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「個性」とは何ですか?

適切なカテゴリーがはっきりしないので、ここに質問しました。 「個性」と呼ばれているものがどういうものなのかが、わからないのです。 私自身は自分に「個性」があるとは思っていません。 例えば佐藤さん≠鈴木さん。Aさんは身長175センチ、Bさんは180センチ。Cさんはクラシックが好き、DさんはJ-POPが好き・・・etc これらは両者の「差異」「相違」であって、「個性」というものとは違うのではないかと思うのです。差異とか相違というものは比較する対象があってはじめて現れるもので、個性というものはもっと積極的なモノではないかと・・・ 私が自分に個性はないと言ったのは、どこに身を置いても、自分が同心円の最内周であると感じるからです。 「大は小を兼ねる」と言いますし、「入り子人形」のいちばん小さなやつは大きな人形の中にすっぽり収まってしまいます。 以上のことから、わたしは、自分の存在意義を見出せません。 個性というものが単にAとBとの「相違点」であるのなら、 誰もが個性を持っているはずです。 しかし私には個性というのはバームクーヘンのような幾つもの同心円であって、大小。強弱。序列のあるもののように思えてなりません。 このような質問が個のサイトで適切かどうかわかりません。 不適切なようでしたら削除願います。

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回答No.8

 ANo.3です。早速のお返事恐縮です。もうすぐ正月休みも終わりますので、仕事に備えて頭の訓練をもう少しさせていただきます。  「オルタナティブ」=「既存のものと取ってかわる新しい考え」と言うことかと思いましたので、それを念頭に書かせていただきます。 >人と違う考えを持つことがそもそも可能か?この疑問がこの質問のそもそもの原点です。  最初のご質問の中で、  『……「個性」というものとは違うのではないかと思うのです。差異とか相違というものは比較する対象があってはじめて現れるもので、個性というものはもっと積極的なモノではないかと……』 とか書かれていますので、比較対象がないほど革新的な考え方を「個性」と定義し、現在そういったものを持ちえるのか、と言うことでしょうか?  技術革新という観点(理系の概念ですね)からは、今後も、人が思いつかない「個性的な考え」が積み重ねられ、新しい技術が生まれるであろうことは想像に難くないです。でも、innnercircさんは、そういった面での「個性」を、お答えとして求めておられないと感じます。そうですよね?  で、一方、表現が難しいのですが、「人のありよう(仮称)」と言う観点(文系の概念ですね)からは、これだけ、いろいろな考え方が受け入れられるようになった世の中では、innnercircさんがお考えになっている(と私が考える)「個性」は、もしあったとしても時代と同時進行では分からない(と言うか、気がつかない)と思います。  陳腐な書き方になりますが、それが「個性」であるかどうかは、ある程度時が経って検証するしかないのかなと思います。  「イージーライダー」の時代のように、時代と同時進行で排除されるような「個性」は、私には思い浮かばないです。今は、『それも「個性的」でいいんじゃない』で、大抵のことが受け入れられてしまいますから。

noname#14995
質問者

お礼

二度にわたって明晰な分析、恐れ入ります。 正に90%私の質問の意図を理解されています。 >今は、『それも「個性的」でいいんじゃない』で、大抵のことが受け入れられてしまいますから。 この部分がキーワードになると思います。 際立ったものが存在し得ない時代。 排除されないかわりに「オルタナ」というものも存在し得ない。 個性が至る所に充満している時代。 誰しも・・・と言わぬまでも、大多数が個性的であるが故に 最早「天才」というほどのレベルに達していない限り「個性的」と呼べるほどの人はいない。 「イージー・ライダー」の三人は良くも悪くも「マイ・ウェイ」を行って排除された。 現在は最早人跡未踏の地など存在し得ないのですね。 であれば、私と言う存在は何をもって他者と区別されるのでしょうか・・・ お忙しい中、ほんとうに素晴らしい回答をありがとうございました。 重ねてお礼申し上げます。 PS、サイトの名前、「インナー・サークル」とするつもりが(苦笑)

noname#14995
質問者

補足

>、「人のありよう(仮称)」と言う観点。 例えばゴッホを誰も「個性的」とは言わない。 シェークスピアやゲーテを「個性的」とは言わない。 モーツァルトやベートーヴェンを個性的とは言わない。 彼らは他ならぬ「ゴッホ」であり「ベートーヴェン」であり 唯一無二の存在です。

その他の回答 (10)

noname#30850
noname#30850
回答No.11

No.9です。 「個性とは?」については、すでに質問者様の中では答えが出ているのですね。的外れな回答を差し上げ失礼致しました。 私や他の方々へのお礼や補足を見ていて感じたことなのですが… innnercircさんを縛り付けているのは、『矜持』のように思います。 『イージーライダー』に衝撃を受け、漠然とした感想をinnnercircさんが持たれた。(あるいはお友達のお勧めでとりあえずレヴューを書いてみたのでしょうかね?)ちなみに、と思いネットで検索してみたら出るわ出るわ、しかもみんなプロでもないのに何でこんなに文が巧いかね~と、それに比べると自分の書いたレヴューの何と陳腐で幼いことか。そんな感じだったのでしょうか? 自分に自信を持ってくださいとは安易には申しませんし、これから申し上げることも何のフォローにもならないかと思いますが個人的には、経験や知識、豊富な語彙で装飾された文章が必ずしも優れているとはいえないと思います。稚拙ながら胸を打つ文章というのもあります(失礼…)音楽にしたって、豪華な音で奏されたものが最上といえるかといえばもそうでもなく、例えばギター1本、またはアカペラでも胸を打つ音楽というものがあると思います。 そしてさらに個人的には、映画のレヴューを見る場合、小難しい言い回しやうんざりするような、どうだどうだといわんばかりの時代考証(特にその映画においてはそれがどうでもいい事柄である場合、ほんとにこの人無粋だネ~と思います)などが書き連ねてあるようなのは、私は避けます(笑)このセリフについてその時こう思ったとか、目の遣り方が素敵だったとか、このシーンの時の服がかわいかったとか、そういったことに共感を覚えます。innnercircさんにそういうレビューを要求しているわけではありませんよ、こんな人間もいるということです。 「自分はもっと、もっと、違うものを出せるはず」と無意識(?)に思っているから、ご自分の今の範囲内では考えつかないようなことが出てくるとあぁ~ダメだ、となってしまうんでしょうかね。でも、なんというか、それが「あなた」なのです。気に入らなければ色々な本を読み、実生活で様々な経験を積むことでいずれは憧れる位置にいけるでしょうが、それは一朝一夕ではいきませんね。「いまのこの状態、この無の状態が自分なのだ」と、innnercircさんがご自分で評されるところの「無」であるご自分、これがとりあえずの「ゼロ」なのだと受け入れ、認めることで、もう一段階高いステップが見えてくるような気がしますが、いかがでしょう。

noname#14995
質問者

お礼

最後までお付き合いくださり本当に感謝します。 なんというか、当初の質問である「個性とは何か?」という一見抽象的な問いから、最後は随分と遠ざかってしまったようですが、実はいくつもの回答の中で浮きあがって来たように、本当の問題は、私の自信のなさであり、「アンデンティティー」の喪失(欠如?)であり、 劣等感の問題であったわけなんですね。 『イージーライダー』は単にひとつの例で、私はネットを開く度に、 自己の無力さと、同時に自分ほど無能な人間はいないという思いに圧倒されるのです。 ですから「試しに」もなにも、レヴューを掲載するなど思いもよりません。 ・・・私は、自分自身に対しては優生思想の持ち主です。 私は過去7年間、何の仕事もしていません。 大学卒業後の約10年間で、20以上の職種を経験しましたが、 1年と続いたことはありません。 その殆どが「辞めてくれ」でした。 私には「一段高いステップ」というものは有り得ません。 重ねてお礼申し上げます どうもありがとうございました。

noname#14712
noname#14712
回答No.10

#1です。補足質問の意味は、あなたの世界の中に入りすぎていて、あまりよくわかりませんが、あなたの考えは硬い、鋼のように硬い、鋼鉄のように硬いと思います。 個性があるのかないのか、0か1かで考えようとすると話が矛盾したり、無意味に話が行ったり来たりしたりします。0から10で考えましょう。10は、超個性的、0は個性まるでなし。個性は、まず第1に、あるかないか、ではなく、強いか弱いか、です。個性は誰しもにあります。雰囲気や顔も個性だと思いますが、強烈であれば強い個性ともなると思います。必ずしも、個性とは教育で作られるものというあなたの前提も間違いです。個性という言葉の意味を一元化しようということも無謀です。 「個性」と伸ばす教育、云々では、あまりにも、個性、という言葉自体に、あなたが踊らされているのではないでしょうか。 あなたが言いたい、積極的な意味での個性?とは、要は、その人の特性が、生き方、仕事の選択などに、アウトプットできているか否か、であるように思えます。そういう意味では、人生のエスカレーターに乗って、サラリーマンしている人は個性的ではないでしょう。(私は、個性とは必ずしも、そういう意味に限定されないと思います。マクロなことだけでなく人の機微に私は人に個性を感じます。話は広がりますが感受性の問題でもあると思います。) 積極的な個性、あなたの言いたい個性、とは、個性といわずに、アイデンティティ、と英語を使った方がいいと思います。辞典で調べれば、同一性、とか出ててます。現代の大衆社会、誰だったか、かなり昔にアイデンティティの喪失を警告した有名人がいたと思います。唯一無二のアイデンティティを求めるのもどうかと思いますが、たとえば、Cさんはクラッシクが好き、だっても、クラッシクが好きであればCさんとはなりません。Cさんを形成しているものは無限にあり、他の人とは、どこかでかならず違ってきます。その形成無限物の集積で、人とは違ったアイデンティティが出てくるのだと思います。もって生まれた性分を生かして生きられれば、たとえバームクーヘンの同心円の中、他人と全く同じ人間であっても問題ないと思いますが。ご質問の文章では、個性とは差異ではない、といいつつ、差異のない私は個性的ではない、と矛盾しています。

noname#14995
質問者

お礼

再度のお答えありがとうございます。 先ず質問当初に質問者自体がはっきりしていなかった「何を問いたいのか?」ということが、ANo.3さんや、同じくANo.9さん、そして今回のお返事で徐々に輪郭が見えてきたようです。 確かにご指摘の点はいちいち肯けます。 例えば >あなたが言いたい、積極的な意味での個性?とは、要は、その人の特性が、生き方、仕事の選択などに、アウトプットできているか否か、であるように思えます。 ・・・というご指摘は、正にそう言うことだなあと思いますし、 >あなたの言いたい個性、とは、個性といわずに、アイデンティティ、と英語を使った方がいいと思います。 これもその通りだと思います。 >そういう意味では、人生のエスカレーターに乗って、サラリーマンしている人は個性的ではないでしょう。 この点はそんな風には思っていません。 サラリーマンをやっていても、「秘められた才能」がある人もたくさんいるでしょうから。要はそれを顕在化しているかどうかの違いだと思います。 「アウトプット」しようにも、もともと空っぽな人間にはそのような発信は不可能です。(私のような人間です) >マクロなことだけでなく人の機微に私は人に個性を感じます。話は広がりますが感受性の問題でもあると思います。) これはほんとうに仰る通りで素晴らしい人間観、というか個性観と思います。きっとその通りなんだと思います。 またそうでなければいけないとも・・・ >個性とは差異ではない、といいつつ、差異のない私は個性的ではない、と矛盾しています。 確かに矛盾だらけで恥じ入るばかりですが、 混沌とした頭の中を先にご批判のように「理路整然と、矛盾も破綻も無く」 整理できるならこのような質問で皆さんを煩わせたりはしていないでしょう。 尚ひとこと誤解を訂正させて頂きますと、 >個性とは教育で作られるものというあなたの前提も間違いです。 もちろん個性とは天賦のもので、伸ばす能力のある伯楽に出会えれば幸運ですが決して「教育」などで作られるものなどではないと思います。 改めてお礼とお詫びを申し上げます。

noname#14995
質問者

補足

先ず >あなたの考えは硬い、鋼のように硬い、鋼鉄のように硬いと思います。 仰る通りで一言もありません。 >個性があるのかないのか、0か1かで考えようとすると話が矛盾したり、無意味に話が行ったり来たりしたりします。0から10で考えましょう。10は、超個性的、0は個性まるでなし。個性は、まず第1に、あるかないか、ではなく、強いか弱いか、です。 個性は白か黒か(あるかないか)ではなく、グラデーションであるというご指摘ですが、 これは反論ではなく、自問に近いのですが、 「バームクーヘン」のような「木の年輪のような」(同じか?) という質問者の当初の言葉は正にそのことを指しています。 ただ、内周は無に等しいと・・・

noname#30850
noname#30850
回答No.9

ふむ~。没個性的なご自分が「嫌」だということなのでしょうか? このご質問自体、なかなか個性的だと思いますが…(からかっているのではありませんよ、純粋にそう思うのです) 人と違う考えを持つことがそもそも可能か、ということですが、可能だと思います。一例を挙げれば、質問者様のこのご質問のようなことを、私は考えたことがありません。「個性って何?」と悩んだことがありません。子供の頃から「面白いこと考えるね」「変わってる」「独特だよね」などといわれることが多かったです。「みんなはこういうこと考えないのか」と驚いたりガッカリすることも。でもそれが、質問者様の望む評価なのでしょうか?だとすれば「みんな同じ」なのが推奨される日本では、いい意味にしても悪い意味しても、そう評されることにある種の苦しみを伴います。 高校生の頃、「普通」と思われるコと交じって思ったのは、結局自分は「普通」なことに興味がないんだな、ということでした。かといって全てが全て、ありえないくらい他の人と違うということでもありません。ただ、好みのものが、一般的には珍しいとされるものが多いということ、ただそれだけのことだと思っています。 本屋さんを思い浮かべてみてください、同じテーマのものに何百人という人が「我こそは、我こそは」と名前を連ねている。個性というのは積極的なもの、確かにそうかもしれませんね。しかし見方を変えれば「個性的なファッション」ですら「私はこれを着たくて着てるのよ」といっても、「お店に並んでいるのを選択させられている」だけなのです。自分で服や、はたまた布地自体を作ろうとするにしても、やはり限られた素材から選ばされることになります。 能動と受動は紙一重なのではないかと思っています。選んでいるつもりが選ばされている。就職だって、自分で「この会社」と入社しても、裏を返せば人事の担当が自分を選んでいるということなのですから。 >「チッ!なんだ、みんなおなじことを言っていやがる!」 勉強不足で太宰さんがそんなことを仰っていたとは存じませんでしたが(笑) でも、だからといって、みんなと考えが同じだったからといって、個性が無いということにはならないと思います。「同じ考えを持った『個』がたまたまその場に集まった」ということだと思います。 何をお悩みなのかはわかりませんが、ご自分が「やりたい」と思ってそれをすること、「ああ、これは良いな」と感じること、そんな人間が自分以外にいたとしても、innnercircさんがそれを良いと思って選択するのなら、それはそれで立派な個性だと思いますよ。

noname#14995
質問者

お礼

ご親切な、またご丁寧なお返事、ありがとうございます。 確かに私は自分が「無」に等しい存在。つまり、私が私であって私以外の何物でもないという確信を持てずに悩んでおります。 例えば回答の書店の例が正に適切ですが、 私は映画が好きです。音楽が好きです。 で、友人はそういうサイトを設けてはどうか?などと言います。 しかし、本屋の例ではないですが、 映画のサイトはそれこそ無数にあって、それが更に洋画、邦画、クラシック、アジア、監督別、テーマ別・・・etcと、 そしてまた、そのそれぞれが、みんながそれで生計を立てているわけでもないのに、実に出来がいい。 先に『イージー・ライダー』などとチラッと書きましたが 試しに「『イージー・ライダー』レヴュー」などで検索してみれば無数の卓越した批評に出会えるでしょう。 あらゆることは検討し尽くされ、考え尽くされ、発言し尽くされ、書き尽くされています。 >ご自分が「やりたい」と思ってそれをすること、「ああ、これは良いな」と感じること、そんな人間が自分以外にいたとしても、innnercircさんがそれを良いと思って選択するのなら、それはそれで立派な個性だと思いますよ。 仰る通りだと思います。 けれども自分より優れた人たちばかり目にすると、 もう針の先ほども入り込む余地など無いように見えるし、 既に人が座を占めている場所にどうすれば・・・ 改めて、ご親切なアドバイスに感謝致します。

noname#14995
質問者

補足

>人と違う考えを持つことがそもそも可能か、ということですが、可能だと思います。一例を挙げれば、質問者様のこのご質問のようなことを、私は考えたことがありません。「個性って何?」と悩んだことがありません。 もちろん「誰か」と違う(=happohさんと)違うということはいくらもあるでしょう。 もうこうなるとノイローゼですが >「個性って何?」と悩むことではなく、 わたしが皆様の貴重な時間をお借りして悩んでいる「個性とは?」ということについても、同様にあらゆる角度から研究され、発表され、語られ、著されている。 私が悩むような問題については全て既にちゃんと解答は存在しているのです。 だとすれば、わたしは何故存在しているのか?

回答No.7

こんにちは 質問者様には「個性」があります。何故なら、あなたと「全く」同じ人間は存在しないから。ただそれだけのことですから、当然誰でも「個性」を持っています。 個性には確かに「強弱」はありますが、「優劣」はありません。 その場その場で際立つかどうかの違いです。 例えば、みんなが黒髪だったら茶髪の人が目立って「個性的」と思われるでしょうが、みんなが茶髪にしている現在では黒髪を通す人の方がかえって「個性的」と見なされたりします。 個性とはいわば、塩・味噌・醤油の三つのラーメンの中で、どれを選ぶかというレベルのものです。 普通人間は自分を「正しい」基準として考えています。 だから例えば塩ラーメンを選んだ人に「どうしてそれを選んだのか」と聞くと「一番美味しいから」と答えたりします。 本当はどれも美味しくて、味噌ラーメンの好きな人は味噌が一番美味しいと思ってますし、醤油の人は醤油です。 どれが「正しい」わけでもありません。 ですが、世界が狭いと、「他人は間違ってる」と思いたがります。 だから自分と同じ嗜好の人を集めて「ほらね、みんな醤油ラーメンが好きじゃん、塩ラーメンが好きだなんて変!」と攻撃したりします。 動物でも、よそ者を虐めたりしますから、こういった、「自分と違うものを攻撃する」のは、もしかしたら生き物の本能的な部分かもしれませんが、特に日本人は外見(髪や目の色)が共通しているので、そういう排他的行動が強いです。 教える側(この例だとラーメンを作る人)も、みんな同じか、似ていた方が楽なので、なるべく多くの人に好まれる「適当な基準」の方向に持って行こうとします。 そうすると、塩や味噌の好きな人は「変な人」と言われて「自分が間違ってるのか?」と悩み、時には嘘をついて醤油を好きな振りをしたりします。 「個性を伸ばす」というのは、「とりあえずみんな醤油ラーメンを美味しいと思いましょう」という方向に持っていくのをやめて、それぞれ塩が好きでも味噌が好きでもいいじゃないか、それを「間違ってる」とか「変」とか言わずに「個性」として、そういう人もいるんだ、と考えようという程度の事です。 塩が好きな人に「醤油が好きな人が多いんだから、お前も醤油を美味しいと思え」と言うのはやめましょうというだけのことです。 醤油が好きな人が多く、塩を好きな人が少なければ、塩好きの人の個性が際立ちますが、別に偉いわけでもなんでもありません。 ですが、「自分は塩が好き!」と言う事だけが偉いわけでもありません。例えば、友達の家でご馳走になる時、醤油ラーメンを出されたのに「自分は塩が好きだ」と言えば友達に失礼です。 このようにして、大人になると、「没個性のサラリーマン」等と揶揄される羽目になります。ですが、別に個性が消えたわけではありません。 まあ、「人に羨ましがられる人気のある(注目を浴びる)個性」というのはあるでしょうけれど、それも時と場合で変わりますし、個性が強いとそれだけ人に嫌われる要素も強くなります。人間は自分と共通点のある人に親近感を抱いて心を開くものですから。 ありきたりの回答ですみません。

noname#14995
質問者

お礼

>ありきたりの回答ですみません。 とんでもありません。みなさん同様この忙しい(おくつろぎの)所、感謝しています。 「個性化教育」に関するラーメンの例、とても判り易い説明です。 もう私のクセだと思って一言言わせてください。 塩・味噌・醤油のどれかを選択するかが個性である。 ということはわかります。 しかし例えばラーメン・ソムリエのような人がいるとして、 「塩ラーメン」について語らせると右に出るものはいない。 これは単に「塩ラーメンってうまいよね!」という人に比べて 勝っていると言えないでしょうか? わたしが個性とは「差異」「違い」ではなく、 もっと積極的な何かではないか?というのはそこなのです。 単に差異や嗜好のレベルに留まっていてはそれを個性と呼び得るでしょうか? 更に「私は塩でも味噌でも醤油でもない第4の道を選びたい!」と思ったとき。それは可能でしょうか?可能であるとすれば自分で味噌でも塩でも醤油でもない「新たなラーメン」を創り出さなければならない。 そうでない以上結局のところ、 大勢の味噌派、塩派、醤油派のONE OF THEMに過ぎないのではないでしょうか? 不躾のお詫び、重ねて申し訳ございません。

noname#14995
質問者

補足

EmuWalkingさん、お礼に無礼な部分がありましたらご容赦ください。 重ねて失礼ですが、この場をお借りしてこれまでの感想を述べさせてください。 皆さんからの回答、アドバイスを拝見して、 最初から判り切った事ではありますが、 皆さんは質問者(私)よりも頭脳明晰である。 つまり私よりも優秀であるということを改めて確認しました。 >個性には確かに「強弱」はありますが、「優劣」はありません。 私は皆さんという、おひとりおひとりという円の内側に居ます。 つまり存在として皆さんより「小さい」のです。 無論この質問に対するやりとりのみで人間の優劣を決定するのは無茶かもしれませんが、 私は誰よりも劣っているという思いから抜け出せず、 またそれに安住することも出来ずにご覧のように悪足掻きをしています・・・ 皆様にははた迷惑なことで本当に申し訳無く思います。

回答No.6

>そしてそもそも「個性」なくして、「自分にできること」が何かがわかるでしょうか?自分が「海のもの」とも「山のもの」ともわからずに・・・ 逆でしょう。 『海のものとも山のものとも分からない自分』が出来ること」が「個性」です。 個性は人と比較して序列化するものではありません。文字通り「個(個人)」に備わる「性(性質)」ですから。

noname#14995
質問者

お礼

再度のお答えありがとうございます。 >『海のものとも山のものとも分からない自分』が出来ること」が「個性」です。 なるほど、そうかもしれませんね。 いや、おっしゃる通りかも知れません。 >個性は人と比較して序列化するものではありません。文字通り「個(個人)」に備わる「性(性質)」ですから。 仮に個性というものが「才能」「能力」と同じ意味だとすれば、そこには序列があり、優劣がつけられると思います。 スミマセン。別にひとこといちゃもんをつけづにいられないわけではないのです。 重ねてお詫び申し上げます。

  • Sombart
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回答No.5

 あなたは「個性」というものをずいぶんと良い素晴らしいものでるべきだと、そう思っていますね。自覚しているか否か、あなたがそう思いたいか否かとは別として。  そう断言できる理由は、いろいろと定義をあげながら、それは違うと自分で却下している点です。そして却下の理由が上げられていません。この点から言えることです。(なお、わざと論証の最後のステップを抜かしました。あなたが「素晴らしいもの」と思っていなければ、それ故に反発を覚えます。つまり、反発を覚えたら、私の指摘が正しいという証拠です)  個性と言うのは個体間の違いという意味です。その意味では、量産される規格品のネジにだって存在するものです。  そういう単語レベルの定義に拘泥している間は、この問題に苦しみます。  自分にできることを、それに対して自信を持てるレベルになるまできちんと訓練して我が物としましょう。こんな話を考えるのは、それからで十分です。

noname#14995
質問者

お礼

お答えありがとうございます。 「単語レベルの定義に拘泥」と仰られていますが。 それなくして人間は生きていけるでしょうか? 「愛」「生」「死」「友情」「悲しみ」「よろこび」それらの定義ナシに人は生きられますか?あらゆる文学や哲学や芸術はつまりそれら人生の根源的問いかけに対する定義づけだったのではないでしょうか? そしてそもそも「個性」なくして、「自分にできること」が何かがわかるでしょうか?自分が「海のもの」とも「山のもの」ともわからずに・・・ 生意気を申し上げましてすみません。 失礼をお許しください。

noname#14995
質問者

補足

>あなたは「個性」というものをずいぶんと良い素晴らしいものでるべきだと、そう思っていますね。自覚しているか否か、あなたがそう思いたいか否かとは別として。 の部分に対して補足です。 個性は「素晴らしい」もの「善きモノ」とは思ってはいません。 ヒトラーもスターリンも極めて強い個性の持ち主です。 ただ個性は、「善悪」を超えた際立ったもの、という考えはあります。

  • koo1919
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回答No.4

「自分には個性がないのでは」とお悩みのようですが、正月早々そのような観念的なことを突き詰めて考えられるなんて、相談者さんは充分「個性的」だと思いますよ(笑)。 ただ「同心円の中心に自分がいる」との感じ方は、1歩間違えると頭が堅くなるので、注意されると良いと思いました。「もしかすると自分は間違えているかもしれない」という考えも少しは必要です。

noname#14995
質問者

お礼

お答えありがとうございます。 みなさんのお礼にいちいち御託を並べているのはご不快のことと思いますが、自分の考えをお伝えしたい気持ちからだけなのでご無礼はどうかお許しください。 「同心円の中心」というのはおわかりのように、いちばん小さな、取るに足らない存在、という意味で使いました。 >「もしかすると自分は間違えているかもしれない」 もしかするともなにも、わたしは常に間違ってばかりです。 重ねてお礼とお詫びを申し上げます。

  • o24hit
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回答No.3

 こんにちは。  個性とは、その人が存在する上での差異ですから、そもそも比較対象がなと概念として成立しないと思います。  極端な例で言いますと、地球上で貴方一人が生き残ったとすれば、貴方は個性がない(と言うか、個性的であるかどうか知りようがない)存在であり、かつ、個性的(貴方と同じ考えや行動をする人はいないと言う意味ですが)な存在でもあります。  つまり、個性は、多かれ少なかれ比較対象がないと存在し得ない概念じゃないかと思います。  極端な社会主義、例えばスターリン時代のソ連、今の北朝鮮ですと、個性を持つことは、権力者としては困ることなんですね。ですから、個性を発揮しすぎると、ある日突然、どこか(大抵は収容所?)へ連れて行かれることになります。  これからが、本題(と言うか私の個人的な考え)ですが、  先ほど例として出しました、極端な社会主義で「国が教えていることはおかしいぞ」と思いだすことが個性の芽生えで、それが高じると、旧北ドイツのようなことが起こる訳ですね。つまり、人と違う考え方を持つことが個性じゃないかと思います。  質問文の例で書かれています、「身体的特徴」は個性とはいえないでしょうが(広義の個性と言うことであれば、これも個性になるかもしれません。)、「音楽の好き好き(嗜好ですね)」は個性の結果だと思います。考えの違いが、音楽の志向の違いに繋がっていると言うことでは、それは個性の現われの1つだと思います。  そういう嗜好がたくさん集まって、個性が形成されるんじゃないでしょうか? (結論) >差異とか相違というものは比較する対象があってはじめて現れるもので、個性というものはもっと積極的なモノではないかと・・・  これに対するお答えが、このご質問のお答えになるのではないかと思います。 ・「差異とか相違というものは比較する対象があってはじめて現れるもので」。これは相対的ということですね? ・「個性というものはもっと積極的なモノではないかと・・・」。これは、上記のことを否定されていると言うことで、絶対的ということですね?  上記の考え方でよろしければ、個性は絶対的なものでなくてはならないということになりますから、貴方のお考えになっている「個性」は、貴方がたった一人の人間にならないと、存在しない概念になると思います。 (おまけ)  書き方に失礼があったら御容赦願いたいのですが、身体に障害があることも、その方の個性であると言う考え方も出てきていますから、個性と言う考え方は、拡大したり縮小したりする、不安定なものだと思います。  私の個性の1つは、文章を書くときに( )を多用することです(苦笑)。

noname#14995
質問者

お礼

とても判り易いお答え感謝致します。 私の言わんとしている事を的確に把握なされています。 恐れ入ります。

noname#14995
質問者

補足

つまり「個性」というのは「実体」ではなく「関係性」ということだと。 お答え、よく理解した上で、私がいちばん躓いているのはこの部分です。 >つまり、人と違う考え方を持つことが個性じゃないかと思います。 無論「反体制的」な考えを持つことは可能です。 映画『イージー・ライダー』の三人は、その姿形、考え方、生き方によって、疎外され、排除されました。これは彼らの「個性」が大勢、時代と相容れなかったからだと思います。しかし現在、「オルタナティブ」というものが存在し得るでしょうか? >人と違う考えを持つことがそもそも可能か? この疑問がこの質問のそもそもの原点です。 尚ひとこと頂ければ幸いです。

noname#52148
noname#52148
回答No.2

思考を持つことが「個性」ではないでしょうか。  あなたの思考と完全に一致する人がいれば、 確かにあなたの個性は存在しないでしょう。

参考URL:
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4106100037/249-4108123-2968347
noname#14995
質問者

お礼

お返事ありがとうございます。 仰る通り、私には他者と重なっていない部分がほんの僅かでも自分の中にあるとは思えないのです。 つまりそれが「同心円の内周」という感覚です。

noname#14995
質問者

補足

「チッ!なんだ、みんなおなじことを言っていやがる!」                       太宰治

noname#14712
noname#14712
回答No.1

こせい【個性】 1.他の人とちがった、その人特有の性質・性格。個人の特性。 2.個体に特有の性質。 (辞典より) 性格だけでなく、雰囲気や、声や顔、なんでも含まれると思います。 性格にて如何ともしがたい所、そんな所に強く個性というものを感じるかもしれません。 あなたのように、論理的に見えて論理的じゃなく、例を不必要に多用したがるところも、如何ともしがたい個性じゃないでしょうか…

noname#14995
質問者

お礼

早速のお答えありがとうございます。 文章の拙さは今更のご指摘にも及びませんが、申し訳ありません。

noname#14995
質問者

補足

お答えを読んで「個性化」教育ってそれじゃあなんだろうって思いました。 こいつは文章が下手である。非論理的で冗漫である・・・云々。 個性を伸ばすということはその「非論理性」を伸ばすことですか? 仮にそれを「矯正」しようということなら「個性を伸ばす教育」とは矛盾します。 伸ばすべき「個性」というモノが前提になければ「個性化」教育などという発想が生れようもありませんが・・・

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