• 締切済み

一生懸命な人って。

はじめまして、こんにちわ。 早速質問なんですが、今日普段はなんとも思わないような人が、一生懸命仕事をしているのを見て、胸がときめいてしまいました。 なぜ人間は一生懸命な人を見るとどきどきしてしまうのでしょう? 私の考えは3つあります。 1つ目は思考的にそう思ってしまうことです。一生懸命がんばっているから、普段は見れないその人の素顔を自分だけが見た気がして独占というのでしょうか、その人を知った気になってしまうということです。 2つ目は本能的にそう思ってしまうことです。赤ちゃんを見るとかわいいと思うように、太古の昔から人は一生懸命な人ほど繁栄できるのでは、と本能的にそう考えてしまうということです。 3つ目は社会的にそう思ってしまうことです。今の日本の教育は、私の観点から見ると結果主義というよりも努力主義です。一生懸命努力するとかっこいいと、幼いころから思わされてしまうことです。 3つ目は結果主義の国では成立しないと思います。そう考えると1つ目か2つ目なのでしょうか? くだらない質問だと思いますが、どうか皆様のご意見をお聞かせください。 長文、駄文失礼いたしました。               

みんなの回答

  • ruehas
  • ベストアンサー率68% (816/1194)
回答No.4

こんにちは。 答えは「3番」です。 >1つ目は思考的にそう思ってしまうことです。 ちょっと突っ込みますが(汗)、 「思考」というのは「意識行動」であり、「そう思ってしまう」というのは「無意識行動」です。ですから、このふたつは分けて考えて下さい。無意識にそう思ってしまうから生理反応が起こるわけであり、意識的に胸をどきどきさせることはできません。心の中でどんなに「落ち着け」と念じてみたところで胸のどきどきを止めることができないのは、それが無意識に発生するものだからですね。 >なぜ人間は一生懸命な人を見るとどきどきしてしまうのでしょう? 質問者さんが体験なさったのは、生理学的には「情動性身体反応」といいまして、意識や思考などとは切り離された、大脳皮質の関与していない「無意識反応」です。思わず立ち止まってそれに見惚れてしまうといった反応は「情動性行動」で、「胸がどきどきする」というのは「情動性自律反応」に類します。 感情というものを持つ我々人間や多くの動物にとって、「情動」とは「状況の変化に対応した多彩な行動の選択」を行なうためにあります。大脳辺縁系は哺乳動物以降の高等動物に発達した高次な中枢ですが、大脳皮質よりはひとつ古い無意識の領域で、「情動」はここに属する「偏桃体」という部位で発生します。 偏桃体は身体内外から得られる全ての感覚情報に対して「価値判断」を行ない、「快情動」か「不快情動」のどちらかを発生させます。ここが喜怒哀楽、我々の全て感情の出発点になります。与えられた感覚情報に対して「有益・有害」といった判定が下され、それによって「快情動」が発生すれば「接近行動」が選択され、「不快情動」ならば「回避行動」や、場合によっては「攻撃行動」が選択されます。つまり、与えられた条件に対して必ずどちらかの情動が発生するわけですから、結果的には状況に対応した行動が無意識のうちに選択されてしまうということです。 このように、情動というのは我々動物が与えられた状況に反応し、より高度な行動選択を行なうためにあります。情動が運動神経系に対して出力された結果が「情動性行動」であり、それが自律神経系であるならば「情動性自律反応」となりますので、生理状態が活性化され、胸がどきどきしたり、顔が赤くなったりします。そして、このような「情動性身体反応」は来るべき事態に対処するために待った無しで迅速に表出されます。何故ならば、来るべき事態への対処とは、狩りや危険回避のためのヒート・アップであり、生殖のチャンスに対するウォーミング・アップであるからです。 情動というのは偏桃体の価値判断によって発生し、それによって「情動行動」が選択されます。我々動物には喜怒哀楽といった感情の基本的なパターンが遺伝子によって予め定められており、情動発生のメカニズムそのものも生得的なものです。ですが、何に対してどちらの情動を発生させるのかという「偏桃体の判断基準」だけは、これは生後の学習によって獲得されたものです。ですから、それによって選択される情動行動は全てが「学習行動」ということになります。 「本能行動」と「学習行動」の違いは、行動を選択するための判断基準が「遺伝子によって定められた先天的なもの」であるか、「生後の体験・学習によって獲得された後天的なもの」であるかということですが、このご質問で最も重要な要素は、その行動選択の基準に「個体差・個人差」があるかどうかということだと思います。 本能行動というのは、反応の強い弱いといった遺伝的な体質の違いは若干あるかも知れませんが、それは生体活動に不可欠なものですから、基本的には個人差というものはなく、生涯に渡って変更することのできない先天的な領域です。それに対しまして、学習行動は生後の学習によって獲得された判断基準に基づくものですから、こちらは変更が可能であり、何よりも、それぞれに与えられた環境や体験の違いによってはっきりとした個人差があります。そして、この個人差を「価値観」といいます。 「価値観」には「個人的価値観」と「文化的価値観」がありますよね。異性に興味を示すというのは、言わば先天的な「本能的価値観」ですから、その判断基準は万民に共通であり、個人差はありません。ですが、「一生懸命なひとに好感を持つ」というのは、それは質問者さんが個人的な体験によって獲得した「個人的価値観」か、あるいは生まれた社会の慣習によって育まれた「文化的価値観」に基づく後天的な学習行動です。ですから、そこに遺伝的な要素はなく、生後環境の影響を個体ごとに受けているわけですから、その判断基準は十人十色ということになるはずです。 とはいえ、仕事に熱心であることに対する評価には、個人差というものがあまり感じられませんよね。どうしてでしょうか。それは、これが我々の生まれ育った社会に共通する「文化的価値観」であるからではないか思います。このようなものに遺伝的な要素はありません。 何故ならば、まず、如何に社会で広く共通であろうとも、それが遺伝子によって定められたものであるならば、地域や時代、または個人の考え方によって変化することは決してないからです。しかしながら実際には、「そんな汗臭いひとよりも遊び慣れたカッコイイひとの方が好き」といった個人的な好みもありますし、世界は広いですから、地域によっては国民性という違いもあるでしょう。また、ギリシャ時代の労働は全てが奴隷によって行なわれていましたから、もしそれが本能であるならば、奴隷が一番モテるということになってしまいます。 情動行動というのは状況に応じたより多彩な行動選択が可能ですので、本来の動物の目的である本能行動をサポートし、それを効率良く実現するという役割を担っています。これに用いられる偏桃体の価値判断が遺伝子によって先天的に定められたものではなく、生後の学習によって獲得されるものでなければならないのは、それは、我々が生み落とされた環境の違いや変化といったものに上手く適応し、より効率良く本能行動を実現してきちんと生きてゆくためです。 「食欲」というのは生物学的な「一次欲求」ですが、「労働意欲」や「金銭欲」というのは本能に順ずる「二次欲求」とされています。 食欲や性欲といった一次欲求が遺伝子によって定められているのは、それが生後環境によって変化する要素ではないからです。ですが、二次欲求の対象は生まれた社会や時代によってコロコロと変わってしまいます。これが予め遺伝子に書き込まれたプログラミングであるとするならば、その判断基準は生涯に渡って変更することがきないわけですから、このようなこの場合、もし生まれたあとに事情が違っていたならば、それで一切お手上げということになってしまいます。 ですから少なくとも、「労働意欲」や「金銭欲」といった、二次欲求に関わる遺伝子というものは存在しません。このようなものは、どうしても生後環境に従って学習・獲得されなければなりません。これにより、我々は経済社会に生まれたならば「金銭欲」という文化的価値観を獲得しますし、戦時中であるならば「お国のために命を捧げる」といった思想にも簡単に順応することになります。 情動行動・学習行動を実現する偏桃体の判断基準は学習によって獲得されるものであり、それには「価値観」という「個人差」があります。そして、この生後学習によって獲得される偏桃体の判断基準を「情動記憶」といいます。 本来、記憶というのは大脳皮質に保持されるものですが、「情動記憶」というのは偏桃体内にあるもので、ここに記録されているのは、大脳皮質のような、何時、何処で何があったというような詳細なものではなく、それに対して「快・不快」、どちらの情動を発生させたかといった単純な結果でしかありません。これは、学習によって獲得された情動記憶を偏桃体内に保持することによって、次ぎに同様の事態に対面したとき、いちいち大脳皮質に詳細の問い合わせを行なわなくとも判断を下し、与えられた状況に迅速に対処するためのものです。 これがどういうことかと申しますと、学習された条件反射であるならば、大脳皮質が詳細な記憶を想起する前に偏桃体では判断が下されており、それに基づく情動性身体反応が既に発生してしまうということです。つまり、大脳皮質ではまだ記憶が想起されていませんので、その理由は全く分かっていないのですが、胸のどきどきは直ちに始まってしまうというわけですね。 大脳皮質がそれに気付くのは情動反応が身体に表出されてからです。胸のどきどきが発生することによって、大脳皮質は初めて自分に何かの情動が発生したことを知覚します。従いまして、胸のどきどきは必ず無意識の状態で発生します。そして、それが過去の記憶と照合され、自分はいったい何に対し、どのような理由で胸をどきどきけさせているのかといったことが認識されるのは、順番からいって一番最後ということになります。 我々人間は、理性を以って情動を抑制することができるとされています。ですが、実際にはここまで到達しなければ我々は理性を働かせることができないわけですし、何よりも、飽くまで順番がこういうことになっていますので、情動の発生そのものを自分の意思で抑止することは原理的に不可能ということになります。 ついつい余計なことばかり書いてしまってたいへん申し訳のですが、ここで最も重要なことは、実際の行動を選択する情動記憶というのは大脳皮質とは別な場所に保持されているということです。これにより、我々は大脳皮質の詳細な記憶を使わなくとも行動の選択が可能になるわけなのですが、逆に言えば、大脳皮質でその記憶が思い出せなかったり、仮にすっかり忘れてしまっていたとしても、偏桃体に情動記憶が残されている限り情動は発生してしまうということですね。情動が発生すれば必然的に情動行動が選択されるわけですが、この場合、大脳皮質の記憶が完全に失われてしまっているのであれば、我々は自分に発生した情動行動の理由を理解することができないということになります。 「食べ物の好き嫌い」や「異性の好み」といった個人差のあるものは、ほとんどが偏桃体の情動記憶として生後に学習されたものです。そして、このようなものは生後三歳までの「人格形成期」の体験に大きく影響を受けると考えられてします。 生後三歳ごろの体験というのですから、自分はどうしてこのようなタイプが好みなんだろうかと考えてみても、その理由をはっきりと憶えているひとはまずいませんよね。それでも、大脳皮質がすっかり忘れてしまっているにも拘わらず、やはり好みのタイプの異性が目の前に現れれば、偏桃体に保持された情動記憶に従って胸のどきどきは無意識に発生してしまいます。恋が芽生えるのはこのときです。 同様に、嫌いなものには不快情動が発生します。無意識に発生しますので、あたかも自分は生まれたときからそれが嫌いであったように思えてしまいますが、好き嫌いが個人の好みである以上、それは本能行動ではなく、生後の体験によって学習されたものです。 質問者さんが一生懸命なひとに好感を抱くのは、生まれた社会の慣習によって知らず知らずのうちに掏り込まれた「文化的価値観」です。本能行動のように思えるのは、質問者さんがどのような経緯でそれを体験し、学習をしたのか、その理由が大脳皮質で明確に思い出せない状態になっているからです。 「食べ物の好き嫌い」や「異性の好み」といったものは個人的価値観ですね。 同様に、 「仕事熱心なひとは立派だ」 「裸で外を出歩くものではない」 「ご飯をこぼすのは行儀が悪い」 「女の子は女らしくしなさい」 このようなものは、生まれた社会の慣習にに従って獲得される文化的価値観です。 生後に獲得された要素は変更が可能であると申し上げました。ですが、原因が分かるならばまだ対処も可能なのですが、それを探る糸口もなく、無意識の状態で有無も言わさず発生してしまうというのですから、中々思うようにはなりませんよね。「三つ子の魂百までも」のことわざにある通り、このようにして定着してしまった幼年期の深層的な価値観は、生涯に渡って我々の行動選択に反映することになります。 質問者さんが異性に対して興味を示すのは万民に共通の本能行動であり、それによって発生する胸のどきどきは無条件反射による本能的な自律反応ということになります。ですが、一生懸命な姿に胸をときめかせるというのであれば、それは条件反射による情動性自律反応であり、生後に学習された情動記憶が反応の基準となっています。そして、それには個人差があると共に、生後環境によって変化します。生後環境の変化を予測して対応する遺伝子というものは存在せず、遺伝子によって確定される本能行動が個体ごとに異なることはありません。 このような生後環境の違いによる個人差を「価値観」といい、生得的な要素と思えてしまうのは、我々はその理由を明確に思い出すことができないからです。そして、生まれ育った社会の秩序に従い、知らず知らずのうちに多くのひとに受け入れられているものを「文化的価値観」といい、仕事熱心であることが好ましいというのはこれに属します。従いまして、質問者さんがどうしてそのようにお感じになったのかということであるならば、答えは確実に「3番」ということになります。 そして、人間はどうしてそう感じるのかという問題に関しても回答は全く同じです。何故ならば、質問者さんがそうであったとしても、他のひとがそうであるとは限らないからです。それがつまり、ご説明申し上げました、生後に獲得された「個人差」ということになります。

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回答No.3

本当に人間は「一生懸命な人」を見るとドキドキするでしょうか? 特に今回の場面は仕事場です。 であれば、多分、ほとんどの人が一生懸命仕事をしていると思います。 あなたは全ての人にドキドキしていますか? それとも「普段は何とも思わないような人」だけが、その時一生懸命仕事をしていたのでしょうか? そうではないと思います。 あなたは、「普段何とも思わないような人」が気になりかけていたのだと思います。そして、時々、その人のことを見るともなしに見ていたのではないでしょうか? 全ての人が一生懸命仕事をしている中で、時々、見るとはなしに見ていた「少し気になりかけていた人」の一生懸命さだけが際立って見えてしまったのではないでしょうか? 今までは気にも留めていなかった人だけに、仕事振りなどは気にもしなかったのでしょう。 その人の、「他の人と同じような一生懸命さ」さえ新鮮に映り、「普段は何とも思わないような人」→「少し気になり始めた人」→「一生懸命仕事をしている人」→「胸のときめく人」というように変わったいったのではないでしょうか? すなわち、あなたは「最近気になり始めた人の、一生懸命仕事をしている姿」にドキドキしたのではないでしょうか? もちろん、人は「一生懸命な人」に心打たれます。 しかし、「心を打たれる」「感銘を受ける」とは異なって、「胸がドキドキするほど心が打たれる」ということになると・・・・・。 あなたが掲げた3つの要素だけでは測ることの出来ない、なかなか難しい感情の変化です。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.2

2つ目の考え方に一票。 人間の可能性を確認させてくれるという理由は大きいでしょうね。 少し追加させてもらうと、普段何とも思わない人が評価の対象になる場合は、普段受けているイメージとの落差が大きくなるわけですから、インパクトも比例して大きくなるということだと思います。

  • sukeken
  • ベストアンサー率21% (1454/6648)
回答No.1

こんにちは。 なかなかの分析ですね。 でも、もっと素直な「実は心のどこかで好きである…」が抜けているような気がしますけど。 恋は理屈ではありません。こんな回答があっても良いですよね? でわ!

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