1941年の仏印進駐決定について

このQ&Aのポイント
  • 1941年、仏印南部への進駐決定を英国は事前に把握していた
  • 日本から漏れた情報は米国経由で英国に伝わった
  • 「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」には、帝国は対英米戦を辞さないことが記されていた
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1941年、仏印南部への進駐決定を英国は事前に把握

Wiki「仏印進駐」の「5 日米関係の悪化と南部仏印進駐の決定」によれば、仏印南部への進駐決定を英国は事前に把握していたそうです。 (以下、wiki抜粋) 1941年7月2日の御前会議において仏印南部への進駐は正式に裁可された。(『情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱』)。しかしイギリスはこの時点で仏印進駐の情報をつかんでおり、7月5日には駐日イギリス大使ロバート・クレイギーが日本の南進について外務省に懸念を申し入れている。日本側は情報漏洩に驚き、進駐準備の延期を行ったが、(略) (抜粋終わり) 思いついたことを次々と質問して申し訳ないですが、教えてください。 1. どこから情報が漏れたのですか。 日本から米国への外交電文は筒抜けだったそうですから、このルートから漏れて、米国から英国へ伝わったのですか。 2. どの程度の内容まで漏れたのですか。 「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」には、「帝国は本号目的達成の為対英米戦を辞せす」とあります。 よろしくお願いします。 仏印進駐 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E5%8D%B0%E9%80%B2%E9%A7%90

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回答No.4

下記(1)(2)から取り敢えず(3)に辿り着きました。 (1) 〇アジア歴史資料センター https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/image_C12120318700?IS_KIND=detail&IS_STYLE=default&IS_TAG_S1=d2&IS_KEY_S1=C12120318700& 標題:昭和16年7月 機密戦争日誌(1) ref.code C12120318700 作成者名称/参謀本部第二十班(第十五課) 資料作成年月日/昭和16年7月1日~7月24日(1941/07/01-07/24) [8/50] 一、南部佛印進駐ニ關スル外交交渉開始ノ上奏アリ(外相ヨリ)   其直前「クレギー」外相ニ面會ヲ求メ來リ   南部佛印ニ對スル帝國ノ態度ヲ質問シ來ル出處ハ何處?恐ルベシ (2) 〇「日本陸海軍と南進-「自存」と「自衛」の戦略 -/小谷賢」 『戦争史研究国際フォーラム報告書. 第7回/防衛省/2009-03-31』 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1282963?tocOpened=1 [5/10](123頁8-12行目) 英国は日本外務省の暗号解読情報によって、既に7月初旬の時点で日本が南部仏印に進駐することを既知していた。そして7月5日に駐日英大使ロバート・クレイギーが大橋忠一外務次官を訪れ、日本の南進意図に懸念を表している。日本側は英国がこの情報を掴んだことに驚愕し、情報漏洩に配慮して進駐の時期を延期するに至ったが、英国も日本の正面に立つことを嫌った結果、これ以上の警告を行わなかった。 (3) 〇『イギリスの情報外交:インテリジェンスとは何か/小谷賢/PHP新書326/2004.11.16 』 https://books.google.co.jp/books?id=vnBnDwAAQBAJ&pg=PA32&lpg=PA32&dq=%E8%8B%B1%E5%9B%BD%E3%80%80%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%AA%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%80%80BJ&source=bl&ots=X_kUN4E6Qf&sig=ACfU3U1WtL2XEIkvMNtSwroFIw5ctqsQ6Q&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjZi9zs_9DpAhWUFogKHRHADywQ6AEwD3oECAoQAQ#v=onepage&q=%E8%8B%B1%E5%9B%BD%E3%80%80%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%AA%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%80%80BJ&f=false 英極東戦略の転換点 七月四日、イーデン英外相は上記の東京からベルリンの暗号解読情報に接し、その対応に追われていた。日本の南進問題に関しては、当時BJ(※政府暗号学校〈GC&CS〉の発行するBLUE・JACKET〈通称・BJ〉)への信頼が高かったことと、状況が逼迫していたこと、… …同時にロンドンのイーデンは,クレイギー駐日英大使にもBJ情報を伝えようとしていた。…クレイギー自身はBJ情報の存在を知らされておらず、イーデンはGC&CSの情報源を守るために、一旦、上海発の情報として『デイリー・テレグラフ』紙に日本の南進の情報を流し、その新聞記事を自ら取り上げてクレイギーに指示するほどの念の入れ様であった。 イーデンはクレイギーに対し、「(デイリー・テレグラフの)記事に拠れば、日本の御前会議によって南部仏印の基地掌握を決定したらしいので、日本外務省に対し状況の深刻さを訴えてほしい」と伝えている。… 以上

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 御前会議の内容を松岡外相が大島浩駐独大使に送った通信、つまり東京からベルリンへ送った外交暗号が英に筒抜けだったのですね。 どこで、どんな方法で傍受したのか気になりますが、英領のどこかを通らなければ東京からベルリンへは通じないですからね。 英米にはお手上げです。

その他の回答 (3)

  • eroero4649
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回答No.3

#2です。 >はたまた諜報組織にはウラのウラの繋がりがあってゾルゲから情報を得たのか、想像は膨らみます。 ゾルゲはソ連のスパイだったので、その他の国に情報を提供していたと考えるのは少し無理があるのではないかと思います。世界各国に情報を売っていたなら、それはスパイというより情報屋ですよね。ゾルゲはドイツがソ連に攻め込む兵力から日付まで正確にスターリンに報告していましたからね。 昔読んだ本に「平時のスパイはダブルスパイ」と書いてありました。それが本当かどうか、私はそういう世界に関わったことがないから分かりません。けれども社会人としての経験を考えると、スパイというのはダブルスパイであると考えるのが普通なのかなと思うようになりました。 というのも、情報というのは「口が固くていい情報をくれる人のところに集まるもの」だからです。例えば自分は密かに社内の人とW不倫をしているなんて、口が軽い人には絶対いいませんよね。いうとしたら「あの人は口が固い」と信じている人になるでしょう。だから口が固い人ほど人の秘密を知ることになります。 そして人間というのは不思議なもので、なにかいい情報をもらったらその見返りをしないといけないと思うものなのです。 あの地下鉄サリン事件が起きた直接のきっかけは、警察のオウムに対する強制捜査が近いことを知ったためです。強制捜査を阻止するために事件は起きました。そして警察は、オウムがサリンを作っていることを知っていました。警察はオウムがサリンを作っていることを知っていて、オウムは警察がその捜査に来ることを知っていたのです。なぜ双方がそんな情報を手に入れていたのかと考えると、警察とオウムの双方のかなり高いところにコミットできたダブルスパイがいたと考えるのが自然なのかなと思います。その人は、警察のかなり精度の高い情報を仕入れて、見返りにオウムの情報を手に入れていたとね。 後にケネディ大統領暗殺事件の実行犯とされたリー・ハーヴェイ・オズワルドは海兵隊に入隊し日本でレーダー操作員として勤務し、そしてアメリカからソ連に亡命し、妻を伴ってソ連からアメリカに帰ってきた人でした。どう考えても不自然ですよね。アメリカのレーダー技術をソ連に提供したということですが、もしそうならアメリカに帰国できるはずがありません。日本に勤務していたときにCIA工作員と接触していたことが判明していますが、もしCIAの命令でソ連に潜入し任務が終了して帰国したなら、なぜソ連が彼の帰国を許したのかと考えるのも不自然です。なにより、彼はロシア人の妻を伴って帰国しています。あの当時のソ連がソ連人のアメリカへの移住を認めることそのものがあり得ません。するとオズワルドはソ連からも密命を受けて帰国したのか、妻はその「監視員」だったのかなど、想像が膨らみますよね・笑。 まあそういったあたりが「リアル・スパイ」の世界の面白さだと思います。 ただゾルゲからイギリスに直接情報が渡るということはなくても、ゾルゲから報告を受けたソ連が何らかの情報と見返りにイギリスにその情報を渡した、という可能性はあるかなと思います。 (蛇足:非常に精度の高い情報をロシア政界から得ていたといわれる「外務省のラスプーチン」と呼ばれたあの人は、私はダブルスパイであったと思います。あのどこを見ているのか分からない、何を考えているのかを悟らせない不気味な目つきは只者ではないと感じます)

kouki-koureisya
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございます。 結局、イギリスがどんな情報をどこから入手したのか、スパイの世界のことは永遠のナゾということになりますね。 駐日イギリス大使ロバート・クレイギーが「なんとなくの情報からブラフを仕掛けてきた」という説には「そうかもね」という思いはあります。 日本の外務省の高官がどんな反応を示すか、緊張の一瞬だったでしょう。 「外務省のラスプーチン」は、インテリジェンスに関してよく発言していますね。 雑誌の投稿記事からは二重スパイの匂いが立ち込めてきます。 しかし、彼が語る日ソ交渉の舞台裏は結構面白かったです。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10467/32916)
回答No.2

1 イギリスの情報網に引っかかったのでしょうね。なにしろジェームズ・ボンドはイギリスの人ですからね。 2 諜報戦で一番大切なのは、手持ちのカードの全ての情報を知っているのか、それとも1枚の情報だけを知っているのか、それとも1枚も知らないのか、それを相手に特定させないことです。そしてそのことについて最も長けている国がイギリスです。 第二次世界大戦中にイギリスはナチスドイツが誇る暗号機であるエニグマを解読していました。しかし「本当はエニグマは解読しておらず、エニグマを解読して得られたとされる情報はドイツ国内に広めたスパイから得ていたのだ。だけれども、そのドイツ国内にいるイギリスに情報を送ったスパイが誰なのかを特定させないためにエニグマを解読したということにしたのだ」という説を唱える人もいます。 どちらが正しいのか、イギリス政府は今でも明らかにしていません。 だからイギリスがどこまでの情報を得ていたのかは分かりません。何もかもが筒抜けだったのか、それともなんとなくの情報からブラフを仕掛けてきたのか。英国紳士はウソがお上手ですよ。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 ゾルゲルート以外に、イギリスが独自の諜報網で日本の方針(仏印南部進駐や対英米戦を辞せす)をキャッチしたのか、はたまた諜報組織にはウラのウラの繋がりがあってゾルゲから情報を得たのか、想像は膨らみます。 ゾルゲ事件では西園寺公一や犬養健、そして軍関係者も取調べを受けています。 ゾルゲや尾崎は小物だったのかもしれません。 Wikiには「7月5日には駐日イギリス大使ロバート・クレイギーが日本の南進について外務省に懸念を申し入れる」とありますが、どの程度具体的な申し入れの内容だったのか、追々調べてみます。 今、図書館休館中なので後日調べてみたいと思います。 「それともなんとなくの情報からブラフを仕掛けてきたのか」のご意見には賛同します。 この可能性は捨てきれません。

  • pri_tama
  • ベストアンサー率47% (674/1408)
回答No.1

 イギリスが何処から掴んだか確固たる情報は無いのですが、1941/07/02の時点だとゾルゲ事件(ソ連のスパイが近衛内閣のブレーン尾崎秀実と繋がっていた)が発覚していないので、近衛内閣の国策要綱は連合国側に筒抜けになっていたと思います。  (なんせ1941/09/06の御前会議で決定した「帝国国策遂行要領」まで連合国側[ソ連]へ通報しているので…。)

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 ゾルゲでしたか!! ゾルゲをヒントに調べました。 取調べの結果を昭和天皇に上奏した原案が見つかっていました。 これによると1941年7月2日の御前会議の内容を、間違いなくゾルゲは入手していました。 ゾルゲからソ連の何者かに情報が渡ったのでしょうが、その先、英国へはどんなルートだったのか、追々自分で調べてみます。多分、難しいとは思いますが…。 御前会議のなんと三日後に駐日イギリス大使が日本の外務省に申し入れているのですから驚くべき速さです。 しかし、こんな申し入れをすると、英国自身の諜報網が日本の政権中枢にまで浸透していることを日本へ知らしめることになりますね。 考えれば考えるほどミステリアスで面白いです。 疑問は少し残りますが、気分的にはすっきりしました。

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    米国がハル・ノートを提示したのは、日本軍のタイ国への進駐の動きが活発であったことに大いに懸念を抱いていたから、というのも一つの理由だそうです。 Wiki「ハル・ノート」の「3提示までの経緯」 によれば 「なぜ急に暫定協定案を放棄し、ハル・ノートを提示したかは現在、明確ではない。」と断った上で 次のように説明されています。 (wikiから引用) ルーズベルトについては26日午前、スティムソンからの日本軍の船艇が台湾沖を南下しているという情報に際し、日本は交渉を行いつつも軍の南下を行っていると受け取り、「日本側の背信の証拠なのだから、全事態を変えるものだ」と言ったという。以上より(後述するように戦争覚悟で)暫定協定案を放棄し、ハル・ノートを提示したと思われる。(引用終わり) 質問です。 「日本軍の船艇が台湾沖を南下している」とありますが、この日本軍に関しての日本側の記録はありますか。 何軍がどこからどこへ向かっていたのですか。 よろしくお願いします。 「ハルノート 3提示までの経緯」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88#.E6.8F.90.E7.A4.BA.E3.81.BE.E3.81.A7.E3.81.AE.E7.B5.8C.E7.B7.AF 

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    よく日本が戦争に至った経緯として、自存自衛を主張する方達は「アメリカに石油資源を禁輸されたり経済封鎖され、禁輸措置は日本経済に対し破滅的な影響を与える恐れがあったから開戦したのだ。」と言う主張を聞きます。 石油全面禁輸は、1941年7月2日の「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」(アジア歴史資料センターレファレンスコードC12120183800)で「対英米戦を辞せず」という決意で実行する事に形式上はなっていますが、その決定の際の御前会議で、原枢密院議長が南部仏印進駐が対米戦の引き金になるのではないか、と言う質問をしたのに対して、松岡外相は「絶対にないとは言えない」杉山参謀総長は「独ソ戦が独が有利な今は、たぶん米国は参戦しない」と答えているように(レファレンスコードC12120184400)、実際は固い決意が共有されていた訳じゃなく、進駐実行前に米国に説明した時に「石油禁輸を含む対抗手段」を示唆されても「全面禁輸まではないだろう」と思ったり(レファレンスコードC12120250200での豊田外相の発言)、その米国の警告を“ただの脅し”と考えたり(大本営陸軍部戦争指導班の機密戦争日誌昭和16年7月24日分レファレンスコードC12120318700)と要するに当時の政府&軍指導部全体としては「米国の警告を甘く見てしまった」ものです。 ただ言うまでもない事ながら、日本の政府&軍指導層が開戦したその『目的・動機』は、米国の対抗策を甘く見過ぎていた事が後でわかって真っ青になったその《後》で、日本は対米屈服と対英米開戦という選択肢の内の後者を選んだその判断の際に「何を優先したか」から考えるべき事です。 「石油全面禁輸?じゃ、もう戦争しかないだろ」みたいな単細胞的決定を下す程、当時の日本政府&軍はアホじゃないのは、その後の議論を当時の資料で読めば誰にでもわかる事です。 自存自衛とかアジア解放は、開戦が事実上決まった時点以降に「大義名分」や「スローガン」として考えられた事であって、政府&軍首脳の「動機・目的」はそんな物からはわかりません。 そんな対外的な宣言用の言葉ではなく、当時の機密資料などから「動機・目的」を読み取り、そこから「自存自衛ってスローガンになった背景はこういうことなのだろう」と言える、がせいぜいでしょう。 例えば、事実上の開戦決意を固めた1941年11月1~2日の大本営政府連絡会議の後の11月4日の軍事参議会での「開戦の決意に到達せし所以」の説明(レファレンスコードC12120205700)では「石油全面禁輸を受けつつ(対英米戦はせず)日中戦争を継続する」という、相当非現実的状況を想定した上で、それがいずれ満洲・朝鮮・台湾に影響を及ぼし「昔日の小日本に還元」してしまい「光輝ある二千六百年の歴史を汚す」から対英米戦をするのだ、と言っています。 一方、首相になる前の10月14日の閣議では“米国の要求する中国からの撤兵を受けたら、満洲・朝鮮も危うくなる”といった主旨の主張をしていますが、満洲・朝鮮の動向への不安が東條(というか陸軍)にとってホントに重要だったかと言うと疑問ですね。 寧ろ10月12日に近衛首相の私邸で開かれた非公式の五相会談で”中国からの撤兵を受け入れると陸軍はガタガタになる”と強硬に主張した方が本音でしょう。(レファレンスコードC12120253500) 10月14日に東條が(同じ陸軍首脳として”身内”の様な)杉山参謀総長と交わした会話がレファレンスコードC12120254300で見られます。 ~~ 東條 海軍大臣は自身がないとは言わぬが何か自信のない様な口のきき方をする 判然言わぬので物が定まらぬ 海軍が踏み切れないのならそれを基礎として別のやり方を考えねばならぬ 杉山 宮中大本営で永野が次の事を言って居った 「富田が海軍に、海軍から戦争は出来ぬと言ってくれんか、と言って来た。それに対し永野は、そんなことが言えるものか、と言った由」 ~~ 東條の発言は、例えば同日の閣議では“撤兵問題は心臓だ”とか言った強硬発言をしていたものの、杉山には”海軍が戦争が出来ないというのならば、(どこ迄かは別として)妥協を考えなきゃならん、って主旨です。 杉山の「宮中大本営で永野が…」と云うエピソードは、近衛文麿によれば、陸軍省の武藤軍務局長が「海軍が”戦争は出来ない”と言うなら、陸軍は考え直す」という主旨を言うから、側近の富田内閣書記官長に 海軍軍令部に行かせたものです。 つまり、陸軍自らが米国の要求する中国からの撤兵を受け入れる事は出来ないが、海軍が「米国には勝てない」と言うのならば、多少考えても良い、と東條は言っていた、って事です。 開戦に至った大きな(最大のと言うべきか)理由が「陸軍の面子」にあると言うのには、こうした根拠があります。 陸軍の面子の為と言うのは、別に私が言っている事ではなく、真っ当な金現代史学者の中では常識に近いし、私の理解では ・陸軍首脳(具体的には東條陸相と杉山参謀総長)にとって一番重要だったのは面子 ・それが日本の対米要求案の主要な決定要因になった と確実に言えると思います。 勿論、鵜呑みにせよとまでは言いません。 ただ「自存自衛」がどうしたとか言ったスローガンの話ではなく当時の政府&軍首脳が判断を下す過程で何を考えていたかを示す資料はそれこそ山ほどあります。 そういうものに基かない主張は単なる「空想」「妄想」の類に過ぎないのに、何を根拠に日本はアメリカの「禁輸措置が開戦の原因だ!!」と言えるのでしょうか?