• ベストアンサー

「儒教」って本当に“宗教”の部類に入るのでしょうか?

“神様や仏様に願ったり祈ったりする”ことは、その対象が“神”であれ“仏”であれ、あらゆる宗教・宗派を問わず大昔から現在に至るまでどこでも行われてきていることですよね。別に特定の宗教の信者じゃなくても、極論すれば常日頃「無宗教」を公言している人だって「こうなってほしい、ああなってほしい」と心の底から強く願ったり祈ったりすることはあると思います。 そこで質問なのですが「儒教(の信者)」にはそのような側面があるのでしょうか?確か歴史の教科書に載っている宗教分布図では東アジア(主に中国と朝鮮半島)は堂々と“儒教”と記されていたように思います。 しかしながら私の「儒教」というものに対する印象はあくまで生活の規範をこと細かく定めたものにすぎないのです(…典礼儀式として東アジア社会諸国ではそのシステム運営のために深く取り込まれはしましたが)。もしかすると「儒教」は“先祖を祀る、大事にする”という部分もありますから、何か願い事をしたい“儒教の信者(?)”は自分の先祖に対して願ったり祈ったりするのでしょうか?…真相をお教えください。

  • 歴史
  • 回答数5
  • ありがとう数13

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • dark_fang
  • ベストアンサー率39% (9/23)
回答No.3

そもそも「宗教」って定義できるものなんでしょうか?辞典にはもちろん解説が書いてありますが、何を見ても、「明確には定義できないが大体次のような傾向がある」などと書いてあります。 一応ウィキペディアを引いときます。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%95%99 さて、ではmustapha13666さんが書いておられる「儒教」の話に移りましょう。 そもそも、「儒教」とは孔子の始めた儒学がその基礎となっており、もとは学問なのです。ここで孔子の功績について述べることはしませんが、彼は徳による政治を地上に具現させることを理想としており、そのような人物を聖人と呼んで崇めました。聖人へと近づくための様々な訓練が、儒学という学問であったということもできます。 質問に書かれていた、「生活規範の定義」云々というのがまさにそれです。日常から自らの心身を律することが聖人への道であり、それこそが儒学の本来持つ存在意義です。 ですが、儒学は前漢の武帝の時代に官学化され(これはもちろん、為政者の立場からするに、儒学が都合のよい学問であったからです)、後漢中期以降は価値観の範たる「教え」としての性格を持ち始めました。これが、「儒学」が「儒教」化する過程です。 宗教としての側面を持ち始めた儒教ですが、これが今日メジャーな宗教(特に世界三大宗教のような)と異なるのは、神や仏といった「絶対的存在」がいないことに特色があります。#2の方が書かれているように、孔子は「不語怪力乱心」なのです。 以上のような儒教の持つ特有の性格のために、儒教は宗教と認知されにくくなっているだけです。言い方を変えるならば、現在世界を席巻しているいくつかの宗教が作り出した「画一的な」宗教像の枠にはまらないだけです。日本古来の「八百万の神」を信仰するという「宗教」も、そういう意味で宗教と認識されなくなっていますね。

mustapha13666
質問者

お礼

“絶対的な存在である唯一神に救いを求める”ような定義、またはそれに(仮に「多神教」であっても)近いような考えを含めた上で儒教や神道をみてしまうと確かにその信仰の対象がぼやけてわかりずらいものとなりがちですね。しかしながらそれは西洋的な基準でしか見ていないからそうなってしまう。「宗教」の定義も実は幅広く、悪くいえば“あいまい”なところもあり、どこに基点が置かれるかでその人の見方も自ずと変わってくるというだけの話。…なるほど。 始皇帝の秦がすぐに滅んで、その後の王朝(漢とか唐とか…)がうまく何百年も続いたのは「儒教」と「法家思想」を上手く使いこなせたかどうかの違いだという話を以前に本で読んだことがあります(前者は法家ばかりを尊んで儒家を抹殺しようとした。後者は前者に倣って法家的な思想も国の根幹に取り込んだが、それ以上に儒家の思想を“タテマエ”として大きく取り込んだ云々)。結局、“儒学”が“儒教”化する課程は「絶対的存在」がいるかいないかの違いだけでローマ帝国以降のヨーロッパ社会がキリスト教を大きく取り込んでいく課程とある意味共通しているところもある訳なんですね。…とても興味深い事実です。ご教授いただきまして誠にありがとうございます。

その他の回答 (4)

  • nemosan
  • ベストアンサー率22% (582/2598)
回答No.5

>何か願い事を・・・願ったり祈ったり 孔子は学問の神様として認められています。 ちなみに「孔子廟」は日本にもありますよ。

mustapha13666
質問者

お礼

ありがとうございます。確かに孔子は神格化されていますね(孔子廟って日本にもあるんですか~。…知らなかった!)。その“ライヴァル”といったらおかしいけど、老子も同様みたいです。関帝廟は横浜の中華街にありますし…。関羽は確か「商売の神様」でしたっけ(…どう結びついたんだろう?)。この3人は中国では根強く慕われているんですね。 実在の人物が神格化されて多くの人々に慕われているパターンというのは、日本では「学問の神様」というと“天神様”の菅原道真が多少人気がある(?)くらいで後は(…そういえば)あまり思いつきませんね。東郷平八郎の“東郷神社”も、乃木稀介の乃木神社もピンとこないし…(笑)。他に「神格化された人」っていったら日光東照宮の家康さんぐらいでしょうか(笑)。

  • tatsumi01
  • ベストアンサー率30% (976/3185)
回答No.4

宗教というのは「生活の規範をこと細かく定め」るものです。イスラム教ならメッカの方角に一日何回か礼拝するとか、豚肉を食べないとか。イギリスですが、アガサ・クリスティーの小説に「日曜にカードはダメ」というのが出て来たそうです。 日本では坊さんが長髪で刺身を食べビールを飲みますから、そんな規範は忘れられていますが、日常生活を律するなら立派な宗教でしょう。

mustapha13666
質問者

お礼

確かに「規範」というものに着目し、そこに重点を置いて「宗教」というものを規定すると“儒教”は「立派な宗教」となりますよね。…良いんだか、悪いんだか(笑)。 世界には規範が事細かに定められ、我々日本人からすると非常に息苦しそうに生活している宗教の信者さんも大勢います。それが「悪い」という訳ではありませんが「価値観の違い」なんでしょうね。但し映画の『ラストサムライ』なんかを時々思い浮かべると我々の生活だって寂しく思えるときがあります(苦笑)。

  • Quant
  • ベストアンサー率18% (23/122)
回答No.2

子、怪力乱神を語らず。 孔子を神や聖人としてあがめ、孔子の言ったことは絶対だと信じる人にとっては、儒教は宗教。そうでない人にとっては、人生の指針。儒教にどのようにかかわるかによって宗教にもなり、人生の指針にもなるのでは。中国三千年の智慧でしょう。 宗教=思考停止、考えることをやめただひたすら信じる。テルトリアヌスは、"不合理ゆえにわれ信ず"と宗教の本質は考えることではなくて信じることだといってますね。これは、儒教にかぎったことではなく、学問でも、学説が現実と違っていても、偉い学者が言ったことだからとそれを信じて疑わない人がやっているような学問はその人にとっては宗教となんら変わりはないですね。

mustapha13666
質問者

お礼

ありがとうございます。私は特定の宗教を信仰しているわけではありませんが、クリスチャンの方々なり旧新興宗教の信者の方々なりなにかしら信仰を持っている人々からかつて「…疑うことも大事だが、それ以上に信じることも大事」と言われたことがあります。ある意味、良くも悪くも「信じること」からその対象は何であれ「宗教」は始まるんですね(極めて“当たり前過ぎる”話なんですが…すみません)。

  • merlionXX
  • ベストアンサー率48% (1930/4007)
回答No.1

日本人の死生観の中心的な部分は、一般的には仏教の教義に由来していると信じられているようです。 本当にそうでしょうか? たとえば、輪廻転生を信じるインド仏教では葬儀を行わず、魂が離れた死者の体はもはや不要として、死体は焼いて骨と灰は川へ捨てるので、墓がありません。 転生とは魂が再び身体をもった存在となることなので、死者の魂(霊)がいつまでもこの世の人間と関わりをもち続けるということもありません。 死者と生者は、四十九日が過ぎれば縁が切れるので先祖祭祀も不要なのです。 そもそもインド仏教では、この世は生・老・病・死の苦に満ち満ちているので、転生しても再び人間として生まれることを必ずしも期待しませんし、第一その確率は低いとされています。 輪廻転生自体が永遠の苦悩であり、解脱して成仏するまでは、魂は休まる暇がありません。そして、成仏するとは、この世からは十万億土も離れた極楽浄土へ往くことです。 このような考え方は日本人の死生観とはかなり異なると思いませんか? わたしたちは、死者の魂はこの世のしがらみから解放されれば一応成仏したといいますが、その後も定期的にこの世へ戻ってくると考え、その時に備えて死体の一部を墓に納めて保存し、戻ってきた魂と体が依りつけるようにと位牌を用意するのです。 これだけでも本来の仏教との違いは決定的ですが、日本人の時間・空間認識も人生観も、仏教のそれとは大きく異なっています。しかしわたしたちはそれが仏教の考え方だと思い込んでいます。 そうなった原因は、仏教が中国・朝鮮半島へ伝播したときに儒教思想を大幅に取り入れられ、それが日本へ到達したときにさらに日本的儒教の影響を大きく受けたためのようです。 確かに儒教はこれまで道徳性を語りこそすれ、宗教性についてあまり語ってこなかった面があり、儒教には宗教性がないというような誤解を与えてきたのでしょう。 日本では、日本仏教の中に儒教の宗教性が大きく取り込まれているため、中国人や朝鮮人に比べて、さらに儒教の宗教性に気づかなくなっているのです。

mustapha13666
質問者

お礼

早速のご回答、誠にありがとうございます。 …そういえば私が大学生だった時、懇意にしてもらっていた当時の先生から「日本で“仏教”と思われてるものは実は仏教そのものが中国大陸を経由することで“儒教のフィルター”を通してできあがったもの。その実、(中身)8割は“儒教”なんだよ」と教えられたことがあります。 学生時代に戻る感じでまた一度再考してみます。最良のヒントを教えて頂きまして本当にありがとうございました。

関連するQ&A

  • どう考えてもおかしな宗教に連れていかれました

    根本が法華経らしいのですが、とある宗教に勧誘を受けました。 宗教だとは隠され「よく当たる占い」と言われて連れて行かれました。 先生(女性)と呼ばれる人は信者を怒鳴り飛ばし威圧し生まれた星が悪いからいけない!と人格否定・・・・ ヤクザのような世界でした。 しかし↑の説法?説教?がその場にいる人みんなに同じことを言うのです。おかしくなって笑いそうになりました。 そして「お前は○○の星の生まれだから私はあんたが大嫌いだ!」と 基本は目の前にいる「その人」ではなくその人の生年月日らしいのです(笑) 女性のご年配の信者さんが「息子がなかなか結婚できないのですが」 と相談をすると(一部屋に詰め込まれみんなの前で発言する) 「そんなの放っておきゃいいんだよ!あんたが死んだらせいせいと生きていくんだから!」 中年の信者さんが 「霊能者の方に見てもらいコップにお水を入れて供えるようご指導頂いたのですがそれをやってもよろしいですか?」と質問すると 「あーかまわないよ!そんなもんで良くなりゃコップじゃなくてバケツに水入れて供えてやりゃいいよ!」 こんなにも信者が就くんだ?と奇妙な感じでした。 そして何でもその「読経」を毎日読むだけで先祖供養もでき自分も幸せになるというのです。 私が「意味とか分からないですし読み方も分からないので」というと 「導き」役の友人から 「意味は知らなくていいの!とにかく読めばいいの! あと読み方は適当で大丈夫なんだよ!」 と言われました。 適当に意味も知らなくて読むだけで供養もできて自分も幸せになれる! 法華経の過去スレを見ましたがこんな教えないですよね? それから年に1~2度お経を唱えながら山へ登るそうですが 先祖の供養といいながら「願い事も叶うのよ」というんです。 仏様にお願いごとをするんでしょうか?? おまけに「どう考えてもおかしいし納得できないから入れない」と きっぱり断ったのですが「幸せになるチャンスを逃しちゃったね」 と言われました(苦笑)

  • なぜ東アジアは多宗教なの?

    東アジアでは他宗教を信仰している国が多いですけど何故なんでしょう 日本・・・神道、大乗仏教 中国(漢民族)、韓国、ベトナム?・・・儒教、道教、大乗仏教 これは大乗仏教が他の宗教とは違って土着宗教を滅ぼさなかったんでしょうか? それとも神道、儒教、道教側に何か他の宗教と違うところがあったんでしょうか? 東南アジアではイスラム教やキリスト教によって土着宗教は滅んだように見えても、アラブやヨーロッパのイスラム教やキリスト教とは違って土着文化が色濃く残ったイスラム教やキリスト教になっていると聞きます、その残っているものが東南アジアでは宗教とは認められていないけど、東アジアではそれが宗教と認められているだけの話なんでしょうか?

  • マルクス宗教論

    マルクスの宗教論では、 神や仏とは人間の本質、美徳が 対象化された物であるわけですし、 宗教の信者は自分で自分を 拝んでいるという事になりませんか?

  • アブラハム系宗教とそれ以外とでは。

    みなさま、始めまして。 宗教比較学では、アブラハム系とインド系と東アジア系とで 分けているみたいですが、アブラハム以外の宗教は、出家者や 聖職者が修行する宗教となりますか?。 つまり、インドも東アジアも神には祈ったりしますが、聖職者が 修行するかしないかの違いと考えてもいいでしょうか?。 おおざっぱに考えた場合です。

  • これは何という宗教か教えてください。

    いつもお世話になっています。 今回皆さまにお尋ねしたいのはこの宗教についてです。 調べてもわからなかったので、「もしやこれかな?」というのがあったらぜひ教えてください。 ・ピンチの時、神や仏に縋るのではなく、自分自身を信じることで道が開ける?みたいな教え。 ・勧誘などはそこまで熱心ではない。(本人いわく) ・そんなに過激なことをしているわけではないが、世間の目は厳しい。 ・何の宗教か聞いても答えたがらない。 ・神社に行くのはいいが、手を合わせるのは×。お守りも持たない。 ・キリスト教系ではない。 ・真如苑ではない。 ・本人はそれほど熱心でなくても家族が熱心な信者であれば、将来的には本人も本格的に関わっていく可能性がある。 本人が答えたがらないものを詮索するのはよくないことですが、 宗教は大事な問題ですし、近しい人の話なだけに気になってしまうのが本音です。 わりと有名な宗教だからこそ答えられないのかなあという気もします。 漠然としすぎて思い当たらないかもしれませんが、少しでも情報をいただきたいです。 よろしくお願いします。

  • 宗教団体の定義

    (宗教団体の定義) 第二条  この法律において「宗教団体」とは、宗教の教義をひろめ、儀式行事を行い、及び信者を教化育成することを主たる目的とする左に掲げる団体をいう。 一  礼拝の施設を備える神社、寺院、教会、修道院その他これらに類する団体 二  前号に掲げる団体を包括する教派、宗派、教団、教会、修道会、司教区その他これらに類する団体    ・・・・・宗教法人法より 宗教団体についてのこの定義は正しいといえるか  

  • やはり宗教カテは残すべきであった

      かつて宗教カテは存在していました。 しかしある時期(2000年12月21日とされる)をもって宗教カテは消えたのであった。 その理由については、以下を見れば分かります。 http://okwave.jp/qa/q6616400.html 簡単に結論すると宗教に関する質問、議論、問題提起は口論になりやすく、管理上収拾がつかないので消されたということです。 つまり宗教一般には自浄能力が欠けているってことなのです。 神や仏を語る者に限って、自らを清める能力を欠いているって証拠なのです。 ではあるが宗教カテはやはり残すべきであったのではないか。 その理由は、宗教と哲学は厳然として異なるからです。 宗教は信じるものであって、神や仏を論じるもの、天国や地獄などあの世について信じ語るもの、その他これらに関連する奇跡とか終末とか末法とか戒名とか葬式事とかの儀式的なものの類です。 一方哲学は純粋に真理の探求であってその中心は人間と宇宙の正しい理解です。 宗教カテが存在しない現状においては、宗教は哲学とは無縁のものであるにも関わらず、あたかも哲学であるかのように錯覚して、神学やら仏教やらを哲学カテの中で論じているのですが、この状況は哲学にとっては甚だ迷惑なことなのです。 神や仏、天国や地獄、また奇跡や終末や末法や戒名や葬式事について語りたいのであれば、その共通世界の中で思う存分、徹底的に語ればよいのではないでしょうか。 その結果地獄絵のような議論が巻き起こるかもしれない。 しかしそれが宗教の本質を物語るのであれば、それはそれでよいのではありませんか。 それ故やはり宗教カテは残しておくべきであったと思うのですがどうでしょう。  

  • 宗教と無神論者について。

    ちょっとした素朴な疑問です。 良ければご意見お聞かせ下さい。 私は宗教が大嫌いです。 親がどっぷり宗教につかっており、そのせいで虐待を受けたり、命の危機に瀕したからです。 なので、宗教・宗教活動という言葉を聴くと、トラウマで反射的に嫌悪感を覚えます。 しかし、わが家は代々浄土宗ですし、お墓もありますし、葬式も挙げますし、お経も唱えられますし、それ自体に嫌悪感は別に抱きません。 代々家がその宗派でやってきたのなら、私もそれを受け継いでお墓・仏壇を守っていこうと思っています。 死者への弔いの必要性は感じていますし、そのためには宗教が必要なことも解っているからです。 でも、その宗派の教えとかは一切わかっていません。 所謂、何でも願いをかなえてくれるような絵に描いた神や仏がいるとは思いませんが、神社にけば手を合わせますし、仏壇の中には観音様もいます。それらが尊い存在なのもわかります。 クリスマスも祝いますし、北欧神話だって楽しみます。 そういうの全部ひっくるめて八百万の神じゃね?と思ってるくらい、適当ですが。 そして、幽霊は信じます。あまり言うと変な目で見られるので表には出さないのですが、我が家の家計が所謂「見える」家計だからです。 人々が神や仏とあがめるような不思議な存在がいるというのも、信じています。 神社にいくと、小さい境内の中から話し声が聞こえてきたり・・・といった不思議体験を家族でしているからです。 家のほんとすぐ隣にお稲荷さんがいますが、そこでも不思議体験をしているので、小さい頃からその考えに疑問を持ったこともありません。 そんな不思議な存在たちが「守り神」と呼ばれ、尊い存在なのだろうと思い、手を合わせ、頭を下げます。 そんな私を矛盾してるとか、宗教をしないお前は無神論者だと言われます。キチガイだといわれます。 私自信、人間の願いをかなえてくれる神さまって本当にいる!とは思ってませんが、神をあがめることは知っていますし、やっぱり自分の行動・体験を考えると私自信が無神論者だと言われるのはおかしい気もします。 自分でも色々と矛盾しているのはわかるのですが。 私は自分が無宗教者ではあっても無神論者ではないと思うのですが、違うのでしょうか? やっぱり私の考えは矛盾だらけでおかしいでしょうか?

  • 宗教の取り締まりは誰が?

    友達の主人のお父さんはすごくある宗教に熱心で、子供が出来て急に熱心に進められるようになりました。その宗教には、人間なのですが、親神様と呼ばれる人がいるらしく、月に何度か、信者が集められて、ご神気というハンドパワーのようなものを信者全員に向かって「はー!」と与えるそうです。家内安全とかの祈願もあり、また水子や先祖の供養も行っている、寺だか神社だかわからない所です。信者の方は熱心に通ってらっしゃるそうですが、彼女は主人の父によく連れられて行くそうです。その教えは「人間は神に仕えるために命があるのだ。」そうで、片時も神様を忘れるな、らしいです。(その人間の神様、要はどこかのおじ様ですかね)で、供養とか無理やり申込させられている様で、それには赤い蝋燭を1本1万円で買わされます。また、年に何度か大祭があって、「一口1万円以上、何口でもかまいません」といった様な、お布施(初穂料というそうですが)がいるそうです。ある日、彼女が主人の両親宅で料理していた時、火傷をしたのですが、薬は無く「この紙をあてておきなさい」と、普通の半紙のようなものを渡され、「神のご神気がはいっているから」と言われたそうです。半年以上たちますが、もちろん彼女のうでには直径3センチくらいのヤケドの痕が残っています。私が話しを聞く限り、これは悪徳なのでは?と思う節がたくさんあります。ご神気が与えられると言った日にその場所の駐車場にいると、神様の乗っている車が通ったので、信者は皆地面にひれ伏せたそうです。(彼女はそれは出来なかったそうなのですが)宗教って税金もとられないし、信者のお金で高級車に乗ってる神様にどう頭がさげられますか?1番、怪しいのはその親神様がお父さんの大学時代の友達なんだそうです。でも、お父さんはとても信心されてるそうです。皆さんはどう思いますか?(長くてすみません)

  • 宗教を強く信仰している人には悩みや後悔など無い?

    人間には色々な場面で悩みが付き物なのですが、これって考えてみると、困難な問題でも自分で判断し決断しなければいけないから悩むのですよね? つまり右に行くか左にするか、どちらが良いか分からないのに自分で決断しなければいけないから、悩みやストレスが生まれるのだと思います。 だとすれば、何でも良いのですが、ある特定の宗教を強く信仰している人は 「これは神(あるいは仏)が決めた事だから仕方ない」 と考え、全て成り行きに身を任すのであれば、悩みとかストレスとか関係の無い人生を送っていると考えられるのですが、実際どうなのでしょうか? よく人生につまずいた人が新興宗教に嵌りやすいと聞きますが、信者になって何か胸のつかえが取れるから嵌るのではないかと思うのですが ・・・ 例のオーム真理教も未だに信者が離れないと聞きます。 強く信仰している信者には、悩みやストレスなど無く、みんな幸福なのでしょうか? 何か大きな失敗をしても 「神の思し召しだ、仕方無い」 と、スパッと諦めがついて後悔する事など無いのでしょうか? もし、どんな宗教の信者でも悩みやストレス、それに後悔から解放されないのであれば、宗教を信仰する意味が無くなるように思うのですが ・・・ ちょっと気になったので質問してみました。 あ、それと私は特定宗教の信者でもありませんし、また勧誘するような立場でもありません。 一般論で結構ですので、ご意見を伺いたいと思います。