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「戦なき世」
徳川家康が時代劇で描かれるときに、決まって表記のような言葉が出てきます。 これは、本当に家康の真情だったのでしょうか? それとも、その後260年の太平の世を作った実績から、後付けで作られた虚構の想いでしょうか。 『徳川実紀』など、何か信頼できる史料で裏付けることが出来ますか?
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家康の本音は、正直分かりません。 ただ、彼が長く使った旗印(代々の将軍へ金扇の大馬印と並んで継承された。) 厭離穢土 欣求浄土(えんりえど ごんぐじょうど) です。仏教的な解釈とは若干異なりますが >争いばかりの今(穢土)は、間違っている。 >平和な世(浄土)を求め作り出さなければならない という、家康なりのスローガンだと解釈も出来ます。 ⇒まあ最初は、一向宗一揆との戦いで掲げられたとの説も有るので、時期によって意味合いが異なるかもしれませんが…。 (一向宗信徒が一揆に参加して死んでも極楽浄土に行けると主張した為、それに対抗する為(一揆に参加しない者は地獄に落ちる)に、家康側が掲げた…。) 旗印って武田信玄の「風林火山」や上杉謙信の「毘」が有名ですが、家康の旗印はどちらかというと、織田信長の「天下布武」に近いスローガン的な要素が強い様に思います。 ちなみに、関ケ原で敵対した石田三成の旗印「大一大万大吉」も「1人が万民のために、万民は1人のために尽くせば、天下の人々は幸福(吉)になれる」と、スローガン的要素が強い旗印を使っていました。 当人たちが意図したかはともかく、それぞれの大将の旗印が求める理想を掲げているのは面白い偶然だと思います。
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- notnot
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「戦なき世」というか、一つの家が全国を支配するということは、そういうことだと思いますが。 鎌倉以降、私闘はオフィシャルには禁止されています。御成敗式目で私闘が禁止されているのも当時たくさんあったので書かれたのでしょう(無ければ禁止するまでもない)。それらを全部幕府が裁いて両者を私闘の故に罰することが出来ていたのかどうかは分かりませんが。 室町以降だと秀吉の惣無事令が有名ですね。そういう意味では戦国以降で秀吉が一旦「戦なき世」を実現したと言うことになるかと思うので、秀吉でなく家康がそう言われるのは長く続いた実績からでしょう。あるいは、秀吉は国内で戦なき世を実現した後海外に戦いを求めたので除外されるのか。 「全国を(支配した|支配を望んだ)権力者はほぼ全員が戦なき世を望んでいた」と言うことかと思います。 必ずしも今の平和主義的な意味でなく、自家の権力を脅かす者が出ないように現状を固定するという意図もあるでしょう。
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- oska2
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>本当に家康の真情だったのでしょうか? 誰にも、分かりません。 NHK「どうする家康」は、フィクションの物語に過ぎません。 決して、史実ではありません。 >その後260年の太平の世を作った実績から、後付けで作られた虚構の想いでしょうか。 その通りでしようね。 一つの政権が、数百年続くのは非常に珍しい事なんです。 幕府としても、家康の神格化として「素晴らしい人だった」と思想政策を行った程です。 何万人もの百姓が餓死・一揆で処刑しても、「戦のない平和な世」を築いた事になっていますよね。 家康の有名な政治思想に、次の言葉があります。 「ゴマの油と百姓は、絞れば絞るほどよく搾れる」 徳川政権の、歴代将軍が行った「権現様のと尊い教え」です。^^; >『徳川実紀』など、何か信頼できる史料で裏付けることが出来ますか? 徳川実記は、徳川家家臣が徳川将軍家の威光を書いた書物ですよね。 都合が悪いことは、一切記述しません。 また、小さな成功を大々的に誇張して記述します。 会社史に「創業者はポンコツで、酒と女が大好きだった。競艇博打も大好きだった」と書くことはありませんよね。 こういう場合は、「創業者は庶民と親しく酒を飲みモータースポーツを愛した」と記載します。 余談ですが・・・。 家康は、3回死んだという逸話がありますよね。 三方ヶ原・本能寺・関ケ原。 戦死したのは影武者とも言われていますが・・・。
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