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なぜ「紙一重」なのでしょうか。

Syo-yaの回答

  • Syo-ya
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回答No.14

またお邪魔します。。。 急に頭が回転してきたんですが、(悟りでしょうか・・・・) どうにも解せなかった「紙一重」という【感覚についての考察】です(つまり余談です) frauさんに質問です。 今、何の音がしていかわかりますか? 今、耳に届いている音を、全て数えてみてください。 ・・と、この質問がされるまで、おそらく音には無頓着であったと思います。 大切なのはそのことで、人間は、一つのことにしか意識を向けられないんです。 同時に二つ、三つを意識しているように感じるのは、意識を向ける「速さ」の問題なんです。 同時に処理しているわけではないんです。 先にご紹介しました瞑想をやっていると、面白いように解るんですが、 心というのは呼吸に集中しようと思っても、勝手にご飯のことを考え出したり、 先のことを心配しだしたり、目に写ったものから何かを連想して、妄想の世界に入ったり、 急に人の悪口を言い出したり、騒音にイライラしたり・・・・・ 「意馬心猿」と言って、心は馬や猿のように動き回るものなんです。 ちょうど「原子」の構造で、原子核の周囲を電子がまわっているようなものです。 「原子」は走査顕微鏡でみると、丸く見えるんです。 なんでかというと「電子」が「原子核」の周りを超高速回転しているからです。 それで丸く見えるんです。 人間の「自我」とか「心」の構造も一緒だと思うんです。 あっちに意識を飛ばしたかと思うと、今度はこっちと、高速で意識という点を照射し続けてて、 「私」という実体のようなものを形成していると思うんです。 (瞑想をしているとよくわかります) ですから、人間は音への集中と、書き込みを同時に処理出来ないと思うんです。 今、音に無頓着になっていませんか? これが、紙一重感覚の原因だと思います。 同根で、個別には理解は出来るけど、同時に処理することができない相反する価値観。 その歯がゆさが紙一重という感覚に表現されていると思うんので、つまりこれは脳力の問題だと思います。 もし、馬のように両側に目があったら、処理できるのかも知れません。

frau
質問者

お礼

ユング心理学の本では、西洋的なものの見方しかしていないと思っていまた。また同本の「からだと無意識」の項では「現在盛んに用いられている心理=身体療法の多くは、もとをたどると東洋の秘教やシャーマニズム、民間療法の世界に限りなく接近している」とあります。 この本は複数のユング派の先生方が寄稿しているのですが、編集は河合隼雄先生ですが上の原稿はそのお友達のものです。「古い」と言われているユング心理学ですがこうした客観的な論考は、しばし、定着した学派は他の領域を容易に受け付けないものですが実はそうではないのだと思いました。 >「原子」の構造で、原子核の周囲を電子がまわっているようなものです。 無意識を原子にたとられたことは興味深いです。なるほど、そのような対象表象の捉え方もあるのかと。 >あっちに意識を飛ばしたかと思うと、今度はこっち 瞑想は私も「タントラ」を唱える方法の、ある瞑想方法を受講し、個人のタントラももらいましたが、長続きしない自分が情けないです(笑)。もちろんまた再開するつもりですが、雑念ばかりの私は、どうも座っていることで不安を感じてしまいます。まあこれもある意味現代病(?)なのでしょうが。 >「私」という実体のようなもの 私も瞑想経験のあるので、それがどのようなことかわかります。瞑想や、ある種の心理療法(催眠療法など)は、「無意識」「無心」「悟り」も、「自我」の領域からどんどん下層へとダイブしていく方法なのでしょう。確かにその経験から「真っ白」になる瞬間があるときがありました。そこが実は「どこ」だかわかりません。それも明らかに主体的な経験ですよね。しかし眠りから覚めるとあの「うっとり」、「さっぱり」した経験という実感は忘れがたく、容易に日常生活に戻れるのですが、…あっ、これは「紙一重感覚」の経験なのでしょうか??意識と無意識の領域も二律背反ですよね。「行く」「戻る」=「意識」と「無意識」=「日常」「非日常」…また気づかされてしまいました!!

frau
質問者

補足

(ここからお読みください)この項目へのお返事を見逃してしまったのですが、先日手に取った本にまさに「無意識」=「無心」が同義語だということです。つまり東洋思想と西洋思想にも対応しているという事について書かれいます。この項目と20番の内容ともリンクしていますので、何かの「えにし」を感じました。 >今、何の音がしていかわかりますか? 今テレビをつけながらキーボードを打っていますが、テレビの雑音は聞こえても、会話は聞き取れません。勿論これは意識がパソコン(主体的思考)に向かっているからです。会話を雑音として処理するのは無意識の働きです。無意識の働きの一つに日々の学習済みの活動を自動的に行わせることがあります。自動車の運転をする時、いちいちアクセルやギアなど手順を確認しながら運転していたら、スムーズに行えることもできません。学習済みのことは無意識にしまわれて、そこから自動的に(つまり無意識に)行動できるのです。この状態を仏教では「無心」、心理学では「無意識」といいます。その本はユング派の無意識について書かれた本なので、「東洋における無意識」と題名です。この本では「この状態」をこのように言葉で分けていますが、実際は同じものとして扱っています。しかし相違点として「東洋文化は主体的真理を重んじ、西洋文化は客観的真理を重んずる」という一般論から、この無心、無意識への取り組み方を「創造的無意識の体験を、さらに工夫して主体的に深め、その体験に基づいて、心的現象論にたって、いよいよその客観的真理分析を冴えたものとし…」という理想論で結んでいます。 ここではまた「『無心』はとくに『禅』において、その生活態度を表す言葉とされている…『いのち』は一説によればその語源は『いきのうち』で省略して「いのち」というようになったという…」「『荘子』の表現でいえば『天地同根・万物一体』という生命現象の実感が、またその「ことわり」によって生きることを願う生活態度が「無心」という言葉の意味である」。つまり「天地万物、すべてが同じ「いのち」を生きている、ということわりを踏まえておればこそ、無心、無我…というように色々な言葉で悟りが表現されている」というのです。 >心というのは呼吸に集中しようと思っても、勝手にご飯のことを考え出したり これについても澤庵和尚の「不動智神妙録」を引用しています。「物に心が止まり候へば、いろいろの分別が胸に候間、胸の内にいろいろ動き候、止まれば止まる心は、動きても動かぬにて候」。 東洋、西洋いずれも無意識は創造の母胎であるといっています。ユング心理学では「集合的無意識」を理論から説明し(例えばパニックに陥った際の悟りについては「恐怖の情動のために自我意識が一時的に低下し、自我の心的エネルギーは無意識へと対抗し、無意識からの影響を受ける」というように)、東洋ではそれが主体的であるというのならば、「経験」から悟りを得るのでしょう。 創造や悟りに至るには、「極限状態にいたること」とあります。「人間の極限は神の機会である」という「禅の心理的解釈」、また「易経」では「易は窮まれば変じ、変ずれば通じ、通ずれば九し」という表現は違いますが「無意識の働き」=「宇宙的無意識(宇宙の原動力)」としていることは共通しており、「あらゆる芸術品、宗教人の生活と向上心、哲学者を動かす研究心-是等一切が全ての想像力を抱く「宇宙的無意識」の源泉からくるものである」としています。

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