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「北条早雲」「聖徳太子」「任那日本府」は存在しなかった???

juntの回答

  • junt
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回答No.9

 聖徳太子の実在は、まず疑問視されませんね。『日本書紀』以外にもその実在を示す史料は多く、『天寿国しゅう帳銘』『法隆寺釈迦三尊像光背銘』『道後湯岡碑銘』『上宮記』『元興寺伽藍縁起』『上宮聖徳法王帝説』等これらを対照吟味して実在を導き出せるのです。 『任那日本府』についてのかつての定説は、現在では動揺しており、新たな進展を求めつつ今なお論争中です。  旧説では、『任那日本府』は近代の『朝鮮総督府』とオーバーラップして理解され、大和朝廷の【植民地】たる任那地方を支配する出先機関であると説かれてきました。しかし現在では、そのような『任那日本府』は虚像として否定されたといえます。  当然のことですが、朝鮮史料を重視する韓国・北朝鮮の研究では日本列島の政治的影響が朝鮮半島に及んだとみる学説は一顧だにされないのが現状です。以下韓国・北朝鮮の代表的学説を簡単に述べると、  『分国論』という学説によると、『日本書紀』に記された『任那』とは日本列島内に存在した任那系渡来人による殖民国すなわち任那本国の『分国』であり、『任那日本府』はそれを統括するために大和朝廷が設けた機関だとします。また任那は巨済島を指すとの見解もあります。このように韓国・北朝鮮では『任那日本府』を朝鮮半島を舞台とした歴史とは切り離して考えようとします。  一方、最近の日本における研究では【植民地支配の出先機関】とする旧説こそ退けるものの、当時の日本列島の政治勢力が朝鮮半島南部の政治動向に何らかの関与をしたとの視点はなお継承されており、朝鮮における研究とは今なお大きな相違点があります。  以上のような研究状況ですが、以下では主に日本における研究を中心に説明します。 ○『任那日本府』とはどういうものか  本来、任那とは現在の韓国釜山市付近を本拠とした国の名称です。朝鮮史料では、任那加羅、任那加良あるいは金官国と呼び、また単に伽やということもありましたが、任那と略称する使用例はありません。一方、『日本書紀』は、この国を任那・金官・南加羅などと呼びます。  ところが、厄介なことに、『日本書紀』が記す任那とは必ずしも任那加羅国を指すとは限らず、他に(1)加羅(加耶・伽や)他地域全体の地理的名称、(2)加羅地域に存在した小国郡の総称、(3)任那日本府、などを意味する場合もあるのです。それでは、『日本書紀』に描かれた『任那日本府』とはいかなるものかということになります。  現存最古の『日本書紀』注釈書である『釈日本紀』は『任那日本府』を『任那之倭宰』と注釈しています。つまり、『日本府』とは、『倭宰』(ヤマトノミコトモチ)の意味というのが、平安・鎌倉時代の解釈だったのです。(『ミコトモチ』とは『御言持』の意であり、天皇の使者を指します)。  この『釈日本紀』の注釈を勘案しつつ、『日本書紀』を注意深く読めば、『在安羅諸倭臣』とあるのが注目されます。つまり、『日本府』の実体とは倭の使者そのものあるいはその集団であって、何らかの権力機構・機関を想像するのは妥当とは言えないのです。  ところで、これらの『諸倭臣』が530年頃から安羅(慶尚南道咸安)に駐在したとの確証はありますが、任那加羅も含め安羅以外に居た証拠はないのです。従って、厳密には『任那日本府』と呼ぶのは正確ではないのです。  要するに、『任那日本府』の実像は、安羅に駐在する『諸倭臣』が大和朝廷と連絡をとりつつ、任那諸国の代表と外交上の問題を協議し、時には百済王とも連絡している、ということになります。

energyflow2005
質問者

お礼

充分な説明をありがとうございます。

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