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「北条早雲」「聖徳太子」「任那日本府」は存在しなかった???

noname#24872の回答

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noname#24872
noname#24872
回答No.8

以前任那日本府について回答したものですが、主旨が伝わらなかったようですので補足します。 「日本という国名が正式に用いられるのは、天武天皇の時代以降。従って、任那日本府は存在しなかった。」というのは、単に言葉の遊びで言っているのではありません。 「日本(にほん、やまと)」という言葉は、天皇という唯一の主権の存在を前提とした国家」を表す言葉です。一方「倭(わ)」は単一政権の支配力が及ぶ範囲を示す言葉ではなく、「倭人の居留する区域」を意味します。ですから、狗奴国さえ支配できなかった卑弥呼にも「倭王」の称号が与えられたのです。倭人の中の有力者には違いないですからね。 「日本府(やまとのみこともち)」は「日本」という統一国家の「主権の及ぶ範囲」を意味します。しかし6世紀以前の倭は、倭王の下に有力部族が集結した共同体のようなもので、当時の「やまと」はその中心勢力ではあっても、倭人全体を示す言葉ではなかったのです。このことはヤマトタケルの「やまとは国のまほろば・・・」の国偲び歌をみても明らかです。 当時の朝鮮半島に倭人が多数居住し、また倭王に従った国や小邑があったことは十分に想定されることであり、だれも否定していません。ただ、それを統一国家という概念が形成された7世紀以降の判断基準でとらえてはいけない、ということです。

energyflow2005
質問者

お礼

大変良い回答をありがとうございます。 1、朝鮮半島南部には倭人が多数居住していた。 2、朝鮮半島の国の中には、倭王に従った国や小邑があった。 3、しかし、それは統一国家というレベルではなく、もっと原始的なものだった。 ということでしょうか?

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