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全ては意識の中の存在 2

seinzeitの回答

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  • seinzeit
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回答No.1

可能性はあるのか?という問いに簡潔に答えると、「あります」。 なぜなら、可能性はない、という証明は不可能だからです。 もちろん、「全ての事物は私の意識の中の存在である」ことの証明も不可能ですから、実際どうなのかを確かめる術はありません。決して解けない問いです。 では、なぜ証明が不可能なのか。 それは、「私の自我と別個に存在するもの」を私が認識するのは不可能だからです。 認識というのは、ある種の観念を抱くことです。 その観念は、私の自我と別個に存在する「物自体の世界」に由来するのかもしれないし、あるいは私の意識が勝手に作り上げたものかもしれません。 どちらにせよ、私が認識できるのは、観念だけです。「物自体」は認識できません。 なので、「物自体」が本当に存在するのかどうかは誰にもわからないのです。 このへんは、いわゆるイギリス経験論(バークレー、ヒュームなど)の考え方ですね。 ちなみに、このイギリス経験論と対立する思想としては、大陸合理論(スピノザ、ライプニッツなど)というのもあります。こちらは反対に、観念やら意識やらいうのは全てまやかしであって、本当に存在するのは「物自体」だけだ、という思想です。 更に言うと、この2つの対立する思想を止揚させ、合体させたのが、あの有名なカントになります。

noname#10222
質問者

お礼

 ご回答ありがとうございました。  断定も否定もできないのですね。  教えて頂いた辺りを、もう少し勉強してみます。

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