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友人が自殺していました
友人が自殺していました。私は最低な人間ですよね? 元々保育園が一緒でその時から仲の良かった友人がいました。 昔から気遣い症で友達が多く、誰からも好かれる子で中学は一緒の中学になり、私は小学生の時から苛められていて、中学二年生の時に彼女と同じクラスになった時に、彼女は私が苛められてる光景を見た時、そのいじめっ子達に私を庇って言い返してくれて、唯一助けてくれた友達だったのに、それからはターゲットが彼女に変更し、私は苛められたくなくて彼女をいじめる側につきました。 学校では一緒になって悪口を言って、帰ってから彼女にメールで謝るという最低な行為をしてそれでも彼女は怒ることもなく、結局あまりの苛めの辛さに彼女は不登校になり、塾にも通っていましたが内申がなく通信に進学。 友達が出来ずよく私にLINEをしてきていましたが高校生活を楽しんでいた私は彼女のLINEをガン無視。 ある日19歳くらいの時に彼女と遊んだ時、中学の同期とたまたま会って、仲良くしていたら何か言われると思い彼女に向かって「たまたま会っただけ」と言って彼女を置いて帰って行き、その後謝りの電話をしてきた彼女に巻き込まれたくないと酷い言葉を言ってブロックしました。 それから一年後、たまたま彼女とばったり会い、その時の彼女は少し疲れきった感じの顔をしていて、私を見かけるなり酷い事を言ってブロックした私に笑顔で「◯◯!元気?」と声をかけてきて軽い挨拶をして彼女の方からすぐ去っていってしまいました。 それからもう二年後、うちの母親が彼女の母親とたまたま会い、彼女が自殺で亡くなった事を知りました。 自殺の原因は発達障害が発覚し、障害者枠で就職するも自分の人生に落胆し希望が持てないと自殺したみたいで聞いた時とてもショックでした。 あの時何であんなに酷いことをしてしまったのか、後悔してもしきれません。 例え自殺の原因が私じゃなかったとしても、辛いことが積み重なった結果自殺という結果に至ったとしか思えないし、私のせいでもありますよね 罪悪感が酷いです。どう向き合っていけばいいですか
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- zne368d4nt8
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切ない話ですね。 その人は 本当に 良い人だったのだと思います。 そんな人に 本心とは 違う言動を してしまって 居たのですね。 起きてしまった事は もう どうにもならないので これから あなたが その分 強く優しくなって 生きていけばいいと思います その人は あの世に 旅立って行ってしまったけれど あの世で 救われて 元気に 居ると思いますよ。 後悔しても 自分を 酷く 責め過ぎない事です。 あの世で いつか 出会う日が来るかもしれないので その日まで 今回の体験を 糧に 一生懸命 生きてください ☆ミ
罪悪感に苦しみながら生きていくべきです。 それだけのことをしてると思う。 それでも苦しみながら幸せを目指して歩んでください。
- eroero4649
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その罪の十字架を背負って、生きていくということですね。そんな簡単に「こうすればいい」なんて軽い話ではありません。生きるということの根源と向き合うようなテーマですよ。もしかしたら、一生答えは見つからないかもしれません。 イエス・キリストは、自らの処刑台となる十字架を背負わされてゴルゴタの丘に向かいました。その重みに耐え兼ねて倒れると、兵士はイエスを鞭打ち、人々はその姿を見て嘲笑したといいます。これは「罪を背負う」ということを象徴するエピソードですが、質問者さんにとっては非常に共感できることなのではないでしょうか。 親鸞は「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや」という言葉を残しました。意味は「善人が極楽浄土(天国)へ行けるのだから、ましてや悪人が行けないわけがない」というものです。おかしな話ですよね。いいことをした人が天国に行けるのは分かるとして、悪いことをした人が天国に行けるってどういうことなのでしょうか。 この言葉は非常に難解な言葉で、様々な解釈があります。ある説によると善人とは公家のことを指し、悪人は武士のことを指すといいます。純粋に信仰心を持つ武士のほうが公家よりも極楽に近いといった言葉だというのです。 また別な説では、悪人とは悪いことをしてそれを心底反省した人だといいます。罪を犯したことがない人より、罪を犯してそれを心から反省した人のほうが極楽に近いというのです。 この日本では、幸か不幸か命というものと真剣に向き合うことは滅多にありません。ないままにお年寄りになる人も珍しくないくらいに平穏平和な国です。それはいいことかもしれませんが、命というものに向き合わされてしまったときにどうしていいのか誰も分からない社会でもあるということです。 生きること、命というものについてそのお友達から宿題を与えられたと思って、そこに向き合うことなのではないかなと思います。
本当の優しさってのは、本当に強くなければ出来ない事なんだ。 優しさのない強さも、強くない優しさも、いつか必ず、誰かを傷付ける。 彼女は、本当に強くて、優しい子だったんだね。 でも、その優しさで「他人」の事は救えても、同じように「自分自身」の事を救えるとは限らない。 彼女は、君の人生は救えても、自分自身の人生を救う事は出来なかったんだろ。 さて、これから君は、そんな彼女からもらった大きな優しさで、誰の事を救うんだ? 自分と同じように虐められていた子か? 今更ではあるが、自殺した彼女の尊厳を守るのか? それとも、「また」自分自身の事しか、救う気がないのか? 君は、彼女に救ってもらった中学二年の時からずっと、彼女から「許される」のを待っているだけなのだなー。 あの時、何であんなに酷い事を彼女にしてしまったのか、だって? 後悔してもしきれない、だって? 「後悔」とは、読んで字のごとく、「後」になって「悔」いる事を言う。 結局、君は、「彼女が自殺した」って聞くまで、彼女への自分の対応を変えるつもりは無かっただろうし、自分の行動を反省する事も無かったのだろう。 彼女が自殺なんかせず、君のその場しのぎの謝罪を、ずっと「受け入れてくれている」と、君がそう思い込み続けていた限りはね。 自分は、彼女のように優しくはないから、君のような立場の人間を救う言葉を考える程、人間は出来ていない。 でも、この質問が釣りではなく真実で、君の今感じている後悔や罪悪感も本物だとするのなら、もしこれから先、中学の同級生達が、亡くなった彼女を責めたりバカにするような場面に出食わす事があったなら、せめて、君だけは、それらと一緒になって同調したり、雰囲気に流されるような真似だけはしないで欲しいと、切に願う。 それが、君を虐めから救い、守ってくれた、彼女の「勇気」と同じなのだと、自分は思う。