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神、霊等の意味を知りたいです

タイトルの通りなのですが。 様々な場面でこの両者が登場しますが哲学的でも良いし科学的な解釈でも良いですから定義を知りたいと思います。 と言うのはこれらを議論する時に本当に当事者は共通の概念を持っているのか、と疑問に思うことが良く有るのです。 別な例えですがUFOと言う言葉が有ります、これは極めて曖昧模糊、立場によって、その時によって自在に使い分け、自分の有利なように利用しているのが見え見えですよね。 このカテの方は皆さんそんないい加減な事はないと信じていますので是非ご教授ください。

noname#104477
noname#104477

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  • pyon1956
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回答No.4

皆さんの答をみてもわかるように、これらに「誰にも共通の定義」は存在しないのです。 キリスト教の聖書の翻訳の歴史を調べていたのですが、神ということばを定訳にする前には「極楽」などという訳もありました。 つまり、神とか霊とかいうものは宗教的世界観と同様にそれぞれの民族、それぞれの歴史、それぞれの集団が生み出したものです。 たとえば日本書紀を見ると、創世神話のあたりで一書にいわく、という記述が多出しますが、このなかに神のほかに神人、人が同一の神格にあてられています。神という概念が発明されていなかった時期に、人(主に老人)という形で上位の人をあらわす時期があって、次第に神人(尊、というのが中間的なことば)さらに神へと進化していくのがわかります。 キリスト教の神にしても旧約には多神教の名残がありますし、新約でもどの文書も同じ神についてかいてあるとはいえないという説だってあるわけで。 また民族のあいだの征服・吸収・併合・合同などにより神話が変形しているのはギリシア神話などにも顕著です。征服された民族の神や敵対する民族の神は悪魔や妖精などに変化します。 とまあ歴史と民族との問題があり、また教団のあいだの論争もあり、共通理解や定義など不可能です。(特定の立場にたって、なら可能ですが) いい加減なのではなく現状ではそれをすると無神論も含め特定の宗派・立場での発言にしかならない、ということだと思います。

noname#104477
質問者

お礼

>>皆さんの答をみてもわかるように、これらに「誰にも共通の定義」は存在しないのです。 おっしゃる通りですね、異教徒間の神の論争などは絶対にかみ合わないと思います。 ただ私が知りたかったのは異教徒間の論争などと言う高尚な問題ではなく一般の無神論者に近い立場の人同 士の事が気になっていたのです。 せめて神を同じくする立場の人同士の論争でなければ意味が無いと言う事ですか。

その他の回答 (8)

  • tokytime
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回答No.9

No.3です。他の方がたの色々な意見を興味深く読ませて頂いています。 以前の意見に少し付け加えさせて下さい。 因果応報について例を用いて少し説明しましたが、「霊」を説明するにおいてもっと詳しい説明が必要だったと気づきました。 つまり、因果応報という法則は、今生だけでは完結しないという事です。言い換えれば、生まれ変わり(輪廻転生)の長いスパンで働く法則だという事です。 ですから、現世で上手く立ち回り、犯した罪を隠しおおせても、法則からは、逃げられないということです。その結果は後の人生で償う事になるでしょう。 本人は「なんて不公平な人生だ!」と神を呪うかもしれません。でも、どんなに恵まれない人生でも立派に生き抜き、他者や、社会の為につくし、人々の手本となる様な、見事な一生を送った人は、沢山います。 この様に上手くプラスに転換できた場合は飛躍的に進化できます。 世の中の悪事を行う人の殆どは「悪人」と言うより、「未熟な霊」です。彼らも進化と共にやがて善霊に、さらに聖霊になって行くのです。 又、ありとあらゆる人々が霊界のエネルギー(インスピレーション、又はバイブレーション)の影響を知らず知らず受けていると思います。この世にあらゆる目に見えない電波が飛び交っているように、あらゆる霊界のインスピレーションが飛び交っています。人はその中から一番自分にぴったり来るものを無意識の内に選択していると思います。 つまり、高潔な人には邪霊の悪事をそそのかす低いバイブレーションはもともと受け取ってもらえず。未熟な進化段階の人にとっては高級霊界からの精妙なバイブレーションはキャッチすることはできません。 すべて何を受け取るかは本人の自由意思に任されています。そしてその影響を知らずに受けてしまいます。だからこそ、自分で判断して選んだからこそ、学びになるのです。結果も粛々として受け取らねばなりません。但し、本人が霊的に向上したいと心より神に助けを求めるなら、手ぐすねを引いて待っている高級霊、善霊たちが必ず喜んで何らかの援助をしてくれます。 でも、その願いが本人の霊的向上の為にならないものや身勝手なものの場合、同情しながらも見守るだけかもしれません。 未熟な人が、低い波動を出し続けると同じように低い波動の未熟な霊たちが引き寄せられて集まります。 気の合う人と友達になるということです。その霊の出すインスピレーションがどんな影響を与えるかは想像に難くないでしょう。 人々が神の法則から与えられた「自由意志」を駆使した結果、地球の中で、悲惨な紛争地域が出来てしまっています。その様子を見た平和な国の人々が「他人事、関係ない」と何ら解決の為の援助をしない場合、やがて、その人と国に何らかの「つけ」が回る事でしょう。 神の法則は有限の人間には計り知れず、人智をはるか超えた高い理解と広い視野から一分の狂いも例外も無く働きます。 私の理解している「神」と「霊」とはこの様なものです。

noname#104477
質問者

お礼

再度の回答有難うございます。因果応報、それも前世からの‥でもこれは困ります。 自分が前世に悪事を働いた記憶があれば現世で不幸な境遇で有っても納得できるでしょうがそんな記憶を持つ人など居ないでしょう。 殺人を犯しても心神耗弱状態なら無罪判決が出る今の日本で全く身に覚えの無い前世の事を言われても‥‥ウ~ン >>高潔な人には邪霊の悪事をそそのかす低い‥ 霊に登場して頂かなくても高潔な人には低レベルの人間は寄ってきませんね、逆もいえます。 いずれにしても神、霊などは結論を出さない方が世の中うまく回ると云う事でしょうか。 丁寧な回答有難うございました。

  • kigurumi
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回答No.8

>と言うのはこれらを議論する時に本当に当事者は共通の概念を持っているのか、 >と疑問に思うことが良く有るのです。 単語って複数の意味や概念を持っているって知っているので、話をしてどっちの意味で使っているのなかーって想像しながら会話しています。 1の意味で使うと筋が通る話を、2の意味で解釈して思考が止まっている人がいたら、「その単語は別の意味があるんですよ」とか「あなたが言うその単語には、別な意味があります。元々○○という意味で、ここから派生して、今あなたが使っている意味も持つようになったんです。で今回は前の意味で使わないといけないのに、別な意味をその言葉だと思っているので、あなたの中で混乱が起こっているんですよ」 とか言ったりします。 で、神、霊等 これは話す内容によって示す意味が違って来ると思う。 宗教寄りの考えの人は、人間を支配する生き物みたいな概念で話をしていると思う。 だから、一応そっち方面の解釈で話をして、科学的な話の中で『神』って出てきたら、自然とか万物の法則とかの事を言っていると思って話を進める。 ところが科学の話をしていて人格的な側面の神の事を相手が言っていると気づいたら、「うわーーー これは・・・会話成立しなさそうーーー」と予測して、案の定 会話が破綻しちゃう。 宗教的な側面の神の概念を念頭に置きながら話をしたくても、わたしは宗教的な神の概念に縛られないので、結局そこから手足が出ちゃって、難しいなぁ~ って今まで思ってきましたもん。 次に霊ですが、人は困りきった時、ピカーン!と突然今まで想像のつかなかった名案がひらめいたりします。 「神の啓示」とか「神の霊が届いた」とかよく比喩的に言われるあれです。 それ、CPUが高回転して、放電量が一定の値を超えたので、普段使っていない領域まで影響を与え、それがたまたま今回筋の通る名案を思いつき、それを神の霊が下ったと理屈をつけることで、理解して神の存在を確認したと思っただけ、、、ってわたしは思うのです。 しかし、「神が困っている私たちを助けてくれた」という取り方をした方が全然心理的に楽だということも知っています。 でも、わたしはそれで納得しているわけじゃあないので「そういう神なら、どうして紛争地域の人たちにも下りないのかな~」って突っ込みいれたくなります。 神とか霊とかは人間が生きる上でプラスの概念を利用している生き延びるために使っているのかもしれない。 日本にも巫女とか霊能力があるからといって、占いとか交霊(下霊)をやっている人います。 彼らを調べると、てんかんがある人が多いそうです。 てんかんは確か脳の異常放電が起こってヒクヒクヒクってなったんだと思います。 異常放電なので通常と違うところが刺激され、神モジュールを刺激されたら、てんかんが終っても、新鮮なその別世界を記憶にとどめており、これは神が下ったとか、霊と交信した 私は霊能力を得た!とか思ったりするんじゃないかと。 後はその経験を利用して、疑似体験をしていくうち、自己催眠が経験によって簡単にできるようになり、開業しているのかなーって思っています。 その体験を神との遭遇だと確信している人とは会話が成立しない・・・。 でも 一応 突っ込みいれて 相手の信じるという岩をぐらぐら揺すったりします 笑

noname#104477
質問者

お礼

分りやすい比喩的な説明有難うございます。 確かに神も霊も宗教的な意味と科学的な意味では相容れないのでしょうねえ。 「霊能力」を持つ人は病気ですか、お気の毒です。 PCで言えばバグ、ウイルスってトコでしょうか。 いずれにしてもかみ合わないものを議論するのは時間の無駄かも知れません。

  • truth77
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回答No.7

#2です。 >霊の定義もやはりまちまちなのでしょうか? 私の経験では、霊の定義よりも、霊界の定義と言いますか、「霊界の様相の認識」の方がずっと差がある様に思います。 主(宗祖)と並列(同格)に、みんなしてあんのんと平和に暮らしているという天国観もあれば、他の方の御意見にもあります様に、霊界はピラミッド型の層状に格付けされた世界を呈していて、たまに上の世界からゆかりのある指導者が来て講義をしてくれたりすることもある、というものもありました。(「死んでも勉強!」という世界らしいです。 ^^;) 中には、「霊界に当団体の研修施設を建築していて、そこで行う研修カリキュラムを検討している」というところもありました。 霊界はとてつもなく広いと言われていますので、そのうちのどの辺りを見ての話なのか?ということもあるかと思うのです。 たとえば宇宙人が地球に来て、雨季の熱帯地方しか見なかったならば、「地球と言う星は、暑くて雨ばっかり降っているつまらない星だ」と報告してしまう様に、その宗教の宗祖や弟子たちが、霊界のどれだけを見渡せたかによって差が出ているのではないか?と思えるのです。 >一般論ですが神や霊は存在するとかしないとかの議論は共通の定義が無い以上かみ合うことは無い、と言う事ですね。 神や霊は存在するとしても、その認識力や信じていることが個々で異なるため、話がかみ合わない、というのが現実だと思います。 ましてや神や霊の存在をまだ信じられてない人との議論となりますと。。。 定義があるとかないとかの問題ではなくて、個々人がこうした世界に対して認識力を持っているかいないかの差があると思うのです。 ある種の「知覚」が出来る人にとっては、「神や霊の存在を信じる」という域は超えていて、いる(ある)のが当たり前の世界観で生きている訳です。 ですが、そうした知覚にうとい人にとっては、そんな見えないものを信じる人がバカみたいに見えたりする訳です。 人は、その人自身が知覚出来る範囲で得られた情報をもとに、(自分を標準として)相対的に判断して生きていると思うのです。(仏教で言う「六識界」) こうした中でしか自分は生きていないことを自覚出来るかどうかによっても、変わって来るのだと思います。

noname#104477
質問者

お礼

霊も神も人によって宗教によって、場合によってはその時によって定義が変わるとしたらこれはもうかみ合う訳有りませんね。 私が疑問に思ったのはこれらを定義も曖昧なまま議論しているのを良く見ると始めは何ていい加減なのだろうと思っていました。 でも皆さん方の貴重なご意見を読ませて頂いているうちに考えが少し変わりましたよ。 つまりこれ程様々な意味の神、霊を定義づけなど出来ないし元々実体がある訳でも無いものを議論するのだからこう言う内容になるのも必然なのかも知れませんね。

noname#17334
noname#17334
回答No.6

>様々な場面でこの両者が登場しますが哲学的でも良いし科学的な解釈でも良いですから定義を知りたいと思います。 神の定義・・・そんな罰当たりな。書けません。 霊の定義・・・つまりは、生命って何か。ということですね。霊的存在、英語で言うとスピリチュアル・エンティティ 霊という言葉には精神という意味が含まれていると思ってください。自分はなんで生きてるんだろうなぁ って思うでしょう。 犬をみていて、こいつは何考えて生きてるんだろうなぁって思うでしょう? カラスが塀にとまってこっちを見てますよね。カラスなにが楽しくて生きてるのかなぁ?って疑問に思いますよね。 海を見れば、なぜ水がこんなにいっぱいあるのかなぁ・・って、思います。 とにかく、山や川と同じで、自然も生命も、私の意識が目覚めるまえからあった・・・のです。 海も、山も、空も、自然と生命のすべては私の意識が目覚める前に、存在していたわけですね。 でも、私の意識が消滅してしまえば、それを感得することは困難なわけで、そうすると自分の意識が消滅した瞬間に 世界も消滅するのかと考えますが、それだと虚しいというか世界が私のスケールで矮小化されてしまう感じなので そう考えるのはやめようということになったのです。 それと、人には愛と呼ばれる連帯意識や、自己犠牲の精神があって、自分よりも他の存在を大切に思ったりする わけで、ディカプリオがタイタニックの沈没のなかで、恋人を助け自分は凍てつく海に沈んでいくのですね。 つまり、そこには自分が死んでも、この世はまだ存在するし、あまつさえ、恋人の命も存続するという確信が あるということになります。 また、資産家が子孫に遺産を残すのも同じ。 まぁ、考えてみれば、自分の祖父母が死んでも、両親が死んでも、自分はまだ生きていることから、「おそらく」 自分が死んでも「自分以外の多数の人類」は生きているに違いないと思って人は生きているのです。 そうなると、死んでしまったあとの、世界というのは存続するにもかかわらず、死んだ俺がいなくなるというのが 何か理不尽な手違いのように思えてきます。 オレが生まれる前にもどうも世界は存在したらしい。オレが死んでも世界はある。 オレが生きている間でも、オレが知りえない世界はほぼ無限にある。時間できらないで空間で切って考えたら 今、この時間のオレの知らない世界は、オレにとって無いに等しい。けれど、オレが死んでからの世界も オレが認知感得できないという点では、今のオレが認知感得できない、ニューヨーク55番街の信号機の 脇のトラッシュボックスの中身に、コーラの缶とニューヨークタイムズのほかに何が入っているかわからない というのと同じだ。 ということは、オレという命の総和の外周にオレが経験し知覚しうる世界があって、その世界を含めて オレの人生というものなんだろう。ただし、オレの体験というのは、じつは不確定な存在で、オレが 意識によって方向性をさだめ選択して知覚認知しているものなのだ。 となると、俺の意識は、人生という時空で閉じた存在ではあるものの、体験という次元でみたら、他者と 共通項を持つ。4年前の都内のホテルでオレは確かに彼女とバスルームで戯れていた。彼女の 長い足を嘗め回していたのは確かにオレだったはずだ。 さて、そう考えると、意識や精神というのは、いろいろ記憶のなかで他者の精神や記憶と接点を持つ ものだとわかるわけで、その接点の集合体を考えるとき、そこに意識の断続的な連帯というものが 想定しうる。 意識というのは、常に精神の微分であって、精神そのものはリニアな曲線であったり面であったり 立体であったりする。 各自の意識の断辺を複数の集団の経験する知覚について積分すると、それが共通蒸し器(蒸し器ではない!) 無意識というものになる。 >と言うのはこれらを議論する時に本当に当事者は共通の概念を持っているのか、 >と疑問に思うことが良く有るのです。 ぼくらの学生の頃はインターネットがないかわりに図書館と丸善と古本屋がありましたから みんな隠れてユングやフロイトや、フッサールや谷口雅春とか古事記や現象学の本とか読んで ましたよ。なんのためかというと、用語の定義を述べるためですよね。 だって、学生時代の議論といえば「○○って何だ」こればっかし。 「なぁ、お前にとって恋愛って何だ?」こういう感じで聞いてくるわけです。「やることにきまってんじゃん」 と答えると殴られますからね。 もっとぺダンチックなレトリックを考えておかないと『馬鹿』だと思われる。右翼でも生長の家でも 創価学会でもかまわないから使えるネタはしこんでくるというのが当時の若者の流行でした。 >別な例えですがUFOと言う言葉が有ります、 それってまさか未確認飛行物体のことではないですよね。昔ピンクレディというヂュエットが ヒットさせた同名の曲がありましたけど。 >これは極めて曖昧模糊、立場によって、その時によって自在に使い分け、 >自分の有利なように利用しているのが見え見えですよね。 まぁ、コンビニで買えるUFOは、2種類しかないですけどね。ソース焼きそばと塩味です。 >このカテの方は皆さんそんないい加減な事はないと信じていますので是非ご教授ください。 そんなこと言われたら、投稿をためらいます。

noname#104477
質問者

お礼

分りやすい、面白い解釈有難うございます。神の定義‥ばちあたりですか?でも知りたいです、ここだけの話神には内緒と云う事でもだめでしょうかw 霊の定義‥命、精神、英語でスピリチュアル・エンプティ(失礼!)ですか。 死後の世界があってそこには霊が居る、その中の一つが死後の自分である。と言う人が居ますが何だか未練がましいです、いさぎよさが有りませんね。 良いじゃあないですか何十年も地球や周囲の人にお世話になって毎日旨いものを食べ、幸せに暮らしたんでしょう?人生それで満足してくださいよ。まだ不足ですか?私はそうに思います。 UFOは低レベルで真剣に受け止めてくれていませんね。 ただこれは私が信じていると云う事ではなく論争を客観的に見ていてそうに感じると言う事です。 あくまでも論争をしている人たちの考えに大変興味が有ると言う事です。 親切な回答有難うございました。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.5

神という総称は生きていてる人でも、死んでいる人の場合でも使われていますね。釈尊にしろ、イエスさまにしろ、卑近な日本の天皇にしても生き神さまでしたね。生き神様の定義は、上(かみ)様という感じですね。神に近い上(うえ)の人という意味ですね。 でも、なくなれば、誰しも神(かみ)様の称呼になりますね。神という言葉は非常に幅が広いのですね。そこで、対象を明確にするために宗教では主(主人のこと)だれそれと使っていますね。例えば主・イエスというようですね。一方、霊という言葉は、生きている人に使われる称呼ではないですね。これは、なくなった人や、なんだか明確ではないが生き物の存在を明示する言葉として使われていますね。明確でないので、良い霊、悪い霊、聖なる霊などのように使われています。霊が住む世界が霊界ということですね。死ねばみんな霊という考えに霊にも上下があるだろうということで、霊界の上のほうを神(霊)界という使われ方がありますね。霊のほかに魂(たましい)という呼び方がありますが霊と同じような意味で使われてますね。霊でも上の霊を大霊と呼んでいる場合もありますね。霊界もピラミッド構造になっているという考えですね。そのように整理しておくと良いのでは。

noname#104477
質問者

お礼

回答有難うございます、確かに神というのは非常に広い意味で使われているように思います。 他の方の意見ですが全宇宙の法則、主、キリスト、精霊、最上位の霊、英雄が死んだ後になるもの、など。 神話に出てくる「カミ」これは村長(むらおさ)の事ですか、とにかくこれ程広い意味で使われている言葉も他に無いような気がします。 霊の事ですが世間一般の話を見ていると心の中だけの存在、いやいや実体があるその証拠に写真にも写る(所謂心霊写真)と言う立場の人が居るようです。 やはり霊も統一した定義は無いのですね、もしかすると無いほうが良いのでしょうか?

  • tokytime
  • ベストアンサー率37% (43/114)
回答No.3

はじめまして。 kurokuboyさんの質問は、基本的な様でいて実はとても深い真理を追求したものだと思います。私に現在理解出来ている一番高いものを届けられれば・・と思います。 まず、生きているものは、全て霊です。というより、この世界の生物とは、肉体に霊が宿ったものです。 つまり、霊が本体で、一時的に生物になります。そして肉体から離れると又霊にもどります。 何度も生まれ変わりながら体験を通じ少しずつ向上してより高い霊格を獲得していきます。 霊格が高くなれば成る程、物質(お金、社会的地位、財産)などに対する欲望が減って行き、他者や社会に対する奉仕の念と博愛の感情が高まり、奉仕する事、他者を助ける事に何にも勝る喜びを感じる様になります。 何故ならば、この段階の霊たちは、自分の進化向上の唯一の手段が、他者への奉仕であり、愛である事を深く理解しているからです。彼らが集まって作る霊界こそ「天国」といわれている世界です。 この宇宙は自分の出したエネルギーは必ず巡りめぐって戻って来る法則により成り立っています。そしてそのエネルギーが自分の世界を形作っていく材料となります。 つまり、ポジティブなエネルギー(奉仕の愛のエネルギー)を他者へ向けて出した人には、やがて巡り巡ってポジティブなエネルギーを他者(又は世の中)から受け取り、その周りにポジティブな世界が作られていきます。(つまり、幸せな世界) ネガティブなエネルギーを他者へ向けて出した人にはやがてネガティブなエネルギーが戻ってきて、その人の世界にネガティブ(不幸)なものを生み出していきます。 この事を仏陀は[因果応報」と言い、キリストは『蒔いた種は刈り取らねばならぬ」と言ったのです。 彼らは特に高い霊界より、人類を救い、霊の真実の少しでも明らかにしたいという奉仕の精神から肉体を持つことを選択し、(何故ならば、彼ら程の聖霊になると肉体を持つ事による学びは全て卒業し、もう生まれ変わる必要は無く、肉体を持つとすれば人類への愛と奉仕の精神のみによるから)降臨してくれた最高級霊なのです。 彼ら聖霊たち(キリストや仏陀だけでない)は、高級霊界より真理を一すくいずつもたらしてくれました。だから教えが非常に似ているところがあるのです。違うところがあるのは、彼らが自分の布教する所の人々の文化と宗教と理解に合わせて分かりやすいように説いたからです。それでも、当時のレベルでは正確に理解する事が難しく、誤解されたり、曲解されたりしながら今に伝わっています。現在は玉石混交の状態です。 霊の真理を全く理解しない人々は、物質界こそ全てだと思い込み、幸せになる為に手段を選ばず、一生懸命お金や財産を作り、社会的地位高め、権力を得ることに狂奔します。でも、もし彼らがネガティブなエネルギーを排出したならば(つまり、他人への嫉妬、恨み、悪意、呪い、憎悪などの感情)必ず自分にも後にネガティブな現実化が起こります。 さて、「神」とは、人ではありません。そんな有限の存在ではありません。 神とは宇宙のすべてを創り出し、それを一時も休まず動かしているエネルギーであり、法則です。 その法則は寸分の狂いもなく、例外やえこひいきも無く 遍く行き渡り、満ち満ちています。全てを生み出す無限の愛のエネルギーともいえます。 神は、因果応報の法則ともいえます。 すべての霊の根本霊ともいえます。 私たちは霊的に向上する事により、束縛や苦しみから解放され、より幸福な状態となっていきます。 さて、KUROKUBOYさん、短い文章の中では、充分に語りつくせず、極端な例ばかりになってしまい、うまく伝わるかどうかわかりませんが、何かの参考にして頂ければ、幸いです。

参考URL:
潮文社刊「シルバーバーチの霊訓」、「霊の書」他
noname#104477
質問者

お礼

実に丁寧なお答え有難うございます、前半の因果応報の件は「霊」に登場して頂かなくても対人関係の中で充分納得できます。 >>霊の真理を全く理解しない人々は、物質界こそ‥ その通りかと思います。霊云々は別としても卑しい、自己中心的な人間が周囲から好かれるはずも無く、結果決して幸福な生涯を送る事は出来ないと私如きでも理解できます。 貴重なご意見有難うございました。

  • truth77
  • ベストアンサー率37% (85/225)
回答No.2

宗教宗派によって神や霊の定義が異なりますので、他宗同士ですと、「共通の概念」とはなっていないでしょう。 たとえばキリスト教では「父(神)と子(イエス=キリスト)と精霊」は三位一体として同一視しますが、ある教団の教義では別人格であると定義していて、精神的なベクトルが同方向にあるので、「父と子と精霊」が同一に見えることもあるので、「一体だ!」と表現したことは不自然なことではない、と説いていたりします。 その「ある教団の教義」においては、キリスト教での神や霊の定義を包括していますので、そこの信者はキリスト教を認めないことはないのですが、逆にキリスト教信者は、その「ある教団の教義」を認めることはないでしょう。 では、質問の回答に戻ります。 「ある教団の教義」を紹介しますと、霊とは一種のエネルギー体の様なもので、人体に宿って地上生活を体験し、肉体が滅びますと元の霊の世界に戻るものとしています。 霊界の方が真実の世界(実在界)であり、「この世」の方が造られた世界(現象界)であるとしています。 霊は個々に個性があり、それぞれの霊は同質のものとしています。 神も霊であり、その本質は、私たち一般霊と何ら変わりないとしています。 個々の霊の個性の発揮の仕方、たとえば仏教で言う「悟り」の格差によって、神であるとか、一般霊とかのランクが違っているのだとしています。 肉体的な能力差(たとえば筋力)は、個体差で10倍と違わないかも知れませんが、精神的な差は、霊的世界においては、それこそ計り知れないほどの差が生じるとのことで、その差がうーんと遠くに見えてしまうほど精神性の高い霊を総称して、人は「神」と称しているのだそうです。 その「神」と感じるランクも個々の霊の感受性に因るところが大きく、仏教で言う菩薩(ぼさつ:その上のランクは如来(にょらい)と言います)くらいであっても、存命中に人気のある活躍をしていたので、神として崇(あが)められていることもあるそうです。 宗教には神人隔絶型と神人同一型というのに分けられるのでしょうか?「どう頑張っても凡人は神にはなれないのだから、おとなしく神の言ったことを忠実に守って暮らしておれば良いのだ」とする宗派と、「人は努力によって神に近づいて行けます。魂は永遠の生命を持ちますから、今世で出来る限りの努力をしましょうね。」とする二派がある様に思います。 前者がキリスト教系、後者が仏教系に当たるでしょうかね。 前者は性悪説の傾向性があり、後者は性善説の傾向があると思います。

noname#104477
質問者

お礼

丁寧な説明有難うございます、神は霊の一種で本質的には我々の霊と同じ。ただランクが違うだけ、と言う宗派も有るのですね初めて知りました。 やはり各々の宗教によって神の定義がかなり異なるようですね。霊の定義もやはりまちまちなのでしょうか? 一般論ですが神や霊は存在するとかしないとかの議論は共通の定義が無い以上かみ合うことは無い、と言う事ですね。

回答No.1

ご自身で国語辞典で意味を調べれば充分でしょうね。 言葉の解釈は人間の数だけあります。 共通の概念を持つなんて不可能です。

noname#104477
質問者

お礼

一番の回答有難うございます。 その通りなのですが辞典の解説だけではないナマの意味、話している人々の考えを知りたかったのです。

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    哲学初心者です。アウェアネスとクオリアについてその定義を日本語で 簡単に説明していただけないでしょうか?とくに両者の関係性についても区別などを明確にしていただけると大変ありがたいです。さらにいえば、近隣の学問における動向についてお詳しい方がおられれば脳科学、心理学、などの最新情報もお教えください。

  • 言葉の意味の違いについて・「推論・推理・仮説」「原理と法則」

    こんにちは。 大学院で研究活動を行っている者です。 科学に関連した文献を読むと、よく推論・推理・仮説とか原理・法則といった言葉が出てきます。 僕自身、それぞれの言葉の意味はなんとなく わかるのですが、科学の方法論について論じる本では これらの言葉は厳密に定義し、使い分けているようです。 僕自身、科学の研究を行うものとして厳密な考え方を身につけたいと思っているのですが、これらの言葉の微妙な意味の違い、どのような場面・文脈で使う言葉か、要するにどういう概念のことを言うのか、などをはっきり理解しているわけではありません。 辞書で調べると意味は書いてあるのですが、どのような文脈で用いられるのかまでは書いてありません。 どなたか、これらの意味の違いを教えていただけたら幸いです。

  • 哲学の人文科学及び社会科学の中の位置づけについて

    哲学を学ぶということは、人文科学の諸分野を支える根幹的な思想を学ぶということに等しいですか? 例えば、自然科学の中で数学を学ぶというように。数学のあらたなる真理の扉を開けるのは、至難の技にしても、数学は数学以外の自然科学の諸分野の基盤や基盤以上の物を提供しているように。つまり数学が自然科学の諸分野・土台を支えてるいるのとイコールのように、哲学を人文科学・社会科学の研究の諸分野を支える根幹的なものと認識についての是非を教えてください。私のこの議論が全くもって的外れなら、どれ位的外れかまたどのように的外れで実際はどうなのかをご教授ください。 もう一つだけ追加でお願いします。自然科学において真理の扉を開けるということは、その当該分野のフロンティアをまた一つ新しく開拓したと言えると思うのですが、哲学におけるそれは何をもってそれ(学問分野のフロンティアを開拓するという事象)を定義付けるのでしょうか?また、フロンティアの開拓ということ自体、哲学の学問分野にとってはさほど重要度は高くないものですか? よろしくお願いします・

  • これは哲学では無い

    時折、気になるのですが この哲学カテでの質問・回答を読んでいて『これは哲学では無い』と思う事がしばしばあります。 というのも、私は技術屋なので仕事上、固有定義の説明を交えながら数学的表現や特性の説明をする事が良くあるからです。 どちらかというと文学・思想に近い場合が多いですし、回答者の多くは『意図的に』文学的解説・説明を好んでされている様に感じます。 哲学カテゴリーという名称の割りには、ここの質問・回答はあまり『科学的・学術的』な気がしません。 結論を述べますと、 <注意> 哲学という分野の知識に関する質問をご投稿いただけますようお願いいたします。 ・・・・・ ・・・とある以上は、ここのカテゴリーの名称は『思想・哲学』とした方が良いのでは無いかと思うのですが、私の方に勘違いがあるのでしょうか(これが質問です)。

  • 新しく悪い道徳習慣が形成された時

    世の中が後退して、悪い道徳、習慣が形成されていったとき。 法律はほぼ維持されたままかと思います。 道徳や慣習って尊重されるべきものですが、後退されたものであった場合も、おもくみるべきものなのでしょうか? 思想って自由にやはり限界があると考えるべきものでしょうか。 たとえば、現在の憲法の下で憲法の概念が知らない社会において、絶対的平等がある程度その社会の習慣になっていった場合、哲学上は後退しているように思えますが、その社会としてはある意味では進んでます。 時代が変化した場合の法がついていってない場合の悪法と考えるのと違った議論かと思います。 やはり哲学、過去の法の理念など、身近な場面でも尊重すべきでしょうか?

  • この神観念はいつごろから定着しましたか?

    歴史カテに質問しているとい意味を、お酌み取りくださると幸いです。 最近も宗教がらみの質問や回答、あるいは別の質問等などでよく見るのですが、「神様は心が広いので、特定の信者にのみ依怙贔屓するはずがない」とか、「罰などをあてるはずがない、そういうことを言うのは邪教の神だ」、などといった意見です。 わざわざ歴史カテに書いているのは、こういった考えの是非そのものを知りたいので書いているわけではありません。 ただ、歴史的に見れば、上記のような神様の定義は、日本古来のものではないと思います。日本の神は、ある時は、たたりもしますし、非礼を働いてもにこにこ笑って一方的に恩恵を及ぼしたわけでもありませんし、お礼参りもしないといけませんし、荒ぶる神という概念もありますし、決して人間にとって美味しいことだけをしてくれる存在ではありませんでした。もとが自然信仰としての側面が強いでそうなのかもしれませんが・・。 日本の神がこのようなものだとすると、先ほどの定義からいけば、日本古来の神々のほとんどは邪教の神になってしまいますし、受験祈願に天満宮にも行けなくなります。 このような神様は優しいだけの存在、人間にとって優しいだけの存在というのは、いつ頃から広まったのでしょうか? また何を起源(根拠)にしていると思いますか? キリスト教ですか? でもキリスト教の神は、旧約を見る限りでは、なかなな非信者には厳しいし、甘くもないように思いますし、ヨハネ黙示録なんてのもありますし、非信者にも優しいキリスト教という理解も都合が良い気がしますが・・・・。