シベリア抑留から帰国した祖父の経験と北方領土の関係

このQ&Aのポイント
  • 祖父は軍医としてシベリア抑留から帰国した一人でした
  • 祖父の楽観的な性格はシベリア抑留での経験によるものかもしれません
  • 北方領土の日とシベリア抑留の関係については具体的な情報はないようです
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シベリア抑留(帰国者の祖父)

私の祖父はもう他界しておりますが、その祖父は軍医の一人でシベリア抑留から命からがら帰国したうちの一人だったと、今はもう高齢の父から聞きました(←祖父の息子です) 祖父とは子供の頃に会ったことがあるけど、昔ながらの人の感じは一切なく、いつもニコニコして楽観的というか…シベリア抑留を経験してたと聞いた今思えば『シベリアで受けた経験に比べたらどんなことも耐えられる』と思って生きてたのかな?と思うところなんですけど、たまたま調べてみたら今日2月7日は『北方領土の日』なんだそうです。シベリアとは何か関係はあるんですか? 祖父がいない今、シベリア抑留がどれだけ過酷な環境だったかなどはネットで調べればいくらでも出てくるけど、シベリア抑留の日本人が日本に帰国できた日付などといったことは私が調べた限り出てきませんでしたので、北方領土の日という今日がシベリアも関係しているのかなど含めて、どなたか教えてください。

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noname#252332
noname#252332
回答No.1

 父は鹿児島県の離島の出身で大阪の学校を卒業と同時に大阪で徴兵されいわゆる満州に赴任しました。将校は新婚で戦地に赴任する様なのんきな軍隊でした。昭和20年は阿城で軍医大尉でした。20年4月6日にソ連による日ソ中立条約破棄、これに応じてこの大隊は6月に阿城から国境にやや近い鏡白湖に移動しました。母は二人の子と阿城に残りました。8月8日にソ連が国境を越えて侵攻し、前線では激戦がありましたが父の部隊は終戦まで一発の砲弾も撃ちませんでした。8月15日の玉音放送で戦闘状態のまま待機となり、8月18日にこの方面の日ソ両軍の大将による停戦協定成立により戦闘行動中止の命令を受け、武装解除となりました。大隊は国境を越えてコムソモリスク収容所に入り、レンガ工場、森林伐採、道路工事、建築作業等に従事しました。父の大隊は戦闘を経験しなかったため犠牲者は少なかったが、国境で戦った部隊の収容所に派遣された時に見た状況は悲惨だった、と手記にあります。昭和22年に父は他の100名ほどとライチハの収容所に移動。24年に帰国の玄関であったナホトカに移動。ここでソ連医師が、ドクトルXは日本人が全員帰国するまでここで働いてもらう、と言ったのに対し、一日も早く帰国し妻子や母を探したいと訴えたところ、彼は司令部に行って相談してくると出て行き、翌朝、君は帰っていいことになったよと告げられたとのことです。昭和24年10月30日にナホトカで有名な信濃丸に乗船し、11月1日に舞鶴に上陸しました。ここで妻、私の母が一人で出迎えに来ているのを見て、子供たちはダメだったかと悟ったと聞いています。母はいわゆる満州から日本に逃げ帰る間に二人の子を餓死させました。過去にはそれぞれの部隊の同窓会が頻繁に開かれて、各自の手記も印刷されています。私は父の手記と、同じ大隊だった別のおひとかたの手記を持っています。昭和55年頃、大隊長だった方が鹿児島に観光旅行に来られて父と桜島をご案内しました。2010年に存命の抑留者に日本政府が抑留年月に応じた金をくれると言い出し、私も父の手記を抜粋して送って35万円もらいました。当時、独立行政法人平和祈念事業特別基金とその周辺団体が詳しい名簿を持っていて、誰がいつまで抑留されてどのように復員したかだいたい把握しているとのことでした。北方領土は中国東北部の戦況とは直接の関係は無いと思いますよ。叔父も軍医としてインパール作戦に参加しました。その手記を読んだことがあります。

n6862m4498
質問者

お礼

写真まで掲載していただきありがとうございます。

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  • gunsin
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回答No.5

30年前に亡くなった、私の叔父は、樺太からシベリアに連れて 行かれました、常々言っていた事は、負けても良いから、もう一度 ロスケと戦争して、同じ目に合わせてやりたいでした。 今年の冬は越せないと思い、共産主義に被れた振りをしたので、 早く帰国出来、命が助かった共、言ってました。 捕虜虐待でC級戦犯として、処刑された日本人が数多います、 勝てば国際法違反の捕虜虐待は、どこ吹く風になるのですね。 ---------------------------------------------------------------------- 玉音放送で敗戦を知った住民の多くが船待ちで、大泊港に大勢 いました、このままでは、ロスケに悲惨な目に合わされてしまう。 炭鉱に行き、発破(ダイナマイト)とアルミの弁当で手製の爆弾 を作り、上陸が予想された真岡に潜んで待機したそうです、 翌日、予想した通りに、真岡にロスケが上陸して来たので、 手製の爆弾を投げたら、沖合の船に戻って行ったそうです。 翌日に再上陸して来た時は、武器は銃剣を付けた三八式歩兵銃と 包丁を棒に縛り付けた槍しか、なかったので、簡単に捕虜になり、 シベリアに連れて行かれた。 5年前に、NHKスペシャルで真岡電話局の交換手が自決した事を、 放映してました、その中で上陸が1日遅れた事で北海道が占領 されずに済んだ事を放映してました。 この事を叔父さんが生きている内に聞かせたかったと思ったら、 涙が込み上げて来ました。 北海道はソ連、本州は米国、九州は中華民国、四国は英国の 分割占領にならずに済んだのは、名も無き日本兵の働きによっての 事だったのですね。

n6862m4498
質問者

お礼

貴重なお話もふくめありがとうございました。

  • eroero4649
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回答No.4

>たまたま調べてみたら今日2月7日は『北方領土の日』なんだそうです。シベリアとは何か関係はあるんですか? 1945年8月9日、ソ連は日本に対して宣戦布告をして、当時の満州国に攻めてきました。ちなみにこの日は長崎に原爆が落とされた日で、終戦が6日後の8月15日です。 ナチスドイツを片付けて、満を持して攻め込んできたソ連軍に終戦直前でボロボロの日本軍はなすすべもありませんでした。樺太などの一部でソ連軍を撃退したこともありましたが、全体的には一方的に攻められて、そのときに北方四島もソ連軍によって占領されました。 戦後、日本は千島列島の領有権を手離し、ソ連に併合されました。しかし、択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島の「北方四島」は日本の領土であるとソ連と日本との間で1956年に結ばれた「日ソ共同宣言」で確認されました。 とはいえその北方四島の返還については「引き続き話し合おうね」ということになり、今に至っています。今のロシアはソ連を引き継いだ国ではありますが、一応別の国ではあるので、日ソ共同宣言はナシねということはできなくはないですが、今のところはっきりとはそういう態度にはしていません。 ロシア側としては択捉島と国後島はさておき、色丹島と歯舞群島は日本に返還してもいいとは考えているようです。ただし、ロシア側としては絶対に譲れない点がひとつだけあって、それは「その返還した二島に絶対に米軍基地は作らない」ことです。ところがこれについて日本側はうっかり「そりゃ、作るか作らないかはアメリカさんが考えることだからなんともいえない」と答えてしまったのです。当然ロシアから「信じられへん。約束してくれへんなら返さへん」といわれてしまいました。 1990年代前半、ロシアは経済的に崩壊して大変な苦境にありました。そのときに「お金をくれる(経済支援をしてくれる)なら北方領土のうちの二島は返してもいいよ」という雰囲気になったのですが、「もうちょっと追い詰められたら四島全部返してくれるだろ」と欲をかいてしまって実現しませんでした。千載一遇のチャンスでしたね。 ちなみにそのときにロシアと日本のパイプ役になっていたのが、あの鈴木宗男氏とマスコミにちょいちょい登場する佐藤優氏のコンビでした。しかし鈴木氏も佐藤氏も日本国内の権力争いの中で失脚。彼らの失脚により日本はロシアとのパイプを失って今に至っています。 シベリア抑留は、その終戦のときに日本軍を解体したソ連軍が日本兵を強制的に連れていって労働者として利用したのです。 当時のソ連の指導者は独裁者スターリンでした。彼は自国民を一説には1000万人も粛清したともいわれています。自国民にさえ苛烈な扱いをする人が、戦争に負けた外国の連中に慈悲をかけてやる理由は全くありません。それはそれは過酷な扱いだったそうです。 蛇足の話ですけどね、戦争に負けたときに日本軍は解体されてそれぞれの地域で解体され、捕虜となりました。それがどこで捕虜になったかでだいぶ扱いは違ったようで、ほとんど戦闘が起きなかったインドネシアで降伏して捕虜になった兵士は南の国で食べ物に困ることもなくのんびりと過ごしていて、元兵士の手記を読んだことがあるのですが、何年か捕虜収容所で暮らしていて「どうやら俺たちは日本に帰還させられる」と噂になったとき、「日本は空襲で全土焼け野原になって食べ物も仕事もないらしい」と聞いてたのでみんな「嫌だなあ、帰りたくないなあ」といってたそうですよ・笑。その人も手記には無邪気に「捕虜収容所での生活はとても楽しかったです」というノリで書いていました。

n6862m4498
質問者

お礼

ありがとうございました。

  • ZXYZY
  • ベストアンサー率25% (200/778)
回答No.3

私(55歳・男性)の祖父(故人)に一度だけ聞いたシベリア抑留の話です。 祖父は、シベリア抑留で体を壊しもう生きられないだろうとのことでせめて日本の地を踏んで亡くなれば本望だろうと繰り上げで日本に帰還したとのことでした。 唯一聞いた話は、朝お腹がすいてひもじい思いでいると窓の外からいい匂いがする。 窓の外には井形に組まれた木のようなものが燃えている。 さながらキャンプファイヤーの薪のような感じだったらしいです。 目を凝らしてみるとそれは亡くなった日本兵の捕虜だったとのこと。 明日は我が身と思ったとそれだけを聞きました。 私は山口県に住んでいますが、長門市三隅町出身の画家に香月泰男さんがおられ、彼の作品にシベリア抑留シリーズがあります。 それを見た時、ああ祖父はこんな苦しい環境を生き抜いたんだと思いました。 >シベリア抑留の日本人が日本に帰国できた日付などといったことは私が調べた限り出てきませんでした https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/about/pamphlet/202102/pamphlet_jpn_020102.pdf こちらの資料によるとソ連からの抑留者の帰還が始まったのが昭和21年12月とあります。 上記の香月泰男さんは昭和20年(1945年)にシベリア抑留され、昭和22年(1947年)に 引揚船・恵山丸で舞鶴へ到着とあります。 尚、引揚船はその後、昭和33年9月まで続いたそうです。(以下リンク) https://m-hikiage-museum.jp/education/hajimari.html 北方領土の日とシベリア抑留は直接的な関係は無いと思いますが、帰国という観点から見ると昭和22年に北方領土からの日本人の本土への強制送還が始まってますのでシベリア抑留者と北方領土からの帰国者が同船していた可能性は高いと思います。 https://www.hoppou.go.jp/problem-info/know/tesimony-of-history.html

n6862m4498
質問者

お礼

シベリア抑留を経験したお祖父様の話をあわせてありがとうございます。ロシアのアウシュビッツとも言われるシベリア抑留を経験してる祖父の最期は孤独●だったので、、日本に帰国してなかったら私の父も私もいないので、お線香を上げたいと思います…

  • kzr260v2
  • ベストアンサー率48% (787/1618)
回答No.2

帰国事業は一度で終われるものではなかったようで、ある期間ではひと月内で数万人ほど帰国していたようなのです。こんな事情から「シベリア抑留者帰国日」みたいにはならなかったのかもしれません。 以下は今回参照した情報です。米国国立公文書館の文書から、シベリア抑留帰国事業に関するものを紹介しているようです。 https://www.nichimyus.jp/2015/05/12/%E6%88%A6%E5%BE%8C%E3%81%AE%E5%BC%95%E6%8F%9A-%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%8A%91%E7%95%99%E8%80%85%E3%81%AE%E5%B8%B0%E9%82%84/ 以下は、ご質問に関連する部分を抜粋しています。 ==========抜粋ここから 下の文書は1947年8月8日に極東軍の参謀長に充てた文書で、1946年12月19日に合意に至った「ソ地区引揚に関する米ソ暫定協定」についても触れています。それによると、1946年12月からすでに47万7000人がすでに帰国しており、1947年4月までで、月平均6万2000人が日本へ帰還しているなどと書かれており、その後の帰国事業の予定も書かれてあります。 ==========抜粋ここまで ※ シベリア抑留問題と北方領土問題は、日本としては解決したいものでありますが、これらが連携してどうとか同時にどうとかといった情報は、ざっくり調べた範囲では見つからなかったです。 以上、参考にならなかったらごめんなさい。

n6862m4498
質問者

お礼

リンクの貼り付け含めて情報ありがとうございます。私たちには戦争の話など一切したことなかった祖父なので、シベリア抑留を経験してることを存命中に知って聞いても答えなかったかもしれないですね…

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