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1941年の仏印進駐決定について
- 1941年、仏印南部への進駐決定を英国は事前に把握していた
- 日本から漏れた情報は米国経由で英国に伝わった
- 「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」には、帝国は対英米戦を辞さないことが記されていた
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下記(1)(2)から取り敢えず(3)に辿り着きました。 (1) 〇アジア歴史資料センター https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/image_C12120318700?IS_KIND=detail&IS_STYLE=default&IS_TAG_S1=d2&IS_KEY_S1=C12120318700& 標題:昭和16年7月 機密戦争日誌(1) ref.code C12120318700 作成者名称/参謀本部第二十班(第十五課) 資料作成年月日/昭和16年7月1日~7月24日(1941/07/01-07/24) [8/50] 一、南部佛印進駐ニ關スル外交交渉開始ノ上奏アリ(外相ヨリ) 其直前「クレギー」外相ニ面會ヲ求メ來リ 南部佛印ニ對スル帝國ノ態度ヲ質問シ來ル出處ハ何處?恐ルベシ (2) 〇「日本陸海軍と南進-「自存」と「自衛」の戦略 -/小谷賢」 『戦争史研究国際フォーラム報告書. 第7回/防衛省/2009-03-31』 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1282963?tocOpened=1 [5/10](123頁8-12行目) 英国は日本外務省の暗号解読情報によって、既に7月初旬の時点で日本が南部仏印に進駐することを既知していた。そして7月5日に駐日英大使ロバート・クレイギーが大橋忠一外務次官を訪れ、日本の南進意図に懸念を表している。日本側は英国がこの情報を掴んだことに驚愕し、情報漏洩に配慮して進駐の時期を延期するに至ったが、英国も日本の正面に立つことを嫌った結果、これ以上の警告を行わなかった。 (3) 〇『イギリスの情報外交:インテリジェンスとは何か/小谷賢/PHP新書326/2004.11.16 』 https://books.google.co.jp/books?id=vnBnDwAAQBAJ&pg=PA32&lpg=PA32&dq=%E8%8B%B1%E5%9B%BD%E3%80%80%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%AA%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%80%80BJ&source=bl&ots=X_kUN4E6Qf&sig=ACfU3U1WtL2XEIkvMNtSwroFIw5ctqsQ6Q&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjZi9zs_9DpAhWUFogKHRHADywQ6AEwD3oECAoQAQ#v=onepage&q=%E8%8B%B1%E5%9B%BD%E3%80%80%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%AA%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%80%80BJ&f=false 英極東戦略の転換点 七月四日、イーデン英外相は上記の東京からベルリンの暗号解読情報に接し、その対応に追われていた。日本の南進問題に関しては、当時BJ(※政府暗号学校〈GC&CS〉の発行するBLUE・JACKET〈通称・BJ〉)への信頼が高かったことと、状況が逼迫していたこと、… …同時にロンドンのイーデンは,クレイギー駐日英大使にもBJ情報を伝えようとしていた。…クレイギー自身はBJ情報の存在を知らされておらず、イーデンはGC&CSの情報源を守るために、一旦、上海発の情報として『デイリー・テレグラフ』紙に日本の南進の情報を流し、その新聞記事を自ら取り上げてクレイギーに指示するほどの念の入れ様であった。 イーデンはクレイギーに対し、「(デイリー・テレグラフの)記事に拠れば、日本の御前会議によって南部仏印の基地掌握を決定したらしいので、日本外務省に対し状況の深刻さを訴えてほしい」と伝えている。… 以上
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- eroero4649
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#2です。 >はたまた諜報組織にはウラのウラの繋がりがあってゾルゲから情報を得たのか、想像は膨らみます。 ゾルゲはソ連のスパイだったので、その他の国に情報を提供していたと考えるのは少し無理があるのではないかと思います。世界各国に情報を売っていたなら、それはスパイというより情報屋ですよね。ゾルゲはドイツがソ連に攻め込む兵力から日付まで正確にスターリンに報告していましたからね。 昔読んだ本に「平時のスパイはダブルスパイ」と書いてありました。それが本当かどうか、私はそういう世界に関わったことがないから分かりません。けれども社会人としての経験を考えると、スパイというのはダブルスパイであると考えるのが普通なのかなと思うようになりました。 というのも、情報というのは「口が固くていい情報をくれる人のところに集まるもの」だからです。例えば自分は密かに社内の人とW不倫をしているなんて、口が軽い人には絶対いいませんよね。いうとしたら「あの人は口が固い」と信じている人になるでしょう。だから口が固い人ほど人の秘密を知ることになります。 そして人間というのは不思議なもので、なにかいい情報をもらったらその見返りをしないといけないと思うものなのです。 あの地下鉄サリン事件が起きた直接のきっかけは、警察のオウムに対する強制捜査が近いことを知ったためです。強制捜査を阻止するために事件は起きました。そして警察は、オウムがサリンを作っていることを知っていました。警察はオウムがサリンを作っていることを知っていて、オウムは警察がその捜査に来ることを知っていたのです。なぜ双方がそんな情報を手に入れていたのかと考えると、警察とオウムの双方のかなり高いところにコミットできたダブルスパイがいたと考えるのが自然なのかなと思います。その人は、警察のかなり精度の高い情報を仕入れて、見返りにオウムの情報を手に入れていたとね。 後にケネディ大統領暗殺事件の実行犯とされたリー・ハーヴェイ・オズワルドは海兵隊に入隊し日本でレーダー操作員として勤務し、そしてアメリカからソ連に亡命し、妻を伴ってソ連からアメリカに帰ってきた人でした。どう考えても不自然ですよね。アメリカのレーダー技術をソ連に提供したということですが、もしそうならアメリカに帰国できるはずがありません。日本に勤務していたときにCIA工作員と接触していたことが判明していますが、もしCIAの命令でソ連に潜入し任務が終了して帰国したなら、なぜソ連が彼の帰国を許したのかと考えるのも不自然です。なにより、彼はロシア人の妻を伴って帰国しています。あの当時のソ連がソ連人のアメリカへの移住を認めることそのものがあり得ません。するとオズワルドはソ連からも密命を受けて帰国したのか、妻はその「監視員」だったのかなど、想像が膨らみますよね・笑。 まあそういったあたりが「リアル・スパイ」の世界の面白さだと思います。 ただゾルゲからイギリスに直接情報が渡るということはなくても、ゾルゲから報告を受けたソ連が何らかの情報と見返りにイギリスにその情報を渡した、という可能性はあるかなと思います。 (蛇足:非常に精度の高い情報をロシア政界から得ていたといわれる「外務省のラスプーチン」と呼ばれたあの人は、私はダブルスパイであったと思います。あのどこを見ているのか分からない、何を考えているのかを悟らせない不気味な目つきは只者ではないと感じます)
お礼
再度のご回答ありがとうございます。 結局、イギリスがどんな情報をどこから入手したのか、スパイの世界のことは永遠のナゾということになりますね。 駐日イギリス大使ロバート・クレイギーが「なんとなくの情報からブラフを仕掛けてきた」という説には「そうかもね」という思いはあります。 日本の外務省の高官がどんな反応を示すか、緊張の一瞬だったでしょう。 「外務省のラスプーチン」は、インテリジェンスに関してよく発言していますね。 雑誌の投稿記事からは二重スパイの匂いが立ち込めてきます。 しかし、彼が語る日ソ交渉の舞台裏は結構面白かったです。
- eroero4649
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1 イギリスの情報網に引っかかったのでしょうね。なにしろジェームズ・ボンドはイギリスの人ですからね。 2 諜報戦で一番大切なのは、手持ちのカードの全ての情報を知っているのか、それとも1枚の情報だけを知っているのか、それとも1枚も知らないのか、それを相手に特定させないことです。そしてそのことについて最も長けている国がイギリスです。 第二次世界大戦中にイギリスはナチスドイツが誇る暗号機であるエニグマを解読していました。しかし「本当はエニグマは解読しておらず、エニグマを解読して得られたとされる情報はドイツ国内に広めたスパイから得ていたのだ。だけれども、そのドイツ国内にいるイギリスに情報を送ったスパイが誰なのかを特定させないためにエニグマを解読したということにしたのだ」という説を唱える人もいます。 どちらが正しいのか、イギリス政府は今でも明らかにしていません。 だからイギリスがどこまでの情報を得ていたのかは分かりません。何もかもが筒抜けだったのか、それともなんとなくの情報からブラフを仕掛けてきたのか。英国紳士はウソがお上手ですよ。
お礼
ご回答ありがとうございます。 ゾルゲルート以外に、イギリスが独自の諜報網で日本の方針(仏印南部進駐や対英米戦を辞せす)をキャッチしたのか、はたまた諜報組織にはウラのウラの繋がりがあってゾルゲから情報を得たのか、想像は膨らみます。 ゾルゲ事件では西園寺公一や犬養健、そして軍関係者も取調べを受けています。 ゾルゲや尾崎は小物だったのかもしれません。 Wikiには「7月5日には駐日イギリス大使ロバート・クレイギーが日本の南進について外務省に懸念を申し入れる」とありますが、どの程度具体的な申し入れの内容だったのか、追々調べてみます。 今、図書館休館中なので後日調べてみたいと思います。 「それともなんとなくの情報からブラフを仕掛けてきたのか」のご意見には賛同します。 この可能性は捨てきれません。
- pri_tama
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イギリスが何処から掴んだか確固たる情報は無いのですが、1941/07/02の時点だとゾルゲ事件(ソ連のスパイが近衛内閣のブレーン尾崎秀実と繋がっていた)が発覚していないので、近衛内閣の国策要綱は連合国側に筒抜けになっていたと思います。 (なんせ1941/09/06の御前会議で決定した「帝国国策遂行要領」まで連合国側[ソ連]へ通報しているので…。)
お礼
ご回答ありがとうございます。 ゾルゲでしたか!! ゾルゲをヒントに調べました。 取調べの結果を昭和天皇に上奏した原案が見つかっていました。 これによると1941年7月2日の御前会議の内容を、間違いなくゾルゲは入手していました。 ゾルゲからソ連の何者かに情報が渡ったのでしょうが、その先、英国へはどんなルートだったのか、追々自分で調べてみます。多分、難しいとは思いますが…。 御前会議のなんと三日後に駐日イギリス大使が日本の外務省に申し入れているのですから驚くべき速さです。 しかし、こんな申し入れをすると、英国自身の諜報網が日本の政権中枢にまで浸透していることを日本へ知らしめることになりますね。 考えれば考えるほどミステリアスで面白いです。 疑問は少し残りますが、気分的にはすっきりしました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 御前会議の内容を松岡外相が大島浩駐独大使に送った通信、つまり東京からベルリンへ送った外交暗号が英に筒抜けだったのですね。 どこで、どんな方法で傍受したのか気になりますが、英領のどこかを通らなければ東京からベルリンへは通じないですからね。 英米にはお手上げです。