男女に於ける愛と友情

このQ&Aのポイント
  • 倉田百三世代の身にとって、人生に於ける愛と友情は深遠な問いであります。
  • 愛と友情はあい矛盾するのか。愛は可変的な感情であり、時には緊張をもたらす一方、友情は相手を慮る思いであり、鎮静剤的役割を果たします。
  • 現代の傾向において、友情は愛より劣るという捉え方ではなく、愛と友情の両方が心地良い絆の維持に寄与するのではないでしょうか。愛は万能ではなく、友情も建設的な要素を持っていると考えられます。
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男女に於ける愛と友情

 一筆啓上。  倉田百三世代の身にとって、人生に於ける愛と友情は深遠な問いでした。     「愛」と「友情」はあい矛盾するのか。  私見では「愛」が可変的な、そして途上にあってときとして緊張をもたらす感情であるのに比べ、「友情」は相手を慮る一歩引いた思いであり、「愛」のきりきりした、場合に依っては人を窒息させもする激越な感情をセーブするに、「友情」の感情は程好い鎮静剤的役割をもたらすと考えます。  つまり現代の傾向;友情は愛より劣る、といった捉え方ではなく、愛と友情その両輪のアプローチが、その二人の心地良い絆の維持に寄与するのではないだろうか、と思う次第です。  「愛」は人々が思うほど、万能ではないのではないか。  それを思うと友情の建設的要素というのは、意外に多大ではないだろうか。  あなたはどうお思いになりますか・・?  よろしければ、少しお聞かせください。  当方、ときどき迷い有り、です。

noname#13676
noname#13676

質問者が選んだベストアンサー

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  • tokytime
  • ベストアンサー率37% (43/114)
回答No.3

質問者様のおっしゃる「愛」と私の思っている「愛」とは少々使われる場面が違うかもしれませんが、私は「愛」とは相手をあるがままに認めることだとおもっています。 この(究極の)愛はなかなか難しく、ついつい自分の都合と世界観からそれに沿ったものを相手に要求したくなるのですが、感情に任せてしまうといい結果は得られたためしが無いように思われます。 もし、相手に強く求め、要求する「愛」ならば、これは「愛」というより、自分の心の中で作り上げた自己の世界を実現するために相手に強要することなのではないでしょうか。 ですから、もし相手がきいてくれれば愛してくれていることになり、きいてくれなければ、「心変わりした」又は「裏切られた」ことになるのではないでしょうか。 これは相手の心変わりというより、相手に対する当初からの誤解、又は、自己の世界観の誤った投影といえるかもしれません。 「愛」とは自分よりずっと劣った、遅れた者にも苛立つことなく、過去の未熟だった頃の自分を重ね合わせ、理解し、将来成長出来るであろうことを予測し、その存在を否定することなく認め、見守り、相手が必要とした時にアドバイスすることだと思います。 と書いてしまうと、愛の情熱も欲求も無くつまらなそうに聞こえますが、いえいえそんなことはありません。 こういう愛こそは情熱がないと続かないと思います。 使命感もなければならないでしょう。 その使命感に対する熱い情熱です。 ということは、「愛」とは熱い情熱でしょうか。 では「友情」とは・・・ 志、又は何かに対する感情、情熱を同じくするもの同士が心を通わせ、感情を豊かに膨らませ、楽しむ行為ではないでしょうか。 このとき、両者は対等でお互い与えあっているとおもいます。 「愛」において一方的に与えてばかりにみえても、じつは与えることにより、「与える」という心の豊かさをもらっている(心のなかに築いている)とおもいます。 又、与えられるばかりの人が居たとしても、その人は与えてくれる人に対し、「人に与えることによって得られる心の豊かさ」を与えているともいえるとおもいます。 結局、「愛」も「友情」も与え合う関係なのではないでしょうか。 もし、質問者様の意図するところから外れているときはどうぞお許し下さい。

noname#13676
質問者

お礼

    tokytimeさん、こんばんは。    私の愚問にお目を止め、このようにお答えくださり、ありがとうございます。ときどき他の質問者さんへのご回答に触れ、心が洗われる思いを頂戴しておりましたので、今回私の拙い問いに直接お答えをいただけ本当に有り難く、胸がいっぱいです・・。  そうなのですね・・   相手をあるがまま受け止める、これが「如是」ですね。  明治の近代化に伴い、日本には西洋から多くの科学がやってまいり、そして今も「ベストパートナーは?」というアドバイス本が盛んではありますが(例えば『嘘つき男と泣き虫女』などのように)、私はそれらのハウツー本を批判はいたしませんが、やはりあまりに科学で割り切られたのみの文言を読みますと、心が遠のくのを覚えるのです。  友情も愛も「自己」という主体があればこそであり、それへの試しであり、揺り動かしであるのだろうと思うところです。 「もし、相手に強く求め、要求する「愛」ならば、これは「愛」というより、自分の心の中で作り上げた自己の世界を実現するために相手に強要することなのではないでしょうか。ですから、もし相手がきいてくれれば愛してくれていることになり、きいてくれなければ、「心変わりした」又は「裏切られた」ことになるのではないでしょうか。」  そうなのです・・ この「変節」を傍で口にする人がとても近くにいたり、自分までもその言葉にいささか煽られてしまうとき、正しい愛の困難さに悄然とします(お付き合いをしていた男性に再々デートを断られている、知人である或る若い女性が、その男性のことを”何様のつもり?!”と。私としては、その女性の「愛」が分からなくなったのです)・・tokytimeさんのおっしゃっていることは、正しくこのことと合致いたします。  「愛とは熱い情熱。そして友情とはそれを共感し合う二人が共に楽しむこと」  おっしゃる通りだと、私も思います。  与えることの喜び、  尽くすことの喜び。使命感。そこからの心の充溢。  私は喜びをいただいているのですね。  その喜びを思えば、友情だとか愛だとかの区分けさえ、徒労のように見えてまいります。  未だ迷える羊の身ですが、今夜はtokytimeさんから奇跡のようにたまわったお言葉を反芻し、眠りに就きたく思います。  どうもありがとうございました。  

その他の回答 (6)

  • kneissl
  • ベストアンサー率30% (97/320)
回答No.7

「愛」も「友情」も幻想だと思います。 そんなもんはどこにもなくって、あると信じているだけ。あるいは、あると思えば生じる、魔法です。 そもそも、「愛」は「友情」より劣るという現代の一般傾向をどこから導き出したのか、そこに疑問の余地がある。誰もそんなことを思っていない、あなたの勝手な思い込みの可能性があります。そもそも、「愛」と「友情」を同列に語る必要性すらないというか、まったく異質のものと捉えている人も多いのではないでしょうか。そもそも「愛」に「友情」が入ってくる場合の方が少なく、むしろ氷炭の関係で、両輪などのように上手く機能するとは思えません。「愛」すれば「友情」を感じなくなり、「友情」を感じる時のおいて「愛」とはほど遠くなる。「友愛」なら別ですが、「愛」は「友情」とやはり矛盾するものでしょう。クラインの壺のように、どちらかが現れた時にはもう一方は消失してしまうように思われます。 「愛」は万能ではありませんが、「友情」も万能ではありません。ただの慰み物です。夢のように儚いものですが、人間は求めてしまいます。

noname#13676
質問者

お礼

   ご回答いただき、ありがとうございます。 「そもそも、『愛』は『友情』」より劣るという現代の一般傾向をどこから導き出したのか、そこに疑問の余地がある。誰もそんなことを思っていない、あなたの勝手な思い込みの可能性があります。」   これについて補足させていただけましたら;これは私の思い込みではなく、周りの若い女性たちとの会話からの結果です。私自身人の話を聞く場合、先入観を取っ払って虚心に聞く術を若い頃よりは身につけたつもりです(まだまだ、とは思いますが)。  そして基本的に、愛と友情、そのどちらが人として、より高尚か・・などとランク付けする考えも、毛頭ありません。  Kneisslさんのお考えでは、愛と友情の共存は不可能ということなのですね。  分かりました。  社会的に降って来る多くの共同体維持のための幻想はいざ知らず、己が心象の中に起きた愛や友情の感情までをも幻想と言うことは、私には出来かねます(両者で共有していたつもりの甘さを、幻だったと言うことは出来ても・・)。 何故か・・ 何故なのでしょう・・  自分の魂に触れる機微だから、でしょうか・・  儚さゆえに、人は何をどうすることが出来るのだろうか、ということなのですが。  愛ゆえに儚いのであれば、愛をコントロールも出来ましょう、友情ゆえに儚いのであれば、愛の集中度を高めましょう、ということが可能なのかもしれない、と思う次第ですが。

noname#31063
noname#31063
回答No.6

愛の対義語(反意語)が「依存」と言ったくせに、依存も「愛」の一種です(笑)。 でも依存や中毒は健やかなイメージが湧きません。執着から呼び出しては不平不満を言い・離れれば不安を抱え込んで病のようです。 依存との対話や確認作業を繰り返す内に昇華し愛着になれたら自由にさせてあげようと望めるようです。愛は健やか元気で、育んだと想うだけで嬉しくなれそうです。 愛されることのなんぞ嬉しき 愛することのなんぞ嬉しき  /武者小路実篤 無視や無関心には自由があるし、無関心な人の全人格が悪意ばかりではないのだし、本当の悪人だったら関心されると怖いし大変です。 私は仲良くなれない人がいても、その人は他の人に優しくしていたりするのだから、それがわかれば一発で解決です。 誰が誰の代わりに幸せになっても公平ではないか。もし誰かの代わりに不幸になっても不安になる必要があるのか?なければ堂々と生きるよろし。という不自然な考え方です(笑)が、そう納得すると随分楽になりました。 「博愛主義」などとは申しませんよ(誰も言ってないし?)。奇しくも主張が重なるようですが(そうでもない?)単に失恋に凝りて自分で自分を慰める方法を編み出したのです!やはり年(40)の功…か。

noname#13676
質問者

お礼

 再びのご回答、ありがとうございます。  愛と喜びの関係、ですね。  嬉しさ、嬉しいという思い。  幸福感。  私もmiko-desiさん同様、こんな辺りの愛の素朴な根拠に意識的に(!)素直になろう、と気がついてまいりました。  それと、愛や友情の不合致についてですが、それは致し方のないことで、それでも別の人との邂逅で幸福を得られるのならそれで何より、ということです。  万人への愛や友情に、一人の人間が答えることは出来ませんね。しかしあまりに集中的過ぎると、それが相手への負荷になるという点が、愛の難しいところですね。  依存の解釈は、なかなか困難に思えます。  ただ女性にsex依存や中毒傾向があることに関しては、その性(さが)に理由があるのかもしれません。血の道。  ですので自らにほんの少し冷水を与える意味で、友情的要素が要り様かもしれない、と勝手に思います。

  • mktoolll
  • ベストアンサー率22% (20/88)
回答No.5

心惹かれる問いなので、私見ではございますが一筆。  まず、「愛」についての私見ですが、「自分自身を宇宙を構成する一要素である」と認識する事のように思います。つまり、普段私達はさも自我と言うものを確実に存在するものとして考えがちですが、それは、宇宙という存在の思考の一部でしかないと私は考えます。ただ、この愛と、男女の愛は性質が違うのでちょっと書きたくなりました。  男女の愛を考察する場合、「不変の愛」「可変の愛」に分ける事ができると思います。現日本にあっては、血族に対する愛情は「不変の愛」、他人に対する愛情は「可変の愛」だと感じます。不変の愛を誓わせるものは同族としてのプライドなのかもしれません。つまり、異族との間にはある種の利益がある場合にのみ「愛」が発生すると思うのです。利益とは、金銭であったり、sexであったり、心の平安であったりと言う事ですが、それが無くなれば「愛」も無くなると言う事です。仮に夫婦であっても子どもや孫への「愛」は不変でも、伴侶への「愛」は不変ではない・・最近はやりの熟年離婚などは良い例ですよね。その事を考える時に、「友情」とは「愛」が内包する一形態では無いと言う事が言えると思います。  「友情」は自分の意思によって如何様にも変化をさせる事ができます。「愛」と「友情」の決定的な違いは、「愛」には自分を犠牲にできるが、「友情」には自分を犠牲にできないという点ではないでしょうか。熟年離婚した夫婦がお互いに「愛」でも「友情」という絆で結びつけないのは、そこにプライドがあるからだと思いますが、そういう点でも、「友情」とは極めてドライな信頼関係だとも言えると思います。つまり、「友情」とは理屈の上に成り立つものだと・・・・。  「愛」と「友情」は矛盾するどころか、全く別の感情の様に思います。「友情」はある種打算的で計画的な行動によってのみ発生しうる。「愛」は意思に関係なく発生する。その二つは一見似ているようで、その性格は全く異なっている。では、「友情に建設的要素は無いのか?」と問われば、私は、「建設的要素の無い友情はありえない、しかし、愛情と友情の共存もありえない。」と答えます。両者とも、人生を潤してくれるものにかわりはないですし、無くてはならないものですから。  結局「男女の愛って何?」という話ですが、私が思うに、もともと自分の意思と関係ない所で発生するものなので、定義付けなど無理な話なのですが、私は「コイツの為なら死ねる、誰にも取られたくない、死んでも傍にいる。」と本気で思える事なんだと思います。そこに、友情としてのアプローチは入る隙間などないと思いますし、隙間があるとすれば、それは「友人」なんだと思います。もちろん、一方的な感情の場合は友人的アプローチで段階を踏まないと大変なことになっちゃいますけどね。  長文になっちゃいました・・・済みませんm(__)m  

noname#13676
質問者

お礼

   お考えの一部をご披露くださり、ありがとうございました。  恐らくmktoolllさんは、とても愛情への傾注度の深い方なのだろうと拝察いたしました。「そこに、友情としてのアプローチは入る隙間などないと思いますし、隙間があるとすれば、それは「友人」なんだと思います。」というご一文で、とりわけそのように感じました。  さて、「血族」「同族」意識。  直系の血筋には感じる愛、されど伴侶への愛は消え得ると。しかしその「血」の存続すら、異分子が入ってくることなしには有り得ないはずなのですが・・   でもその感覚は分からなくはありません。特に母系家族の場合、そういう価値観で女性たちが動くさまを、私も多少存じています(私は全くの異質さから一方的に別の異質な血族に投入されたので、とうとう浮いた存在のままでした・・その点で言えば、放り出されて当然な者でした・・一種の淘汰?)。  血に関するとき人は意思制御不可能になり、血の埒外になると(友情)人はそれを制御し得る、ということでしょうか。定年後のご主人のことを「濡れ落ち葉」という冷ややかな呼称で言う奥さま方の心中には、何が残されているのでしょう・・ それもある意味で、血の存続のお役目を果たし、もうご用済みになった者への鎮魂でしょうか・・ う~ん、せつないものです。  ありがとうございました。

noname#13676
質問者

補足

 すみません、追記です。  私も若い頃は、自我やエスといったものに関心がありました。  でも40歳を過ぎた頃からでしょうか、極論言えば、自分を限りなく無に出来うる境地が、もっとも自分を幸福にするところなのではないだろうか、と思えるようになりました。こんな考えは間違いでしょうか。  渇愛・・ 仏陀が戒めたものでした。  求めるのではなく、求められる者に・・  与えなさい、と。  

noname#31063
noname#31063
回答No.4

一筆啓上。(真似ました♪) 私見は、男女の愛は、凸と凹でございます。精神よりも肉体が勝って、欠落の補完関係です。 男らしい男+女らしい女=性の完成。「性」は心を生かすと書きますが、肉体(体液)の交換(浸透)によって触発される、満ちる憧れのように思います。 現代においては価値観が多様化し、そうとばかりは言い切れないのですけれど。その辺は詳しくないです。 友は仲間ですから「異体同心」。向き合ったり重なったりはあまりしないけれど、同じ方向を向いて並んで進むという絆があります。 男女の区別なく補完の絆なら「愛」 仲間の絆なら「友」と思います。 愛も同化し出すと友になるようですね。 「情」の響きには哀愁を感じるのです。アンティークとか。実体積よりも、時間軸上の体積がある感じです。愛が芽生えたばかりとか、仲間が出来ただけで直ぐ「情」を付加出来ない気がします。 愛は動詞ですから(←未確認発表)つまり「育む」という目的をさせる能力ですから、そういう意味で使うなら誰の人生に於いて使っても、種を越えても、学問や地球に対して使っても大丈夫に思います。 因みに私が思う愛の対義語は「依存」です。

noname#13676
質問者

お礼

 miko-desiさん、こんにちは。  ご回答、ありがとうございます。  おっしゃるように、男女の性差の象徴が凹凸ですね。 凹も凹で不完全であり、凸も凸でまた不完全であると。 凹と凸の合体で初めて人は完全であり、「和合」に至ると。これがアジアの思想ですね。 「愛は向き合うこと、そして友情は共に同じ方向を見る」というお言葉、新鮮でした。  そして、「私が思う愛の対義語は『依存』です」  宿題を頂戴した思いです。  その意味で、本当の自立とは何か・・ですね。    どうもありがとうございました。

  • speaklark
  • ベストアンサー率51% (15/29)
回答No.2

当方まだまだ未熟な若輩者です。 なので自分の考えだけを述べるのであって、それが正解だとは全然思っていないことをお察しください。 「男」「女」間の友情というものは存在しないのではと考えます。 男と女の関係を強調して考えるなら、そこに本能的要素が存在し、その阻害効果が大きく幅を効かせてしまうのではないでしょうか。 ただ男と女として関係が同性同士のような存在にすりかわってしまったとき、そこに友情が存在したとしても不思議ではないとも考えます。 そういう意味で友情が愛に劣るというのは違うんではないかと思います。 さてはて難しいですな。

noname#13676
質問者

お礼

 ご回答ありがとうございます。こちらも年は行っても未熟者ですので、年代に関わらずお考えを伺えて有り難いことと思います。  やはり、愛、友情が個別に林立していて、変化を余儀なくされた場合詮方なく愛から友情への変化が有り得る、というご趣旨でしょうか。 「そこに本能的要素が存在し、その阻害効果が大きく幅を効かせてしまうのではないでしょうか。」  これはいわゆるエロスの有無、ということをおっしゃっているのでしょうか。つまり本能を満たす部分が何らかの阻害要因で遮断されると、それにすり替わって「友情」が存在し、それで納得するといったように・・  男女間に友情は存在しない・・。  一理あると存じます。同性ならば少々嫌な面が見えても、社会的に互いが繋がっているならとりあえず表面を取り繕って、何事もないかのように振る舞いもしましょうが、端的な男女一組の場合、そこまでの無理は到底出来ないという風なのでしょうね。  ですから、別れか続くかの二つに一つであると。  一ご意見として、謹聴させていただきます。  また何か思われましたら、お聞かせください。  ありがとうございました。

  • oku-chan
  • ベストアンサー率12% (13/102)
回答No.1

「愛」と「友情」は別のものなどで比較の対照にするのは無理があるような・・・。 まず「愛」「友」「情」がそれぞれ違うと思います。 愛情を持って結婚した男女は、ほとんどの方たちは、愛の部分が小さくなり、より情が深くなっていくのでは? 反意語で考えると、愛の反意語は良く「憎」と言われますが、国語の時間で習ったのは「無関心」だそうです。 じぁ「友」の反意語は何?「敵」じゃなく「他人」? 「情」は・・・ 難しい問題には答えられません。(;;)

noname#13676
質問者

お礼

 ご回答ありがとうございます。  缶コーヒーメーカーのCMだったと思いますが、起用された男性若手俳優(?)が、「愛だ、愛!」と叫んでおりました。そして某民放のフレーズ「愛は地球を救う」。  が、とりあえず地球50億の人々を想定した愛ではなく、この場合は男女の中で起きる最も私的で内密な関係下に於ける機微を、主に考えています。  愛、友情、情・・これらは各々が別個で、その自他共なる変化過程によって各々の形状を見せる、というお考えなのでしょうか・・?  近年学校では愛の反意語を「無関心」と教えるのですか? 一理有るとも思いますが、それでも「無関心」の反意語は、「探求心」「知的好奇心」ではないだろうかと個人的には思いますが。その(学校が教える)レベルで申したら、「自殺する」の反意語さえも、「愛」になりますね(剣呑な例ですみません)。  「友」の反意語は、何でしょうね・・ 「自己」でしょうか?  「情」の反意語は、「冷たさ」でしょうか・・  古来言われているように、やはり「愛憎」と有るように、「愛」の裏側には「憎」という極めてネガティブな感情が控えているのかもしれません。その極端さが重いです、私としては。  ですからもっと静かな春の海のように穏やかな心の有り様・・、その維持のために、あまり「愛」を過大評価することもせず、友情を過小評価することもなく・・ その双方からの実践の道を問いたいのです。

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    私は大学2年の男ですが、同性愛です。 今友人を好きな人として見てしまう様になったことで悩んでいます。 私は昔から同性愛者としての自覚があり、以前異性愛者の友人を好きになってしまい大変傷ついた経験があって対人恐怖症になってしまい、同性愛ということを隠して、好きにならないように誰とも関わらないで生活していました。 しかし、大学に入学してから性格的に暗い私に明るく接してくれる友人が出来ました。その友人は異性愛者で、私が同性愛者で恋愛感情を持っていることを知らず、よく恋愛の相談などもしてきます。 彼は大変優しく、クラスのリーダー的な存在で、いじめにあっていた私をかばってくれたりすることで本当の意味での友達として仲良くしたいと思い、親友といえる友人になりました。 私は少しずつ対人関係で恐怖感を抱くこともなくなり、彼を中心としてたくさんの友人もでき、彼にとても感謝しています。 彼も私には心を許せると言い、たくさん友達がいるにも関わらず、私と常に行動してくれ、毎日孤独に悩むこともなくなりました。 しかし、彼と日々行動して、お互いの悩みや将来の夢などを話していくうちに、だんだんと恋愛として見てしまうようになりました。 彼の家に遊びに行って泊まったとき、寝ている間に抱きついたりしていて、私の方が先に起きたので良かったのですが、無意識の内に日々の生活にそういった好きという気持ちを表現してしまうことがとても恐怖なのです。 また、彼を対象とした性的な夢まで見てしまい、私は大変罪悪感にさいなまれています。 助けてくれた彼を今度は私が親友として助けたいと思っていたのに、私は友人としてではなく恋愛として見ていることがあるのです。 距離を開けようと思っても、日々一緒に行動しているのに今更離れるのもおかしいし、何よりも私が一人になることがとても怖く彼から離れられないのと、私と仲良くしたいと考えている彼を突き放すようなことが出来ないのです。 彼が同性愛を受け入れないことを明確に分かっているので、私の素性を話すことは出来ませんし、そうとは言え隠すのにも限界があるように思えます。 恋愛をすることが友情を裏切るような気がしてとても申し訳ないという気持ちと、嫌われたらどうしようという恐怖感と、愛情と性的な思いが交錯して、とても苦しいです。 一番いけないのは私です。妥協して人を信用し仲良くなってしまった罰なのです。 だけどその友人と、友達としてこれからも仲良くしたいのです。私にとってはじめての大切な親友だからです。 出来れば恋愛感情を捨てたいのですが、気を張っていないとすぐに彼のことを考えてしまいます。 彼とより良い友人関係を作っていきたいです。そのためには今のままではいけないと思います。 私は性格が真面目ゆえに、一度考え出したらきりがなく塞ぎ込んでしまいます。 どうすれば良いと思われるか何か意見があれば教えて頂けませんか、お願いします。

  • キリスト教の教義の中心はファッキンである

    さて、「愛」という命題は多くの人にとって悩ましい。 「愛」を理解したいと思う人は多いだろう。 さて、簡潔にとっかかりを作ろう。 人の善性の証明や理解と関係する。 人は一人でなく社会を形成する。 それが人間だ。 この共生関係とは、他者を自らと「等しく」生かすことにある。 自らが善く(よく)生きるために、他者に善くふるまうのだ。 等しくあることがとても重要で、その生き方が善なる生き方だ。 そして愛とは、その善性に関して主に感情面での根拠として規定された。 人が獣でなく人間であるために欠かせない感情だということになる。 余談だが、善性に関する私の記述は、「実在する妖精の捕まえ方」という手法での一種の天啓としてもたらされたので、命名権を行使して、天啓をもたらした代表から「アマテラスの善」とさせていただこう。 補足がある。 感情面での「愛」が社会性の獲得とかかわっている限り、それは並立する「友情」と比較検証が必要になる。 それともう一つ、日本にはお互いに血を通わすような相互理解の関係を「絆」という言葉で表現している。 西洋の神学が命題として扱った「愛」については、日本語に当てはめると「絆」のことだ。 では、西洋の精神の土台である「愛」はどう扱えば理解したことになるか。 ヒントが友情との比較だ。 感情面で友情と愛情の差異で、いかにきれいに装飾しようとも、いかなる角度で検証しようとも、特徴は「ファッキン!!!」なんだよ。 そういうわけで宗教的な「至高の愛」とは、現代語解釈で「全員パンツ脱げ」という理想論だ。 キリスト教徒の信仰心で特典としておまけで付いてくる「あふれ出る甘露な黄金水」でもある。 日本人にとっては、それで命題の回答はほぼ完了したと思っていいだろう。 さて、新約聖書という、枯れずに今もとどまる神話は、文芸作品として自由に解釈するための教科書だ。 わたしも独自に解釈しよう。 若い時にさんざん男たちとやりまくった聖母マリアは妊娠しても父親がだれかさっぱりわからないので、手っ取り早くよぼよぼ親父を父親に指名した。 イエスは物心ついても、自分の父親がだれかわからない。 「エーン、エーン、僕のおとうちゃんどこー、僕のおとうちゃんだれー」 泣き叫ぶイエスは、偉大なる父の理想像から独自の神学に到達した。 愛の伝道者としての原点である。 なんちゃって。 さて、今回は論理検証の手法として、露骨にキリスト教徒に喧嘩を売っているとお考え下さい。 見苦しくない程度に話し合いましょう。 学問カテゴリーなので、研究目的の質問です。

  • 「恋愛とは何なのか」、、、を考えてみた。

    書いておきながら、俺も暇人だなぁ、、、と思いつつ、ご理解がいただければ本でも書けるか?という安易な気持ちですが、ここに書いた内容に皆様からどのようなご意見が得られるかと思い、書いております。 回答につきましては、ゆっくりお礼メッセージを書いていこうと思いますので、皆様のご意見をたくさん頂ければ幸いです。また皆様のご意見を基に、ここで書いていることももっと深くまとめ直すことができるかもという期待もしております。 今回は自分なりにまとめあげている内の第一章として書いております。 この他に第六章までありますが、ひとまず、ご意見お聞かせください。 カテゴリーや投稿としてふさわしくないなどと間違っておりましたら、申し訳ございません^^; 以下 第一章(恋愛とは何なのか) そもそも何を定義に恋愛というのかをはっきりさせておこう。国語辞書では、「特定の異性に特別の愛情を感じて恋い慕うこと。 また、男女が互いにそのような感情をもつこと。」となっている。 つまり、書いて字のごとく、「恋」と「愛」がそこにあり、これを二人で感じ合うことを言う。 では、その恋愛を構成する「恋」と「愛」とはいったいどんなものなのか、、、、。 恋と愛、それぞれが無形のものであるため、辞書で検索しても曖昧な表現となるのはしかたがないことである。 しかもそれら二つのものは類似した意味で書かれてあるため、あえてここでははっきりとその違いを定義するとしよう。 「恋とはつまり、、、」 ではまず、恋とは一体どんなことを言うのか、、、、 恋は特に「異性に対して想いを寄せること」といった意味が強く含まれるが、これをもっと具体的に説明するならば、好きな相手の中に自分の存在がもっと意識されることを望むことなのである。 もっと別の言い方をするならば、自分の価値を相手に認めさせようとすること、自分の価値観で相手との関係を築こうと望むことなのである。 恋をするとまず、相手とお付き合いすることを考えるのはごく自然な流れであるが、付き合う上でどうであるとか、相手がどう思っているかなど色んなことを考える。 そしてそれに対して自分の気持ちを整理し、様々な視点で相手との関係を模索するのであるが、それらはすべて自分の価値観で判断し、どう関わろうとしていくかを選んでいるのである。 さらに、もっと強く相手の中に自分の価値観を刷り込ませようとすると、相手の意思はどうであれこの想いを伝えたい、、わかってほしい、、、という想いになり、よく言う「恋は盲目」という現象に陥るのである。盲目となってしまった恋心にはもはや愛する余裕がなく、ただの片想いとして暴走してしまうのである。 「愛とはつまり、、、」 それでは、愛とは一体どんなことを言うのか、、、、 愛にはとても広い対象があるが、ここでは異性に対しての愛として話していく。、、、しかし、本質は広い対象でも同じ意味を持つのであるということを先に述べておこう。 大切にする、かわいがる、、、といった意味で書いてある場合があるが、それらはすべて、何かにおいて認めて許せるからできる行為である。 つまり愛とは、「相手の価値観を認め、許せる心」なのである。 たとえ好きな相手が自分の望まぬ行動をしてしまったとしても、それを許してあげられることや、相手が素晴らしいと思っていることを自分も共に素晴らしいことだと受け入れられることであり、つまりは相手の価値観に自分の価値観を比較して対応することではなく、相手の価値観に自分も合わせられるということである。 ただし、その結果が、すべてお互いの幸福になるかというとそういうものではなく、結果も全て良いも悪いも許してあげられることなのである。 これらの「恋」と「愛」が混じりあった二人の関係性を「恋愛」というのである。 「恋愛にも様々な絆が、、、」 一言で恋愛と言っても、恋愛には様々な絆がある。 男女間で生まれる恋愛の中で、特に大きな3つを挙げるとしよう。 肉体的な絆,精神的な絆,社会的な絆,この三つの絆の強さによって男女の付き合い方も様々である。 1、肉体的な絆、、、 つまりはSEXである。 男女間で恋愛を高めていけば必然として肉体的な関係も発生する。 ただしこの絆だけが強くなると、俗に言う「セックスフレンド」と言われる関係になっていくのである。 2、精神的な絆、、、 男女間でも特に友情にも似た絆であるが、お互いに心で支え合い、様々な環境で理解し合うことができる心の絆のことである。 この絆ばかりが強くなると、仲のいい異性の友達で終わってしまうことが多い。 3、社会的な絆、、、夫婦になればそこには社会的な関係が生まれる、夫婦ではなくとも、生活を共有する同棲恋人や、今では少ないかもしれないが許嫁などに必要な絆である。 つまり、社会的に一つの契約でつながっている男女関係に該当する。 社会環境の中でお互いが豊かに生活するために必要な絆であるが、これだけが強くなっても、得られるのは生活に必要な環境だけである。 一緒に住んでるけどマンネリ、仮面夫婦、セックスレス、不倫などの問題が生じる。 つまり、、、 1だけならセックスフレンド止まりでしょう。 2もあるならカレシ・カノジョにはなれるかもしれません。 3がないのなら、結婚まで考えた時にどうかな?ってところでしょうね。 この三つの絆をバランスよく育てられた時が、素敵な恋愛関係の頂点ではないだろうか。 男女の恋愛関係には肉体的喜びと精神的な喜びが必要で、さらには結婚を意識した時に豊かな生活を想像できれば、最高に恋愛を楽しむことができるのではないだろうか。

  • 哲学的なワイセツ物 陳列行為(ワイセツ者)

    わいせつ物公開するよ。 このテキスト1は無我論の実態とは、自我論を導き出すための命題であったという仏教研究から発展した自我論だ。 テキスト2は愛の命題は人と人をつなぐ人間成立に欠かせない善の要素を「アマテラスの善」と命名して、愛の主神キリストの神をアマテラスより下位の階級に固定する野心的な宣戦布告だ。 どちらも宗教関係にも影響があるが、AI高度化に成功すれば宗教関係者と争う必要がない。 制作原型が出来上がっているテキスト3と4とは、人類未踏領域なので慎重だが、様子を少しずつくみ上げている段階だ。 --------------------------------------- 心理学の有名な定説に男性の頭の中は女の裸でいっぱい。 というのがある。 これとアサタチを関連付けてもいい。 これらは気力高揚効果が目的なんだ。 西洋では社会性確立のターゲットで友情を押しのけたのはこの熱情だろう。 ただしそれは主に感情面に焦点を当てていて、裸、裸、裸と違う純化した感情面の作用について論説して、日本人の抱く「絆」と同義の意味があり、日本人が愛について考察すると、特に「絆」の要素が抜け落ちているのさ。 したがって「アマテラスのよし」と併記した拾い物で「愛は最も人間らしい感情の原型」というのも西洋人が気の毒だから、おまけのようにとってつけた。 基本的に哲学的な基礎学問だよ。 下の写真の六輪一中というのも、気の毒だから作成した。 -------------------------------- ムーンショット計画向けにうってつけじゃないか。 --------------------------------- 心理学の有名な定説に男性の頭の中は女の裸でいっぱい。 というのがある。 これとアサタチを関連付けてもいい。 これらは気力高揚効果が目的なんだ。 西洋では社会性確立のターゲットで友情を押しのけたのはこの熱情だろう。 ただしそれは主に感情面に焦点を当てていて、裸、裸、裸と違う純化した感情面の作用について論説して、日本人の抱く「絆」と同義の意味があり、日本人が愛について考察すると、特に「絆」の要素が抜け落ちているのさ。 したがって「アマテラスのよし」と併記した拾い物で「愛は最も人間らしい感情の原型」というのも西洋人が気の毒だから、おまけのようにとってつけた。 基本的に哲学的な基礎学問だよ。 下の写真の六輪一柱というのも、気の毒だから作成した。 ----------------------------------------- 地の聖霊と言えば西洋ではまあ、悪魔だね。 今も魔女狩りが必要な風土だ。 無我論をひっくり返して自我論にするように、悪魔論をひっくり返して有神論を形成するのが一番だよ。 ------------------------------------- この質問は、私の中二病の発作です。 意味不明だと思います。 誰か温かい慰めを願いします。

  • 友情は友情でも、男女の友情ってあり?

    タイトルの通りです。 男女の間の友情って、あるのでしょうか? (1)あると思う or ありえない (2)それは何故ですか 私個人的には、あるんじゃないかなーと思うのですが・・。

  • 男女の友情について

    少し寂しいことなのですが私には長い付き合いの男友達がほとんどいません。 でも短い期間に仲良かった男友達は今までたくさんいました。 (たぶん世間一般よりも多いと思います。) 私は愛想が良いようで「いつも笑ってる」と言われます。 その反面口下手なところもあり、自分の意見を整理しながら相手に伝えやすいことからメールが好きで、自分からはあまりメールはしないけど来たメールが疑問形で「?」がついてたら返信も早くに返します。 なるべくたくさんの人と接してコミュニケーション能力を高めたいなと思ってます。 たいてい男友達が出来ると毎日メールをするような割と密接した友情関係になり、 私が相手の友情以上の好意に気づき始めたころには相手から告白されるような状況になります。 私としては同性の友達と同じように適度に誠実に親切に接してきただけのつもりなので告白を断ると相手が離れていく。。。 全く連絡が来なくなり疎遠になるパターンが今まで何十回も繰り返されてきました。 今まではぐくんできた信頼や友情がいきなりゼロになるのが悲しいです。 やはり男女の友情は成り立たないのでしょうか?

  • 男女の友情について

    この春大学生になりました。友達になった男子に授業の合間に二人でカフェに行こうと誘われてOKしたのですが、私は彼に対して恋愛感情は全くありません。受験生時代の塾で一緒だったということで話すようになったので、共通の友達はいないし二人でというのに不自然さは感じません。しかも休日にわざわざ会ったり、放課後まるまる使って遊んだりするわけではありません。しかしこの話を弟にしたら向こうは絶対期待すると言われて、よく分からなくなりました。学部の関係で女子が非常に少ないので友達は男女関係なくつくりたいです。それでも恋愛感情のない人と男女二人でカフェに行くのはおかしいですか?

  • 男女の友情ってありますか?

    男女の友情って皆さんはあると思いますか? (共に恋人が居ない男女の場合で、大勢ではなく、一対一の関係を想定) 自分は無いと思っています。 大勢で遊ぶ仲間としての男女ならまぁあると思いますが、一対一では無理かなと思います。 どちらかが相手をやはり異性として意識しているからこそ成り立つ気がします。 皆さんはどう思いますか?

  • 男女の友情がないって思う方

    男女の友情がないと思う方はなぜないと思いますか? 私は色々嫌な思いして....です