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頼朝の考えとは?
- 頼朝の考えとは何だったのか?平家の滅亡ではなく「平家の降参」が望ましい理由とは?
- 安徳天皇の保全が頼朝にもたらした利益とは?
- 頼朝の真意を考える
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質問者が選んだベストアンサー
頼朝にはその構想は無かったと思います。 本当に平家滅亡を望んでいたと。 多分吾妻鏡を資料とし、その考えに至ったと思いますが、そもそも吾妻鏡は頼朝らが生きていた時代より後に編纂されていたもので、頼朝の血筋から北条家が関東の政権を受け継ぎ、そして全国の支配権を持つことを正当化させるために様々な「創作」があるようです。 多分平家を滅亡させた義経に対する冷遇からだと思いますが、吾妻鏡が編纂される前の書物では頼朝は義経を腰越で足止めさせず、大いに喜び褒めたとあります。 また、頼朝はその後義経に対して伊予守を推挙しています。 平家滅亡を望まず、「降参」させ安徳帝の保全を考えて、義経と仲違いをしていたのならば、伊予守の推挙はしなかったでしょう。 また、義経に宗盛父子を鎌倉で解放あるいは出家させず処刑させたのもやはり「滅亡」を望んでいたと思います。 実は義経の検非違使少尉無断任官も怒っていなかったそうです。 別の任務のために平家追討から外れていただけで。 そもそも平家追討は範頼の役割で、義経は政治的な役割を受け持っていたんですよね。 元々範頼の方が戦のセンスがあったんです。 運悪く飢饉などで難航してしまったわけですが。 宇治川も一ノ谷も範頼が総大将で作戦も範頼が考えたものだと思います。 また、屋島も壇ノ浦の一部分で、本来は範頼が総大将だと。 ですが、範頼は海上戦が不得意で水軍を集めることが出来ず、義経が大水軍を集めることに成功したために、海上隊の大将が義経、陸上隊の大将が範頼で、範頼は陸上への平家軍の退路と補給基地を封鎖します。 そして海上と陸上から平家の船に大量の矢の雨を浴びさせました。 特に範頼軍の陸上からの攻撃が激しくそれが滅亡に至らせたそうです。 事前に義経と連絡を取って、そういう作戦にしたのでしょうね。 ちなみに船上からは意図的に水夫だけを狙って撃つことも水夫だけ避けて撃つことも難しいそうです。 実際のところ無差別だったのでしょう。 頼朝に平家を滅ぼす意思がなかったら、範頼を派遣しなかったでしょうね。
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- head1192
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「降参」というのが何を指すのか不明確なので、これについての回答はできない。 降伏させておいて処刑という手もあるからである。 それと、武士はできれば朝廷に弓を引きたくない。 権威の面で雲泥の差がある。 現在で言えば、地方企業が日本政府にいちゃもんを付けるようなものである。 武士が朝廷に勝った例はほとんど承久の乱だけである。 信長でさえ朝廷を屈服させられなかった。(むしろ朝廷の意向をうけて天下静謐を目指していたふしがある) 朝廷を敵にするとはイコール日本全国を敵にすることである。 味方の寝返りも覚悟しなければならない。
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ありがとうございました。
- gunsin
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頼朝の日記でも見つからない限り、解らないでしょう。 誰も解らないから、文書力の有る人が著作して印税を稼げるのです。 発見された古文書の真贋を見極めて、それらを突き合わせて、推測 の作業に掛かり一冊の著作本を造り上げるのですから労力は大変な ものと推察しますが。 頼朝、義経兄弟の歩んだ道からは、平家の降参を認め平家の血筋の 安徳天皇を助命する事は無いでしょう。 支配者が武力で交代した場合、前の支配者一族は皆殺しにされる のです。 洋の東西を問わず歴史が物語っています。
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ありがとうございました。
- WDY
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https://toyokeizai.net/articles/-/585577 の3ページに 一方、後白河法皇は、頼朝に義仲と和平することをたびたび伝えていたようだ との事です。
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ありがとうございました。
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ありがとうございました。 頼朝にはその構想は無かったと思います。 本当に平家滅亡を望んでいたと。……ですよね。私の浅い知識から推測した、頼朝の性格、そして頼朝自身の経験からしても、とても「平家の降参と安徳天皇の保全を考えていた。」とは思えないので、質問させていただきました。