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『桶狭間の戦い』の謎???

buchi-dogの回答

  • buchi-dog
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回答No.3

司馬遼太郎氏の歴史認識は、世評ほど高度なものではありません。 桶狭間の戦いについて、原資料を元に考証した本として 桶狭間の戦い 戦史ドキュメント http://www.7andy.jp/books/detail?accd=30723531 があります。手軽に買える本ですので推薦します。 織田軍は、騎兵部隊ではなかったと思われます。ただし、地元で戦うわけですから補給部隊を伴う必要がなく、その分早く機動できたということはあるでしょう。 織田軍は、地形を良く知っていたので、今川軍を迂回して本陣を側面から攻撃できたということのようです。 また、織田軍は2千人程度と言われますが、この人数は全て戦闘員です。一方、今川軍の人数の中には、補給部隊などの非戦闘員がかなり含まれていると小和田氏は考証しています。 補給部隊を入れて5千人の今川本隊に、戦闘員だけの織田軍2千人が手薄な方向から奇襲をかければ、織田軍が優勢でもおかしくないでしょう。実際にそうなったようです。 この戦いに限らず、戦史では「戦闘準備が整わない敵への不意打ち」で、少数が多数を破った例がいくらでもあります。 ナポレオンは、自分の戦法を「敵を上回る速度で機動し、常に自軍の全力で敵軍の一部を叩く。その場所では常に優勢である。だから勝つのが当たり前」と解説していたそうです。言うのは簡単でも実行はナポレオンでないとできなかったわけですが、桶狭間の戦いも、「織田軍が、巧妙かつ迅速な機動によって全力で今川本隊を攻撃し、勝利した戦例」と総括できるでしょう。 この辺については、戦史家の松村劭氏の著作に詳しいです。一例は下記です。 名将たちの戦争学 http://www.7andy.jp/books/detail?accd=30845642

energyflow2005
質問者

お礼

織田軍は騎兵部隊ではなくても、補給部隊を伴う必要がなく、その分早く動くことができたという意見は参考になりました。 「今川軍を迂回して本陣を側面から攻撃」というのは、詳しい資料を示してほしいです。 『信長公記』を読む限り、「奇襲」「迂回して本陣を側面から攻撃」という記述は見当たりません。 『信長公記』には織田軍は正面から攻撃という記述はあります。 また信長も「奇襲攻撃のつもりはない」という意図が『信長公記』から伺えます。 さらに『信長公記』では信長は今川本陣を攻撃しているのを知らなかったと思われるのです。 一度、信長公記を読んでみて下さい。 「敵を上回る速度で機動し、常に自軍の全力で敵軍の一部を叩く。」というナポレオンの言葉を借りるならば、 1、補給部隊を伴わない織田軍の動きが、今川軍の予想を上回った結果、奇襲攻撃になった。 2、敵軍の一部を叩いた結果が、偶然に今川軍本陣だった。 と『信長公記』を読んだ感想です。

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