• ベストアンサー

城主の身分名称○○守についての疑問

来年の大河ドラマの「山内一豊」は静岡県の掛川の城主の時代もありますが、後に土佐に領国をいただいて赴いたことから「土佐守山内一豊」ということで、理解できます。 ですが、一国を領有する国持ち大名でなく、徳川幕府の直轄地などの単なる城持ち大名の○○守について教えてください。 江戸時代に代々城主を引き継いだ者達が名乗っている○○守とは、どういう由来からなのでしょうか。 全く名乗っている国とのかかわりがない(と、思われる)のに、その、遠く離れている地名を○○にあらわしているのはどういうことでしょうか。 代々の城主の列記から、生まれた疑問です。 よろしくお願いいたします。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#30350
noname#30350
回答No.3

江戸時代の武家の「土佐守」や「掃部頭(かもんのかみ)」といった守名乗りは名前の様なもので、基本的には好きな名前を幕府に報告してOKが出ると名乗る事が出来た様です。「武蔵守」は将軍の在所という事で遠慮して使っていなかった様です。あと老中と同じのは他の者が遠慮したので、山田日向守という人が新たに老中に抜擢されたら佐藤日向守や鈴木日向守さんは別の伊予守とか周防守などに変えた様です。 また大和守を名乗っているからと言って、大和国に全く縁もなければ、采女正(うねめのかみ)を名乗っているからと言って朝廷の采女司とは全く関係ありませんでした。 だから例えば会津の大名・保科正之が肥後守を名乗ったりしている訳です。 一口に越後守と言っても、同時期に複数の越後守を名乗る人が存在した訳です。 守名乗りは、大名や世継ぎ、諸太夫の役職に就いた旗本や三千石以上の大身の旗本などが許された様です。 国持ち大名は自国の名前を名乗る傾向にありましたが、全ての大名がそうではなく岡山池田家の当主はほとんど備前守を称していません。 参考にならなくてすみません。

sasai
質問者

お礼

さっそくありがとうございました。 <基本的には好きな名前を幕府に報告してOKが出ると名乗る事が出来た様です>とは、ますますの驚きです。 このお答えこそが、まさに私の求めていたものでした。 感謝します。 このような質問に答えてくれる人が果たしているのだろうかと、半信半疑でしたが、感激しています。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

その他の回答 (6)

回答No.7

回答はかなり手尽くしてますね。私も余談を。 1)居城のある国名を名乗れるのは原則国持だけです。ですから質問の回答としては、国持でない大名は居城のある国名を名乗れません。例外は高松藩(讃岐守)です。御三家水戸分家で水戸光圀の兄の家だからでしょう。 2)柳沢吉明は出羽守ですが、松平の苗字を受けたとき松平美濃守と名乗りを変えています。松平出羽守(出雲藩、国持)がいたからです。 3)武蔵守は池田輝政嫡男利隆が名乗ってますが、慶長年間でほんとの初期でありこれ以降いません。 4)国持大名は名乗りではなく、居城のある国名+官名を称することができるので名乗りが国名でなくてもよかったのです。肥後藩=細川越中守でなく肥後侍従。一方非国持はたとえ高位でも井伊家が近江中将ではなく彦根中将のように居城名+官名です。津山藩が「津山侍従」だったのが、将軍家斉の子を養子にして「美作中将」を認められ、大喜びだったという話があります。 避けられたのは謀反人の名乗りです。 治部(石田三成)、尾張守(後北条の裏切者松田憲秀)です。でも日向守(明智光秀)や摂津守(小西行長)はけっこういますねェ。後世の人は石田は知ってても小西は知らなかったんでしょうか。 (これは私の推測ですが)日向守は不人気で空いていたのを水野勝成(福山藩10万石)があえて名乗りました。勝成は関が原世代では後世まで生きた方で、島原の乱のときも70歳を超えても元気に出陣し、1651年まで長生きしています。以来日向守は増えました。勝成が名乗ったので人気復活したのです。 ここのリンク、かなり詳しいです。

参考URL:
http://homepage3.nifty.com/ksatake/
sasai
質問者

お礼

ますます詳しくありがとうございます。 つまり、「守」は単なる名乗りということで、乱暴に言ってしまえば、明治初期の全国民の苗字の名乗りのようなもので、適当に、ダブらないように、縁起の悪いものや、連想の良くないものは避けて、また尊敬する人が適当につけてくれたものを名乗る・あまりにも恐れ多い名前は避ける、目立ちたがり屋はそれなりに、などなど・・といったようなふうに考えていいのでしょうか。 おしゃれの一種?とも思えますし、おしゃれに関心のない家は適当に・・・?あるいは記号のようなもの・・?家紋のようなもの? そんな気がしてきました。 詳しいリンクをありがとうございます。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • buchi-dog
  • ベストアンサー率42% (757/1772)
回答No.6

いろいろな回答が既に出ていますが、大名の官名は「家の由緒」で特定のものを名乗る例がかなりありました。 柳川藩立花家:藩祖の立花宗茂の官名にちなみ代々「左近将監」 庄内藩酒井家:藩祖の酒井忠次の官名にちなみ代々「左衛門尉」 米沢藩上杉家:藩祖の上杉謙信の官名にちなみ代々「弾正大弼」 秋田佐竹家:藩祖の佐竹義宣の官名にちなみ代々「右京大夫」 仙台伊達家:陸奥国を代表する大名であるからか、代々「陸奥守」。こうした例は確かに多いですが、例外がいくつかあります。 熊本藩細川家:肥後の国持大名ですが、藩祖細川忠興の官名にちなみ代々「越中守」。越中の大名である富山藩前田家は「出雲守」です。 会津藩松平家:陸奥の大大名ですが、藩祖保科正之の官名にちなみ代々「肥後守」。 上記に挙げた官名の多くは、他の大名や旗本は使うのを遠慮していたと思われます。官名と家柄が強固な結びつきを持っていたからです。越中守は細川家、肥後守は会津松平といった具合です。 下記のページで各藩の例を見ると、傾向が分かるはずです。有力大名ほど、代々同じ官名を称しています。 http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html

sasai
質問者

お礼

ありがとうございます。 左近将監・左衛門尉・弾正大弼・右京大夫というのは「守」と同等の官名なのでしょうか。 本来なら「守」がきてもおかしくないところに左近将監・左衛門尉・弾正大弼・右京大夫という肩書きを名乗っていたということですか。 お礼文に質問を書いてはいけないでしょうが、すみません。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
noname#14405
noname#14405
回答No.5

答えも出尽くしているので余談をひとつ。 秀吉の時代に亀井茲矩という大名が、琉球守を名乗っています。 でっかい事の大好きな秀吉は、琉球守という名称をいたく気に入ったそうです。 まだ琉球は秀吉の頃は島津侵攻以前で尚王朝の治世ですから、全くの異国です。 これが通るなら、ボルネオ守でもルソン守でも何でもいい、という事になります。 江戸時代ではなくて、あくまで秀吉の頃の話ですが、琉球守なんかでもOKだったという話でした。

sasai
質問者

お礼

またまたびっくり回答で、感激のあまり、お礼文が遅くなってしまいました。 琉球守とはね!!! ボルネオ守・ルソン守(漢字も無論あるでしょうから)! 壮大ですね。 皆さんの博識には感動します。 ありがとうございました。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.4

皆様が書いていらっしゃるとおり、基本的には好きな官職を名乗れるのですが、老中とはダブらないようにします。 あと、同じ名字の大名とは同じ名乗りはできませんでした。ですから、同じ名字の大名がいない家はいいのですが、「松平」さんは(島津家などのように「松平姓」を下賜された家も含めて)ダブりやすいのでかなり気を使っていたらしいです。

sasai
質問者

お礼

細かい補足をありがとうございます。 昔々は知っていたかもしれないことでも、日常生活とあまりにもかけ離れた記憶はきえてしまうのでしょうね。 こういう調子で、今現在の知らないことってどれくらいたくさんあるのかと思うと気が遠くなりそうです。 たぶん、氷山の一角さえも、自分の知っていることってないのでしょうね。 だからこそ、生きているって面白いのだと思うことにします。 こんなに多くの方に答えていただき、感激しています。 こんな質問に答えてくれる人がいるのだろうかと、心配していましたが、今は感謝でいっぱいです。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • 6dou_rinne
  • ベストアンサー率25% (1361/5264)
回答No.2

江戸時代の「○○守」というのは律令時代の地方長官の官職名を使用していますが、単なる名前(名乗り)でした。 大名や高位の旗本の場合は従五位以上の官位をもらいましたが、そのときに「○○守」といった受領名を名乗ることが許されました。(そのほかに内匠頭のような律令時代の役所の長官の名前を名乗る場合もありました) それで同時期に同じ名前の「○○守」がたくさんいることも普通でした。 一部の○○守については特定の家柄のものが独占を許されているものや、老中が名乗っている○○守については他には同名の名乗りは許されないという場合もありました。 このように江戸時代の武家の名乗りは律令時代の朝廷の官職名は名乗っているものの、朝廷とはなんらの関係もないものでした。

sasai
質問者

お礼

さっそくありがとうございました。 「○○守」というのは律令時代の地方長官の官職名だったのですね。 江戸時代の「○○守」がそういう実体のない肩書きとは驚きました。 権威主義の表れともいえるのですね。 感謝します。 このような質問に答えてくれる人が果たしているのだろうかと、半信半疑でしたが、感激しています。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • yiwt
  • ベストアンサー率36% (250/694)
回答No.1

奈良時代、平安時代の国司制度で、地方長官にあたるのが「守」です。武士の時代になっても、「○○守」などの肩書きだけが残ったもので、実際の役職とは関係がなくなりました。 将軍は「征夷大将軍」の略ですが、江戸時代に「征夷」なんて職務はありませんでした。これも実体のない肩書きです。

sasai
質問者

お礼

さっそくありがとうございました。 「征夷大将軍」が蝦夷を征伐した将軍という意味で、当然家康などと関係のない肩書きだとは知っていましたが、 「○○守」までそういう実体のない肩書きとは驚きました。 感謝します。 このような質問に答えてくれる人が果たしているのだろうかと、半信半疑でしたが、感激しています。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • 守名乗り(○○守)について

    平戸藩主(松浦家)は代々「肥前守」を名乗っていますが、国持ち大名でない大名でも、領地の存する国の守を名乗ることはできたのでしょうか?

  • 国主、国持大名と城主、無城の違い

    江戸時代の大名についてお教えください 1.国主=国持大名ということでよろしいのでしょうか? 2.国主と城主、無城とはなにがちがうのでしょうか? 伺候席との関連など、家格の違いがあるというのは分かる(?)ような気がするのですが、それ以外に具体的にどのような違いがあったのでしょうか? 3.wikipediaの大名のところを見ると「大名は国持ち大名レベルはともかく、10万石単位の大名は封土の一円領有が殆ど許されず、大抵は城下周辺とまだらに領土を持った。」とあるのですが、とすると城の周りでさえも、他藩や幕府・幕臣の領土が有った例も多々存在するというようにも読めます。 城の周辺でさえ他領が存在するなどしたら、実際の支配などに不便は無かったのでしょうか? 例えば、自分の城のすぐ近くで犯罪があった場合でさえ、関八州取り締まりや、その領主の手の者が来ないと取り締まりも出来なかったのでしょうか?

  • 土佐山内家の藩主名乗り

    江戸時代、「国持大名」は代々将軍から偏緯を賜ることで他の大名と区別されていたようです。(島津斉彬、伊達綱宗など) 土佐藩主の山内家は、24万石で「従四位下、侍従」と国持大名の待遇ですが、将軍の偏緯を受けていません。代々「豊」を通字としています。 http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/shikoku/kochi.html 何かの理由があったと思われますが、ご存じの方はよろしくお願いいたします。

  • 埴岡土佐守という人

    埴岡土佐守(はにおかとさのかみ?)という人についてご存知であれば 私が子供の頃に、今は亡き祖父から聞いた話では、 室町時代末期に播磨国神崎郡にいて、そこそこ勢力があった人物ということです。 何でも、現在姫路市近辺に多い埴岡姓の人たちの先祖だとか。 (何十年も前に聞いた話なので、記憶違いがあるかもしれません)  ・どこに住んでいたのか?  ・いつ生まれて、いつ死んだのか?  ・どれくらい勢力があったのか?  ・出自は?  ・何か業績があるのか?  ・近隣の豪族、大名とはどのような関係だったのか? こういったことがわかればうれしいです。 よろしくお願いします。

  • 山内一豊は大名の種類では親藩?それとも譜代?

    ドラマも架橋に入った「功名が辻」。 その主人公でもある山内一豊は最終的に土佐の土地をいただく事になりますが、関が原の合戦開始前に徳川に見方をしている事を考えると大名の分類としては親藩に当たるのでしょうか? それとも以前は豊臣秀吉に味方していたと言う事で譜代または外様でしょうか? 土佐と言うと江戸(東京)から遠いので譜代か外様かと思うのですが、合戦前に徳川に付いていますしそうなると親藩に入るのかどちらなのかとふと思いました。 詳しい方、教えてください。

  • 山内一豊と長曾我部のこと。

    こんにちは。 山内一豊と言う武将は司馬さんの「功名が辻」、 これでもお馴染みです・・・。 歴史好きの皆さんなら良くご存知でしょう。 不思議に思うことがあります。 関が原の功で掛川六万石から土佐二十万石の身代・・・ 随分な出世です。 その分家臣も必要でしょう。 少しの例外を除いて長曾我部の浪人を召抱えません。 召抱えるどころか随分乱暴なこともしています。 主のいない彼らですから説得すれば家臣になったろうに、 そう思うのですが、皆さんはどう思われますか? 私も胸に答えのある質問ではありません。 おそらく皆さんも推測になろうかと思います。 それで構いません、お話し聞けたらと思います。

  • 江戸時代初期の大名の財力とは。

    諸大名は、二度の朝鮮出兵や関ヶ原合戦でも多額のカネを要したと思います。 関ヶ原合戦後は、天下普請に駆り出されながら、一方、領国では巨大な城郭を築いたり、城下の整備をしたりしていますので、これもまた多額の費用がかかったはずです。 こんなに財力を蓄えていたことに驚いています。 鉱山も貿易もすでに家康の管理下になっていたはずです。 なぜ、こんなに財力があったのでしょうか。 年貢収入だけだったと思うのですが、他に何か収入があったのでしょうか。 それとも、人件費も木材もタダ同然だから、築城という大工事であってもそれほど費用を要しなかったのでしょうか。 よろしくお願いします。 [参考] 江戸城大改修の第一期天下普請で石垣普請を請け負った豊臣恩顧の西国大名28家の内、大規模な城郭工事や城下町の整備をした有力大名を列記しておきます。 池田輝政 加藤清正  加藤嘉明  黒田長政  福島正則  細川忠興  山内一豊

  • 井伊掃部頭

    彦根井伊家は代々、掃部頭を称していますが、 初代直政・二代直勝は兵部大輔だったようです。 三代直孝は掃部頭だったのでしょうか?それとも兵部大輔だったのでしょうか? あと、大名家の家臣が、他の大名や布衣以上の旗本を呼ぶ際にはどう呼んだのでしょうか? 例えば年寄の土井大炊頭に問いかける際には、「大炊様」と言ったのでしょうか?それとも「大炊頭様」と言ったのでしょうか? 大名同士では「○○守」の守を省略して○○殿とか、領有する国名で土州殿、加州殿と呼んだのでしょうか?

  • 偏諱について

    江戸時代、国持ちクラスの大名でないと偏諱を賜ってなかったようですが、歴代の通字ということで代々「忠」がつく大名家も少なくないように思います。 例えば徳川吉宗の御世に偏諱を賜ってない大名が「宗」を使う事は憚られたけど、前の時代の将軍である秀忠や家光、綱吉の「忠」「光」「吉」の字を用いる事は問題がなかったのでしょうか? また、町人・農民のレベルでも、光兵衛さんという人がいて、後から代替わりで「家光」という名前の将軍が現れた場合、光兵衛さんは「光」を憚って別の名前に改名を余儀なくされたのでしょうか?

  • 戦国武将の異名

    色々思い出せたのを書いていきます 武田信玄 甲斐の虎 上杉謙信 越後の竜 斉藤道三 美濃の蝮  竜造寺隆信 肥前の熊 伊達政宗 奥州の独眼竜 前田利家 槍の又佐 長曽我部元親 土佐の出来人 高坂昌信 逃げ弾正 柴田勝家 甕割り柴田 丹羽長秀 米五郎佐 九鬼善隆 海賊大名 真田昌幸 表裏比興の者 羽柴秀吉 戦国一の出世頭 前田慶次郎 戦国一の傾奇者 山内一豊 堤の上の槍 今川義元 海道一の弓取り 可児長吉 笹の才蔵 堀尾吉晴 仏の茂助 等々 他にも知ってたらお願いします 思い出したら追加します