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偏見について
偏見、差別についてお聞きします。 私は以前、知人(女性)と道を歩いていました。 二人で歩いていると近くにラブホテルが見えてきました。 するとそのホテルに入ろうとするカップルがいたのですが、その二人は身体に障害を持っているらしく共に車椅子でホテルに入っていきました。 そしてその様子を、特に気にもせずに通りすぎた時、知人の女性がまるで汚いものでも見るような目で、こういいました。 ”なんであんな体してまでこんなところにくるのかしら” と言いました。 その言葉を聞いた私は腹がたったので、え?、なんで?、同じ人間でしょう?。 じゃぁ、昨日まで五体満足だった人が、明日交通事故で足を失ったら、性欲まで失わなければならないの?。 とムキになって意見したら彼女は黙ってしまいましたが、どうも彼女の神経がよくわかりません。 そこで思うのですが、一体偏見や差別の心理とはどこからどのように表れるのでしょうか? 難しいテーマだとは思いますが、各々方の色々な考え方、考察など色々お聞かせ頂けたら幸いです。 よろしくお願いします。
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>一体偏見や差別の心理とはどこからどのように表れるのでしょうか? たまたま私は障害をもった娘を持っていますので、こういう問題については、否応なく自分なりに関心を持って考えてきました。 多くの回答にすでにあるように、人間の差別意識はその人の育った家庭や受けた教育をはじめとする、時代・社会環境によって形成されます。 が、このこと自体は、改めて持ち出すまでもないと言いますか、あらかじめ自明のことですよね。 差別という言葉について、いったん常識的な枠を取り外した上で考えてみると、私には、実は差別というものは、人間誰しもが有するある意味普遍的な心理ではないかと思われてなりません。 たとえば、優越(劣等)感、競争意識、プライド、自尊心、虚栄心、アイデンティティ、自我……等、数え上げれば切りがないのですが、他者(自己)を意識することは、すべて何らかの意味での広義の差別意識でないでしょうか。 ある時代なり社会なりというものは、そこで生きる人々の最大公約数的な差別意識(=制度)から成立していると言うこともできるわけでして、そこで生まれ育った人間の多くはそうと自覚にしないまま差別意識を持つようになるのだと思います。 当然ながら、多くの人はその時代・社会の通念としての差別の規準や尺度にもとづいて自他に対して価値判断することになります。 そういう時代・社会の中で、少数ですが自己相対化ができる人もいて、自分の準拠している規準や尺度に束縛されることなく、それ自体を客観視しようとします。 こういう人たちは、容易に障害者側に立ってモノを見たり、考えたりしますので、そうでない人たちよりも、はるかに多角的、多面的、より広く、深く、つまり正確にモノが見えていると思います。 道徳的、倫理的な観点からすれば、また別の考え方もあるかもしれませんが、私はこれまでの経験からしても、社会的差別を受けている側の視点に立ってモノを見たり、考えたりすることは、健常者自身のためにも有意義ではないかと思っております。
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- 04taka
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こんばんは。最近障害をもった方と共存することについて考えた事があるので、真理や摂理といったものはわからないのですが、カキコしたいと思います。 最近勤め先に車椅子の方が入社されました。彼が来てやっと、今いる会社がいかに障害者の事を考えてない造りなのか分かりました。 私はお手洗いから出る時、節電の為にすべての電気を消していました。(もちろん、会社のです。)でも、もし彼がお手洗いを利用する時、入って入り口にあるスイッチに届かないかもしれません。 これに気づいたのは、となりに座っている彼がデスクの奥にある物をとって欲しいと頼んだ事です。たかがデスクの中でも、手が届かない所がある・・・それすら感じてあげる事が出来なかった自分の無知を恥じてしまいました。 また、会社が間借りしているビルの1Fに障害者用トイレがありますが、お昼時間に女子社員が歯磨きしたり、中には喫煙したりしている人もいます。 私は比較的若い方のヒラ社員なので、嗜める事をしてませんが、ある日1Fの男子トイレから出てきたら彼とすれ違い(お疲れ様です~とか言いながら)障害者用トイレに向かいました。女子社員達とかち合ってお互いびっくりしていたようです。 その場にいなくて良かったです。多分、半径500mに聞こえる位、怒鳴り、なじっていたかもしれません。 私が思った結論。”経験”の差だと思います。最初から障害者の方の側に立って行動できる人は皆無だと思います。 自然に一緒に居られる方法をお互いに模索する事。困った時に、”困った”と言える雰囲気がある事。 そこを踏まえてから、批判が出来るのだと思います。障害者の方々から私たちを見れば、赤ちゃん同然でしょう。だって、何も分かってないのですから。 楽しいと思うんです。楽しく居て欲しいです。そして、楽しみたいです。彼らと過ごす時間を。 残念ながら人間は、健康な時、自分が上手く行っている時に、逆の立場の人の事を考える事が中々出来ません。無知・無関心であるが故に、始末に悪いといった所でしょうか。 だから、彼らを理解するのは、沢山時間をかけてお話したり、体感する事でのみ、同じ目線に立てるのだと思います。 そうした努力をしない人、自分の身に置いて考えられない人はぶっちゃけどうでもいいので、私はそうした優しい空気を一杯に広げて、彼らのおかげで成長できる集団を生み出したいと思います。 彼らのセックスの問題、とてもとても難しい問題かもしれません。でも、そんな話も笑って冷やかしながら喋れる距離感を作る事が、広大に広がる課題を退けるひとつの力になると思います。っていうか、じゃないと可笑しいと思います。 人間は生まれつき差別する存在だと思います。その代わり神様は、人間に言葉を与えました。努力するという概念も与えました。(もちろん、すべての生物に対してだと思いますが。)足りない存在だからこそ補っていくのだと思います。 彼らが存在してくれているだけで、私たちは自分が足りない存在だと知らしめてくれているのだと思います。 明日も、彼の笑顔に会いに、出社します。
お礼
おおっ、たっぷり丹念にカキコしてくださって有難うございます。 体験談は勉強になりますね!! 04takaさんはご自分の無知に恥じた…とのことですが、世の中知っている事より知らない事のほうが圧倒的に多いでしょうから、無知な事があってもそれはしかたがないと思います。 でも自分が無知であると自覚していればそれだけでも進歩はあると思います。 私もまだまだ知らぬ事だらけの無知人間ですが、もっと色々な事を経験をして自分を育てていけたらと思ってます。 お互いがんばりましょう^^
- yottimama
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こんにちは。 皆さんの回答に、まったくもってうなづいております。 偏見の代表は、NO3の方と同じく「○○はこうあるべきだ」という固定観念を、自分以外の人に押し付け、狭い世界でしか物事を考えられない事だと思います。 差別の代表は、「○○のくせに」と言う格付けで、人間の価値そのものに優劣をつける言動だと思います。 ではなぜそのような心理が芽生えるか? 人間は、生まれてから、本能と模倣で成長し考え、自己を確立していきます。 成長段階で一番身近な人や環境で、偏見的な考えや差別的な言動を、目の当たりにしたり、受けて育てば当然その人は、その様なことが身につくでしょう。 それともうひとつ、自分の価値を認められず育つと、コンプレックスとなり、そのコンプレックスから、他人の価値を認めなかったり、他の人を見下し自分の優位性を強調したりします。 人は成長と共に、行動範囲や世界がひろがり、世界には色々な人がいて、色々な考えがあることを知るでしょう。その時にいかに考えれるか!だと思います。 キ-ワ-ドは、「人の価値はみな同じ」それとやはり「愛」かな(笑)・・。 質問者さんのお友達の偏見は、やっぱり愛がたりなかったのかな?? そも、質問者さんの反論?でお友達も気づいてくれたらうれしいですね。 自分の考え方(言動)で、悲しい思いをする人がいるということを。
お礼
ご回答有難うございます。 そうですね! みなさんの回答は感慨深いものがあります。 yottimamaさんのおっしゃった”愛”は言うまでも無い事だと思いますが一番大切ですよね!! なんだかんだ言ってもそれは愛が足りないから…。 全ての不幸はそこからはじまってるとも思います。
- kobakoba3
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差別・偏見の唯一の原因は『無知』です。 1)障害者にも性欲があるということ 2)障害者が性行為を行う環境が整っていないこと この2点について『無知』だったのでしょう。 ラブホテルという施設は、性行為を目的とした施設だけあって、ベットの広さなど、普通の在宅で介護ケアを受けている人にとって、性行為を行えるほとんど唯一の場所です。最近はホテルのバリアフリー対応も進んでいますしね(久しぶりに行くと感動すら覚えます)。 私は、真昼間から性行為を行うことを目的とした施設に、人目を気にせずに入っていくことについては、『なんとも破廉恥な・・・』と感じる(わりと古い?)性道徳をもっている人間ですが、質問者様の目撃したような光景を目撃したとすれば「うんうん、良かったね、きっとずっと我慢して久しぶりに来たんだろうね、がんばれ!」と思います。(もちろん、見られたら恥ずかしいでしょうから、見なかったフリをすることも忘れずに!) 自覚的な『無知』は『罪』ですが(事実を見ようとしないこと)、無自覚な『無知』は『罪』ではないと思います。知人の女性の『無知』を指摘し成長を促すことが、その場に居合わせてしまった質問者様の責任ではないかと思いました。
お礼
とてもわかりやすいご回答有難うございます。 とても共感致します。 kobakoba3さんをはじめ、他の回答者の方達が、熱心に回答してくださったので、もっとたっぷり返答したかったのですが、100文字くらいまでしか返答出来のでなんだかもどかしいです^^
- tikubiru
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はじめまして。 偏見する側はたいてい「どれだけひどいことを言っているのか」を把握していない気がします。 いままで偏見に対して注意を促された経験も浅いか、もしくは周囲がそういう環境だったのかもしれません。 私は5歳くらいの頃、テレビのドキュメンタリーに出ていた指のない子供を見て「気持ち悪い」というような発言をしてその場で親にとてもきつく注意をされた記憶があります。 あの出来事が今の私の中で大変大きく残っており30年近くたっても忘れずに記憶に留まってします。 障害者に対する偏見は、どんな理由であっても許されるべきではないと感じています。 その場で言い返したconker_6432_xさんは正しいし、きちんと言うべきだと思いました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 こちらこそはじめまして!よろしくお願い致します。 偏見発言を平気でする人は、自分の発言の影響力というのを全く考えてはいないですよね。 そういう方は自分は絶対正しいと思っているから自分の発言にたいして罪悪感とか感じないのではないでしょうか! 常に反省する事は大事だと思います。勿論私も…。
- ohirune_neko
- ベストアンサー率34% (768/2258)
まず単純に‘知らない’‘想像ができない’‘マスコミなど巷の常識にとらわれている’のでしょう。 障害者が身近にいるわけでもなく、興味もさほどない。 ニュースやテレビでは「障害と闘っている」とか、「これだけタイヘンだ」というのは取り上げられますが、実態の生活にはさほど触れられない・・・。 その辺りからカノジョさんも当たり前のように、そう語ってしまったのだと思います。 障害者に限らずですが、一般社会において、偏見や差別は普通にあることでしょう。 また人はそれぞれ異なりますから、自分にとっての不快な人や理解しがたい人には、そう接するのも仕方ないことです。いつの時代でもあった話しですしね。 すべきこととしては、それに対して蔑視するだけではなく、あなたがカノジョにおっしゃったように、普通にあることと認めることではないでしょうか? あくまで私見になるのですが、前述したとおり差別や偏見はなくならないものだと思います。 ですのでそれはゴク普通のことと認めたうえで、さらにその対象になる人の立場を考えるように、物事の見かたを多面的に見る必要があると思います。 カノジョさんのように知らないことはもちろんですが、知っても単純に可哀想とか自分の考えだけで物事を進めてしまうのも問題でしょうから。 相手のことをよく知ろうとする相互理解なだけで、そのような視点は減っていくと思うのですが・・・難しいですよね^^;
お礼
ご回答ありがとうございます。 相手の事をよく知ろうとする相互理解。 これはとても大切ですよね! クチで言うのは簡単ですけど、人間って基本的に自分が一番正しいと思い込む生き物ですから、お互いなかなか理解しようとしない。 難しいですね
単純に自分より劣っていると考えられる人間、優越感を持つ事が出来る人間に対して差別や偏見の心理が働くのではないでしょうか? 自分にもそういう部分がやっぱりありますし。恥ずかしい話ですが。 話は脱線しますが、私は障害者の方への過剰な優遇、反応はむしろ逆差別だと考えています。
お礼
ご回答有難うございます。 障害者への過剰な優遇は逆差別…。 私もそう思いますが、私は障害者と接した事が無いのでどう接して良いのかわからないというのはあります。 その無知ゆえに過剰な優遇になってしまう事もあると思います。
- gunto
- ベストアンサー率19% (347/1784)
偏見のある人間の考え方として「男と女はこうあるべきだ」とか「結婚生活には必ず子供が必要だ」とか「夫はこうあるべき」「子供はこうあるべき」「健康な人間だけが幸せになる」みたいに自分の定義があるのだと思います。 世界中にはいろんな人間の生き方があるのに、自分の狭い世界でしか物事を見られないのです。 いろんな人間の生き方を見てきて、又は体験していなくても知識があったり、想像力の豊かな人は簡単に他人を否定しないと思う。 ヒットラーのように超純粋なドイツ人以外は認めないとか、イスラム原理主義以外は抹殺とか、新興宗教の誘い方(金がらみもあるけど)とか、ともかく世の中偏見だらけです。 いつも自分には偏見と差別はないと思ってても、どこか無意識に誰かをバカにしたり、認めなかったりあると思います。 いつのまにか教育されてきた子供時代からの洗脳が、教師とか親からは必ずあります。 偏見とか差別の心理は潜在意識の中に「あんなふうにはなりたくない」っていう恐怖意識があるんじゃないかな? だから嫌悪感示して「自分とは違う」と拒否する事で安心する。 考えたら世界の人口60億人も居て、たった一人の「自分」からみた生き方なんてホント、狭いもんです。 キャベツの虫がキャベツだけが全世界と同じ。 たぶん、自分とは全く違う世界でも「理解しよう」と試みる人は偏見は少なくなると思う。 柔らかな心が必要ですね。 簡単に言えば、人間に対して優しい心を持った人は差別をしないと思う。
お礼
たくさん書いて頂き有難うございます。 自分もそう思います。 偏見に嫌悪感を持っている自分にだって潜在的になにかしらの偏見はあるかもしれません。 でも、自分はたとえ理解出来ない物や世界、その他色々あっても、その物事にたいして謙虚でなければいけないと思ってます。
- Somali_Shinji
- ベストアンサー率14% (45/305)
自分が幸福かどうかは、他人と比較しないとわからないものなので、差別は避けることのできないものだと思います。 一方偏見ですが、「日本人なら出っ歯」とかのいわゆる一般化した見方は誰にでもあると思います。それが行き過ぎて敵意にも似たものになると偏見になるのだと思います。これまた避けがたいですよね。
お礼
ありがとうございます。 他人と比較しての幸福感…というのもなんだか悲しいですね! そもそも何故、人は比較ばかりしたがるのでしょうか? 考え出したらキリがないですね^^;
- rikoriko87
- ベストアンサー率11% (26/233)
生まれ育った環境や教育や今までの体験で変わると思います。人種や階級や性別だけでなく差別や偏見、区別はあると思います。マスコミも大きく影響しています。 ネプチューンの名倉という芸人がよく東南アジア系の顔をしているのでそれをネタにされていますが、それをみた子供は東南アジア系の人を格下に思ってしまう可能性も高いと思います。昔 山崎ほうせいが番組のドッキリ企画で トイレで男の黒人にレイプされるドッキリをやっていましたがそれも黒人=怖いと関連性あたりまえのように勝手に視聴者に植え付ける作用もあると思います。 人間は様々なことから影響を受け常識や道徳を構築します。
お礼
ご回答有難うございます。 そうですね、生まれ育った環境や教育、その他色々な価値観に影響されるのは仕方ない事だとは思いますが、やはり自分としては、他に影響されすぎないように自分というものをしっかり持っていないと、真実が見えずに誤解や偏見が生まれるのではないかと思ってます。 難しい問題ですね!
お礼
ご回答大変有難うございます。 kadowakiさん、そしてみなさん。 とても参考になり、勉強になりました。 自分の準拠している基準や尺度に束縛されることなく、それ自体を客観視する。 これは常に心がけている(というか自然に)事です。 私も所詮、勉強不足の未熟者ですから色んな経験を積んで勉強していきたいと思っています。 このおしえてgooもその一つですよね! 色んな方がたの意見が聞けるのは有難いです。 有難うございました。