- 締切済み
友人や恋人、家族がいない人の生きる意味
タイトルの通りですが。 友人や恋人と呼べる人もおらず、家族もいない孤独な人に生きる意味はありますか? そういった方は何を生きがいとしているのでしょうか? 生きることに虚しさを感じませんか?
- みんなの回答 (5)
- 専門家の回答
みんなの回答
- mayyasuragi
- ベストアンサー率43% (78/178)
「生きる明かり」を持つことです。 自分の生きる世界、自分の居場所があれば人間は強くなれます。 信仰でも哲学でも趣味の世界でも何でもいいです。 自分がここにいれば「安らぎ」を感じられる世界を見つけて下さい。
- jack-a3
- ベストアンサー率38% (315/820)
No2です。私の生きがいを聞かれたので出てきました。 若い頃は、仕事で作ったシステムが稼働してお客さんからお礼を言われることがうれしかったし、それにより世の中にちょっとだけでも貢献していると実感できることが生きがいでした。 今は、たまにゴルフすることと、お酒を飲みつつちょっとおいしい物を食べる時が幸せであり、生きがいです。 ゴルフはトシ取るごとに段々ヘタになってますがそれでも楽しい。上手くいく時もダメな時もすべてが自分自身の責任というのがいい。仕事でチームプレイを求められるのでいい気分転換になってるような気がします。 またおいしい物は、別に高級料理を求めてるわけではないです。近所にある馴染みのお店で焼き鳥なんかを食べるのがうれしい。また出張先でふらっと入った赤提灯のお店で思いがけずに安くておいしい物に出会えた時はサイコーです。そしてたまに馴染みのスナックでカラオケでもしながらママさんや常連さんと会話するのが楽しい。こういったおいしい物との出会いのために働いてると言っても過言ではないかも。 また最近は、私が住んでる地域の発展に何か貢献できないかなぁ、また地元の人達ともっと交流することができないかなぁ、と思うことが多くなりました。今の会社を辞めたら地元のお店で手伝いなどするかも知れません。その時はそれが生きがいになるのかも。 生きがいなんてそんなもんですよ。
- Granpa1969
- ベストアンサー率22% (619/2745)
質問者さん、勘違いしてませんか? 「友人や恋人と呼べる人がいて、家族のある人」には、全ての人が生き甲斐を持って生きているはずだ、と質問者さんは思い込んでいるようですが・・・ 現実は、「何となく」で生きているだけなんです。 生き甲斐なんて、後付けの理由。現実を受け入れるための方便です。 言い換えれば、「生かされている」「流されている」だけ。 言い訳を後付けできなくても「ええんちゃう?」って思えるかどうかの差です。
お礼
守るべきものだったり、愛すべきものがあると、生き甲斐になるのかなと思っていたんです。それがない生き方って非難されがちで。 「なくても別にいいじゃん」と思えれば良かったのですが、私が周囲の目をとても気にするので。
- jack-a3
- ベストアンサー率38% (315/820)
生きがいの定義はいろいろありますが、『人生における心の張り合い』だとしましょう。 この場合、心の張り合いのために他人との関わりあいが必須でない人にとっては、家族や恋人、友人がいなくても生きがいを持てるでしょう。 たとえばアカデミックな世界に生きる人は、何か新しい発見をすること、あるいはそのための研究に没頭することでこの世の真理に一歩でも迫っている感覚を得ることが出来れば充分に生きがいを感じるでしょう。そこまで高尚でなくてもアートな世界に生きる人や趣味に生きる人なんかも同じような感性なのではないでしょうか? また心の張り合いのために他人との関わりが必要な人でも、その相手が家族や恋人、友人じゃない人もいるでしょう。 たとえば自分の知識や技術を後進に伝授することに生きがいを感じる教師や職人。あるいはボランティア活動を通して地域の発展を目指す人など。社長を目指してバリバリ仕事する人は、その活動の中で他人との関わり合いは必須ですが、その相手は同僚だったりライバルであって、家族や友人ではないです。
お礼
ありがとうございました。 私はそいういう親しい人以外の、仕事が生きがいみたいなのもないのですが・・・。回答者さんは生きがいとするものはありますか?
>友人や恋人と呼べる人もおらず、家族もいない孤独な人に生きる意味はありますか? 生きる意味はそれぞれの人が、それぞれ自分で決めることです。 他人がその有無を、頭でっかちに議論して外から勝手に決定することは出来ません。 本人が持っていると言えば有る、持って無いと言えば無い、その理由も人それぞれでしかありません。 >そういった方は何を生きがいとしているのでしょうか? これも人それぞれなので、知るには、あなたが気になる相手に対して個別に訊いてみるしかありません。 ある人には有る、無い人には無い、それだけのことです。 因みに、私はあなたの示した定義にほぼ当てはまる生活を送っていますが、生き甲斐と言えるほどの大層なものは、今は特に何も持ってはいません。 >生きることに虚しさを感じませんか? 人は意味があるから、生き甲斐があるから、生きるのでは無いです。 生きることはまず大前提であり、意味や生き甲斐は二の次三の次です。 人生は、日々ただ健康体で、美味しく食を味わい、自分の体で用事をこなし、好きに遊び、美しい景色や音楽を愛で、晴れの日には光を浴び、雨の日には湿気を感じ、四季の移ろいを味わい、よしなし事を想い、穏やかに眠りに着く、充分にそれだけで充実したものであり、生きるに値します。 それだけあれば、自分の心の中に、生を放棄したくなるような虚しさなど、感じようはずがありません。 意味や生き甲斐から優先的に生を定義付けしようとするのは、そもそも順序が真逆なのです。
お礼
ありがとうございました。 「他人のために生きなければ、生きている意味がない」といったことを言われて、戸惑っていました。周囲は「子供の成長が生きがい」「伴侶を幸せにすることが生きがい」と言っていますが、私にはそういったものがないので。
お礼
再度回答ありがとうございました。 ゴルフという趣味があるのはいいことですね。 よく生きるためには所属と依存先(この言い方が正しいかわかりませんが)を分散させることと聞いたことがありますが、回答者さんは上手く分散させているように感じました。