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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:三職推任問題)

三職推任問題とは

このQ&Aのポイント
  • 三職推任問題は、天正10年(1582年)4月25日、5月4日の勧修寺晴豊の日記記事の解釈を巡る問題です。
  • 当時、安土へ女房衆を派遣したことが記されており、女性が政治的な役割を果たしていたことがわかります。
  • 当時の女性が政治的な活動を行うことは珍しくはなく、安土への移動には乗り物が利用されたでしょう。

質問者が選んだベストアンサー

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  • oska2
  • ベストアンサー率44% (2301/5116)
回答No.1

>安土へ女房衆を下した(勅使を出した)ということですね。 その通りです。 が、女房衆だけで安土に行ったのではありません。 勧修寺晴豊の日記『晴豊公記』の5月の日記。 5月3日、朝廷は再び勧修寺晴豊と女房衆の上﨟局らを安土に派遣。 あくまで、勧修寺晴豊が勅使であり上﨟局らは勅使の付き人です。 25日は、「先ず京都奉行の村井に会ってから安土に赴く。女房衆は直接安土に向かった」との意味でしよう。 >安土へは乗り物を利用したのですか。 今も昔も、朝廷は「前例のない事はしない不文律」が存在します。 当然、警護されながら船・徒歩です。 そもそも安土は、京への交通の要所ですよね。 御所から安土迄、当時は約14時間。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 主は勧修寺晴豊であり、女房衆は従であるということですね。 そうであれば、ちょっと新しい疑問が出てきました。 なぜ、わざわざ「安土へ女はうしゆ御くたし候て」と書いたのかという疑問です。 しかも高位の男二人が相談して。 足手まといになるだけではと考えると、武家伝奏ではできないが、朝廷の実力者・誠仁親王近くに侍る女房衆だからこそできる任務があったのではないかと、勝手に想像して楽しんでいます。 こんな想像ができるのも回答してくださったからこそ、と喜んでいます。

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