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平治の乱後の源頼朝の少年時代疑問
素朴な疑問です 源頼朝の少年時代についてですが 平治の乱で父・義朝が 平清盛に敗れるわけですが その後、息子の頼朝は。。。? (1)何かで読んだのですが まだ当時少年ながら武将として参戦していて 囚われの身になり殺されそうになるが 清盛の義母が「死んだ息子(清盛の弟)にそっくりだから助けてあげて」 とか言い出して 結局流罪になる (2)私が子供の頃源義経の話は「牛若丸」と言う昔話としてあったのですが それによると 頼朝は今若、もしくは乙若と言うまだ幼児として登場し 母・常盤と赤ちゃんの牛若(義経)と共に雪の中を落ち延びていたが 兵士軍に捕えられたが 常盤への情(常盤は美女だった)に負けた清盛に助命されて寺に入れられた と私が読んだ限りでは2通りの描かれ方があるのですが どちらがより史実に近いのでしょうか?
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- kitsunetoneko
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(2)の,質問者様のご記憶や逸話の登場人物の設定などは,源頼朝氏の幼名が,鬼武者や鬼武丸だったことや,源頼朝氏の年齢;源頼朝氏は,源義経氏より,だいぶ年上,又,源頼朝氏の母親は,父親の正室の由良姫(由良御前;藤原南家の娘)であり,源頼朝氏の同母姉弟は,源義経氏や,常磐御前などとは,一緒に逃げていないことなどから,当時の源頼朝氏の助命・伊豆への島流し(流刑)と,源義経氏(幼名;牛若丸)の寺院(鞍馬寺)に預けられた件などとは,別問題だったと思われます..(1)の逸話は,平家物語などに,ありますが,実際は,源頼朝氏の身分などが,当時,それなりに高かったことや,母親のコネ→由良御前やその姉妹などは,後白河院の姉;上西門院などの女房をしており,実家も,朝廷に縁がある一族で,平清盛氏の平家の一族が,当時は,まだまだ,朝廷内のトップなどでは,無かったことなどが,影響していたように思いますし,平治の乱の途中で,平清盛氏側に寝返った,摂津源氏の源頼政氏なんかも,平治の乱後,生き残ってますね‥‥後に,打倒平家で,後白河院の息子;以仁王を担いで,挙兵しますが..
- ichikawa2017
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>どちらがより史実に近いのでしょうか? (1)は平治物語に記載されているお話です。 (2)は『義経記』に基づいて作られたお話の一つです。 平治の乱以前の頼朝は鳥羽天皇の娘で崇徳天皇や後白河天皇の兄弟だった統子内親王に仕えていました。 この関係で清盛に処刑させずに伊豆への流罪処置にさせたのは晩年の統子内親王(上西門院)だっただろうとされています。 これからしますと(1)の方が史実に近いと言えるかと思います。 (1)にせよ(2)にせよ年上の美貌の女性が助命嘆願したことになっているのは、皇室に連なる統子内親王をはばかって他の人物にすり替えたのかとおもいます。 おそらくお話が作られた当時の人達からすればお話の登場人物が誰であるのかは推測がついたのではないかと思います。
- もこ猫ミクにゃん(@miku-chi)
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(1)はほぼその通りです。 ただ、清盛の継母である池禅尼の話は作り話の可能性があります。 (2)の話では「頼朝は今若、もしくは乙若と言うまだ幼児として登場し 」というのは誤りです。 頼朝の幼名は「鬼武者」または「鬼武丸」であり、少なくとも平治の乱の前年までに元服し「頼朝」となります。 「今若」「乙若」と言うのは義経の同母の兄の幼名で出家し「全成」「義円(円成)」となります。 後に全成は頼朝の挙兵の際に兄弟の中でいちばんに駆けつけ、頼朝に支え、同父の兄弟ではいちばん最後に亡くなります。 常磐への情云々も作り話である可能性が高く、清盛と常盤との間に娘がいるとされていますが、それも創作された人物である可能性が高いとの事。 実際は清盛の子は元々助命するつもりだったが、暗殺を企てた長男義平のみ処刑したそうです。 次男朝長は戦死(義朝にトドメをさしてもらった)、四男義門は不明(乱前に死去?)、五男希義は母の実家方により流され、六男範頼は(色々あって?)貴族に保護です。 寺に入れると言うのは命令では無くて、生きていくための助言だっただけとも。 その後常磐は平治の乱では夫の上司であった藤原信頼の親戚である一条長成に嫁ぎます。 もしかしたらそちらの方での関係で寺に入れられたのではないかと。 義円がいた寺に長成の弟がいましたし(指導僧だったとか)。