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『桶狭間の戦い』の謎???

nacamの回答

  • nacam
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回答No.4

桶狭間の戦いは、今川軍25000、織田軍3000と言われていますが、3番の方が言われるように、今川軍の約半数は、小荷駄隊(輸送部隊)で、実質戦闘部隊は、13000程度だといわれています。 この13000程度の部隊の約半数程度が、織田軍の前線の砦を攻めている一方、松平元康が、大高城ほうめんに約3000程度の兵でおりました。 そのため、今川軍本体の実質兵力は、3000ていどでした。 また、いくつかの研究から、織田軍の動きは、今川軍から丸見えであり、不意をついた迂回奇襲ではなさそうだというのが、最近の理論のようです。 「前線で動く織田軍を、今川側は、牽制部隊と思い込み、織田軍の正面奇襲攻撃により、崩壊した」という説が、有力となっています。 当時の常識として、開戦は早朝で、夕方には、停戦となるのに対し、織田軍の攻撃が、昼ごろだったためと言われています。 織田軍がこの時に、騎馬隊を利用したとの話は聞いていません。 足軽歩兵を中心としていた織田軍が、騎馬隊を持っていたとは思えません。

energyflow2005
質問者

お礼

なるほど。やはり織田騎馬隊は存在しなかったのですね。 最近の研究では 1、織田軍の動きは、今川軍から丸見えであり、不意をついた迂回奇襲ではない。 2、今川軍は織田軍の正面奇襲攻撃により崩壊した。 ということですか。 なぜ不意をついた迂回奇襲ではないのに正面奇襲攻撃により崩壊したのでしょうか? 正面からの攻撃なのに、なぜ奇襲攻撃になったのでしょうか? 私個人の意見では「補給部隊を伴わない織田軍の素早い動きが、今川軍の予想を上回った結果、奇襲攻撃になった。」 と推測します。

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