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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:今年もまた…。)
日本航空123便墜落事故の悲劇とは?
このQ&Aのポイント
- 1985年8月12日、日本航空123便が群馬県上野村高天原山に墜落し、520名の命が失われました。
- 墜落の原因や事故当時の状況には謎が多く、機長の意思や迷走の要因などが注目されています。
- この事故を受けて、航空機の安全性や適切な対応策の重要性が再認識され、航空安全の向上に寄与する教訓が得られました。
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質問者が選んだベストアンサー
その後コンピューターが発達して、フライトシミュレーターで事故を再現してみたところ、世界中の誰一人として10分と飛行させることができなかったといいます。左右のエンジンの推力だけで機体をコントロールさせたといいますが、考えられないくらいのことですね。 また再現実験では誰も飛行し続けることができなかったので、実際の状況と検証で推測された状況は違っていたのではないかという説もあります。 YouTubeに事故当時のフライトレコーダーの音声を分析した動画が沢山ありますので、それを見ると「事故発生の時点でほぼ詰み」であったことが推測できますね。 また、この事故に関しては様々な陰謀論などもあります。私は「自衛隊の無人偵察機が123便に近づきすぎて接触した」という説は支持しませんが、公式の見解である圧力隔壁の破壊原因説にも疑問を持っています。事故発生当時の、機長の「ギア見てギア」の言葉が私も引っかかりますね。
お礼
テッドさん、こんにちは! 回答ありがとうございます。 1985年、当時にドローンがあれば、 捜索もしやすかったでしょうね。 自衛隊の練習ミサイルが123便にあたった説も有りますが、まさか、そんな。信じがたいですね。高濱機長は『どーんと行こうや』発言で1982年の羽田沖墜落事故の片桐機長の逆噴射のように、乱心したと言われ、ご遺族はお辛い思いをされた事でしょう。事故機を整備した空港職員も平静ではいられなかったと思います。 毎年、慰霊登山の様子を見る度に、大阪伊丹空港に着いて甲子園のPL学園の応援に行くはずだった9歳の美谷島くんの事を思い、涙が出ます。事故がなければ、夏休みの思い出の絵日記に、『僕は、ひとりで飛行機に乗りました。』と書いて提出していたでしょう。 そして、大阪伊丹空港に到着予定時間の18時56分に遠く離れたお巣鷹の尾根に機首から墜落したのですね。 その為、後部座席の座席だった4名は助かりました。川上慶子さんは3児の母になられたそうですね。 8.12に思う…パワー、パワー、の叫びが耳に残ります。 ありがとうございました。
補足
テッドさん、ありがとうございます。 お礼は夜に致しますね!☺️