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『桶狭間の戦い』の謎???
rczdの回答
桶狭間に限らず、戦国期の合戦については、なかなか良質な史料が残っておりません。従って合戦の実態を把握するのに骨が折れます。史料によっては双方の兵数に格段の差も出ていますし、合戦の流れも大きく食い違う場合もあります。 さて、桶狭間の戦いについていえば、江戸時代にベストセラーだった「甫庵信長記」や明治時代に参謀本部が編纂した「日本戦史」の影響により、桶狭間=奇襲、とのイメージが完全に出来上がってしまいました。これらは史料とは言い難い、創作物といっても過言ではない著作物です。 これらを払拭し、桶狭間=正面攻撃を唱えた最初の本が藤本正行氏の「信長の戦国軍事学」(現在は講談社から「信長の戦争―『信長公記』に見る戦国軍事学」というタイトルで出版されています。)ご覧になってみてください。超お勧めです。 なお、個人的には、こういう流れであったと考えています。 ・義元本陣(5千くらい?)が桶狭間山に布陣。 ・信長、桶狭間山の西方麓まで達する。 ・西から東に向け暴風雨が吹き荒れ、雨は止む。 ・義元本陣は暴風雨を避け、隊列が乱れ、しかも西に背を向けていた。(まだ風は吹いていた?) ・西より信長突撃。
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お礼
ありがとうございます。 確かに、小瀬甫庵の書いた「信長記」は信憑性の低い資料ですね。 1、桶狭間=奇襲 2、長篠の戦いでの鉄砲三段打ち 3、武田騎馬隊 など、間違ったイメージを植え付けられました。 『信長公記』などの信用できる資料を元に、桶狭間の戦いや長篠の戦いを再研究してほしいです。