかね。その本にも載っていましたが、南アのマンデラ大統領みたいな人物は出てこないですかね。