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安徳天皇と壇ノ浦
kumagorou-raamenの回答
- kumagorou-raamen
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海洋埋蔵物調査についてかなり進歩はしておりますが、 現地は潮流も早く水質も悪いと言う条件の上に、 実際の海戦海域が特定しにくくかなり広大です。 漂着物以外に海底遺物に対して調査された事は在りません。 例えば海沿いの比較的浅い海域の海底遺跡のようなものなら、 その部分だけを遮蔽し海水を抜き出して調査可能ですが この方法は予算が高い上に調査区域も絞られます。 また、表面採集や金属探知機の使用等での海域調査ですが これも潜水時間や水域環境に阻まれて大規模調査はしにくいです。 また、1000年近く前の物ですと付着物や食塩による侵食の影響で 一般の海洋遺物等と判別しがたい事も安易に予測されます。 実際、漂着した矢じりや和鏡を保存している神社が在りますが、 矢じりは当時の漂着物であり、 幕末に揚がったとされる和鏡も藤原鏡と言われる平安末期の物です。 現地では「伝・八咫の鏡 「遠岐斯鏡」」ですが、 まったくそのようなものでは在りません。 また、海流が不安定で古来から航海上の難所でしたので その後の沈没・遭難船の遺物も混在している事と思われます。 海洋埋宝伝説はわくわくしますが、 カリブ海のメル・フィーシャーの様に 腐食の少ない金・銀の遺物を透明度の高い海域で沈没船の位置を特定し 砂やヘドロごと遺物をバキュームで吸い上げて 金属探知機で選別すると言うような豪快なやり方は、 水中考古学の保全と言う最近の考え方と日本の海洋遺物に関する拾得法により 日本の場合、その面からも困難です。 瀬戸内海には竜王丸・英国船ナイル号等の沈没船の高額な遺物が未だに沈んでおり、 (前者は小判5000両金地金45000両。後者は19000万円に相当するダイヤの王冠) これらは江戸後期・大正時代と比較的最近ですが それでさえ予算・法律的な理由からも未だに発見した人は居ません。 船一隻を探査するのでさえこの有り様ですから、 三種の神器のような小さなものを捜すのには 天文学的な予算と長大な作業期間が必要に成ります。
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