- ベストアンサー
城主の身分名称○○守についての疑問
buchi-dogの回答
- buchi-dog
- ベストアンサー率42% (757/1772)
いろいろな回答が既に出ていますが、大名の官名は「家の由緒」で特定のものを名乗る例がかなりありました。 柳川藩立花家:藩祖の立花宗茂の官名にちなみ代々「左近将監」 庄内藩酒井家:藩祖の酒井忠次の官名にちなみ代々「左衛門尉」 米沢藩上杉家:藩祖の上杉謙信の官名にちなみ代々「弾正大弼」 秋田佐竹家:藩祖の佐竹義宣の官名にちなみ代々「右京大夫」 仙台伊達家:陸奥国を代表する大名であるからか、代々「陸奥守」。こうした例は確かに多いですが、例外がいくつかあります。 熊本藩細川家:肥後の国持大名ですが、藩祖細川忠興の官名にちなみ代々「越中守」。越中の大名である富山藩前田家は「出雲守」です。 会津藩松平家:陸奥の大大名ですが、藩祖保科正之の官名にちなみ代々「肥後守」。 上記に挙げた官名の多くは、他の大名や旗本は使うのを遠慮していたと思われます。官名と家柄が強固な結びつきを持っていたからです。越中守は細川家、肥後守は会津松平といった具合です。 下記のページで各藩の例を見ると、傾向が分かるはずです。有力大名ほど、代々同じ官名を称しています。 http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html
関連するQ&A
- 国主、国持大名と城主、無城の違い
江戸時代の大名についてお教えください 1.国主=国持大名ということでよろしいのでしょうか? 2.国主と城主、無城とはなにがちがうのでしょうか? 伺候席との関連など、家格の違いがあるというのは分かる(?)ような気がするのですが、それ以外に具体的にどのような違いがあったのでしょうか? 3.wikipediaの大名のところを見ると「大名は国持ち大名レベルはともかく、10万石単位の大名は封土の一円領有が殆ど許されず、大抵は城下周辺とまだらに領土を持った。」とあるのですが、とすると城の周りでさえも、他藩や幕府・幕臣の領土が有った例も多々存在するというようにも読めます。 城の周辺でさえ他領が存在するなどしたら、実際の支配などに不便は無かったのでしょうか? 例えば、自分の城のすぐ近くで犯罪があった場合でさえ、関八州取り締まりや、その領主の手の者が来ないと取り締まりも出来なかったのでしょうか?
- ベストアンサー
- 歴史
- 土佐山内家の藩主名乗り
江戸時代、「国持大名」は代々将軍から偏緯を賜ることで他の大名と区別されていたようです。(島津斉彬、伊達綱宗など) 土佐藩主の山内家は、24万石で「従四位下、侍従」と国持大名の待遇ですが、将軍の偏緯を受けていません。代々「豊」を通字としています。 http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/shikoku/kochi.html 何かの理由があったと思われますが、ご存じの方はよろしくお願いいたします。
- 締切済み
- 歴史
- 山内一豊は大名の種類では親藩?それとも譜代?
ドラマも架橋に入った「功名が辻」。 その主人公でもある山内一豊は最終的に土佐の土地をいただく事になりますが、関が原の合戦開始前に徳川に見方をしている事を考えると大名の分類としては親藩に当たるのでしょうか? それとも以前は豊臣秀吉に味方していたと言う事で譜代または外様でしょうか? 土佐と言うと江戸(東京)から遠いので譜代か外様かと思うのですが、合戦前に徳川に付いていますしそうなると親藩に入るのかどちらなのかとふと思いました。 詳しい方、教えてください。
- ベストアンサー
- 歴史
- 山内一豊と長曾我部のこと。
こんにちは。 山内一豊と言う武将は司馬さんの「功名が辻」、 これでもお馴染みです・・・。 歴史好きの皆さんなら良くご存知でしょう。 不思議に思うことがあります。 関が原の功で掛川六万石から土佐二十万石の身代・・・ 随分な出世です。 その分家臣も必要でしょう。 少しの例外を除いて長曾我部の浪人を召抱えません。 召抱えるどころか随分乱暴なこともしています。 主のいない彼らですから説得すれば家臣になったろうに、 そう思うのですが、皆さんはどう思われますか? 私も胸に答えのある質問ではありません。 おそらく皆さんも推測になろうかと思います。 それで構いません、お話し聞けたらと思います。
- 締切済み
- 歴史
- 江戸時代初期の大名の財力とは。
諸大名は、二度の朝鮮出兵や関ヶ原合戦でも多額のカネを要したと思います。 関ヶ原合戦後は、天下普請に駆り出されながら、一方、領国では巨大な城郭を築いたり、城下の整備をしたりしていますので、これもまた多額の費用がかかったはずです。 こんなに財力を蓄えていたことに驚いています。 鉱山も貿易もすでに家康の管理下になっていたはずです。 なぜ、こんなに財力があったのでしょうか。 年貢収入だけだったと思うのですが、他に何か収入があったのでしょうか。 それとも、人件費も木材もタダ同然だから、築城という大工事であってもそれほど費用を要しなかったのでしょうか。 よろしくお願いします。 [参考] 江戸城大改修の第一期天下普請で石垣普請を請け負った豊臣恩顧の西国大名28家の内、大規模な城郭工事や城下町の整備をした有力大名を列記しておきます。 池田輝政 加藤清正 加藤嘉明 黒田長政 福島正則 細川忠興 山内一豊
- ベストアンサー
- 歴史
お礼
ありがとうございます。 左近将監・左衛門尉・弾正大弼・右京大夫というのは「守」と同等の官名なのでしょうか。 本来なら「守」がきてもおかしくないところに左近将監・左衛門尉・弾正大弼・右京大夫という肩書きを名乗っていたということですか。 お礼文に質問を書いてはいけないでしょうが、すみません。