• 締切済み

山内一豊と長曾我部のこと。

こんにちは。 山内一豊と言う武将は司馬さんの「功名が辻」、 これでもお馴染みです・・・。 歴史好きの皆さんなら良くご存知でしょう。 不思議に思うことがあります。 関が原の功で掛川六万石から土佐二十万石の身代・・・ 随分な出世です。 その分家臣も必要でしょう。 少しの例外を除いて長曾我部の浪人を召抱えません。 召抱えるどころか随分乱暴なこともしています。 主のいない彼らですから説得すれば家臣になったろうに、 そう思うのですが、皆さんはどう思われますか? 私も胸に答えのある質問ではありません。 おそらく皆さんも推測になろうかと思います。 それで構いません、お話し聞けたらと思います。

みんなの回答

  • shirouuda
  • ベストアンサー率17% (14/78)
回答No.5

司馬遼太郎氏は理解できてなかったが、 一領具足なんてのは、日本のあちらこちらにあった。 一領しか具足を用意できない程度の 小規模の地侍や名主の出兵なんか普通のことであり、 上杉の地下槍・武田の軍役衆・北条の大途被官・・・・織田家も農民兵を「一両」と呼ぶことがあった。 事の本質は脱税や徴兵逃れにある。 土佐は長宗我部氏の検地では10万石弱。 山内氏が検地すると20万石強。 「税務署長」が替わると、収入が2倍になっている。 戦国大名の統治はゆるゆる。収入をごまかそうが、出兵人数をごまかそうが、厳しくは追及しない。そんなことしたら、下克上や敵側への寝返りの原因になるから。それでも、年々、厳しくなっていき、北条氏なんかは割ときっちりしていた。豊臣秀吉は、それをさらにキッチリと調査しようとした。中央の織田・豊臣系の大名はそれに従った。これが、太閤検地。 しかし、外様の大名はええ寡言な検地が多かった。長宗我部もその一つ。そこへ、典型的な、織田・豊臣系の山内氏がやって来た。このような革命的な大政変がスムーズに行くはずが無い。ギリシァの政治家と公務員を全部、ドイツ人に代えるようなものだ。似た事は肥後でも起こっている。

noname#180427
質問者

お礼

こんにちは。 締め切ることにします。 少しお話しもしたかったのですが・・・ 申し訳ありません。 ありがとうございました。

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (816/3045)
回答No.4

掛川6万石とはいえ関ヶ原の直後ですからめいいっぱい家臣団を拡張していた時期でしょう。 そのうえ山内家は家康の関ヶ原行きの折の兵糧供給で倉庫を開け放って資産が空になってるはずです。 その補てんも含めての土佐20万石です。 完全な転封で新領地に一から入るので、何かと費用は要り用です。 さらに四国には幸いなことに関ヶ原で西軍についた厄介な大名はいません。 あらたに家臣団を拡張する必要性がどこにもなさそうに思いますが。 さらにもしまとまった数の長曾我部侍を雇い、それが派閥を形成して謀反を起こしたらお家騒動です。 最悪幕府から所領没収されてしまいます。 これがそのまま一揆をおこされたところで西軍の残党刈りに過ぎません。 しかもそういうリスクを含め、また残党に反乱を起こさせないためにも土佐に送り込まれたわけですから、これならそうそう処分はされません。 どう考えても長曾我部侍を雇うメリットが思い浮かばないのですが。

noname#180427
質問者

お礼

こんにちは。 同じ言葉の繰り返しです・・・ごめんなさい。 ありがとうございました。

noname#180728
noname#180728
回答No.3

珍答も出ていますが、まずこの一領具足という身分を考えてみると分かります。 旧長宗我部家でも一領具足というのは武士とは言えない身分で、通常の武士は予備にもう一領もっていますから、最低でも二領具足が武士、「一領具足」と言うのが武士と農民の中間層だと言う事が分かります。 この時期は他の地域では兵農分離が進んでおり、山内氏入部の折、旧長宗我部最下級層が武士の身分を剥奪されるのではないかという恐れから浦戸一揆を起こします。 これは新領主に従おうという旧長宗我部家武士と武士身分を剥奪されるのではと反発する一領具足の対立で、結果は鎮圧されます、これで山内家にとっては印象が悪くなり、身分を上げてまで抱えようという気はなくなる。 その後も新田開発などでこの中間身分が増えたことなどから、武士に引き上げると身分制度が混乱するという理由で、旧身分が固定されてしまい幕末まで下層階級として、武士からは同列に扱われなかったという事かと。 武士はそのまま召し抱えられる事例が多いです。 一領具足がもともと低い身分であったと考えると見えてきます。 ドラマですと悲惨な生活をしている坂本龍馬はお金持ちのぼんぼんで江戸自費遊学にも行っていますから半端ではない。 戦国が過ぎれば身分は固定されるので、徳川家でも功績のある伊賀は足軽身分の同心、裏切った甲賀は武士身分の与力、もともとの身分が違います。

noname#180427
質問者

お礼

こんにちは。 前の方と同じ繰り返しです。 ごめんなさい。 ありがとうございました。

noname#181597
noname#181597
回答No.2

http://d.hatena.ne.jp/sanraku2/20061119/d1 主君を変えるのは美徳ではありませんし、 調略ではなく、浪人は足元見られます。プライドが許さないでしょう。 山内の家臣も加増がなければ忠誠心が下がりますし、 元長曾我部の家臣と、そりも合わないでしょう。 山中鹿之助と尼子十勇士のように、反目し合ったのでしょう。

noname#180427
質問者

お礼

こんにちは。 お話ししたかったのですが、 締め切ることにします、申し訳ありません。 ありがとうございました。

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.1

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%86%85%E4%B8%80%E8%B1%8A 慶長5年(1600年)11月、土佐国内9万8,000石(後の検地で20万2,600石)を領有する大名となる。 9.8万石であればそれほど追加の家臣は必要としない。

noname#180427
質問者

お礼

こんにちは。 お話ししたかったのですが、 締め切る必要に迫られました申し訳ありません。 本当にありがとうございました。

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