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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:自分の個性とよさは違う?)

自分の個性とよさは違う?

このQ&Aのポイント
  • 個性化することはいいこととかぎらないというのは同感なのですが、よく自分らしさを出してというのはそれで力を発揮しているイメージですが、やはり違うんでしょうか。
  • マズローの欲求5段階説ですが、その一番上の自己実現を目指すというのはやはり成熟した贅沢な世界だからこそ、仕事でも満足しようということになるんでしょうか。
  • 個性ってあくまで知る、生かすくらいのもので、その人の良さというのはまたやはり別なんでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

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noname#210533
noname#210533
回答No.3

個性という言葉が独り歩きして随分になります。 集団の中で個体を特定できる特徴ということ。 人間であるならば、個性が無い人間というのは恐らく 一人もいないはずです。 生来も違えば生育環境も一つとして同じものが無い。 個性、ということばは 「あなたにオンリーワンの価値はあるか?」 という挑発的な言葉として、主に購買意欲を煽るために 使われてきました。 個性的であるために、自分探しをしよう、自分磨きをしよう 趣味を持とう、英会話を習おう、仕事をし過ぎてる奴は 人生を捨ててる社畜だ、そういう連中を憐れみましょう、 あなたは自分の人生を楽しく彩り面白おかしく生きていく 権利があるし、そうすべき。 だから、流行の番組を観ましょう、流行の服を身に付け 流行の場所に行き、流行の話題でカッコよく暮らしましょう。 その流行は、ほら、あの素晴らしいセレブ達が示してくれる。 みんな上流に憧れましょう。 歌いましょう、踊りましょう。 みんな馬鹿になって、社会の支配層に踊らせられましょう。 さあ、個性を追い求め、自分らしさを追求し、自己実現を 目指しましょう。 ・・・いささか諧謔的に書いて見ましたが、私がお伝えしたかった ことは、御胸に届きましたでしょうか? 個性、自分らしさ、自己実現、自分の良さ、これらは全て 商業的なプロパガンダ、つまり大掛かりな宣伝です。 人々を躍らせるための、ね。 最初に書いたように、自分の気持ちや考えを表に顕す能力は 人さまざまですが、その人の中にある様々なルーツ、思考、感覚。 歴史、人生。 どれ一つとっても、唯一無二のものです。 わざわざ個性、などと定義しなくても、他にその人は一人もいません。 これらの言葉を手掛かりに、自分の人生を有意義なものにしようと 考えることは、 人の羨むものを、一つでも多く手に入れる事が重要だ、という 欲望充足の飢餓の中に置かれることに他なりません。 別にそれが悪いとは思いませんが、少なくとも個性などではない。 自分なんかどこにでもいる価値のない人間なのか? 嫌だ、そんな人生は嫌だ。 自分には何かの才能があるんじゃないか。 誰かが自分の中に埋もれた宝石を掘り出してくれて 誰もが羨む素晴らしい人生を謳歌できる、自分ならきっと。 そのためには何が必要だろう? 何を学べばいいだろう? 何をゲットすればいいだろう? お手本が必要かも。憧れは大切だよね。 スター選手だって、輝きながら皆を力づけてる。 あんな風になりたいと思って生きることは正しいよね? というような思考をさせるために。 ・・・少々意地悪な文章になってしまいました。 でも、結局、こんな風に踊らされてしまう。 それが知的会話のタネでもオシャレでもナンパでも スポーツに熱狂することや、AKB48や嵐のフリークに なることや、それらは全て同じ土俵の上に成り立つ。 大事なのは、オンリーワンかナンバーワンか、という 社会の中での自分の評価、ではない。 と私は思うのです。 ~ワンという目線は、宣伝される派手な物ばかりにしか 目が行かなくなるからです。 ナンバーワンでもオンリーワンでも、そこには背景に 無数の他人、膨大な人間で構成される圧倒的な他者の 存在が透けて見える言い方です。 群衆の中の一人。それを際立たせる言葉に過ぎないのでは ないのかな?と。 価値観をマスメディアに操られ、定義づけられるということ。 あれもこれもとキョロキョロして色んなものを手に入れようと することは、一見人間が広くなるような錯覚を覚えますが、 薄っぺらく広がることに他なりません。 そのように世渡りして行くのも一つの生き方でしょう。 でも、真実、だとか真理だとか、考え込みがちなひとなら。 大事なことは広さよりもむしろ、深さではないでしょうか。 沢山の女性に歯の浮くような褒め言葉で酔わせ、嘘の愛で 肉体を籠絡し、性の宴が終われば飽きて捨てて次の女へ。 そうしてミツバチの様に花から花へと渡り歩いた女の数を 競う男達の生き方も、男達から羨ましがられる個性的な 生き方でしょう。 でも、一人の女を愛し、自分とその女について考え続ける 地味な生き方もまた、一つの個性です。 誰もその男について知らない。 でも、その女だけは、男を深く深く理解している。 そういう生き方は、オンリーワンでもナンバーワンでも ありません。 世界の片隅に、ただひとつがいの男女がいる。 たった、それだけのこと。 とても普通でありきたりで、取るに足りない二人だけれど 余計なものが一切ない、という意味で完全な存在です。 男達からはつまらない男だ、モテないダメな男だと烙印を 押されても、愛し続けたその女からは、誰よりも、時には 親兄弟・友人と袂を分かっても添い遂げるほどの大切な 人として位置づけられる生き方でもある。 どちらが人間として素晴らしいか、などというつもりもなく。 あなたは、どう、思われますか? 大事なのは、人に踊らされること、人を躍らせることを是と するか、ということ。 つまりは、頭の軽いバカで結構、人生は快楽を求めて 生きる事、その積み重ねが素晴らしい人生だ、と確信を 持てるなら、そう生きればいい。 だけど、他人を貶め、或いは騙し、他人を踏みにじっても、 自分が良い思いをすることに徹することが出来るほどの 悪人、バカになれないならば。 何が大切でどう生きるべきか、などと、快楽から縁遠い 思考をしてしまう性格ならば。 他人の評価よりも、自分の納得を求めて深く深く思索する 哲学者のような人生も、その人の生き様です。 「個性」や「自分らしさ」という言葉の厚みの無さを感じて 頂けたらと思います。 とどのつまり、自分は何が欲しいのか。 何を求めて生きているのか。 それをしっかりと自覚することが出来るかどうか。 あれも欲しいこれも欲しい、こうしたいああしたいと 欲望に振り回されても、時間もお金も能力も人並み。 だから、平和的な生き方でも凶悪ワルなシノギ方でも、 上には上がいるから、結局支配される構造からは 抜け出せない。 そのうち、肉体的にも精神的にも疲労困憊する時が やって来ます。 バカでも賢い人でも、生きることにため息をつく時が どうしたってやってくる。 衰える、ということは若い時にはまず、気づきません。 頭で理解していても、自分にそれが訪れることは 全く実感できない。 勿論、わざわざする必要も無い。 だが、それが訪れた時に、あくまで快楽を追い求めて 刹那的に生き続けようとすれば、必ず他人から脅し取ったり 盗んだり、悪に手を染めるか、我慢するかの二択に なります。 一生をなるべく平穏に生きようとして、貯金し、健康を 保つ人もいますが、人生は計画通りになど行かぬもの。 会社が潰れ、或いはクビになり、借金を背負わされたり 浮気して離婚したり、子供が酷く反抗して断絶したり。 病気、怪我、色んなことが起きる。 どんな方向に生きるとしても、生き延びて何ぼのこの世です。 生き延びるということは、馬齢を重ねて一日でも長く生きる、と いうことではありませんよね。 何を手に入れて、何を失って、生涯を閉じようか。 それは恐らく、死ぬまで誰にも判らない。 私にしたって80歳では今とは違うものを欲しているでしょう。 それは今は、判らない。 ただ、私の場合は広さよりも深さを選んだのです。 生きる、ということについて、応用が広汎にきくから。 生活だけでなく、仕事だけでなく、夫婦の事、子育ての事、 趣味の事、独立起業の事。 老後の事、故郷の管理の事。 病気の事。自分の墓の事。子孫の事。先祖の事。 様々な、自分の人生のエレメントについて、もっとも 統一的に扱いやすい考え方やスタンス、見方、価値観を 確立することを優先したのです。 少なくとも、いくつかは夢を叶え、いくつかは夢破れ、 これから先もトライすること、棄てることを見据えて生きる ことは出来るようになりました。 あなたがこれから生きていくために、何が欲しいか、何を 求めていくかという価値観はどうやってもメディアや世間に 踊らされて揺れ動いていくほかはありません。 そういう時代なんですから。 でも、年老いても、孤独になっても、失っても、衰えても。 幸福でいる力、は結局、価値観から生まれます。 メディアに踊らされて身につくものは、得ることと失うこと。 でも、人生にはそのほかに、造る事、創る事、育てる事、 無私であること(ボランティアとかね)、与える事。与えられる事。 様々な切り口、視点、価値の尺度があります。 更には、奪うこと、壊すこと、貶める事、塗りつぶすことなど、 表側では忌み嫌われる裏側の価値尺度というものもある。 その膨大な視点や尺度を一つ一つ丹念に、大胆に取捨選択を 続けるうち、自分が立っている小さな世界で、自分の価値観で 「自らの意思」を積み上げて行くにはどうすれば良いかが、 時間をかけてみえてくるでしょう。 その時、それがあなたの生き方だったと、言えるのでは ないでしょうか。 若い時は、色んなものに触れ、色んな人に会い、色んな本を読み、 色んな場所に行き。様々な知見を広げるべき時期だと思います。 深く考えることも大切ですが、いかに実りのあるインプットを数多く、 或いは深く、その身に沁みこませるか、が後々の人生の豊かな糧に 結びつくものだと思います。 今は余り価値観を決めてしまわずに、玉石混交で呑み込んでいく 時期だと思います。

noname#209756
質問者

お礼

貴重なお話ありがとうございます。 一番という言葉に確かに最近はまりすぎです。 「自分が立っている小さな世界で、自分の価値観で 「自らの意思」を積み上げて行くにはどうすれば良いかが、 時間をかけてみえてくるでしょう」 本当にそれにつきます。自分の立っている位置も所詮小さく、自覚なければアイデンティティも喪失しているのかもしれません。 ご回答ありがとうございます。

その他の回答 (2)

noname#202739
noname#202739
回答No.2

そもそも個性化とか、ブルーオーシャンが流行ってる時点で、 全然個性的ではないですよね。 個性を目指すから、個性的でなくなるというパラドックス。 って偉そうなこと言いつつ、ぼくもそういう系の本をたくさん読んでは、 「自己実現だ」って言ってた身なんですけどね。 ひとつ思ったのは、個性って言葉に惑わされず、 とにかく一歩でも目の前の行動をするのが大切だなってことです。 個性化という言葉に惑わされず、強迫観念をもたないことです。

noname#209756
質問者

お礼

確かに個性を出すことが流行になってます。 「強迫観念をもたない」 これは重要だと思います。 ご回答ありがとうございます。

noname#194996
noname#194996
回答No.1

個性的であらねばならないという日本の一時期はやった初級中級教育は、私なりに考えれば、他人の真似はするな、誰もが違う顔を持っているように、考えも一人ひとりが違うし、異なった思いを持って当然だ、皆独自の行き方をするべきだし、それを非難するのは当たらない、という、それ以前の(戦前の)画一教育の反省から来ていたのだと思っています。そういった流れからいわれたのが「自分らしさ」であって、当然ながら個性化につながるのでしょうが、要するに自由に伸びのびとした思考表現がそれから生まれてくるはずだ、ということでしょうね。 画一的なものを集団(のひとりひとり)に要求するよりも、前記の方法でいけば持てる本来の力を全員が発揮できる(はずだ)という思いがあるはずで、理想からいえば従来の限界を少なくとも何人かが突破できるので、総体としてより大きな力が得られる(だろう)ということは出来ると思います。 自己実現というのは自由行動によって個性の最大化がはかられて、その人間が本来持っている可能性が極大で(すべて)実現するということでしょう。見方を変えれば、自分の限界はそれまでだからそれで満足するべきだ、それ以上はありえないということになります。もちろんこれはひとつの考えなので、果たして一人の人間にそういった秘められた自己という能力の総体が果たして内在しているものか、という疑問はありますし、可能性についても、どれだけ自由にやったってそれが最大限の努力だったとはいえないし、人に依ってはもっと高みに行けたかも知れないとおもうでしょう。それは無限大とするべきだという考えだってありえると思います。 >個性ってあくまで知る、生かすくらいのもので、その人の良さというのはまたやはり別なんでしょうか? 個性という言葉は他人と差別化できるもので、主に良いもの、面白いものにつけられますが、基本的にそれぞれ価値観の違いがあるはずで、一線でよい、悪いといえるものではないように思います。それを良いものにするのは当人の責任、努力に依ってなされねばならないと思います。 >個性化とは現状不満で変えたいという欲求なんでしょうか。 画一化に対する不満からそのほうに向かったという意味からはそういうこともいえると思います。でも、個性というものは自身で意識的に(個性化しようとか)コントロールして生まれるものではないとわたしは思います。

noname#209756
質問者

お礼

おっしゃるとおり、突破力という意味で個性化を推進する空気なんでしょうね。簡単な理論ではそうかと思います。 おっしゃるとおり、「果たして一人の人間にそういった秘められた自己という能力の総体が果たして内在しているものか」とかあるいはそれが最大限の努力なんて無限であったりですよね。 ご回答ありがとうございます。

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